原ノ町駅

原ノ町駅

[1] 原ノ町駅

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[2] 常磐線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%A3%90%E7%B7%9A

ここでは常磐線の沿線の概況について記す。なお、不通区間については東日本大震災による被災前の状況を記してある。

首都・東京の北の玄関口・上野駅。正確には日暮里駅が常磐線の起点であるが、上野駅が列車運用上の始発駅である。

上野駅を出発した後、隣の日暮里までは山手線など、多くの路線と併走し、日暮里から東北本線と分かれる。東北本線とは約330km北の岩沼駅で合流する。北千住駅付近まで、日光街道沿いの下町の中を走り、荒川を渡る手前で地下鉄千代田線と合流し綾瀬駅まで並行する。ここから複々線区間となり、各駅停車は綾瀬駅を出ると亀有駅、金町駅といった東京の下町の駅に停車する。ここまでは住宅街の中を走るため、車窓からは常に多数の家屋が見える。荒川、中川、江戸川などの河川を連続して渡るため、北千住から江戸川を渡るまでは高架線である。

江戸川を渡り、東京都から千葉県松戸市へ入ると、矢切の田園地帯にて緩行線と快速線が交差した後、線路は地上へ降りる。千葉県内は地上複々線だが踏切はなく、道路との交差はすべて立体化されている。複々線化されているので、緩行線の電車が終日走る我孫子までの区間は、快速電車の場合は松戸駅、柏駅、我孫子駅といった市の中心駅しか停まらないが、快速通過駅の周辺も高度経済成長期以降人口が爆発的に増え、現在は東京のベッドタウンである。武蔵野線と交差する新松戸駅周辺までは平地だが、北小金駅周辺から柏市内は下総台地の中を走り、柏では東武鉄道野田線と連絡し、我孫子では成田線が分岐する。

我孫子を過ぎると千葉県と茨城県の境である利根川を渡って茨城県に入り、電車特定区間の終点である取手駅へ至る。上野から約40km北東にあり、複々線もここで終わる。銀色青緑帯の通勤形電車はここで折り返し、ここから先は交直流電車のみが走る。

取手駅と藤代駅の間にはデッドセクションがある。この辺りになると田畑も多く見られるが、ベッドタウンとして発展しているため家屋や高層アパートもまだまだ多い。牛久駅を通り、新興住宅が多くなったところで、かつての常陸南部の中心的な城下町である土浦市の中心駅・土浦駅に到着する。土浦駅を過ぎ、神立駅から高浜駅にかけては畑の中心を走る。常陸国府跡を背にした石岡駅の前後で住宅地や市街地の間を過ぎ、友部駅に到着して水戸線が合流する。赤塚駅付近で住宅地が目立ち始め、偕楽園の木々を臨み大小のビル

[3] 5年前のスーパーひたち、駅に止まったまま:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASJ333RSTJ33UQIP00B.html

福島県南相馬市のJR常磐線・原ノ町駅。5年前の3月11日、午後3時9分発の上野行き特急「スーパーひたち50号」が、今も止まっている。雨だれの跡や大きなさびで、4両編成の白い車体はくすんで見える。

取り残されたのは、常磐線の一部が、東日本大震災による津波や原発事故で、再開できないためだ。原ノ町駅から南46キロの竜田駅までの一部は、帰還困難区域に指定され復旧が進まない。北側も、約20キロ先の相馬駅までは運転を再開したが、その先の一部が津波で不通になっている。

今月中旬から、JR東日本はこの車両の撤去を始める。同社によると、同型車両の多くが運用を外れ、再び走るのは難しいという。(写真・文 林敏行)

[4] 震災後5年間放置の列車 駅から撤去 福島・南相馬 NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160317/k10010446741000.html

東日本大震災と原発事故の影響で、福島県南相馬市にあるJR常磐線の駅の構内に、震災直後から留め置かれたままになっていた列車の車両が、17日に5年ぶりに撤去されました。

東日本大震災が発生した際、南相馬市にあるJR常磐線の原ノ町駅に停車していて、その後、震災の津波や原発事故の影響で駅近くの一部区間が不通になったため動けなくなり、5年間留め置かれたままになっていました。この2つの車両についてJRは、常磐線の平成31年度中の全線開通を目指し線路などの復旧作業を進めるため、駅から撤去することになり、17日に大型のクレーンで車両をトレーラーに載せる作業を行いました。車両は5年余りにわたって雨風にさらされていたため、塗装などが黒ずんでいました。JRは19日までに、2つの車両を福島県郡山市の施設に運び込み解体することにしています。 作業の様子を撮影していた82歳の男性は「町の記録を残さなければという思いと、3・11に関係するものなので写真に残しました」と話していました。 JR東日本水戸支社車両グループリーダーの小山智久さんは「多くの人に親しまれた車両なので、非常に寂しいですが、感謝の気持ちで送り出したいです。今までありがとうと、ことばをかけてあげたいです」と話していました。

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[5] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926375039718

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