和賀川

和賀川

[1] 和賀川

Webページ

[2] ミニレポ第170回 旧岩手県道 大荒沢停車場線 (机上レポ), , http://yamaiga.com/koneta/koneta_170.html

昭和34年3月31日、岩手県告示第280号によって、岩手県内の一般県道、158路線が告示された。

昭和29年に先だって認定を受けていた主要地方道20路線と合わせて、現行道路法下(昭和27年制定)における岩手県道網は、この合計178路線でスタートしたのである。

そしてこの一般県道の整理番号92番 (これが現在で言うところの「路線番号」と呼べるかは不明) に、 大荒沢停車場線 という路線が記載されているのだが、現在この路線名を持つ県道は存在せず、それどころか大荒沢停車場自体、いくら地図を探しても見つけることが出来なくなっている。

92 一般県道 大荒沢停車場線 起点、大荒沢停車場 終点、二級国道大船渡本荘線交点(湯田村)

この大荒沢停車場、つまり大荒沢駅とは、国鉄北上線の駅であった。

しかし、昭和37年に北上線の路線が付け替えられた際、大荒沢駅は信号所に格下げ(その後廃止)されている。

おそらくこの前後に、県道の認定も廃止されたものと考えられる。

では、その跡地はどうなっているのか。

古い読者さんならば、もうお分かりかもしれない。

大荒沢駅は、湯田ダムによって生まれた大人造湖である錦秋湖(きんしゅうこ)に沈んでいる。

そして私は8年前の平成16年10月、ダムの修繕のため異常に水位の下がった湖底で、この大荒沢駅の跡地を目撃するという、得難い体験をしている。 (関連レポ1) / (関連レポ2)

ただ、 探索当時の私は、この駅が“停車場線持ち”だったということを知らなかった。

このことが、今となっては悔やまれる。

もし知っていたら、廃駅とセットでこの廃県道をも探索しようと考えたかも知れない。

今さらではあるものの、机上調査によって、この失われた県道を想像追憶してみたいというのが、本稿の趣旨なのである。

さて、少し前提的な話しになるが、県道の中には“停車場線”と名付けられた大きな一群が存在し、道路と鉄道の橋渡しという、陸上交通上の重要な役割を担っている。

とはいえ、全ての駅に停車場線が認定されているわけではなく、しかも単純に利用者の多少のみで認定されるわけでもないようだ。

おそらくは旅客輸送や貨物輸送、そして地域開発上での“重要度(期待度)”を鑑みたうえで、停車場線の認定改廃が行われてきたようである。 (このことを考える上では、駅、停車場、

[3] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sennin.html

見えているのにたどり着けない。

廃線を探索する趣味を持つ人なら、誰しもが遭遇するジレンマだ。

その理由の多くは、地形的な制約によるものだろう。

それは、少々無鉄砲な踏破力を売りにする私と言えど、おなじこと。

過去に多くの道で涙を飲み、そのいくつかはリベンジを果たし、結局辿りつけていないものも、ある。

今回、見た瞬間に私を虜にした隧道を紹介しよう。

実は、レポートとして紹介するには、まだ時期尚早との考えもあった。

と言うのは、レポートタイトルの「和賀仙人鉱山鉄道」だが、実際にそういう風に呼ばれていた路線はない。

路線名すら分からないと言う、ありえない様な話が、現実に起きているのだ。

勿論これは、今後の十分な調査によって、正しい路線名も判明するだろうし、前後関係も判明しよう。

本来なら、それらを待ってから公開すべきものだが、この衝撃は2004年の初陣を飾るにふさわしいと勝手に判断し、未完成ながら紹介に踏み切ることにした。

まず、私が現時点で把握できている情報だが、これから紹介する隧道が存在したのは、現在では廃線となって久しい鉄道上だ。

昭和初期の地形図の一部を下に抜粋したが、この図中に描かれている軌道が、この名称不明路線である。

この地図が描かれた30数年後には、図中の広い範囲が湯田ダムの作り出す錦秋湖によって水没することになる。

以前、当サイトでも紹介して反響の大きかった、旧国鉄横黒線「仙人隧道」の在りし日の姿も、描かれている。

そして、その探索時から気になっていたのであるが、その西側坑門付近から和賀川沿いを、連なる断崖の記号に隠されるようにひっそりと伸びる軌道の線が、見えるだろう。

さらに、「仙人鉄鉱」と言う文字のすぐ右に、控えめに描かれた隧道の存在することに、気が付かれただろうか。

軌道は隧道を潜り、現在のダムサイトの手前まで川沿いを進んだ後、無理な九十九の線形で「大荒沢」に至っている。

この大荒沢は、旧横黒線には同名の駅が存在していたが、ダムにより水没廃止となっている。

ここは、仙人鉱山と並んで鉄を産する大荒沢鉱山の膝元であった。

ここから先は、私の推測も一部交えられるが、図中の軌道は大荒沢鉱山と仙人鉱山、更に終点の仙人製鉄所を結ぶ鉱山軌道ではなかっただろうか?

この一体の鉱山軌道と言えば、同製鉄所がその運営に大きく寄与

[4] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga/main7.html

山行が史上最難の踏破計画、和賀計画発動。

現在、第二指令へ移行。

和賀軽便鉄道の跡を追跡開始。

和賀軽便鉄道への挑戦

我々は、平和街道跡をほぼ計画通り踏破し、和賀仙人駅前に停めていたパタ氏の愛車へと戻った。

そして、心地の良い疲れを感じながら、次の目標である、和賀軽便鉄道跡の踏破を成すべく、行動を開始した。

まずは、平和街道の入り口に停めていたくじ氏の車を、湯田ダムサイト上に移動した。

この湯田ダムサイトは、軽便鉄道の踏破を完全に成功した場合の脱出点となる見込みの場所だ。

それから、パタ氏の車に全員乗って、後半戦のスタート地点である仙人鐵工所跡へと移動した。

ここは、かつては和賀鉱山群の鉱石を大量に集積精錬した大工業地帯で、いまも北上市の衛星工業地区として息を繋いでいる。

ここには軽便鉄道時代の仙人駅が置かれていたと言うが、更地化され痕跡はない。

その山際を、現在のJR北上線がトンネルで繋いでいる。

現在地は、右の図中の「スタート地点」で示した場所である。

この後の予定を説明しよう。

我々の計画では、完全に軌道跡に追従して進み、湯田ダムによって行く手を阻まれるまでの踏破を最終目標とする。

前半は、旧北上線の廃線跡と平行する藪道が想定される。

また、中盤以降は、この踏破の最難所と思われる、大断崖地帯だ。

そして、大荒沢隧道(仮名)を経て、終盤の山岳地帯へと入る。

その距離、約2km。

この間、和賀川右岸には一切の並走路が無く、迂回路、エスケープルートもない。

しいて言えば、断崖を降りて和賀川を渡渉することで、国道への脱出が可能かも知れないが、それはもはやエスケープと言うよりも、危険な賭けとなるだろう。

途中で挫折した場合は、基本的には延々と戻ることになると考えて良い。

各車両の移動後、昼食を野外で摂り、計画を再度全員で打ち合わせ。

探険開始時刻は11時半を回っていた。

この軽便鉄道踏破こそが、今回の最大の目標であった。

平和街道など、当初オマケのつもりだった。

偵察時にくじ氏にひどく流血させ、未だその全容明かされぬ和賀軽便鉄道跡。

最強の部隊で最良の結果を残すため、単独踏破の栄光を放りなげ、私は仲間に助力を仰いだのだ。

わたしとて、なにもせずこの道を困難と決めつけていたわけではない。

今年1月の隧道レポで紹介して

[16] ミニレポ第222回 錦秋湖の湖底に残された碑, , http://yamaiga.com/mini/222/main.html

今回は、「 廃線レポ57 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡 」 には、まだ続きがあった!

…というお話し。

湯田ダムが和賀川を堰き止めて生み出した錦秋湖の湖底には、国鉄横黒線(現JR北上線)の旧線が沈んでいる。

2014年の9月14日に、10年ぶりのダム点検に伴う特別な低水位となった湖底に出現した大荒沢駅跡を探索し、そこで木製改札柵の現存を確認したのがこれまでのレポートであった。帰宅後の机上調査と合わせ、駅跡の探索は完結した。

だが、私とミリンダ細田氏による現地での湖底探索は、終わっていなかった。

次に我々が目指した場所は、 大荒沢ダム跡 である。

大荒沢ダムは戦前の発電用ダムで、巨大な堰堤がそのまま湖に沈んでいる。

大荒沢駅とともに湖底のシンボル的な遺構だが、残念ながらこちらは完全には浮上しておらず、堤上路こそ水面上に現れていたものの、細田氏が期待するようにそこを歩いて対岸へ行くことは出来なかった。 (10年前はさらに低水位だったので、私はそれを実行している→ レポ )

大荒沢ダムを確認し終えた我々は、再び駅跡付近(上の地図の「現在地」の位置)へ戻った。

次の写真は、その時に湖底の上流方向、すなわち駅とその西側を撮影したものだ。

駅跡の探索は既に終わっているが、何度見ても素晴らしい眺めだ。

これを見て心を躍らせぬ“遺構好き”は、まずいないとさえ思える。

普段は湖水という不可視のヴェールに覆い隠された存在が、永い時を空けて忽然と姿を現している。

地上にあれば絶対に免れない草木の繁茂や沢水の流入などによる風化も、湖底の10年は非常に緩やかにしか進行させない。

そのことは、湖底の生命乏しい静謐の世界を想像させるに十分だ。魚類くらいはいるのだろうが、そんな息吹も今は感じられない。

おそらくまた10年後の2024年には再浮上するであろうが、その時を逃せばまた10年。人にはかなり限られた回数しか見る事が出来ぬ眺めといえる。

はっきり言ってしまえば、どんな観光名所なんかよりも見るべき貴重な存在と思うが、過大に宣伝されることも無いから、ほとんど足跡も付けられぬまま再び暗い水の底へ帰っていく。それがまた堪らなく愛おしいのである。

昭和37(1962)年に新線に切り換えられて廃止された横黒線の旧線は全部15.4kmもあり、そこにあった和賀仙人、大荒沢、陸中大

[17] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sennin_2.html

私は、決意した。

対岸の隧道を目指そう。

リュックを置いて身軽になると、私は断崖に身を乗り出した。

あなたはこう思ったに違いない。

余りにも、無謀だ。

私にだって、考えがある。

決して、死んでもいいから探索したいなどと思っているわけではない。

これまでの経験から、私は手があると踏んだのだ。

だから、崖へ踏み出したのである。

少なくとも、和賀川の河原までは行ける見込みがあった

当座の目的は、河原まで降りること。

まずはそれをなし得なければ、隧道へ迫ることは絶対に出来ない。

足元の断崖は、はじめは緩やかで潅木が生い茂る。

その先は、深く落ち込んでいるのか、見えない。

しかし、潅木が続いてさえいれば、私には降りれる自信があった。

写真は、はじめに見えていた潅木地帯の縁だ。

その場所から振りかえるとご覧の眺め。

大体10mほど下ってきた。

小さく白看が見えている場所から、降りてきたわけだ。

ここまでは、それほど辛くは無い。

初めは見ることができなかった、河原へと垂直に近い角度で落ち込む断崖に差し掛かる。

斜面は大きな岩があちらこちらに覗く枯れた岩山であり、這い蹲るように多数の潅木や松などが茂っている。

その余りの角度に、多少怖気付きはしたが、潅木が茂っていたのは幸いだった。

これならば、慎重に下れないことは無いだろう。

いずれ登ってくることも考えながら、降り口を探す。

そして、素手で降りられそうな部分を見つけた。

これには、デリケートで微妙な観察を要した。

垂直に近い崖に取り付きながら、振り返って撮影。

上から見えなかった部分を下っているのだから当たり前なのだが、やはりここからは降り口も見えない。

その斜面の急さが、際立っている。

いよいよ、河原が近づいてきた。

薄っすらと積雪した斜面にしっかりと手足を付けて、一歩一歩下る。

潅木がやはり頼りになった。

河原に降りる最後の難関として、私の背丈よりも大きな巨石がゴロゴロした断崖が現れたが、やはり慎重に下る。

ほぼ河原に下りた地点より、最終目的地である石の橋台を見上げる。

先ほどまでとはまた別の角度から見ると、いよいよその存在が現実感を伴ってくる。

なんせ、今まで見たことの無いような物体である。

接近してみるまでは、いや、実際にこの足で確かめるまでは、信じ

[19] 湯田ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B9%AF%E7%94%B0%E3%83%80%E3%83%A0

湯田ダム(ゆだダム)は岩手県和賀郡西和賀町(旧・湯田町)、一級河川・北上川水系和賀川に建設されたダムである。

国土交通省東北地方整備局が管理する特定多目的ダムで、北上特定地域総合開発計画(KVA)に基づき計画された「北上川五大ダム」の第三番手として計画・建設された。堤高89.5メートル、型式は全国に十二基しか存在しない重力式アーチダムで、東北地方では唯一の存在である。水没住民との補償交渉が難航した初期事例としても知られている。ダム湖は錦秋湖(きんしゅうこ)と呼ばれ、北上川水系では田瀬湖に次ぐ大規模な人造湖であり、観光地でもある。

沿革[編集]

岩手県・宮城県を流れる東北第一の大河川・北上川は一関市付近で急激に川幅が狭くなる。このため一関市より上流部では大雨が降ると度々洪水の被害を受けていた。根本的な解決は川幅の拡張であるが、約18キロメートルにも及ぶ狭窄部の開削は技術的に不可能であり、これに代わる対策が必要であった。当時河川行政を管轄していた内務省は、1926年(大正15年・昭和元年)に東京帝国大学教授・内務省土木試験所長の職にあった物部長穂が発表した「河水統制計画案」を採用し、従来多様な事業者が別個に行っていた治水と利水を一元的に開発するという河川総合開発事業を強力に推進しようとしていた。

全国64河川がその対象となったが、北上川についてもその対象河川となり1938年(昭和13年)、北上川上流改修計画が内務省によって策定された。これは北上川本流と岩手県内における主要な支流である雫石川(しずくいしかわ)・猿ヶ石川(さるがいしかわ)・和賀川・胆沢川(いさわがわ)の五河川に治水と利水の目的を併設した多目的ダムを建設し、北上川の洪水調節を図ろうとするものである。これが北上川五大ダムであり、渋民村地点(北上川)・御所村地点(雫石川)・田瀬地点(猿ヶ石川)・尿前地点(胆沢川)にダム建設が計画され、1941年(昭和16年)に猿ヶ石堰堤(後の田瀬ダム)が田瀬地点に建設を開始した。和賀川については湯田村(西和賀町の前身である湯田町の前身)湯の沢地点にダム計画が進められたが、太平洋戦争の激化で中断を余儀無くされた。

終戦後、計画は再開され高さ87.5メートルの重力式コンクリートダムとして骨格が次第に固まっていった。ところが1947年(昭和22年)9月のカスリーン台風と、翌1948年(

[20] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/waga2/main9.html

当楽サージタンクより大荒沢ダムへと廃止されて久しい水路隧道を辿ること、おおよそ30分。

地の底を1500mほども進む途中、幾つかの発見や驚きがあった。

しかし、それらの記憶を一発で消し飛ばすほどの、強烈な光景が、眼前に広がっていた。

それまでは円形だった隧道断面が、下半分ほど瓦礫や廃材で埋没している。

いよいよ閉塞点へと繋がる予兆かという、当たり前の予想。

だが、それだけでは、終わらなかった。

隧道は、突如分岐していたのである。

しかも、予め存在していた分岐では無さそうである。

内壁の施工が、ぜんぜん違うのだ。

ここまでの隧道は完全にコンクリ覆工だが、脇の隧道は狭く、しかも素堀だ。

どちらの穴にも、風、音、明り、共にない。

分岐点には、一切案内になるようなものは見あたらなかったので、私とくじ氏はどちらへ先に行くか少し悩んだ。

だが、明らかに本線は直進であり、元来繋がっていた行き先が、今はダムの湖底であることから、そう遠くない場所で閉塞させられていると考えられる、本線を進むことにした。

私とくじ氏は、急に口数が多くなった。

我々の 「なんて面白いんだ!」「なんで俺たちの隧道はただで終わらないんだ!」 という、歓喜に満ちた叫びが、一気に狭くなった隧道内部に谺した。

それにしても、分岐を挟んだ僅かな距離で、余りにも、隧道の様相は変化していた。

辺りには、まるで工事現場のようなムードが漂っている。

今にも、ヘルメットのオヤジが現れそうだが、我々が消灯すれば、闇の支配は決定的なのである。

人などいよう筈もない。

異常な光景とは、この隧道のような場所を言うのだろう。

見慣れない英単語が多数ペイントされた缶。

これは食べ物ではなく、工業用ボンドか何かの容器のようである。

この場所で行われた、何らかの作業で、使われたものに違いあるまい。

中は、空になっていたが、何か意味ありげに、一つだけ板敷きの上に置かれていた。

楽しくて仕方が無い隧道探索者の横顔。

イイ表情だ。

こんなヤツが、各地の隧道に出没しているのだから、笑える。

山行がの真髄は、こんなイレギュラー発生時の隧道探索にあるのかも知れない。

烏滸がましいと叱られるかも知れないが、もし 「山行が的」 と言う言葉の使用を許されるならば、

それは、廃隧道内部で熱狂する男(達)の

[26] 廃線レポート, , http://yamaiga.com/rail/oukoku/main6.html

滑落の恐怖と戦いながら、湖畔の廃隧道を制したヨッキれん。

と同時に、最終標的「仙人隧道」の攻略が、開始される。

私がこの仙人隧道について有する予備知識は、全長1400m余りの廃隧道であること。

横手側の坑門は、錦秋湖の深い湖底に沈んでおり、北上側の坑門のみが、外部に露出しているということ。

そして、内部で隧道は閉鎖されているらしい…ということ。

一方が水中にある隧道。

しかも、隧道はダムサイトのある岩盤を地底で貫通しており、内部の閉塞された地点の奥は、水中であると考えられる。

かつてこれほどまでに、私をそそるシチュエーションがあっただろうか!

一体、巨大水圧を堰き止める廃隧道の閉塞とは、どのようなものなのか?

隧道自体が閉鎖されているにあらず、内部に侵入できるというのか?

だれも、その答えを持ってはいない。

その全ては、己の目で探索する以外に、解決のない謎である。

ならば、往かん。

― 衝撃のクライマックスへ。

湖畔を辿って「謎のトンネル」に戻る

[30] 廃線レポート 横黒線(北上線)旧線 大荒沢駅跡, , http://yamaiga.com/rail/ooarasawa/main3.html

2014/9/14 7:35 【現在地】

これは10年前に今回と同じように点検水位になったときに撮影した写真である。このように駅の全体を俯瞰するアングルでは今回撮らなかったので、この写真を使って大荒沢駅の大雑把な構内配置を説明する。(「現在地」は、今回の探索のもの)

まず、この写真で黄色く塗った範囲は、駅の敷地として周辺よりも高くなっている(盛り土されている)場所である。

ほぼ平坦な大荒沢の集落跡にあって、駅だけがホームの高さ分だけ高いために、草木がまるでない状況ではよく目立っていた。

そして大荒沢駅には複数のプラットホームが存在する。

湖畔から見て奥、つまりかつての和賀川の流れに近い側に改札口と1番線ホームがあったとみられる。1番線ホームは片面の単式ホームで、おそらくは北上方面への列車が発着していたものと思う。

ちなみに、駅前には 一般県道大荒沢停車場線 があり、大荒沢集落の間を縫って和賀川対岸の平和街道(国道107号の水没した旧道)へ通じていた。

そして1番線と複線の線路を挟んで向かい合っていたのが、2番線と3番線を有する島式ホームで、そのどちらかが横手方面の乗降場だったのだろう。

また、ホーム間の移動通路は、現在でもローカル駅でしばしば見られる平面交差であっただろう。

そしてもうひとつ、改札の北上寄りに行き止まりの頭端式ホーム(幅は複線分だが車止めは北側の一基だけ存在)が存在している。これは貨物用ホームと思われる。

以上のように、大荒沢駅は、交換可能な旧国鉄駅の典型的な体裁を整えた立派な駅であった。

この撮影から10年後の我々は、湖底の泥濘を踏みしめて、はじめてこの駅のホームに立ち入ろうとしている。

まずは、最も“陸”に近い3番線。次いで2番線から1番線へ渡り、例の「 あれ 」を確かめたい!!。

意を決して、泥濘の大海へ漕ぎ出す。

いま見ているのは、3番線ホームの北上側端部の辺りで、地表の凹凸に浮き上がった最も大きな膨らみが目指すホームである。他にも薄らとした膨らみがあるが、バラストを盛られた線路の盛り上がりに他ならない。このような形で廃止前の線路配置が分かるというのも、なかなかに貴重な体験だった。

なお、これまでの偵察的要素を持った探索により、干上がってからあまり時間が経っていないこの泥濘の世界では、行動の自由が相当に限られていること

[31] REPORT - 107 │ 未完成ループ橋|6Frogs - 行ってみたら凄かった。 │ 廃墟や廃村、秘境や遺構の調査レポート, , http://ameblo.jp/6blogs/entry-10922398673.html

湯川ヤツモモウラ

向かい谷新洞

尾須沢鍾乳洞

青木ヶ原樹海

峰の沢鉱山社宅

旧柴崎橋

波崎ウィンドファーム

小串鉱山跡

友が島

南大東島

煙草屋旅館

西大寺会陽

杉戸林道

犬島

田代島

持倉鉱山跡

不老山薬師温泉

老松温泉

北茨城炭鉱群

旧上岡小学校

旧森林鉄道三弦橋

永谷集落

川俣檜枝岐林道(再訪)

喜楽旅館

下ノ廊下

鹿沼市石裂集落

未完成ループ橋

上暮地の石碑

神の住む家

洲原村診療所

このブログの読者

このブログの更新情報が届きます

読者数89人

[一覧を見る]

EYE's of Turquoise-bl…

( by deep-turquoise-blueさん )

.

( by yomo-xpさん )

ナンパ研究会

( by motemote1234さん )

ろばのゆうびんやさん

( by non8823nonさん )

By 午之 法猫

( by donquixote-choroqさん )

仕事は地球を侵略することです。

( by 115531さん )

みいのブログ

( by mii7231さん )

河合 茂昌のGive and Giveで行…

( by joinriverさん )

独学でも夢は叶う!!プロイラストレーターが…

( by vic11naさん )

悪魔な芸大卒生が教えるイラストハウツーブロ…

( by konkyさん )

るりの寝るまで日誌。

( by invwstmhwntparadiswさん )

LIFE TOGETHER

( by 33rinna1815さん )

熱海温泉・勝手気ままな情報発信 by すみ…

( by sumiyo1962さん )

DSC-HX30V 価格・口コミのブログ

( by cybershot-dsc-hx30vさん )

イカギです!

( by higakicatchupさん )

静岡県│未完成ループ橋(赤沢八幡野連絡橋)

滅びの美学 [ 廃墟・廃屋・遺跡・廃村・廃道 ] 探索 - 赤沢八幡野連絡橋/八幡野ループ橋

どんよりと曇った伊豆の山中、旧国道沿いに在ると言う通称未完成ループ橋を見にやって来た。この物件も沢山の廃墟系サイトで紹介されていて御馴染みっちゃー御馴染みなんだけど色々と謎も多い廃橋で個人的に調べて見たかったのです。

ネット上では諸説語られてお

[32] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/sennin/main.html

岩手県和賀郡の特にこの錦秋湖周辺は、森吉と並んで、山行がには特になじみの深い土地である。

それは言うまでもなく、これまでに幾度もの良質の探索を提供してくれたと言うことだ。

具体的には、2003年度の山行がレポの読者人気投票第1位となった「 錦秋湖 水没遺構群 」を筆頭に、本年度の「 和賀計画 」など、本レポ(=道路レポ)クラスを二本紹介できているし、隧道レポとしても「 大荒沢隧道 」や、「 謎のトンネル 」などというのもあった。

これらは、全て錦秋湖の湖畔や、そのすぐ下流の和賀仙人地域に集中している。

そんな、私をアツくしてやまない和賀に関する、新しい情報がもたらされたのは、この夏のことである。

複数の読者様から教えて頂いた情報によれば、

9月末から11月の下旬にかけて、湯田ダムの設備更新工事などに伴い、通常の最低水位よりも、さらに6メートルも、水位を下げる のだという。

湯田ダムと言えば、もちろん錦秋湖を生み出したダムである。

つまりは、いくつもの水没遺構が眠ると期待される、あの錦秋湖が、かつて無い水位まで減水するというのである。

こっ、これは重要情報である。

予定していた山チャリ計画を急遽キャンセルして、錦秋湖への幾度めかの探索に赴いたのは、掲示板などにも、ちらほらと水位減少の情報が書き込まれ始めた、10月上旬のことである。

ただし、時間の都合上、かつて探索したことのある汀線ギリギリのラインは探索対象外とさせていた。

具体的には、「旧北上線 本内隧道」や「スノーシェード跡」、それに対岸の国道107号線の旧橋遺構群などである。

上記のものは、全て先に挙げた「錦秋湖水没遺構群」のレポをご覧頂きたい。

ずばり、今回のターゲットは一つだ。

それは、衝撃の鍾乳隧道、旧北上線仙人隧道だ。

ダム下流の和賀仙人地区と、現在は水没し、駅も消滅した大荒沢地区とを繋ぐ、北上線最長の隧道仙人隧道の、その大荒沢側坑門である。

果たして、二度と訪れぬかも知れない、最低水位以下の水位に、隧道の痕跡は現れるのか?!

流石に現存は難しいというのが、率直な予想ではあったが、とにかく行ってみた。

そして、そこで見た水位の低さは、“何か”を期待させるに充分なものであった。

この日、色々走った後に、最後の目的地として、錦秋湖へと来た。

時刻は、もう15時をまわっ

[34] 隧道探険隊, , http://yamaiga.com/bridge/wakasennin.html

この写真。

なにやら、時代錯誤な景色であるが、紛れも無く、先日の景色である。

一応、今回の主役は、明らかに古臭いこの橋なのだが、奥に写る巨大な工場。

この迫力には、かなりマイッタ。

一目見た瞬間に、もう、私は骨抜きにされてしまった。

一目ぼれというやつである。

奥に写る沢山の建物は全て同じ敷地無いにあるものなのだが、一際目立つ正面の工場は、一見して廃墟かと思った。

その全体が赤錆に覆われ、その屋根の上の一部は草地と化してさえあった。

さすがに、これで現役とは思えない。

そう思ったのだが、周辺の工場は、稼動しているようであり、これでも現役なのかもしれない。

手持ちの地図には何の施設も描かれていない一角に、この工場群を含め、国道を挟んで反対側にも、同規模の巨大な工場があった。

こんな内陸の、山間の地に、なぜこれほどの巨大工業地帯が形成されているのか、甚だ疑問である。

ともかく長い歴史を持つ工場のようで有るから、私などには与り知らぬ、深い訳がありそうだ。

この魅力的な、そしてなぞめいた一角は、岩手県北上市は、湯田ダムのすぐ下流、JR和賀仙人駅が最寄の、国道107号線沿いである。

ここに私は、この巨大工場を背景に従える、大変に荘厳な、廃橋を発見した。

北上市へ向かって、国道107号線を進んでいた私と、この旧橋との出会いは鮮烈であった。

錦秋湖畔の道なりは、水面に沿ってほぼ平坦であるが、湯田ダムを越えると途端、まさしく堰を切って勢い良く落ちる水のごとく、和賀川に沿う国道も、急な下り坂となる。

その水面に日の光が届かぬのではないかと言うほどに、極めて深く険しい和賀川の峡谷に目を奪われる。

そこで現れる、同じ名を冠した数々の道路構造物。

スノーシェード、スノーシェルター、そしてトンネルが、急な下りのさなか、あっという間に過ぎ去ってゆく。

共通の名は『和賀仙人』。

何とも美しい名、である。

そして、長かった奥羽山脈越えの終端。

険しい峡谷から、人里へと景色が変わる、その境界に待ち受けていたのが、『和賀仙人橋』であったのだ。

さながら、仙人の住む世界と、人界を分け隔つ門のように…。

この橋を勢い良く駆け抜ける私の目に飛び込んできたのが、まずは先ほどの巨大な工場の姿。

そして、すぐ隣を併走する、石と鉄を組み合わせた旧橋の姿であったの

[35] 和賀軽便軌道, , http://www.kk-net.com/~tabuchi/WAKA_body.htm

和賀軽便軌道は、明治40年(1907年)から大正11年(1922年)まで黒沢尻(現JR東北本線北上駅)から仙人(現和賀町仙人にあった仙人鉱山)間の約20.1kmに運行された軌間762mmの人車鉄道である。

和賀軽便軌道は仙人鉱山(仙人製鉄所)の物資輸送を目的に建設されたもので、その盛衰は仙人鉱山(仙人製鉄所)と運命を共にした。

明治時代の鉄道資本家で「軽便鉄道王」と言われた雨宮敬次郎は、鉄道経営以外に製鉄業に対する熱意も大きく、明治27年(1894年)に岩手県の仙人鉱山を買収し明治40年(1907年)に仙人製鉄所(12トン、15トンの高炉)を発足させ本格的な生産を開始した。

和賀軽便軌道(設立当初は和賀軽便人車軌道)は、仙人製鉄所の重役と黒沢尻町の有力者が発起人となって設立され、明治38年(1905年)に軌道の特許が交付された。そして明治40年(1907年)に黒沢尻−仙人間を開通させた。

黒沢尻から烏谷森間は平和街道(国道107号)上の併用軌道で、そこから和賀川を渡り岩沢の集落を抜けて和賀川沿いに仙人鉱山に至った。

[36] 鎧畑ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%8E%A7%E7%95%91%E3%83%80%E3%83%A0

鎧畑ダム(よろいはたダム・よろいばたダム[1])は秋田県仙北市、一級河川・雄物川水系玉川上流部に建設されたダムである。

建設省東北地方建設局[2]が施工し、秋田県に管理が移管された高さ58.5メートルの重力式コンクリートダム。国土総合開発法によって計画された阿仁田沢特定地域総合開発計画の一環として、玉川の治水と出力1万5,700キロワットの電力を生み出す水力発電を目的とし、雄物川水系で最初に建設された多目的ダムである。ダムによって形成される人造湖は秋扇湖(しゅうせんこ)と命名された。

地理[編集]

玉川は雄物川水系において皆瀬川、役内川と並ぶ主要な支流の一つである。八幡平付近を水源を発し玉川温泉付近を水源とする渋黒川を合流して酸性度の高い河川となり、田沢湖の東を縫うように南へ流れ、途中抱返り渓谷を形成して南西に流路を変え角館において桜並木で知られる桧木内川を合わせ、大仙市において雄物川に合流する。流路延長104キロメートル、流域面積1,219平方キロメートルで雄物川水系全流域面積の四分の一を占める最大級の支流である。ダムは田沢湖の北方に建設され、ダム名は建設地点の旧地名である鎧畑を採った。なお、建設当時の所在自治体は仙北郡田沢村、昭和の大合併後は仙北郡田沢湖町であったが、平成の大合併によって角館町などと合併し仙北市となった。

玉川には鎧畑ダムのほか玉川ダム、夏瀬ダム、神代ダムと四箇所のダムが建設されているが、鎧畑ダムは上流より二番目、玉川ダムの直下流に位置する。また神代・夏瀬ダムに続いて三番目に建設されたダムとなっている。

歴史[編集]

雄物川堰堤総合開発計画[編集]

雄物川は秋田県北部を流れる米代川と共に、旧久保田藩時代より流域の母なる川として重要な位置を占めていた。しかし大雨や台風の際には容易に洪水をひき起こす「暴れ川」でもあり、流域住民への被害は一再ではなかった。雄物川の中流部は大仙市(旧仙北郡西仙北町)刈和野から秋田市妙法付近に至るおよそ26キロメートルが狭窄部となっている。このため上流部で大雨が降ると雄物川を始め支流の玉川、皆瀬川・成瀬川、役内川、横手川などの洪水は一挙に大仙市(旧大曲市)付近に集中するが、刈和野の狭窄部入口で流れが塞がれてしまい、さながら天然の遊水池のような状態になる。このため大曲、仙北一帯は大雨のたびに浸水被害が顕著であった。専門的には

[37] 池原ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B1%A0%E5%8E%9F%E3%83%80%E3%83%A0

池原ダム(いけはらダム)は奈良県吉野郡下北山村、一級河川・熊野川(新宮川)水系北山川に建設されたダムである。

電源開発(J-POWER)が管理する発電用ダムで、高さ110.0メートルのアーチ式コンクリートダム。アーチダムとしては国内最大の総貯水容量と湛水(たんすい)面積を誇り、日本における大規模なダムの一つである。下流にある七色ダムとの間で揚水発電を行い、最大35万キロワットの電力を生み出す。ダムによって形成される人造湖は池原貯水池(いけはらちょすいち)または池原湖(いけはらこ)と呼ばれ、ブラックバス釣りのメッカで日本における代表的なバス釣りスポットでもある。2005年(平成17年)には財団法人ダム水源地環境整備センターが選定するダム湖百選の一つにも選ばれている。吉野熊野国立公園に指定されている。

沿革[編集]

熊野川総合開発計画[編集]

熊野川[1]は紀伊半島では紀の川に並ぶ大河川である。その流域面積の大半は紀伊山地内であり、かつ大台ヶ原を始めとして年間総降水量が平均で3,000ミリ、多いときには5,000ミリにも達する日本屈指の多雨地帯である。これに加え瀞峡など険阻な峡谷が形成されている。こうしたことから水量が極めて多い急流河川であり、水力発電には最適な河川であった。だが険しい山と谷によって交通の便が極めて悪く、開発の手がなかなか伸びない河川でもあった。

熊野川水系における河川開発計画は、1937年(昭和12年)に当時河川行政を管轄していた内務省が全国64河川を対象に河水統制事業の調査河川の一つに選ばれたことより始まる。東京帝国大学教授・内務省土木試験所長であった物部長穂が提唱した「治水と利水を統合した、水系一貫の河川開発」、すなわち河川総合開発事業が国策として推進されたことによるものである。熊野川は内務省大阪土木出張所が調査を行う河川として予備調査が開始されたが、その後の太平洋戦争によって調査は進捗しなかった。

戦後壊滅に陥った日本経済の回復と、治水事業放置による水害の頻発に頭を悩ませていた経済安定本部[2]は中断していた河川総合開発事業の再開を図り、1947年(昭和22年)に24河川を対象とした調査が行われた。この際熊野川は建設省[3]と農林省[4]が共同で調査を開始した。農林省については熊野川本流上流部を紀の川と連絡水路でつなぎ熊野川の水を紀の川へ分流させ

[38] 隧道探険隊, , http://yamaiga.com/tunnel/kinshu.html

以前より気になっていた、謎のトンネルの調査を行った。

以下は、2002年8月8日のレポートである。

右の地図を見ていただきたい。

秋田と北上を結ぶ古くからの重要路線「平和街道」(国道107号線)と、幽玄な景観を見せる巨大人造湖の錦秋湖の一帯である。

ここは、日本列島の脊梁をなす巨大な奥羽山脈に存在する、天然の切り通しであり、悠久の時をかけて和賀川が作り上げた、極めて大規模なV字峡である。

よって、ここを通う道は数多い。

国道107号線は言うに及ばず、JR北上線。

そして、近年は秋田自動車道が多くのトンネルを穿ち、駆け抜けた。

また、錦秋湖をなす湯田ダムは1964年竣工当時国内有数の規模を誇ったが、その建設は、建設史上に残る巨大な移転事業でもあった。

移転戸数600戸、鉄道付け替え15km、道路付け替え39km、などである。

それらの遺構の多くは深い湖底に沈んだが、渇水期にはその一部が、さも現道のようにさえ見える美しさで覗くことがある。

ここは、廃道・旧道ファンにとっては、大変に魅力的なゾーンである。

しかし、実は今回のターゲットはこれら、失われた道ではない。

現道である。

地図で青い線で示した部分が、今回の調査で走行した部分だが、中央やや右寄りに、長いトンネルを描いた。

これが、今回の主役なのだ。

このトンネルとの出会いは、去年だ。

出張の移動で、秋田自動車道をバスに揺られている最中、殆どトンネルばかりで車窓など期待できない「湯田〜北上西」で、ふと見た窓の外にそれが見えた。

トンネルの入り口のように見えた。

場所は、まさに高速道路以外に全く通うものが無いと思われる、長大トンネルに挟まれた短い区間である。

そこは、峠山トンネルと大荒沢トンネルの合間の僅か、1kmほどの区間であった。

正直、目を疑った。

一帯には、(少なくとも私の手持ちの地図では)高速以外に道はなく、当然それらしいトンネルも描かれてはいない。

付近には、集落のひとつも無い。

これが出会いであり、以来ずっと気になっていたのだ。

現場へは、国道107号線から天ヶ瀬橋を渡り、湖対岸の集落へと入るが、この集落は湖畔の狭い平野部に他の集落から離れ存在しており、一帯では、ダム建設による水没を免れた唯一の集落ではなかろうか?

JR北上線の湯田錦秋湖駅や、秋田自動車道

[39] 轍のあった道, , http://tenere.blog.shinobi.jp/%E3%83%9C%E3%83%BC%E3%82%B9%E3%83%88%E3%83%AA%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%88%E3%83%A9%E3%82%B9/%E5%92%8C%E8%B3%80%E4%BB%99%E4%BA%BA%E6%A9%8B%EF%BC%88%E5%B2%A9%E6%89%8B%E7%9C%8C%EF%BC%89

このインパクト。上路ボーストリングトラス。どうしてこうなった。

同類の橋は、新潟県の境橋しか知らない。ボーストリングではなく、下弦が曲弦の上路トラスであれば、山梨県の梁川橋と長野県の子安橋がある。(海外にはいくつも事例はある)

国道17号旧道 境橋(新潟県二居渓谷)

国道17号旧道の境橋が、現道から見えた!

この和賀仙人橋は、国道107号が北上線の和賀仙人駅から約1km西方向に行ったあたりで和賀川を渡る橋で、既に旧道となっている。周辺には北上線の旧線が日本重化学工業への引き込み線跡となって残っており、貨車の廃車体も施設内にある。ただし、自由に立ち入れる状態ではないため、撮影はおろか見ることすらしていない。

現道から撮ると、どうしても見下ろす位置になってしまう。同行した方によれば、草が少ない時期なら桁下まで行けるそうなのだが、足下の見えない崖に近寄るのはやめた。

おもしろいのは、主径間は3ヒンジアーチで、左岸だけにこの側径間がある。別にプレートガーダーでもよかろうに、なぜ?

ボーストリングトラスの一端は橋台に、もう一端はアーチ橋に掛けられている。上越線利根川橋のように、専用の脚があるわけではない。橋台が見たい…。

たもとより。まったく距離がないので、美しいアーチの全景をここから撮ることは難しい。

左岸の親柱。銘板はない。右の親柱は失われている。

右岸側の親柱。見えにくいが、「昭和七年七月竣工」とある。あれ、反対側はどうだっけな、なかったんだっけな…。(ないことを撮っておきなさい、と)

アーチの中央部のヒンジ。

アーチの右岸側のここに銘板があった。

雨が降っていたこともあって、レンズを交換せずに撮ったら案の定、読めない…。

【2012年8月13日追記】

和賀仙人橋(岩手県)の銘板に銘板のことなど。

[40] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/yamabusi.html

秋田岩手両県の県道番号1番は、「盛岡横手線」で共通している。

しかしこの路線、秋田県民にとっては、余り馴染みがないかもしれない。

なにしろ、横手市から岩手県湯田町までは国道107号線と重複しており、ユニークな区間が県内には1mもないのだ。

ようやく湯田町で国道から分かれた先は、延々盛岡へ向けて北進するのみである。

途中、同県道が最も長く走るのが和賀郡沢内村であるが、この村には国道は一本もなく、県道もこの主要地方道1号線と、あとは12号線の計二本しかない。

現在でこそ、この二つの県道の整備が進み以前ほど不便ではないようだが、もともとは奥羽山脈の只中に取り残された陸の孤島であった。

その“孤島”時代からの、同村と盛岡方面を繋ぐ唯一の峠が山伏峠だ。

今回は県道1号線「山伏峠」を探索したい。

意外な余生を送っていた。

沢内村最北の集落貝沢から先はいよいよ山伏峠の上り坂となる。

沢内村は南北に長く、点在する集落もまたその細長い村域の中央付近、和賀川と県道1号線に沿った一帯にのみある。

貝沢集落から山伏峠のトンネルまでは拍子抜けするほどにあっという間だ。

僅か1kmほどしかなく、よく整備された二車線の県道は勾配も緩やかで、とても奥羽山脈の只中にある峠とは思えない。

しかし、紛れもなく写真に写るトンネルが山伏トンネルである。

ただ、この山伏トンネルは平成8年に竣工した新道であり、それ以前の県道こそが、私の求める隧道のありかである。

如何にもそれと分かる旧道が、トンネルの少し手前、左の山中へと伸びているのを見つけた。

迷うことなく、これに侵入する。

旧県道は、峠越えの旧道としては珍しく廃止されず、村道化し存続していた。

その名も、村道山伏線。

二車線幅を持つ村道は、当然一軒の民家もない山中を、意外と緩やかで直線的な上りをもって峠を目指す。

一箇所路肩の落ちた場所があり復旧工事の真っ最中だった。

廃道を覚悟(期待?)していただけに、現道の峠のあっけなさもそうだが、旧道も拍子抜けな展開である。

単調な登りが1.5kmほど続く。

災害復旧工事のため通行量は皆無。

ちょうど昼休みの時間に当ったのか、工事も止まっていた。

なんとも、マッタリとした峠道。

その調子のまま、いよいよ周囲の森が道路の両脇に迫り出してくるようになると、そこで観念した

履歴

[43] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24255448193986667

メモ