日光国立公園

日光国立公園

[1] 日光国立公園

Webページ

[2] 道路レポート 塩那道路工事用道路, , http://yamaiga.com/road/ennakouji/main11.html

2011/9/28 15:08 【現在地】

「どうだ? 晴れの日の“天空街道”も良かっただろ?」

…この声は勿論、幻想。

だが、そんな道の声が聞こえてもいいくらい、私は今日の塩那道路を深く楽しんでいた。

今は、もう間もなく“折り返し地点”であり、再度の延長はしないと決めていたので、前途に対する不安も解消された状態である。

今回、このようにリラックスして、時間にほとんど縛られず“天空街道”と過ごせたことは、本当に幸運なことであり、また我ながら優れた決断をしたとも思った。

最初からこうする(山中泊する)つもりで夜営道具を準備して臨んでいたとしたら、荷物の重さのために“工事用道路”で大幅に時間をロスし、“天空街道”ではこんなに時間を使うことが出来なかっただろう。

全ては結果論だが、“日帰り”のつもりで“工事用道路”に挑み、“天空街道”で“鍵の開いた小屋”に出迎えられたうえで“夜営を決断する”という、今回のこの流れが、私と塩那道路の間に得難い幸福な時間をもたらしてくれた。

終宴に向かう、“天空の道”。

“天空街道”の終わりを目前として、道は堰を破って流れ落ちる水のように下り始めた。

その下りの先には、遠近感を圧縮した迫力で突き上がるこの主稜線の最高峰、日留賀岳の威容があった。

だが、塩那道路がこの主稜線を蹂躙するのは、もうオシマイ。次の上りには付き合わないし、付き合えない。

この唐突な急坂の周辺は、パイロット道路ならではの荒々しい風景を見せていた、

大小の落石が路上に積み重なり、これまでの区間では“最も廃道に近い”と思った。

それはこの道の決して遠くない“未来”の風景、その先取りなのだろう。

ここに散らかっているのは、もう2度と退かされることのない落石なのかもしれない。

15:12 【現在地】

道の荒れ方に気を取られ、うっかり素通りしかけたが、振り返り際にぎりぎりで看板の存在に気付いた。

「 つらら岩 」の看板地点はここだった。

この看板は6年前から全く変化した様子はない。

そして、相変わらず「つらら岩」というのがどの岩なのかは、分からないままだった。

とはいえ、こうして所々に地名が付けてあることは、この道が単なる林道などではなく、訪れる人に愛着を持たれる観光道路として生きるための工夫だったのだろう。

少しくらい無理矢理であっても、とにか

[6] 隧道レポート 明智隧道, , http://yamaiga.com/tunnel/aketi/main3.html

2008/5/11 13:38

国道120号「第2いろは坂」の明智平〜中禅寺湖間にある旧道の探索は、壁にぶち当たった。

出入り口を完璧に塞ぐ、文字通りの壁に。

そこで、私は壁の裏側へ直接乗り込むことにした。

そのためのルートを見出すべく、現国道の明智第二トンネルを戻った。

相変わらず濃霧は晴れない。

戻ってきたのはここ。

前回その封鎖を確かめた、「明智トンネル」の東口である。

ここが、私と「閉ざされた廃道」との、物理的な最接近ポイントである。

当然ここからアプローチするのが得策だと考えたのだ。

周辺地形はこのようになっている。

先ほどの白雲トンネルは長さが400m近くあるので、これを乗り越えることは難しいだろう。しかも、華厳渓谷に落ち込む絶壁が想定されるとなればなおさらだ。

明智トンネルの場合は230mほどで、しかも尾根の鞍部を越えているので進むべきルートが明瞭だという期待があった。

なお、300mほど戻れば明智平の展望用ロープウェイを利用することも出来たが、大人片道390円という料金が鼻についた。

単純に遠回りでもあるしね。

再びこの場所へ。

もちろん、チャリを路肩に隠してくることも忘れなかった。

「ねぇママ。 なんであのお兄さん、道ばたのカベを登っているの?」などと車窓の坊やに疑念を抱かせたりして、前途ある若人に早すぎるオブローディング属性を植え付けるリスクは低い方が望ましく、この悪天候は好都合だったと思われる。

13:42

上の写真の位置から、さらにもう2m坑門をよじ登り(ジタバタしている私は、余り見られたくな姿だったろう)、初めて尾根越えへの挑戦権を得る。

見上げた斜面は、地形図に描かれた等高線の密度に対して非常に忠実だった。

さすがは「地形図」だ。

道は不正確でも、地形の表現に間違いはない…

って、そんなことに感心するほど、斜面はキツキツだった。

ちょっと、ロープウェイに心が動いた。

…。

心拍数が余り大きくならないように注意しつつ、数メートル置きに休みながら登った。

尾根までの高低差は、ちょうど50mである。

笹が隙間無く地面を埋める斜面は、最初が一番きつく、尾根に近づくにつれ徐々に緩やかになっていく。

濡れた笹は滑るかとも思ったが、幸いそれほどでもなかった。

むしろ、常に頑丈な手掛かりが得られて、時間さえかければど

[7] 中禅寺温泉ロープウェイ - 失われたロープウェイ, , http://www.8beat.com/ropeway/chuzenji.htm

栃木県の日光は、世界遺産に登録された二社一寺(東照宮・二荒山神社・輪王寺)や神橋などの日光駅周辺の人工美(建築美)と、中禅寺湖・華厳の滝・男体山・戦場ヶ原などの奥日光エリアの自然美を併せ持つ、日本屈指の国際的観光地です。

中禅寺温泉ロープウェイは、奥日光観光の拠点である東武バス日光の「中禅寺温泉バスターミナル」近くにあった山麓駅(中禅寺温泉駅)と、男体山・中禅寺湖を望む、中禅寺湖南岸の標高1600mの展望地「茶ノ木平」の山頂駅(茶ノ木平駅)間の延長約1kmを約6分で結んでいた索道で、1960年の開業から43年間、冬季を除く3月上旬から11月下旬まで(年度により前後あり)運行していました。

この索道の誕生の背景には、東武鉄道の日光開発が存在しました。今回のキーワードは東武の「日光制覇」です。

日光の「観光地」としての歴史は意外に新しく、平安時代に修験の山として開山されて以来、江戸時代に入って徳川家康を祀る神社として東照宮が建立されたことにより、明治の頃までの日光は「聖地」として知られていました。

大正時代の初め、東武鉄道をはじめとする多くの鉄道事業に関わった「鉄道王」:根津嘉一郎(初代)は、日光の観光地としての資質に注目し、東武日光線による日光への乗り入れを計画し、1929年(昭和4年)に省線(旧国鉄・現JR)日光駅の隣に東武日光駅を開設、浅草からの直通運転を開始します。

開通の披露宴で、東武の乗り入れによって日帰り客が増え、宿泊客が減少して日光が衰退することを危惧した地元代表の問いに、根津はこう答えたといいます。「いまのご意見も、ある意味では真実かもしれません。しかし、あなたは同じ人数を考えておられるから、そうなるので、私が鉄道を敷いた以上、二倍三倍のお客を運んできますよ。」

省線の上野〜日光間が3時間10分に対し、東武浅草〜東武日光間は特急で2時間17分と、東武は都心からのアクセスで優位に立つと、豪華展望客車トク500形を就役させて民鉄ならではのハイクラスのサービスを展開します。果たして、それまで年間約30万人程度だった来光者は、2〜3年で100万人近くになったと云われています。

それにしても、さすがは鉄道王、「当社が」じゃなくて「私が」なところが、カッコ良すぎです。

さらに、1934年(昭和9年)に日光市を中心とする一帯が日光国立公園の指定を受け

[8] 日光市 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E5%85%89%E5%B8%82

古くは鎌倉時代以降、日光権現を祀る山々が知られるようになり、江戸時代に徳川家康および徳川家光の廟地となって以来、日光東照宮の門前町として参拝客で賑わった。以後「日光を見ずして結構と言うこと莫れ」という言葉で日本中に観光地・景勝地として知られるようになった。

明治時代に入ると、海外でも景勝地として知られていた日光東照宮や中禅寺湖、日光湯元温泉、藤原などを外国人が訪れるようになり、外国人に対応した宿泊・滞在施設が整備され、国際観光都市としての体裁が整えられていった[1][2]。

2006年3月20日に今市市、(旧)日光市、足尾町、藤原町、栗山村が新設合併し、現在の日光市が発足した。市役所本庁は旧今市市役所(今市本町)であり、日光市長は今市市長が務めている。面積は栃木県はおろか、関東地方全体でも最大で、全国の市では岐阜県高山市と静岡県浜松市に次いで全国第三位となる、栃木県全体の約22%を占める広大な面積を有している。「四季の彩りに風薫るひかりの郷」を掲げ、国際観光都市としての振興を図っている。

市内の観光地・景勝地としては、旧日光[3]の日光の社寺や、エリアとしての日光[4]の日光連山(男体山、大真名子山、小真名子山、女峰山、赤薙山、太郎山など)、中禅寺湖、華厳滝、竜頭滝、戦場ヶ原、湯滝、湯ノ湖や日光湯元温泉、そして行政地域としての現日光市域の鬼怒川温泉、川治温泉、湯西川温泉、鬼怒沼湿原、龍王峡、足尾銅山などがある。1999年には「日光の社寺」が世界遺産に登録された。

また、建築家(丹下健三、芦原義信、隈研吾、アントニン・レーモンド等)による近・現代建築が多数存在する地域でもある。

地理[編集]

栃木県の北西部に位置する。

従来の「日光」市街は、鬼怒川支流の大谷川中流に在る渓谷の左右河岸、標高600メートル前後の平坦地に形成されている。大谷川をさらに遡ると馬返に達し、ここで平坦地は終了する。馬返の西側は峻険地で、いろは坂を境としてその西側に堰止湖である中禅寺湖沿岸部に標高1,200メートル前後の平坦地が存在するほか、やはりかつての堰止湖で現在は戦場ヶ原と呼ばれる湿原である標高1,400メートル前後の平坦地、さらに同じく堰止湖である湯ノ湖沿岸部に標高1,600メートル前後の平坦地が存在する。

気候[編集]

年間降水量は1,600 - 2,100mm程度で、うち約2/3は6

[9] 薗原ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%96%97%E5%8E%9F%E3%83%80%E3%83%A0

薗原ダム(そのはらダム)は群馬県沼田市利根町(旧利根郡利根村)穴原地先、一級河川・利根川水系片品川に建設されたダムである。

国土交通省関東地方整備局が管理する特定多目的ダムで、利根川の治水と首都圏への利水を司る利根川水系8ダムの一つである。堤高76.5mの重力式コンクリートダムで、8ダムの中では藤原ダム(利根川)・相俣ダム(赤谷川)に次いで三番目に建設されたダムである。ダム湖は薗原湖(そのはらこ)と呼ばれる。

沿革[編集]

1947年(昭和22年)のカスリーン台風により甚大な被害を受けた利根川流域の総合的な治水対策を図るため、建設省(現・国土交通省)は1948年(昭和23年)より利根川の有力支川である片品川に多目的ダムを建設するための予備調査を開始した。その後経済安定本部の諮問機関・治水調査会の答申を元に「利根川改訂改修計画」が1949年(昭和24年)に立案され、1952年(昭和27年)には治水・利水の根本対策として利根川水系8ダム計画が策定された。

この中で片品川では老神温泉地点と薗原地点がダム建設地点候補に挙ったが、1953年(昭和28年)に薗原地点に建設を決定し1958年(昭和33年)に実施計画調査に入った。この間76戸85世帯の水没住民に対する補償交渉が行われた。だが住民の反対運動は極めて激しく、その激烈さは当時九州で起こっていた蜂の巣城紛争にも劣らぬものであったという。水没地には老神温泉の旅館5軒も含まれており、こうしたことも反対運動を激しくさせた。建設省は水没する源泉補償として10か所の試掘を行うなど温泉に対する補償も並行して行われた。結果補償交渉は難航しながらも妥結し本体工事に着手、1965年(昭和40年)に完成した。

目的[編集]

ダムの目的は第一にカスリーン台風時の出水を基準とした計画高水流量にも耐えられる利根川の洪水調節である。ダム地点で計画高水流量(毎秒2,350トン)を毎秒800トンカットし、他の利根川上流ダム群と連携して伊勢崎市八斗島(やったじま)地点における計画高水流量(毎秒17,000トン)を毎秒3,000トン程度カットする。これに加え利根川の堤防補強と下流の遊水池群との連携した治水により、利根川の洪水を調節する。また、不特定利水については、利根川沿岸地域の農地1,200haに対し、慣行水利権分の用水補給として最大で毎秒70トンを供給す

履歴

[10] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24343926366739311

メモ