渡良瀬川

渡良瀬川

[1] 渡良瀬川

Webページ

[2] 群馬県と埼玉県の境は川の跡 - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/110825147130_1.htm

先日、群馬県の板倉町を訪れた。板倉町は群馬県、栃木県、埼玉県の境界に位置する町で、利根川と渡良瀬川の合流点付近に位置する、水の郷だ。

私はそこで、なんとも不思議な光景を見た。両岸に延々と堤防が連なっているのに、その間に川が無く、田んぼになっているのである。しかも、そこが群馬県と埼玉県の境であると知って、より興奮した。

今回は、そんな板倉町で見かけた、ささやかなリリカルをお伝えしたい。

1981年神奈川生まれ。テケテケな文化財ライター。古いモノを漁るべく、各地を奔走中。常になんとかなるさと思いながら生きてるが、実際なんとかなってしまっているのがタチ悪い。2011年には30歳の節目として歩き遍路をやりました。2012年には31歳の節目としてサンティアゴ巡礼をやりました。

> 個人サイト

閑古鳥旅行社 Twitter

私が板倉町に興味を持ったのは、水に関する独特の文化があると聞いた事による。

利根川、渡良瀬川という二本の大河川が交わる地点に位置する板倉町は、農業に適した肥沃な土地が広がる一方、極めて水害の多い土地でもある。この地に住む人々は、様々な工夫を編み出し、水に順応してきたそうだ。

私はそのような、板倉町の水の文化を見に行こうと思い、板倉町を訪れた。

[4] 【超危険地帯】 周辺住民もタブー視する「赤い沼」まとめ - NAVER まとめ, , http://matome.naver.jp/odai/2139622934544934701

_kubosa 簀子橋堆積場やばいな。一般公開禁止で未だに大量の鉱毒を溜め込んでいるらしい。なんでこんなものが未だにあるんだ。http://www.geocities.jp/photo6991/asio/sunokobashi/index.htm","twitterPosted":"2011-04-11 17:25:58","twitterPostedStr":"Mon, 11 Apr 2011 08:25:58 GMT","twitterUserProfileUrl":"http://pbs.twimg.com/profile_images/448840144057946112/0co4Jp9a_normal.jpeg","twitterAccount":"roppongirock","twitterFullname":"いたばくし","tweetId":57358715157884928,"mediaItemList":[],"prevContentId":"0","nextContentId":"0","bookmarkId":0,"playable":false,"favoriteCount":0,"viewCountWap":0,"viewCountIphone":0,"favorite":false,"totalViewCount":0,"animatedGifThumbnailUrl":false,"nakedUrl":"http://twitter.com/roppongirock/status/57358715157884928","redeliver":false}" style="display:none">

[5] 第2部<1> 永遠に続く公害対策 「宿命」年4~5億円投入|下野新聞「SOON」, , http://www.shimotsuke.co.jp/special/ima-ikiru-shozo/20130702/1078651

□ 足尾(上) 古河機械金属

日光市足尾の中心部を見下ろす山腹に、巨大な「ダム」の堤防が横たわる。閉山後も鉱山内から排出される重金属を含んだ沈殿物を集積する「簀子橋堆積場」(幅337メートル、奥行き800メートル)だ。いわば旧足尾銅山の最終処分場。決壊という事態に陥れば、渡良瀬川に流れ、鉱毒の惨事が繰り返されかねない。

「365日24時間体制で、安全確認を徹底している」。古河機械金属足尾事業所の山崎義宏副所長(51)は6月中旬、堤防から10数メートル下に広がる赤銅色の泥面を見渡しながら、こう力説した。

管理を担当する従業員は7人。毎日の水質検査のほか、地震発生や大雨の際には必ず駆けつける。現場責任者の坪内哲さん(62)は「梅雨時期は天気予報とにらめっこだよ」と苦笑いする。

■ ■

明治政府が1897年に発令した鉱毒予防工事命令を受け、創業者の古河市兵衛は鉱山排水の浄化処理施設を3カ所建設した。そのうちの一つ「中才浄水場」は改良されながら、今も稼働する。

鉱山を1度開発すると、金属を含む地下水が半永久的に流出し続ける。この排水を浄化するため、同浄水場で石灰水によるろ過や沈殿処理を行い、川に放水している。下流には取水口があり、安全性の確保は不可欠だ。

「『古河』というだけで悪者に見られがちだが、(鉱毒防止を目指した)田中正造さんと気持ちは同じ」。現場を指揮する中山孝志環境保安課長(66)は、業務への心構えをそう明かす。そして、自身に言い聞かせるように力を込める。「悪い水を絶対に流さない決意だ」

■ ■

同事業所は製錬事業を停止しており、水質浄化や堆積場の保全など公害予防対策が主な業務。年間4~5億円を投入する。非生産部門への支出額としては膨大だ。仮に倒産すれば、税金で賄わなければならない。

それでも、下流域の住民の中には「上流」への不安をぬぐえない人もいる。

東日本大震災では、休止中の「源五郎沢堆積場」の表土が滑り落ち、渡良瀬川から環境基準を超える鉛が検出された。この堆積場を巡っては、55年前に決壊し、下流に鉱毒被害を出した経緯があった。

同事業所は不安の払拭に向け、年間800人を超える視察者の受け入れや、安全情報の提供に取り組む。久能正之所長(56)は訴える。「公害対策に永遠に取り組むことは、(原因企業の)わたしたちの宿命。自らに高いハードルを設け、全

[6] 松木村 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%9C%A8%E6%9D%91

松木村 (まつぎむら)は、 栃木県 上都賀郡 にあった 村 。 足尾鉱毒事件 によって 1902年 廃村 。正式には 1889年 の町村合併によって既に自治体としては消滅し「 足尾町 字松木」であったが、一般的にはほぼ無人化した 1902年 に廃村とされている。現在は「 日光市 松木渓谷」。アクセスは徒歩のみ。

地理 [ 編集 ]

栃木県西部。足尾14郷の一。ほぼ全村が山林である。中心部を川が流れる。この川は 渡良瀬川 の源流部に当たるが、ここを流れる川は栃木県内では一般的に 松木川 (まつきがわ)または 松木沢 (まつきさわ)と呼ぶ。

村の名前は「まつぎ」だが、川の名は「まつき」である。なお、国土交通省では、この川の名を「渡良瀬川」と呼ぶ。役場および集落は、松木川の左岸 [1] のわずかな平地に存在した。

歴史 [ 編集 ]

伝承によれば、 700年 、 日光 を開いた 勝道上人 がこの地に入り、寺を建てた(方等寺)。 1853年 の調査によれば、37戸178人が住んでいた。主な産業は農業で、 養蚕 のほか、大豆や野菜がつくられていたが、水田はなく、稲作は行われていなかった。

明治に入り、 足尾銅山 で銅が増産されるようになると、精錬に必要な木材が大量に伐採された。 1884年 以降、さらに、精錬所から出る鉱毒ガスおよび 酸性雨 により、山の木が枯れ始めた。

1887年 4月、村で毎年この日に行われていた畦焼きという畑の枯れ草を燃やす作業を行っていたところ、この火が山林に燃え移り、下流の赤倉、間藤付近までを焼く大規模な山林火災に至った。この後、足尾の山はさらに荒廃が進んだ。ただしこれは、鉱毒ガスにより立ち枯れていた木に火が移ったために大火事になったのであり、山がはげたのは足尾銅山が原因であるという主張もされている。

火災ではげた山は、2005年現在もそのままである。これに関しては、単なる山林火災で山が100年以上も再生しないとは考えられず、足尾銅山の鉱毒ガスがはげ続けている主原因だという主張もかなりなされている。

この大規模山林火災のあと、村では産業がたちゆかなくなり、多くの村民は村を出た。この時代、足尾銅山側は、精錬に使用する材木を伐採するために松木に林道をつくることを計画。予定地を購入しようとしたところ、残留村民らは全村譲渡でなければ応じないと主張、裁判にもな

[7] 市議会・市経委‐足尾山元調査 - 明日に向かって−JCP GUNMA OTA, , http://blog.goo.ne.jp/m-mzn/e/11142a2baf9387ee80099df19f24aacc

� 太田市議会・市民経済委員会による足尾銅山跡調査が11月1日に実施されました。 � 同委員会の調査には、私も委員として参加しました。 � 調査で私は、以前の同委による調査で見つかった施設内の放射性物質(その後プルトニウムと判明)の容器の現状を(株)古河機械金属に質問。 � 同社によると、そのプルトニウムはどこの医療機関や鉱山でも使われていたX線(レントゲン)カメラに使用したものとされます。 � 古河側は、プルトニウム容器が見つかった施設は一昨年から昨年にかけて取り壊し、プルトニウム容器は足尾以外の場所に移動したと説明。 放射性物質の移動先 施設内の放射線量も 法律で公表できない � 古河側によると移動先は所管の文科省やIAEA(国際原子力機関)には届け済みであるものの、法律によって移動先は公表できないとされます。 � 私は、プルトニウム容器が置かれていた施設を取り壊した跡地の放射線量や放射性物質の検査の有無と検査結果も質問しました。 � 古河側は、鉱山保安法によって検査結果は公表できないと説明。 � 法律の規定といわれると納得するしかありませんが、どうも釈然としません。 � 古河側は、プルトニウムを用いたX線(レントゲン)カメラは鉱石の内部を撮影するために使われていたと説明。 � 1973年の閉山後もプルトニウム容器が施設内に置かれていたのは、やはり鉱山保安法によって事業所外への移動が認められなかったためとされます。 � 古河側によると、プルトニウム容器の移動とその施設の解体は2005年頃から計画していて、所管の文科省やIAEA(国際原子力機関)の承認を得て行ったとされます。 � 1日の調査では、午前は1班(天狗沢堆積場を経由して有越沢堆積場)と2班(松木堆積場、深澤堆積場)に分かれて視察。私は1班でした。 � 午後は全員で簀子(すのこ)橋堆積場、中才浄水場、原堆積場、源五郎沢堆積場を視察しました。 � 天狗沢堆積場は通過しながら見ましたが、とにかく高くて急勾配。 � 緑化は成功していますが、大地震が起きて崩れる危険がないのかと心配になりました。 � 有越沢堆積場はあまりにも急勾配なため、一部に緑化が成功していない部分があります。 � 緑化を進め堆積場のある山の保水力を復元することが、堆積場の下を流れる渡良瀬川への土砂の流出を減少させることにつながります。 � 古

[8] 江戸川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%9F%E6%88%B8%E5%B7%9D

茨城県猿島郡五霞町と千葉県野田市の境界付近にある関宿分基点で利根川と分かれ、千葉県と埼玉県、東京都の境を南に流れ、千葉県市川市付近で本流である江戸川と旧流路である旧江戸川に分かれる。

現在の江戸川の最下流部は、放水路として建設され、行徳可動堰(江戸川河口堰)を通り、千葉県市川市で東京湾に注ぐ。1960年の河川法改正に伴い、この区間の名称が江戸川放水路から江戸川になったものの、依然として江戸川放水路の呼び名が使われることが多い。

現在でも天然うなぎが捕れるほか、江戸川の河口付近は、三番瀬など東京湾でも数少ない干潟が広がる地域でもあり、トビハゼの北限生息地となっているほか、汽水性の希少なトンボであるヒヌマイトトンボの生息地のひとつでもある。

利根川から江戸川に流れる水は関宿水門で水量を調整され、江戸川下流の住宅地が水害にあわない様になっている。江戸川は北千葉導水路からの水を合わせて首都圏の上水道を支えている。しかし、江戸川が比較的人口の多い地域を流れるため、水質が良いとは言えず、浄水場によっては高度処理を行う事で対応している。

旧江戸川河口にある堀江量水標の零位は、Yedogawa Peilの略である「Y.P.」(ワイ・ピー)と呼ばれ、利根川や江戸川、霞ヶ浦、鬼怒川、小貝川等の利根川水系の河川を測量する際の基準面となっている。Y.P.0m=T.P.-0.8402mである(「T.P」はTokyo Peilの略で、東京湾の平均潮位を零位として、山の標高や河川などの水位を測量するときの基準面となっている)。

太日川[編集]

江戸川は古くは太日川(おおいがわ又はふといがわ・太日河)とよばれる渡良瀬川の下流部であり、利根川とは別に江戸湾(東京湾)へと流れていた。古くの葛飾郡の中央を南流していた。

「更級日記」、「吾妻鏡」、「義経記」等に太日川を渡ったという記述が見られる。

歴史[編集]

伊奈忠次、伊奈忠治らによる利根川東遷事業が始められ、江戸川に利根川の水が流れるようになり、1641年には現在の江戸川上流部が人工水路として開削された[1]。なお、江戸川下流部も人工水路であるという説[2]もある。

1654年に赤堀川掘削工事が完成して、利根川の銚子への放流が始まった。その結果、江戸川は、東北地方や北関東からの物資を涸沼と霞ヶ浦、および銚子から利根川経由で江戸へと運ぶ流通幹線となった

[9] 松木渓谷・銅親水公園・足尾ダム・みちくさ - 足尾銅山 | トラベル - [ありの木], , http://www.arinoki.com/travel/ashio/page04.shtml

銅親水公園

銅(あかがね)親水公園は、本山地区の北部に造られた「足尾ダム」と一体的に開発された公園です。

砂防ダムが連なっている。奥に見えるのが銅親水公園。

前述の通り、製錬所の煙害により、足尾の山々は壊滅的なダメージを受け、不毛の土地となりました。このため、雨で山から土砂が流れ出し下流に堆積する現象が多発、河川氾濫のリスクが高まったそうです。

足尾ダムは、上流の山々から流出した土砂を堰き止めるために建造された砂防ダムで、渡良瀬川・仁田元川・久蔵川の3つの河川が交わるこの場所が建設地に選ばれました。砂防ダムとしては、国内第2位の規模を誇り、水が激しく流れ落ちる様子は壮大です。

岩肌が露出した斜面に足場が組まれ、植林が行われている。

砂防ダムでありながら巨大で水量も多い足尾ダム。

銅親水公園には、足尾ダムをはじめとする、足尾の砂防に対する取り組みを学べる「足尾環境学習センター」が併設されています。

日本のグランドキャニオン

松木渓谷は、本山製錬所があった場所から北西方向へ約3kmの地点にある渓谷です。「日本のグランドキャニオン」という異名を持つ“曰く付き”の景勝地です。

本山製錬所からほど近くにあるこの渓谷は、製錬所の有毒な排煙により、徐々に植物が育たない不毛の地へと変貌していきました。木々は枯れて禿げ山となり、岩肌がむき出しになりました。かくして、松木渓谷は切り立った岩壁が特徴的な景勝地として注目を浴びることになったのです。

足尾ダム建設当時は周囲がほとんど禿げ山だった。

渓谷に入る

親水公園から先、ゲートによって道路が封鎖されています。この先は、許可された車両だけが通行できるそうです。

ただ、自転車の通行は特に禁止されているわけではなく、進入が可能です。

この先は一般車両進入禁止。

ゲートの高さが高いため、自転車はそのまま通れる。

一つ目のT字路を左折する。

渓谷内の道路は未舗装の場所が多く、工事現場のようになっています。一方で、電線や水道管が通っていて、不思議と山の中という感じはしません。

どうやら松木渓谷の土地は、古河機械金属の所有となっているらしく、道路は古河の私道のようです。(川の対岸は国の所有とのこと)

ゲートをくぐってから、途端に道路の整備が遅れている印象を受けましたが、私道だったからなんですね。

川の水は透き通っていてきれい。

足尾ダムを上流から眺め

[10] 白丸調整池ダム | おぼえがき, , http://now2000net.blogspot.jp/2012/06/blog-post_3.html

小河内ダムへ向かう途中に、白丸調整池ダムがあります。発電専用のダムで、魚道が整備されているのが見所なダムです。

[11] 栃木・群馬・埼玉 3県の境界を測量調査 NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20160209/k10010403391000.html

渡良瀬遊水地の整備に伴い、あいまいなままになっている、栃木県、群馬県、埼玉県の3つの県の境界の測量調査が行われました。平地に3つの県の境界点があるのは珍しいということで、栃木市などでは新たな観光スポットにしたいとしています。

9日は3つの市と町の職員と地権者の合わせておよそ20人が立ち会い、用水路の中にある境界を示すくいの位置を地図と照らし合わせながら確認していました。 栃木県、群馬県、埼玉県の3つの県の境界は、もともと渡良瀬川の中にありましたが、渡良瀬遊水地の整備に伴う土地の区画整理で境界があいまいな状態が続いていました。 栃木市などによりますと、平地に3つの県の境界点があるのは珍しいということで、周辺の自治体では正確な境界点を確定させて、新たな観光スポットにしたいとしています。 地権者の古澤満明さん(82)は「測量できてほっとした。これをきっかけに盛り上がればうれしい」と話していました。 また、栃木市の藤岡総合支所産業振興課の久村順利課長補佐は、「珍しい場所なので、観光資源として活用したい。歴史的な背景もあるので、広く知ってもらえるように3県で連携していきたい」と話していました。

[12] 茨城?埼玉? 洪水と戦う「五霞町」のなぞ - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/150713194067_2.htm

看板に書いてあったのは、「目の前の利根川は、江戸時代に人の手で掘った苦労の結晶です。すごいでしょう!」という趣旨の自慢であった。

つまり地図で言うと、図の赤いところが、利根川の流れを変えるために、江戸時代の初めに掘ったものらしい。

なるほど、それまでこの地域はふつうに「常陸国」に含まれていたものが、人工河川で分断されて、こんなことになってしまったのか。

疑問は無事解決したが、明治時代にはもうすっかり分断されていたのだから、そのとき埼玉に組み入れてあげなよ、という気もしなくもない。

さて、ここでちょっと自分の足で確かめたい、気になる場所がある。

[13] 東海道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E6%B5%B7%E9%81%93

律令時代 [ 編集 ]

概説 [ 編集 ]

律令時代 の東海道は、東海道の諸国の 国府 を駅路で結ぶもので、各道に派遣された官人が諸国を巡察する為に整備された路を指す。律令時代に設けられた七道の一つで、中路である [2] 。律令時代の東海道の道幅は、中世や江戸時代の道より広く、より直線的に建設された。

その一方で、当時は大河川に橋を架ける技術は発達しておらず、 揖斐川 ・ 長良川 ・ 木曽川 ・ 大井川 ・ 安倍川 ・ 富士川 ・ 多摩川 ・ 利根川 (当時)といった渡河が困難な大河の下流域を通過するため、むしろ東山道の山道の方が安全と考えられていた時期もあり、東海道が活発になるのは、渡河の仕組が整備された 10世紀 以降のことと考えられている [3] 。

中世に大半が改廃されたため、当時の正確な道筋については議論されているが、おおむね以下のような経路を通っていた考えられている。

畿内から近国まで [ 編集 ]

首都 が 飛鳥 に置かれた時期には、 大和国 の 宇陀 が、東海道方面への入口だったと考えられているが、その後、 平城京 に遷都されると、平城京から 平城山 を北上し、木津から木津川の谷間を東へ入って 伊賀国 に入り、 鈴鹿山脈 と 布引山地 の鞍部を 加太越え で越えて 伊勢国 へ、 木曽三川 を下流域で渡って 尾張国 津島 へ、 名古屋市 を通り、 三河国 と続いていったと考えられている。およそ、現在の 国道163号線 ・ 国道25号線 ・ 国道1号 に沿ったルートであった。

ただし、木曽三川の下流部は古来より水害が激しく、実際には船による移動に頼っていたと考えられ、あるいは 飛鳥 や 平城京 から 鈴鹿峠 を経由してそのまま伊勢国の港から 伊勢湾 を横断する海路が用いられる事も多かったとみられている。だが、その一方でこうした船には馬を同伴させることが出来ず、東国から馬に乗ってきた旅行者は三河国か尾張国で馬を他者に預けて伊勢国に向かう船に乗る必要が生じたが、帰途時に馬の返還を巡るトラブルなどもあった(『日本書紀』大化2年3月甲申条)。このため、徒歩や馬で旅を続けようとする人の中には、本来は認められていなかった尾張国府から北上して美濃国にある東山道の 不破関 に出る経路も用いられていた。伊勢湾を横断する海路と東山道に出る脇道の存在は、江戸時代の 七里の渡

履歴

[15] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24255448197296979

メモ