2012/5/15 5:35 【現在地】
飛び石伝いに青下川の水面を渡り、初めて左岸の領域へ踏み込んだ。
目の前には、ものの見事に失われた天野橋の左岸側橋頭部。
驚くべきことだが、 まるで橋脚のように見えるコンクリートの柱は、橋台である。
橋台と左岸側の地山の間には、右岸にあるのと同じような玉石練り積みの築堤が存在していたはずだが、倒れ伏した擁壁の残骸があるばかりで、築堤は完全に流出してしまっていた。
そしてこの事実は、もう一つの残念な結果を引き起こしている。
橋台の上か近くに置かれていたはずの2本の左岸側親柱。それらが行方不明になっていた。
河床のどこかに埋まっているのだと思うが、広瀬川の本流まで流れているかもしれず、探しようが無い。
失われた2本の親柱には、橋名の読みと河川名が記されていた可能性が高く、であるならば情報として必須のものでは無いけれど、それ以外の特異な内容が記されていた可能性もあり、失われているというのは単純に残念だ。
(←)
失われた左岸橋台付近より見上げた、川岸の斜面。
橋が健在だった時代には橋台裏側の土中であったに過ぎない場所だけに、なんら人工物は見あたらない。
これを橋台の高さ分だけ登った位置に路面があったはずだが、既に完全に流出しているのだろう。
まったく平場はなく、見通せぬ高さまで急斜面が続いていた。
(→)
斜面を下流へ向かって斜めに上りながら、失われずに残った路面を探した。写真はその際に橋の方向を振り返って撮影した。
既に橋から5m以上も離れているが、破線の位置にあるべき道は、まるでなくなっていた。
5:37 【現在地】
平場発見!
橋の端部から10m前後離れた位置で、明確な平場を発見した。
これがかつて、天野橋とセットになって青下川両岸間の交通を一身に担っていた道路…。
橋の惨状を見た時点で覚悟してはいたが、案の定、きついヤブ漕ぎを強いる廃道になってしまっていた。それに、この先ヤブ漕ぎだけで済めばいいが……。
とりあえず足元にある平場の規模を観察すると、もともとの幅は5m程度もあったと思う。山側が崩土に埋没して斜面化しつつあるが、盃氏が感嘆符付きで「 昔(戦前?)は車が走ったそうです! 」と書いていたように、自動車の通行が可能な規模だ。
そもそも天野橋の構造からして、人や荷車より遙かに重い自動車