北上駅

北上駅

[1] 北上駅

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[2] 東北本線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E5%8C%97%E6%9C%AC%E7%B7%9A

東北本線(とうほくほんせん)は、東京都千代田区の東京駅から岩手県盛岡市の盛岡駅を結ぶ東日本旅客鉄道(JR東日本)の鉄道路線(幹線)である。

首都圏における日暮里駅 - 田端駅 - 赤羽駅間(電車線)、日暮里駅 - 尾久駅 - 赤羽駅間(中・長距離列車線)、赤羽駅 - 武蔵浦和駅 - 大宮駅間(埼京線の一部)、田端駅 - 北王子駅間(通称北王子線)、仙台近郊における長町駅 - 東仙台駅間(通称宮城野貨物線)、岩切駅 - 利府駅間(通称利府線)、また東北新幹線も東北本線の一部区間であり、これらの正式な線路名称は東北本線である[1]。現在、北王子線は日本貨物鉄道(JR貨物)の路線である[1][2]。

東北本線の線路名称上の起点は東京駅であり、同駅は1991年以来東北新幹線の起点ともなっているが、旅客案内上や時刻表などで「東北本線」と呼ばれている中・長距離旅客列車は長年にわたり、東京都台東区の上野駅を起点として運行されており(東北本線の起点を参照)、東京駅 - 上野駅間の列車は電車線を走行する東京近郊の近距離電車(運転系統としての中央線・山手線・京浜東北線)のみとなっている[1]。

以降、本項目では在来線としての東北本線について記す。新幹線については「東北新幹線」などの新幹線路線記事を参照。

概要 [編集]

東北本線は、もともと日本鉄道が建設した路線で、上野駅から青森駅までの線路と、上野駅と秋葉原駅間を短絡する貨物線の線路からなる、日本最長の営業キロを持つ路線であった。東京と青森の間を、大宮・宇都宮・郡山・福島・仙台・一関・盛岡・八戸を経由して結んでおり、関東地方内陸部と東北地方内陸部を縦断して結ぶ路線であった。途中の沿岸区間は、岩沼 - 松島と八戸以北である。

1891年(明治24年)に全線開通、その後1925年(大正14年)の山手線環状運転開始時に敷設された東京駅 - 秋葉原駅間の電車線も東北本線に組み込まれ、営業キロが739.2km となった。太平洋戦争終結後の高度経済成長期には長距離の特急・急行列車が大幅増発されたが、1982年(昭和57年)に東北新幹線の大宮駅 - 盛岡駅間が開業すると、長距離列車は新幹線経由での運行に移行し、並行する東北本線在来線列車は中距離列車に置き換えられた。2002年(平成14年)12月1日には同新幹線の盛岡駅 - 八戸駅間が開業、2010

[3] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/arikabe/main.html

明治23年4月、東北本線の前身である「日本鉄道線」として、岩切・一ノ関間が開通している。

ここは主に宮城県から岩手県へと続く田園地帯を北上する区間だが、一ノ関手前に立ちはだかる有壁峠だけが、難所であった。

僅か高低差50mほどの峠であるが、当初ここには有壁隧道を頂点にした、最大16.7‰の勾配が控え、まだ非力だった機関車達を苦しめた。

しかし、大正13年には早々と現在の路線に切り替えられ、新たに大沢田トンネルが使用されるようになった。

こうして、他では例を見ないほど古く廃止された隧道が、永く地上に残されることとなる。

この有壁隧道の前後に残る廃線区間は、“その筋”では有名な廃線探索スポットであり、既に充分な調査が書籍などにまとめられている。

特に、お馴染み『鉄道廃線跡を歩く(第�T巻)』では詳細に紹介されている。

現地は、一ノ関市街から国道342号線を仙台方向に5kmほど南下し、小高い丘のような有壁峠越えのサミットに至る直前、工業団地へ2車線の舗装路を右折し、廃線跡の直線的な線形を意識しながら進めばすぐに、ご覧の畦道へと差し掛かる。

隧道の一ノ関側坑門は、ここからすぐ先だ。

今回は、帰りの電車時刻が迫っているので、この有壁隧道の一ノ関側坑門のみに限定して調査したが、前出の書によれば、仙台側の坑門も現存するそうだ。

また、大正13年に竣工した「初代」の大沢田トンネルも、昭和58年に老朽化のため廃止されており、こちらもいずれは探索してみたいと思っている。

畦道は、幾らも行かないうちにどんどんと轍が浅くなり、脇の田圃が尽きると、廃道同然となった。

それでも真っ直ぐと森の奥へと向かって、道は続いている。

いかにも、廃線跡の道だ。

さらに進むと、全く轍は消え、なぜか下草の刈られた痕跡のある歩道となった。

左右は、全く視線を通さぬ藪であり、既に日が落ちている為に辺りはかなり薄暗い。

ちなみに、夕暮れ時にはデジカメの感度を、通常のISO200相当から400相当へと上げているので、写真ではその暗さがかなり薄れている。 夜になるとさらに感度を800まで上げて撮影することもあるが、ノイズが乗りまくって実用的ではない。

朝から150km以上を走破した後、最終目的地である一ノ関に着いたは良いが、帰りの電車の時間の間が悪く、次は19時21分発盛岡行きだった。

[4] 湯田ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0

湯田ダム(ゆだダム)は岩手県和賀郡西和賀町(旧・湯田町)、一級河川・北上川水系和賀川に建設されたダムである。

国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、北上特定地域総合開発計画(KVA)に基づき計画された「北上川五大ダム」の第三番手として計画・建設された。堤高89.5メートル、型式は全国に十二基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在である。水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。ダム湖は錦秋湖(きんしゅうこ)と呼ばれ、北上川水系では田瀬湖に次ぐ大規模な人造湖であり、観光地でもある。

沿革[編集]

岩手県・宮城県を流れる東北第一の大河川・北上川は一関市付近で急激に川幅が狭くなる。このため一関市より上流部では大雨が降ると度々洪水の被害を受けていた。根本的な解決は川幅の拡張であるが、約18キロメートルにも及ぶ狭窄部の開削は技術的に不可能であり、これに代わる対策が必要であった。当時河川行政を管轄していた内務省は、1926年(大正15年・昭和元年)に東京帝国大学教授・内務省土木試験所長の職にあった物部長穂が発表した「河水統制計画案」を採用し、従来多様な事業者が別個に行っていた治水と利水を一元的に開発するという河川総合開発事業を強力に推進しようとしていた。

全国64河川がその対象となったが、北上川についてもその対象河川となり1938年(昭和13年)、北上川上流改修計画が内務省によって策定された。これは北上川本流と岩手県内における主要な支流である雫石川(しずくいしかわ)・猿ヶ石川(さるがいしかわ)・和賀川・胆沢川(いさわがわ)の五河川に治水と利水の目的を併設した多目的ダムを建設し、北上川の洪水調節を図ろうとするものである。これが北上川五大ダムであり、渋民村地点(北上川)・御所村地点(雫石川)・田瀬地点(猿ヶ石川)・尿前地点(胆沢川)にダム建設が計画され、1941年(昭和16年)に猿ヶ石堰堤(後の田瀬ダム)が田瀬地点に建設を開始した。和賀川については湯田村(西和賀町の前身である湯田町の前身)湯の沢地点にダム計画が進められたが、太平洋戦争の激化で中断を余儀無くされた。

終戦後、計画は再開され高さ87.5メートルの重力式コンクリートダムとして骨格が次第に固まっていった。ところが1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と、翌1948年(

[5] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga2/main4.html

くじ氏はさっさと奥へ進んで行ってしまったが、残る我々もそれを追った。

ボートはとりあえず入り口において、内部の水位などを確認することにした。

17日ぶりに立ち入る隧道内部。

風は感じられない。

ただ、閉塞隧道にありがちな、土臭さや、かび臭さもなく、内部には広い空洞が残存していることを感じさせる。

坑門付近では、おそらくは人工的に埋め戻された痕跡なのだろうが、天井近くまで土砂が堆積している。

コンクリートで薄く覆工された天井スレスレを、中腰で進むと、程なく2段階に盛り土は低くなっていき、間もなく本来の洞床に立つことになる。

坑門付近の、洞床からは一段階高い位置にて、振り返り撮影。

天井のコンクリート覆工は一部破壊され、灰色の煉瓦が覗いている。

煉瓦にも一部大きな欠損があるものの、ここを除けば洞内の煉瓦で崩壊を感じさせる場所は殆どない。

総じて撓みや変状もなく、廃後半世紀近くを経過し、竣工からは80年を超えているが、その保存状況はよい。

水没という状況が影響していた可能性もあるが、水没していない和賀仙人側の残存部分についても、決して保存状態は悪くなかったので、もとより本線きっての長大隧道として頑丈な造りだったのだとも考えられる。

内部には、定期的に現れる遺構が二つある。

一つは、狭い待避口。

もう一つは、この碍子である。

ちょうど内壁の側面と天井部分の施工の切り替わる場所に設置されている。

木製の取り付け部に、二つの碍子が縦に並んでいるのだが、本隧道内で見られる碍子は全て、黒かった。

触ってみたところ、ゴム製と思われたが、全体がゴムなのか、ゴムの靴下を履いているだけなのかは分からなかった。

(この碍子については記憶が不鮮明であり、同行者各位のアドバイス待ちです。)

17日前の前訪時に比較して、洞内には大きな変化があった。

それは、あれだけあった水が、すっかりと引いていたのだ。

足元の泥は依然深く、一歩一歩足を引っ張ったが、それでも進めないほどではない。

また、その泥の底には、かつて枕木が敷かれていただろう凹凸が、極めて規則的に並んでいることを、感触的に知った。

マグライトで照らし出させる50mほど先まで、全く水没している気配はない。

前回は、もうこの辺りで30cm以上の水深があり、早々に撤収したのだが…。

この調子なら、ボ

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