犀川

犀川

[1] 犀川

Webページ

[2] 隧道レポート 信州新町日原西の明治隧道捜索作戦, , http://yamaiga.com/tunnel/okihara/main.html

【位置図(マピオン)】

つい先日、ネタを求めて旧版地形図を眺めているとき、秋田の盟友ミリンダ細田氏から電話がかかって来た。その内容は確か他愛ないものであったと記憶している(いや、これは「記憶してない」というのが正確か)が、電話で話しながら目線は旧版地形図を追い続けていた。

そんな友だち甲斐の無い私の目が、怪しく光ったッ!

そのときに見ていたのは、大正元(1912)年測図版5万分1「大町」で、犀(さい)川という大きな川の畔に1本の小さな隧道の記号が描かれているのを見つけたのである。

いわゆる “明治隧道” の発見であるわけだが、単にそれだけであったなら、この日からわずか10日も経ず現地を確認しに行くほどには、テンションも上がらなかっただろう。

だが、私はこの小さな隧道の立地を見た瞬間、ほぼ確定的に廃隧道と予測できた。

明治隧道は大好きだが、それ以上に私を興奮させるのが、 “明治隧道の廃隧道” である! 大好物中の大好物!!

これを即座に廃隧道と予測した理由はいくつかあるが、同時に比較しながら眺めていた昭和28(1953)年版において、早くも隧道が旧道らしい状況に追いやられているということが第一であり、さらに――

――現在の最新の地理院地図と比較すると、 隧道前後の道もろとも、完全に表記が消えている のを見た時点で、確信にまで変わった。

ところで、先ほど掲載した大正1年と昭和28年の地形図、そして現在の地理院地図という計3枚の新旧地形図を見較べる事で、この犀川沿いの道路事情の大きな変化を感じ取ることが出来る。

具体的には、大正1年の犀川沿いには太く描かれている道が全く存在しなかったのに、昭和28年版では突然に極めて太く描かれた「国道」が出現している。

このことは本編の導入として重要なことなので、もう少し書き加える。

長野県の二大都市圏である長野と松本の間を途中に峠道を介さず結ぶ唯一のルートが、筑摩山地を貫流する犀川に沿ったルートである。

しかし、この川沿いの地形は狭く険しいため、川沿いに車道を作る事は容易でなく、近世末に開始された犀川通船が明治大正を通じて活躍した。

大正11(1922)年に府県道長野飯田線のルートが、従来の善光寺街道(現国道403号など)から犀川沿いに変更されたことを契機に、ようやく県レベルでの本格的な車道の整備が始められた。

[5] 道路レポート 長野県道55号大町麻績インター千曲線 差切峡, , http://yamaiga.com/road/sasikiri/main5.html

2014/10/28 13:21 【現在地】

差切5号隧道を皮切りに、かなり矢継ぎ早のペースで現れてきた隧道群も、2号隧道から150mほど離れたところにあるこの隧道、 差切1号隧道 をもって、打ち止めとなる。

そして隧道群の終わりは、差切峡を無事に通過し終えるということでもある。

事実、隧道の向こう側にはもう、先ほどまでのような、そそり立つ山肌のシルエットは見えていない。

なお、「 大鑑 」には、1号隧道について全長20m、幅3.3m、高さ3.2m、竣工昭和28年という記録がある。

この20mという全長は、既に開削されてしまった旧5号隧道の13mに次いで短い。

目前に現れた1号隧道は、これまで目にした5〜2号隧道の中で最短というだけでなく、幅も3.2mと一番狭い。「大鑑」でもそう記録されていたが、現状でもそのままのようだ。

そして、素掘吹き付けの2号隧道には見られなかった坑門があり、そこには見馴れたデザインの扁額も取り付けられていた。

そこで私は気付いた、小さな異変に。

ここまで2号隧道を除く各隧道で扁額を見たが、この1号隧道だけはなぜか「一号隧道」と、番号が漢字で書かれているのである(他はみなアラビア数字)。

「だから何だ?」

…そう言われると、困るんだぜ。扁額のデザインは4号や3号で見たものと全く同じなので、単に文字を入れる人間の気まぐれか或いはミスで、「1」ではなく「一」を入れたというだけだろう。

実はこの隧道については、 さらに重要な異変 があるのだが、私が気付いたのは、もう少しだけ後だった。

目の前にある1号隧道の大きな異変にも気付かないほど、私の意識は“旧道”発見へ注がれていた。

そしてその甲斐あって、今回もまた旧道が発見された。

4号や3号隧道の旧道で見たような片洞門が、1号隧道の“外”に続いていた。

もしかしたら本当に、2度あることは3度あるかも知れない!

隧道の坑門が旧道へのアクセスを邪魔していたが、自転車を残して身軽になれば、これを越えるのは難しい事では無かった。

たった数分前に体験した2度の強烈な成功体験がリフレインする。

おそるおそる、過去2回の成功地である岩場突端のカーブを回り込むと…

残念! 今回、隧道は無し。

さすがにそう何度も思い通りにはならないのである。

1日で2本も未知の明治廃隧道を発見したのだから、もう

[7] 歴史のまちしるべ標柱一覧, , http://www4.city.kanazawa.lg.jp/11104/bunkazaimain/torikumi/machishirube.html

藩政時代からの町名「足半町といふは並び短く、尻切れたる町なり」と伝えられ、はじめは足中町とも書く。のち芦中町と書いた。

[8] 梓川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A2%93%E5%B7%9D

[編集] 地理

長野県松本市の北西に位置する飛騨山脈(北アルプス)槍ヶ岳に源を発し南流する。上高地で大正池を形成し、梓湖(奈川渡ダム)に注ぐ。島々宿で東に向きを変え、新淵橋を過ぎたところから右岸の波田と左岸の梓に河岸段丘をつくる。松本市大字島内で奈良井川を合わせ犀川と名を変える。奈良井川との合流点手前のラーラ松本付近では拾ヶ堰や勘左衛門堰が地下横断をする。

[編集] 歴史

仁科濫觴記によれば、成務天皇の代に諸国の郡の境界を定めた際(古事記には「国々の堺、また大県小県の県主を定めた」とある)、保高見ノ熱躬(ほたかみのあつみ:後に「熱躬」を「安曇」と改称)が郡司であったため熱躬郡(あつみぐん)とし、境界の川も「熱躬川(あつみがわ)」とした。この熱躬川が、天智天皇7年(668年)に「梓川」と改称された[1]、とある。「熱躬川」であったにもかかわらず、梓川を「あつみがわ」ではなく「あずさがわ」と呼ぶ理由としては、二十巻本の和名抄(巻5)で、信濃国安曇郡を「阿都之(あつし)」と訓じてあることがあげられる。この「あつし」の訓は、「あづさ」の音にきわめて近い。

一方で、流域は古来より梓の産地であり、梓弓の材料として朝廷にも献上されていて、このことが川の名前の由来になったとも言われている[2]。

[編集] 利水

梓川の水は、発電用と、農業用灌漑のために、古くから用いられてきた。このため、新淵橋よりも下流の松本盆地での流量は豊かだとは言えない。

[編集] 発電用

水路式発電所は上高地に近い上流から、盆地部に下りての昭和電工赤松発電所・梓水力発電所まで、流域の各地に造られて古くから稼働してきた。1969年(昭和44年)11月には、奈川渡ダム、水殿ダム、稲核ダムの梓川3ダムが完成した(それまで梓川にはダム式発電所がなかった)。この梓川3ダムは揚水発電所として運用され、電力需要の多い時間に発電のためにいったん下流に放水された水を、電力需要の少ない夜間に再度揚水して上流のダム湖にためるようになっている。このために、下流のダム湖の上端が上流のダムの下まで来るように造られている。

[編集] 灌漑用

「堰」は一般には、川を堰き止める構造物をさすが、松本盆地ではその堰から取水して水を流す人工河川をも「堰」(読みは「せぎ」)といい、たくさん存在する。梓川から取水するものだけでなく、烏川から取水する烏川

[9] 釜ヶ渕堰堤 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%87%9C%E3%83%B6%E6%B8%95%E5%A0%B0%E5%A0%A4

釜ヶ渕堰堤(かまがふちえんてい)は、長野県松本市安曇(旧南安曇郡安曇村)、信濃川水系犀川の上流部(梓川)に建設されたダム。高さ29メートルの積石アーチ式コンクリート砂防ダムである。国の登録有形文化財。

[編集] 概要

1915年、焼岳の噴火による大量の泥流が犀川上流部(梓川)をせき止めてられて大正池が誕生した。この堆積した土砂の流出を防ぎ、上高地の景観と犀川流域の保全を目的に、大正池の河口直下に建設されている。かつては県道沿いに上高地に向かう途中に見ることができたが、県道の崩落事故が度重なったため2005年に新しい釜トンネルに付け替えられ、ほとんど人目に触れることはなくなった。

[編集] 歴史

1936年(昭和11年)に着工し、1943年(昭和18年)に釜ヶ渕堰堤本体工事が、翌年昭和19年に下流側の本副堰堤工事が竣工した。内部の構造は主に玉石を埋め込んだ粗石コンクリートで、表面は現地の石を加工した築石を用いている。梓川流域ではこの堰堤の着工に先立ち、1932年(昭和7年)に国の直轄砂防工事が始められており、当初は梓川沿いの山腹工や、沢渡周辺の川への小規模な砂防工事が行われた。2002年(平成14年)8月、国の登録有形文化財に登録。

[編集] 関連項目

ダム

日本のダム

アーチ式コンクリートダム

治山

砂防

上高地

釜トンネル

[編集] 外部リンク

国土交通省 - 河川局 - 砂防部 - 登録有形文化財に登録された歴史的砂防施設 - 釜ヶ渕堰堤

上高地公式Website - 釜ヶ渕堰堤

座標: 北緯36度12分51.15秒 東経137度36分54.11秒 / 北緯36.2142083度 東経137.6150306度

[10] 長野市、ダム湖畔の隧道から続く謎の廃道 その2 - 轍亡き路へ - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/suisin_train/26305034.html

前回の写真の地点からほんの少し先に進んだところ。

ダム湖が見えてくるようになりました。

裾花ダム(すそばなだむ)によって作られたこの人造湖は「裾花湖」といいます。

裾花川は戸隠連峰(長野新潟の県境に位置する山々)を源流とし、この地を通って長野市内を通って犀川へ合流、そこから千曲川へ入り、新潟県で信濃川と合流し日本海に流れます。

犀川は上流は梓川と名前を変え、長野県の有名観光地「上高地」から流れています。

裾花川は長野市内を流れていることもあり、洪水などの水害が起きた場合の被害は甚大なものでした。1949年(昭和24年)には裾花川が氾濫、長野市内の大半が浸水したといわれています。

そのため裾花川上流にダムを建設、中部電力の末端に位置する長野市以北への電力供給を安定させるため発電所を建設する計画が発足、1962年(昭和37年)より建設が開始され、1969年(昭和44年)に完成している。

路盤はところどころ崩落しながらも、安全に人が通れるレベルの広さはちゃんと確保してある。

廃道といえど、この場所はまだ死んでいなかった。

ここでこのダムにまつわる長話をもう一つ。尺稼ぎ?知らない子ですね

この裾花ダムには失意のまま廃線を迎えた鉄道路線が一部水没しています。

名前を「善光寺白馬電鉄」と言います。

名前の通り、長野市(善光寺)と白馬村を結ぶ鉄道として1919年(大正5年)に計画、その後第一次世界大戦の不況のため、線路敷設許可が下りたのは1927年(昭和2年)4月のことだった。

路線が開業したのはそれから9年後、1936年(昭和11年)11月22日のこと。南長野駅〜善光寺温泉東口駅の5.8キロが開業した。それから1942年(昭和17年)12月17日に裾花口駅まで延伸された。これは現在の裾花ダム付近に作られている堰付近であると推測される。

しかし善光寺白馬電鉄の栄光はここまでであった。裾花口から先は山岳地帯となり、かつ資金が集まらなかったため工事は難航。裾花口まで開業して1年後の1944年(昭和19年)1月10日。太平洋戦争下の企業整備に伴い運行が休止されてしまった。

やがて終戦を迎え、戦後になっても長い間休止されたままだったこの路線は、自治体による復活運動が行われたり、国鉄による「信越西線」としての開業などが検討されるも、どれも実現には至らなかった。

[11] 信州の架け橋 (長野県の橋)  -  清水橋, , http://93mini.blog135.fc2.com/blog-entry-87.html

Author:ふみゅう

突然、橋が好きになりました。現行の橋に限らず、橋跡を探し、道の変わり行きを調べるのも面白いです。 主に下路式の橋を紹介しています。 鉄筋コンクリートローゼ橋は、全て見ました。後は、古い鉄筋コンクリートの主塔の吊橋を探しています。吊橋は、主塔だけでも残っていれば、橋の歴史を感じさせられる良い存在です。 基本、歩いて橋を渡っていますが、橋が上下に揺れるのが苦手で、場合によって吊橋は渡れない事があります…。 面白い橋、吊橋(跡含む)があれば教えて下さい。どの橋ページでも構いませんのでコメントに記載して頂けたら幸いです。 愛車は、15年の付き合い! ☆☆ 気に入った橋、 このページに来るきっかけとなった橋に拍手を頂けると励みになります。 ☆☆

[13] 糸魚川静岡構造線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B3%B8%E9%AD%9A%E5%B7%9D%E9%9D%99%E5%B2%A1%E6%A7%8B%E9%80%A0%E7%B7%9A

国の天然記念物 新倉の糸魚川-静岡構造線

画像の中央、崖の右上から左下に斜めに走るラインが構造線の露頭である。

山梨県南巨摩郡早川町新倉(あらくら、地図)

1918年に、東北帝国大学(現東北大学)の地質学者・古生物学者である矢部長克(1878年〜1969年)によって提唱された。

しばしばフォッサマグナと混同されるが、糸魚川静岡構造線は「フォッサマグナの西辺」であって、「フォッサマグナ」ではない。フォッサマグナは、糸静線から東に大きく広がる地溝帯、すなわち「線」ではなく「面」である。

特徴[編集]

(ここでは自然地理的な特徴について述べる。人文地理的な特徴は「中部地方#地域性」を参照すること。)

糸魚川静岡構造線に沿って日本アルプスが造られており、飛騨山脈や赤石山脈の高山が沿線に連なり、天険を形成する。生態系は、糸静線を境にして大きく異なり、東半分を東北日本、西半分を西南日本という。糸静線沿線の主な山や高地には、白馬岳、乗鞍岳、上高地、赤石岳、身延山などが連なる。

日本海側の東西境界線は新潟県と富山県の境に位置する親不知であり、内陸側の東西境界線は諏訪湖である。太平洋側については、静岡市付近ではあるが詳細ははっきりしておらず、安倍川の他、薩埵峠付近や大崩海岸付近などともされる。

北部フォッサマグナ[編集]

日本海が形成された時期の新第三期中新世後期までは東西方向に引っ張られる力が作用し大きな陥没地帯が形成されていたが、中新世末期以降は力の方向が逆転し圧縮方向に変化した。その為、隆起と沈降を示す地形が交互に現れている。隆起地形としては、上水内丘陵地帯(主に妙高火山群の山々)と中央隆起帯(長野県中部から群馬県にかけての地域で志賀高原、八ヶ岳などとその周辺)があり、隆起地形の間には逆断層の長野盆地西縁断層系があり地震活動が活発である[1]。なお、最北部の西頚城山地での活動は終了しており変動地形学的に見ると活断層ではない[2]とする見解もある。

北部フォッサマグナの東側(信越地域:長野県北部から新潟県頚城地域)には、大峰面[3]と呼ばれる第四紀の70万年前に海岸平原であったとされる頃に形成された花崗岩質の礫及びシルトによる平坦な地形が広がっていた[4]が、その後の地殻変動により浸食され現在は、標高900m前後の山々に痕跡が残る[5]。

糸静線上の松本盆地から長野盆地に向か

[14] 「琵琶湖の水止めたろか!」を実際にやったらどうなるかシミュレーションしてみた結果 - Togetterまとめ, , http://togetter.com/li/1038087

滋賀県大好きマン/KUAMP卒→某社3年目/物理/数学/雑学/郷土史/天文/漢検準1/京都検定3/競技かるた/茶/笛/小字/古地図/街歩き/暗渠/地名/神社仏閣/コナン/土木遺産/マンホール/トマソン/空見人/野草/知的好奇心/語源ハンター/広辞苑厨/藤子不二雄/家系図/草津市小字地図製作中

履歴

[15] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24255448188733600

メモ