前浜港

前浜港

[1] 前浜港

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[2] 新島の観光 前浜・間々下海岸 海水浴場 - 新島 | トラベル - [ありの木], , http://www.arinoki.com/travel/niijima/page06.shtml

前浜海岸~間々下海岸を歩く

前浜海岸~間々下海岸は、島の西側に位置する海岸です。前浜には、客船が入港する新島港(前浜港)もあり、新島の玄関口となっています。

本村集落の目の前に位置する前浜海岸。

本村集落の目の前にある前浜は、夏場、海水浴客で賑わいます。

また、前浜から少し南に行ったところには、湯の浜露天温泉があります。こちらは、24時間無料で入浴できます(水着着用)。ただし、コインロッカーとシャワーの利用で各100円必要なのでご注意ください。

古代ギリシャをモチーフにした建物で、式根島の大自然の温泉とは違い、フナムシの心配なく入浴できます。

海岸の岩場に造られた無料の露天温泉。

前浜港に行ってみると、さるびあ丸が停泊していました。さるびあ丸は、約5,000トンの貨客船で、新島・神津島航路のほか、八丈島航路にも就航しています。

前浜港にさるびあ丸が停泊していた。

前浜港の旅客ターミナル。

鳥ヶ島

間々下海岸の目の前にそびえる島は、鳥ヶ島と呼ばれ、かつて、向かいの石山のコーガ石を運び出すためのロープウェイの基地があったそうです。

階段があるので登ってみました。

かつて索道施設があった鳥ヶ島。

鳥ヶ島は、意外と標高があり、下を眺めてみると、身震いするほどの落差です。

周囲を見回してみると、確かに、石垣やコンクリートの遺構があり、何らかの施設があったことが想像できます。

石垣や建物の基礎が遺る。

間々下海岸から眺める夕日は絶景。

間々下海岸から見る夕日は絶景でした。夕日を背景にして見る地内島もなかなか美しいです。

[3] 伊豆諸島 新島町巡り 新島編 | 雑記 | ^迷走局 <電脳神奈川県民は眠らない>, , http://wander-dept.net/article/13_niijima/niijima.html

伊豆諸島 新島町巡り 新島編

10分ほどで連絡船が新島港(前浜港) に到着しました。

無料巡回バス『ふれあいバス』で若郷地域に向かう

連絡船にしきを降りた港の直ぐ先に、市営の無料バスが待っていました。

乗車料は無料で、にしきの到着時間に合わせてあります。

若郷地域に向かう、平成新島トンネルを通過します。

平成16年04月23日に開通した、約2400mのトンネルです。

徒歩・自転車の通行が禁止されているため、車・バイクなどを利用する必要があります。

若郷会館(旧若郷小学校)

平成19年03月に廃校された旧若郷小学校です。今は、「若郷会館」として地域の総合施設として利用されており、管理人さんもいます。

中にはトレーニングルームや、図書館、そして小学校時代の記念品の数々が展示されている部屋がありました。

また芸術イベント等、様々な催しに利用されています。

学校の奥に見える崖は、平成12年に発生した地震によって崩れるような被害が発生したそうです。

中は総合施設ということで、図書館・記念館・トレーニングルームなどが用意されています。

昼食

ファミリーマートダイエイにて、天丼を購入。

若郷港は商業施設が皆無で、食事はこちらでしか調達できません。

他にも、親子丼などを作ってくれるようです。

若郷前浜海岸

若郷前浜海岸を、本町方面に歩きます。途中から消波ブロックの生産施設となっていました。

かなり巨大なもので、これらをつり下げるクレーンや、コンクリート型も相当な大きさでした。

若郷港(渡浮根港港)

海岸を歩くと、港が見えて来ました。道が断絶された際は、この港から本町へ向かう船便があったようです。

この日は誰も居ませんでしたが、魚を上げる施設や多くの船がありました。

若郷渡浮根展望台

若郷渡浮根展望台

淡井浦海岸

展望台から歩いて30分。淡井浦海岸に到着しました。

港の反対側に位置するこの砂浜は風景が素晴らしく、サーファーにも人気があるそうです。

漁船に乗っていた漁夫が白衣を着た人魚に引き込まれたという伝説があるのは別として、この付近は神社の聖域であるため禁漁区に指定されているようです。

新島ロラン局

スケジュール上断念した新島ロラン局を見る事ができました。アンテナは高さ200mもあるのですが、本町方面からだと山に隠れてしまい発見しにくくなっています。

ロランCは海上航行用に作ら

[4] 新島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6

気候は年間を通じてやや温暖。常夏と言うことは無いが、東京よりは暖かく、降雪することはめったに無い。また、外洋に面しているため風が強い日が多く、特に冬は「西ん風」と呼ばれる強い西風が毎日のように吹く。

東京からわずか160km南に位置するものの、空気は非常に清浄で、星空や海の美しさは、首都圏とは比べ物にならない。

歴史・文化[編集]

縄文時代から人が暮らしていた可能性があるとされており、出土品も存在する。また、現在でも島特有の方言や題目が残っていたり、冠婚葬祭時には、都心部ではすでに消滅しているような伝統的な儀式を今でも行うなど、旧来の文化が島民の生活に色濃く残っている。

江戸時代から1871年まで、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で1333人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されている。今でも島内の墓地の中には一段低い場所に流人墓地が存在するが、新島特有の白砂が敷き詰められていて、サイコロ型や酒樽型の墓石などもあり、村人が日々花をたむけるため温かい雰囲気がある。

また流人の刑場であった向畑刑場跡へと続く道には柳が生えており、刑が執行される直前、罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼び、今でも供養の花や酒が供えられている。

長い歴史を裏付けるように、島には今でも数多くの物語・民話が残っている。「山ん婆」や「よべーむん(呼ぶ者、の意)」、海坊主、魔物(まむん)、人魚など妖怪の類の話なども多くあるが、中でも海難法師の話は漫画『地獄先生ぬ〜べ〜』などにも引用されるなど、非常に有名である。海難法師は伊豆諸島の島ごとに少しストーリーが異なっており、リンク先の話とは異なるが、ここでは新島の例の概要を紹介する。

かつて伊豆諸島を視察して回っていた悪代官がいた。こんな人間が各島を回っては迷惑がかかり気の毒だ、と考えた伊豆大島は泉津の若者たちが、船の栓を抜いて沈没させ、悪代官ともども溺死した。この亡霊が村を徘徊し、見た者には不幸が訪れると言う。溺死した代官の亡霊を見た物は発狂するととも失明するとも言われており、実際にそうなった人がいる、と言ういくつもの逸話が村にある。

今でもその話を信じる習慣は残っていて、1月24日は「かんなんぼーし」と呼び、漁業を控え、夜は外出せず静かに過ご

[5] 神津にいくばぁ(神津島), , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-51-sanukayama-haidou.html

天空の廃道 砂糠山の養蚕場跡 冒険日2013.12.7 作成日2014.3.19

導入

なぜ、そこに道があるのか!?

誰もがそう思ってしまう道が神津島にあった。

インターネットでふらふらネットサーフィンをしていたら見つけてしまったその道。

国土交通省の「ウォッちず」という誰でも閲覧可能な地図サイトの神津島の地図をご覧下さい。

灰色の四角い記号は何か建物のある記号。

点線の記号は車道ではないが、徒歩道などがある印である。

つまり、地図から読み取れば、

ここには建物があり、道があるということになる。

あるということになるが、

あの有名なgoogleマップの航空写真でここを見てみると・・・

建物らしきものはあった!

しかし・・・道は。。。

というか、道の部分は崖ではないかと思われるのだが・・・

むむむ〜、

一体全体ここはどうなっているのだろうか!?

疑問は膨らむばかりである。

・・・よし、行ってみよう!

海岸線は磯伝いに、そこから山に向かっていくのは谷であると思われるから、なんとかいけるだろう!

というわけで、いざ、疑問を解決に参りましょう!

2013年12月6日(金) 横浜大桟橋

やってまいりました。 ここは、神奈川県、横浜大桟橋。

秋から春にかけての金、土曜日夜は、竹芝桟橋を出航した各島経由神津島行の大型客船は横浜を経由します。運賃も少し安くなり、家から近いので横浜から乗船します。

出航時間は23:30。

待ってました。今宵、お世話になる「かめりあ丸」です。

この船も2014年6月7日に東京竹芝桟橋を出航するのが最後。

神津島を翌6月8日に出航すると引退となります

残り少ないであろう、かめりあ丸をかみ締めながら島に向かいます。

いざ、乗船!

2013年12月7日(土) 船中泊、神津島到着

2等席で大広間の雑魚寝。

エンジンの音を感じながら船は南へと進んでいきます。

朝6時、夜が明ける前に伊豆大島へ到着。

多くのお客さんが下船していきます。

ダイヤモンド富士ならぬ、ダイヤモンド利島を見れるのも船旅の醍醐味。

見えてきました。我が故郷神津島。

長年住み、長年遊んでいましたが、まだまだ知らない場所がたくさんある大冒険島だ。

今回は村落の港「前浜港」とは反対側の「多幸湾」に入港。

つまり今回の

[6] 道路レポート 神津島の砂糠山にある廃道, , http://yamaiga.com/road/sanukayama/main6.html

2013/4/1 13:16 【現在地】

藪に埋もれた2棟目の廃墟も建築用コンクリートブロック積みで、全く色気の無い作りである。

一箇所だけの入口に扉は無く(もともとはあったようだが)、中へ入ることが出来る。

なお、1棟目とは異なり屋根がまだしっかりしているお陰で、緊急避難所程度には使えるだろう。

内部はほとんどもぬけの空と言って良かったが、ただ一つだけ、大ぶりの機械が置かれていた。

いや、既に見た廃車体のことを思うならば、これまたおそらくは「置き去り」にされたものとみられる…。

その機械の正体は―

大型の 内燃式発電機 だった。

久々に目にする、文字情報だ。

「デンヨー」という企業名ロゴが特に目立っていたが、帰宅後に調べたところ、この企業は現在も屋外用エンジン発電機の最大手として活躍しており、「デンヨー」という社名になったのは昭和41(1966)年らしい。

残念ながら、この装置も施設の正体を知る手掛かりとしては、あまりにも汎用的であり、弱い。

しかし、島の中でも取り分けて不便な山中に、飛び地のように人が働いていた(暮らしもした?)この施設において、本機械は生命線であったことだろう。

外部から電線が来ている様子は無いので、100m四方もある広大な施設の電力を、一手に担っていたものと考えられる。

一帯に残された廃材の量などから考えても、施設の大半は最終的に解体され、資材も運び出されたとみられるが、数台の自動車とこの発電機は特に重量物であるため、(コスト的に)回収されなかったのだろう。

僻遠の廃墟にポツンと残された本機には、単純な不作為のために何もかもが残されている廃墟の中のそれとは比べものにならない強い悲哀を感じた。

施設の電気は自家発電と判明したが、人が活動をするためにさらに重要なもう一つのファクターである「水」についても、一般の水道はもちろん来ていなかったであろうから、自前で給水する工夫がなされていたようだ。

一帯には数ヵ所の蛇口が露出しており(ひねってみたが、もちろん水は出なかった)、何らかの水道が確保されていたのである。

多くの島にとって、水不足の問題は重大な発展阻害要因であったし、砂糠山の山頂に近いこの周辺にも湧き水は無論、涸れ沢さえ見あたらないので、苦心したことだろう。

近くの藪の中にはタンクも残っていたが、これはおそらくは燃料用の

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