高山市

高山市

[1] 高山市

Webページ

[3] 乗鞍岳 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%97%E9%9E%8D%E5%B2%B3

— 『日本三代実録』(873年)

が残されており、「愛宝山(あぼうやま)」と呼ばれその当時から霊山として崇拝されていた[17][18]。平安時代から室町時代にかけて古歌で「位山」と呼ばれ、1645年(正保2年)頃に乗鞍岳と呼ばれるようになったとされている[注釈 2][17][18]。1829年(文政12年)の『飛州誌』では、「騎鞍ヶ嶽」と記されていた[11]。飛騨側から眺めた山容が馬の鞍のように見えることから、「鞍ヶ嶺(鞍ヶ峰)」と呼ばれていた[12][19]。日本には同名の乗鞍岳が複数あり、「乗鞍」は馬の背に鞍を置いた山容に由来している[20]。信州では最初に朝日が当たる山であることから「朝日岳」と呼ばれていた[注釈 3][17][21]。最高峰の剣ヶ峰の別称が、「権現岳」[注釈 4][21]。魔王岳と摩利支天岳は円空が命名して開山したとされている[21]。1963年(昭和38年)11月に乗鞍国民休暇村(休暇村乗鞍高原)の開設に伴い、番所平と金山平と呼ばれていた周辺一帯が乗鞍高原と呼ばれるようになっていった[22]。南北に多数の峰が連なることから「乗鞍連峰」と呼ばれることもある[6]。

火山・地勢[編集]

日本の火山としては富士山、御嶽山に次ぐ高さである[23]。乗鞍岳は乗鞍火山帯に属し、複数の火山が南北に並ぶ複合火山である。千町火山体(せんちょうかざんたい、128-86万年前に活動した古期乗鞍火山)と烏帽子火山体、四ッ岳火山体、恵比寿火山体、権現池・高天ヶ原火山体(32万年前に活動を開始した新期乗鞍火山)で構成されている[9][23][24]。古い火山体の千町火山体と烏帽子火山体では、浸食と崩壊が進んでいる[24]。新期の火山体は山頂付近に分布する火山体や山腹に分布する溶岩ドームと溶岩流からなる大規模な成層火山。剣ヶ峰の噴火での直下西に権現池の火口湖が形成された[19]。約9000年前に現在の乗鞍岳の山容が形成された[25]。

山頂部は南北6 km、山体は北の安房峠から南の野麦峠まで南北15 km、東西に30 km、山域の面積は約250 km2と裾野が広いのが特徴で[23]、北アルプスの中では最も広い山域を持つ[19]。乗鞍高原などの8つの平原がある。火山湖と堰止湖の12の池があり、山頂直下西にある権現池は、日本では御嶽山の二ノ池に次いで2番目の高所にある湖沼。

[4] 岐阜県民が選ぶ、岐阜県のおすすめ観光スポットをまとめました - niko life..., , http://niko.hateblo.jp/entry/2015/11/11/230650

日本の中部地方に位置する岐阜県。私は岐阜県生まれ岐阜県育ちです。

「名古屋は行ったことがあっても、岐阜はない…」「そもそも岐阜ってどこだっけ?琵琶湖の県?」と言われてしまうことがあります。琵琶湖があるのは隣の滋賀県です。

「岐阜県のおすすめ観光スポットはどこ?」と聞かれたときは、世界遺産の白川郷や飛騨高山がおすすめ!と伝えるんですが、他にも岐阜県内にはいいところがいっぱいあります。

今回は、岐阜県民が選ぶ、岐阜県のおすすめ観光スポットをまとめていきます。ランキングにしようと思ったんですが、順位がつけられませんでした。好きなところがいっぱいあるからです。

まずは、少しだけ岐阜県の説明をします

「岐阜ってどこにあるの?」と聞かれたとき、私は「名古屋の上(北)だよ!」と答えるようにしています。そうすると、だいたい伝わる。

南北にも東西にも広い岐阜県。地域はざっくりと2つにわかれています。 美濃地方 と 飛騨地方 。この地図は、美濃地方を更に4つ( 岐阜 ・ 西濃 ・ 中濃 ・ 東濃 )にわけてあります。美濃と飛騨の2つでもよかったかもしれない…!

白川郷や飛騨高山があるのは、北の方の地域 (飛騨地方) です。そのため「名古屋からちょっと岐阜にも寄りたいんだけど、岐阜でいいところない?」と聞かれると、ちょっと岐阜に寄るだけで車で170km先まで行かないといけなかったりするので、だいぶ面積が広いです。

でも県庁所在地のある岐阜市 (岐阜地域) は、名古屋から快速で約18分(JR名古屋駅→JR岐阜駅)で着くので、愛知県に近いです。

岐阜地域 (岐阜市/各務原市/羽島市/山県市/瑞穂市/本巣市/羽島郡)

金華山・岐阜城(岐阜市)

お城の写真がないです、ごめんなさい。岐阜城は小学校の遠足で金華山を登って行きました。標高329mのてっぺんに岐阜城があります。お城以外には、夜景が見られるのでデートスポットとして人気。カップルがいっぱいいます。

ロープウェイやドライブウェイがあるので、登山しなくても行けます。景色を見るために何度か行きました。私は昼の景色も結構好きです。夕焼けもキレイらしい。

川原町(岐阜市)

岐阜城のある金華山の近くにある川原町。町並みがちょっとあるんですが、写真がこれしかありませんでした。岐阜城から近めなので、カフェもあるのでセットで楽しむといいかな。手湯もあ

[5] 日本一面積の大きな市は、東京都よりも大きかった!? - Yahoo!地図ブログ, , http://blog.map.yahoo.co.jp/archives/20140501_tochigi.html

2014年4月5日、栃木県 栃木市 に、おとなりの下都賀郡岩舟町が編入合併されました。

3回の合併で、どんどん成長する「栃木市」

この栃木市ですが、この4年間で周辺の町とつぎつぎに合併を繰り返し、どんどん成長していきました。

最初:もともとの栃木市はこんな大きさ。(2010年3月28日まで)

1回目:都賀町・大平町・藤岡町と合併。(2010年3月29日)

2回目:西方町と合併。(2011年10月1日)

3回目(今回):岩舟町と合併。(2014年4月5日)

(画像をクリックするとYahoo!地図にジャンプします)

たくさんの町村と合併した市

4年をかけて5つの町と合併した栃木市ですが、では「平成の大合併※」の時、一度に合併した市町村の数がいちばん多かったのは、何市でしょうか?

※平成の大合併:平成11年(1999)から、市町村合併特例新法が期限切れとなる平成22年(2010)3月末までに施行された市町村合併のことをいう。

答えは新潟県上越市。

2005年1月1日に、なんと14の市町村が合併し、新たな上越市となりました。

(画像をクリックするとYahoo!地図にジャンプします)

面積が日本一になった市

平成の大合併によって、日本一面積の大きい市が誕生しました。さて何市でしょうか?

答えは岐阜県高山市。

2005年2月1日に10の市町村が合併。面積が日本一となりました。

下図のピンク色のエリアが合併前の高山市なのですが、合併後の高山市は、この合併前の面積の実に15.5倍にもなりました。

(画像をクリックするとYahoo!地図にジャンプします)

そんな日本一の面積を誇る高山市ですが、実は東京都よりも大きいということ知っていましたか? 高山市の面積約2200平方キロメートルに対して、東京都は約1800平方キロメートル(島しょ部除く)。比べてみると、高山市がいかに大きいかがよくわかりますね。

最後に、大きくなった栃木市と高山市を比較してみましょう。

段階を経てどんどん成長した栃木市ですが、面積では高山市には遠くおよばずでした。まだまだ大きくなる余地があるかもしれません。

[6] 御嶽山 (長野県) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E5%B6%BD%E5%B1%B1_%28%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%29

火山活動[編集]

御嶽山は東日本火山帯の西端(旧区分による乗鞍火山帯の最南部)に位置し、古生層と中生代の濃飛流紋岩類を基盤(基底部は17 km四方の広さ)とし、基盤からの高さが1,400-1,900 mのカンラン石、複輝石、安山岩などで構成される成層火山である[5][9][32]。各方向に溶岩流を流れ出しているが、西に流れた摩利支天山第6溶岩流は、最も延長が長く約17kmに及ぶ。末端には安山岩の大岩壁巌立がある[33]。一ノ池を中心として、摩利支天山、継母岳、王滝頂上を結ぶ外輪山の内側がカルデラであると推測され、カルデラ形成前の姿は、富士山に匹敵する高さの成層火山であったと推測される。大爆発によって崩壊した土砂は土石流となって川を流れ下った岐阜県各務原市付近の各務原台地には御嶽山の土砂が堆積しており、水流によってできた火山灰堆積物が地層となっている。この大爆発によって剣ヶ峰、摩利支天山、継母岳の峰々が形成された複成火山であり、その山容はアフリカのキリマンジャロ山に似ている[34][35]。

従来、最後のマグマ噴火は約2万年前で以降は水蒸気爆発と考えられていたが、2006年(平成18年)に行われた岐阜県の調査および2008年(平成20年)に行われた国土交通省多治見砂防国道事務所や産業技術総合研究所の調査によれば、約5200年前の火砕流を伴う噴火を含め、2万年間に4回(約1万年前以降、約1万年前、約9000年前、約5200年前、約5000年前)のマグマ噴火を起こしている[32][36]。信濃毎日新聞の2007年(平成19年)4月30日の紙面に掲載された記事によると、岐阜県の調査によって、剣が峰北西6キロの下呂市小坂町内において、約5200 - 6000年前の火砕流が堆積してできた地層が発見され、五ノ池火口からの噴出物と考えられる火砕流の痕跡が確認された。最近の2万年以降の活動は水蒸気爆発と限定していた岐阜県・長野県それぞれにおいて、火砕流も想定しての、ハザードマップなど防災に関する見直しが行われる可能性が指摘されている。

1979年以降は断続的(1991年、2007年)に小規模な噴気活動が続いている[37][38]。気象庁により「火山防災のために監視・観測体制の充実等が必要な火山」に指定されていて[39]、山頂周辺には火山活動の観測のための地震計、空振計、傾斜計、火山ガ

[7] 国道156号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93156%E5%8F%B7

概要[編集]

岐阜県・富山県に跨る山間部は、庄川の谷の斜面を削って道を付けた区間で、かつては道幅が狭く大変危険だったため、路線番号にかけて「(谷に落ちたら)イチコロ線」と揶揄された。

高山市荘川町岩瀬から大野郡白川村牧の御母衣湖にかけてはトンネルの幅が狭く、大型車同士のすれ違いが困難となっている。ローカルルールとしてトンネル内での対面を避けるため、入口手前でクラクションを鳴らしながら通行するトラックが多い。ほぼ全線にかけて東海北陸自動車道が並走しているが、この区間を含む荘川から白川郷の30km区間は、建設費がかさむ等の理由から東側の飛騨清見へと迂回している。現在、当国道の御母衣湖周辺区間において数本のトンネル建設を含めた福島バイパスの計画があり、2010年に福島第3トンネルが供用された。但し県の財政が厳しいことから、同バイパスの他の区間については、建設期間が長期に及ぶ可能性が高い。白川村岩瀬付近で庄川を挟んだ対岸に目を向けると綺麗に積み上げられた山が見えるが、これは東海北陸自動車道の飛騨トンネル掘削時に排出された残土である。

路線データ[編集]

一般国道の路線を指定する政令[1][注釈 1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点:岐阜市(茜部本郷交差点=国道21号上、国道22号・国道157号・国道248号終点)

終点:高岡市(四屋交差点=国道8号交点)

重要な経過地:岐阜県羽島郡岐南町、関市、美濃市、同県郡上郡八幡町[注釈 2]、同郡白鳥町[注釈 2]、同県大野郡荘川村[注釈 3]、同郡白川村、富山県東礪波郡平村[注釈 4]、同郡庄川町[注釈 5]、砺波市

路線延長:213.7 km(実延長210.9 km、現道210.3 km)[2][注釈 6]

岐阜県区間:149.9 km(実延長147.1 km、現道146.6 km)

富山県区間:63.8 km(実延長63.8 km、現道63.7 km)

指定区間[3]

岐阜市茜部新所1丁目23番 - 郡上市白鳥町向小駄良字内田775番2(茜部本郷交差点起点 - 向小駄良交差点)

砺波市庄川町小牧字矢ケ瀬71番8 - 高岡市上四屋663番の1(小牧ダム湖畔 - 四屋交差点終点)

歴史[編集]

道路法(昭和27年法律第180号)に基づく二級国道として初回指定された路線のひとつである。国道指定当初は、岐阜県郡上郡白鳥町[

[8] 道路レポート 岩瀬秋町線 (御母衣湖右岸道路), , http://yamaiga.com/road/akimati/main2.html

2009/11/22 8:01 【現在地】

起点から6km、秋町隧道まであと5km、六厩川橋まで7kmという地点。

とうとう現れた全面通行止めのチェーンゲートであったが、脇を抜けて進み始めると、まだ道は続いていた。

さすがに一段と路面状況は悪化したが、廃道と言うにはまだ少し足りない。

別に、廃道を待っている訳じゃないんだが。

これまでに増してクリティカルな場所に道は付けられている。

護岸工事もされていない湖岸の崖と、路肩の崖とが、同一のものである。

当然そんな状況だから路肩は徐々に崩れるのであって、崩れて減ってしまった道幅の分は、太い橋梁枕木のような材木が敷かれているのだった。

自転車だからいいが、四輪車で来てたらここでもう嫌になりそう。

もし一歩でも足を踏み外せば、或いは崩れる路肩に巻き込まれたとしたら、直行するのは底の見えない御母衣の海。

1200人の生活が沈んだ巨大水面が、一声のもとに私の小さな命を呑み込むだろう。

ぞくぞくするよ…。

うわわあぁ…。

すっごい遠くまで見えるよ。

ガードレールってナニ? おいしいの?

この道の続きが、滑り落ちそうな崖の縁に、延々と続いている…。

そして、道影の見えない半島がある。

秋町隧道が貫通する半島(秋町半島と仮称)だ。

そこまではまだ…、遙かに遠い道のりである。

望遠で覗いた御母衣ダム堰堤。

現在地からは、湖上を6kmも隔てている。

石垣のように見えるのは、それがロックフィルダムという形式だからだ。

御母衣ダムから六厩川橋へ直接向かう道があれば、こんな長途を要することはなかったのだが…。

晩秋というのは、一年で一番オブローディングに適した時期だと思う。

なんといっても藪が明るくなり、しかも涼しいからハードな運動もこなしやすい。

必然的に飲料水も減らせるので、荷重も減らすことが出来る。

春先も悪くはないが、残雪を心配する必要があるのは大きなストレスだ。

ただ、晩秋ならではのデメリットもある。

それは、日がとても短いと言うことである。

午前6時〜午後5時の11時間しかない。

それにしても、水位が低い…。

満水位に較べ、20m以上も低いと思われる。

この崖の下あたりにも「海上」という集落があったはずだが、何も見えない。

そこは旧荘川村の中で一番広い耕地を有する、豊穣な所だったという。

また、荘川

[10] 御母衣ダム - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%AF%8D%E8%A1%A3%E3%83%80%E3%83%A0

御母衣ダム(みぼろダム)[1]は、岐阜県大野郡白川村、一級河川・庄川本流最上流部に建設されたダムである。

電源開発(J-POWER)が管理する発電専用ダムで、高さ131メートルと日本屈指の規模のロックフィルダムである。只見川の奥只見ダム、田子倉ダムと共に「OTM」の頭文字で呼ばれ、同社を代表する水力発電所の一つである。ダム湖は御母衣湖。水没予定地から移植された荘川桜のエピソードでも知られる。

計画の発足[編集]

庄川は太平洋と日本海の分水嶺に当たる烏帽子岳付近を水源とし、白山連峰と飛騨高地の山間を概ね北に向けて流れ、富山湾に注ぐ北陸地方における大河川の一つである。流域の大部分は山岳地帯で占められ、シベリアから吹く季節風によって冬季は豪雪地帯となる。また夏も台風の通り道になりやすく、全般的に多雨気候である。降り注いだ雨は険しいV字谷を形成する峡谷を急流となって流れ、日本海に注ぐ。急流で水量の多い庄川は水力発電を行うには理想的な川であり、大正時代から黒部川や常願寺川など近隣を流れる河川と共に水力発電所の建設が進められていた。

1926年(大正15年)に白山水力電気が平瀬発電所の運転を開始したことに始まる庄川の電力開発は、浅野財閥総帥であった浅野総一郎の庄川水力電気により1930年(昭和5年)に小牧ダムが完成、当時日本屈指の出力7万2,000キロワットの小牧発電所が運転を開始した。同年昭和電力が小牧ダム上流に祖山ダム・祖山発電所を完成させ、以後庄川は下流から上流に向かってダム式発電所の建設が進められていった。民間で進められた事業は戦時体制の進展に伴い誕生した日本発送電によって庄川水系の電力施設は接収、1942年(昭和17年)には小原ダム・小原発電所が完成する。その日本発送電が1951年(昭和26年)に電気事業再編成令によって分割・民営化されると、庄川水系の電力施設は旧庄川水力電気・昭和電力の流れをくむ関西電力が継承し、成出・椿原・鳩谷の各ダム・発電所が建設された。しかしこれらのダムと発電所は余りある庄川の水量を十全に活用できるほどの貯水池を持たず、電力需要の多くなる冬季に発電能力を発揮しきれなかった。このため庄川の最上流部に巨大なダムを建設し、それによって形成される大容量貯水池によって下流の水量を安定化させ、下流に建設された発電所の出力を増強する必要があった。

すでにこう

[11] 道路レポート 六厩川橋攻略作戦, , http://yamaiga.com/road/morimo/main1.html

2009/11/22 6:45 【現在地】

日が昇る前に前日の車泊地からここへ来た私だが、まず車を停めておく場所が問題となった。

大概は「道の駅」の駐車場を利用するのだが、今回の出発地周辺にそれはない。

今日は丸一日車を離れるので、路駐は出来れば避けたい。

こう言うときの次善策として私がよく借用するのが、一応は公的施設?である公民館の駐車場である。

ちょうど目指す林道の入口から2.5kmほどの好位置に広い駐車場を持つ公民館を見つけた私は、挨拶すべき住民を見つけることが出来ないまま時間の経過に焦り、結局申し訳なく思いながらも、「一日だけだから…」と駐めさせて貰うことにした。

10分後、チャリを降ろして身を整えいざ出発という段になって、始発の路線バスが駐車場の一角で客待ちをはじめたが、運転手以外の人影が現れることはなかった。

午前6時45分、予定より30分遅れでここを出発した。(ああ、30分…)

6:55

公民館の前を通っているのは県道478号線。

小鳥川に沿ったこの道を2km北上したところで、一枚の看板を目印に左折。

すぐに橋を渡って、対岸の大谷集落へと入る。

ここまで県道上では1台の車とも出会わず。

平成17年に周辺9町村と合併し、東京都とほぼ同じ面積を持つ全国一広い市になった高山市。

合併以前はこの一帯を大野郡清見村といったが、今は高山市清見町。

合併を機会に「○村」を「□市○町」へ変える所が多いが、この違和感はしばらく消えそうにない。

橋を渡ってすぐに右の道へ入る。

そこに案内の看板が無いことから、「森茂が廃村をテーマにした観光地ではない」事を確認する。

なんでそんなことを思ったかと言えば、森茂という廃村にはある特殊性があると思っていたからだが、詳しくはまた後ほど。

朝の人家ある風景とは思われぬほど、なにか重苦しい。

見上げれば一面褐色の雑木林が、低くたれ込めた白雲に消えている。

下の山裾に小さな杉林が点々とあり、さらに下に緩やかな傾斜地が道まで続いている。道の隣は小鳥川の深い谷だ。

ここは大谷集落で、古くからの森茂の入口であった。

峠が生活の道として使われていた時代には今より集落も栄えていただろうか、などと定型的な想像をしてみるが、古くから一寒村だったような気もする。

6:58 【現在地:森茂林道入口】

出発してからたった

[13] にしみやうしろ仮駅 荘川営林署林鉄六厩川線~その1~, , http://nishimiyaushiro.blog18.fc2.com/blog-entry-180.html

ゴールデンウィーク初めに飛騨経由で再び富山へ。 途中で林鉄跡をいくつかつまみ食いしてきました。 ●荘川営林署六厩川線(森林鉄道2級) 最初寄る気はなかったのですが時間があったのでどこまでアクセスできそうか下見。 本格調査はまた後日です。 六厩は「むまい」と読みます。 平成の大合併で現在は高山市ですが以前は荘川村でした。 荘川村の木材はブナ林が多くかつては商品価値が低かったのがパルプ材として利用することで注目されるようになりました。 営林署の直営伐採事業が開始されたことで1929(昭和4)年から林鉄が敷設され始めました。 戦前は大阪営林局管内でしたが戦後1947(昭和22)年の林政統一で荘川営林署は名古屋営林局の管轄となっています。 中部地方では宮内省御料局が建設した森林鉄道が多い中珍しく農林省由来の森林鉄道です。 荘川署管内では海上(かいしょう)貯木場起点の尾上郷(尾神郷)線系統と秋町貯木場起点の六厩川・森茂線系統がありましたが名古屋営林局管内図では両線が連絡しているものもあったりして謎が多い路線です。大規模な路線網があったにも拘らず写真資料など記録はほとんどありません。 1954(昭和29)年より御母衣ダム建設で荘川村中心部が水没することになり村が真っ二つに割れて物議を醸しています。 1961(昭和36)年にはダムが完成し、村の中心部は湖底へと消えました。 路線の概念図ですが恐らく実際は他にも路線があったと見られます。 名古屋営林局統計書では最盛期の1952(昭和27)年に荘川営林署管内で森林鉄道2級線が6路線42,843mあったことになっています。 ただ毎年路線数・距離の変動が激しいので他署では統計に入れてない作業軌道まで2級線に入れてるのかも?? 起点がダムに沈んでしまった六厩川線へは上流の六厩集落からアクセスします。 上流なのですが土地が開けており、秋町から上って来た場合も渓谷が開けるのに意外感を覚えそうなところです。 どこまで軌道が達していたのかは分かりませんが国有林の標柱がありました。 荘川村中心水没後荘川営林署は庁舎を郡上白鳥に移転してしまいました。 さらに森林管理署に改組された現在当地は高山市内の飛騨森林管理署(旧高山営林署)管轄となっています。 未舗装の林道ですが何やら別荘地のような場所もあり何となく場違いな感じも覚えつつ行くと木製電柱に営林署の名

[14] 御嶽山が噴火 火口から4キロ程度は警戒を NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20140927/t10014923031000.html

27日昼前、長野と岐阜の県境にある御嶽山が噴火し、気象庁は「火口周辺警報」を発表して噴火警戒レベルを「入山規制」を示すレベル3に引き上げ、警戒を呼びかけています。

気象庁によりますと、27日午前11時53分ごろ、長野と岐阜の県境にある御嶽山が噴火し、噴煙は山頂の火口から南側の斜面に3キロ余り流れ下っているのが監視カメラで確認されました。 NHKが昼すぎにヘリコプターから撮影した映像では山頂から灰色がかった噴煙が上空に立ち上っていました。 気象庁は午後0時36分に「火口周辺警報」を発表して噴火警戒レベルを「平常」の状態を示すレベル1から「入山規制」を示すレベル3に引き上げました。 気象庁は山頂の火口から4キロ程度の範囲では噴石などに警戒が必要だとして、長野県の王滝村や木曽町、岐阜県の高山市と下呂市では火口周辺の入山規制を行うなど、警戒するよう呼びかけています。 御嶽山は長野と岐阜の県境にある火山で、最も高い剣ヶ峰は標高が3067メートルです。 35年前の昭和54年には剣ヶ峰の南斜面で中規模の噴火が発生して山麓の農作物に火山灰による被害が出たほか、7年前の平成19年にもごく小規模な噴火が発生しています。 御嶽山では今月10日ごろから山頂付近を震源とする火山性の地震が増加し、気象庁は今後の火山活動の推移に注意するよう呼びかけていました。 気象庁は今回の噴火と今後の注意点について、午後2時半から記者会見を行って説明することにしています。

[15] 内ヶ島氏 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%86%85%E3%83%B6%E5%B3%B6%E6%B0%8F

内ヶ島氏 ( 内ヶ嶋氏 、うちがしまし)または 白川氏 (しらかわし)は、 室町時代 から 戦国時代 にかけての 日本 の 氏族 である。 帰雲城 を本拠とした。

出自 [ 編集 ]

出自は推測の域を出ておらず、詳細は不明である。

楠木氏説 [ 編集 ]

『 斐太後風土記 』では、「 後花園天皇 の御代( 1428年 - 1464年 ) 信濃国 松代 住人 楠氏 の末葉なる 内島将監為氏 、 足利義政 将軍 の命を奉じて 白川 に来たり、その威勢を振るい、村々を兼領し、 寛正 のはじめ、牧戸に城を築き住居、漸々村々の随従に依りて、後亦 保木脇村 帰雲山 に城を築きて勢強く、 小島郷 はさら也、 越中国 砺波郡 川上領をも押領せり、家臣には 山下 、 尾神 、 川尻 らの勇士ありて、破竹の勢いになりぬ」と、楠氏の後裔であったと記されている。

猪股党説 [ 編集 ]

武蔵国 榛沢郡 に 内ヶ島 という地名があり、 猪俣党 の支族・ 岡部国綱 がその地を拝領し、 内ヶ島 と名乗ったとするもの。この系統は『 吾妻鏡 』では 承久 3年( 1221年 )の 承久の乱 に 上洛軍 として 内ヶ島忠俊 の名前が見え、その宇治川における戦いで活躍したと記されている。この頃に内ヶ島氏は 有力御家人 であったようである。 内ヶ島氏理 ら一族は、この後裔であるともされる。

西園寺家説 [ 編集 ]

『 白川年代記 』の「 内ヶ島系図 」によれば、内ヶ島氏の先祖は 内ヶ島左衛門尉経喬 という人物で、その7代後の子孫が氏理とされる。

つまり、 建武 元年( 1334年 )、 西園寺公宗 が 叛逆罪 で討伐された際、その弟の橋本経喬は兄に連座して 飛騨 へ流罪となった。当時の飛騨国の 国司 ・ 姉小路頼鑑 は経喬を保護し、 白川郷 小呂 に住まわせた。 照蓮寺 の 嘉念坊善享 も経喬を憐れみ、寺内に庵を建設しこれを養っていた。その後、経喬は照蓮寺の 執事 ・ 三島右衛門 の 婿養子 となり、やがて 内ヶ島経喬 と名乗った。喬経は次第に勢力を拡大していき、3代目 経薫 のときに 向牧戸城 を築き、白川郷、更には 越中国 砺波 にまで勢力を拡大したとする。

『 岷江記 』では、経喬が 中先代の乱 において 信州 諏訪郡 で戦い、後に 松代 に5万石を賜ったということが記されている。しかし、『 尊卑

履歴

[17] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24255448190159423

メモ