[1] 高幡不動駅
京王線高幡不動駅 南口の駅前ロータリーに出て来ました。右方向に目をやると、高幡不動尊参道と記された大きな門が見えています。
トイレ:京王堀之内駅、永林寺、長沼公園、京王長沼駅 食べ物の調達:長沼公園内には自販機はなかった気がする。途中、永林寺から野猿峠に向かうまでに大きなコンビニあり。休憩できそうな店は京王堀之内駅付近以外はなし。長沼駅前は殆ど店がない。 ハイキング入門者が歩くコースとして市販のガイドブックで推奨されていたので行ってみた。本当は長沼公園から平山城址公園まで「野猿の尾根道」は続いており、往時、その尾根道は生活道路として使われていたそうだ。 しかし今、その間は一部私有地で立ち入り禁止のため、長沼公園から一度下山して住宅街を通り平山城址公園にいかなければならず、非常な遠回りだ。 本来予定していたルートは平山城址公園からまた住宅街を少し歩いて、南平丘陵(多摩動物公園の裏山?)を経、高幡不動駅をゴールとするコースだったが、永林寺見学など案外時間を食ったことから時間が足りず、このコースは京王長沼駅で終了。そこから先は長沼駅→平山城址公園駅と電車を使い、平山城址公園から更に先を目指したが住宅街の中で迷ったので、結局多摩動物公園駅まで歩いてゴールとなった。
お寺の縁起 真言宗智山派別格本山。 高幡山 明王院 金剛寺は、古来関東三大不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に 慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で 関東稀に見る古文化財である。続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、 火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。当時門末三十六ケ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永8年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失した。その後、歴代住持の営々たる努力により徐々に復興に向ったが、殊に昭和50年代以降五重塔・大日堂・宝輪閣・奥殿・大師堂・聖天堂等の工事が相継ぎ 往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。総重量1100キロを超える巨像で古来日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は修復作業が完了し現在奥殿にご安置されている。
お寺の縁起
真言宗智山派別格本山。
高幡山 明王院 金剛寺は、古来関東三大不動の一つに挙げられ高幡不動尊として親しまれている。
その草創は古文書によれば大宝年間(701)以前とも或いは奈良時代行基菩薩の開基とも伝えられるが、今を去る1100年前、平安時代初期に
慈覚大師円仁が、清和天皇の勅願によって当地を東関鎮護の霊場と定めて山中に不動堂を建立し、不動明王をご安置したのに始まる。
のち建武2年(1335)8月4日夜の大風によって山中の堂宇が倒壊したので、時の住僧儀海上人が康永元年(1342)麓に移し建てたのが現在の不動堂で
関東稀に見る古文化財である。
続いて建てられた仁王門ともども重要文化財に指定されている。
足利時代の高幡不動尊は「汗かき不動」と呼ばれて鎌倉公方をはじめとする戦国武将の尊祟をあつめ、江戸時代には関東十一檀林に数えられ、
火防の不動尊として広く庶民の信仰をあつめた。
当時門末三十六ケ寺を従え、関東地方屈指の大寺院であったが安永8年の業火により大日堂をはじめ大師堂、山門、客殿、僧坊等を一挙に焼失した。
その後、歴代住持の営々たる努力により徐々に復興に向ったが、殊に昭和50年代以降五重塔・大日堂・宝輪閣・奥殿・大師堂・聖天堂等の工事が相継ぎ
往時を凌ぐ程の寺観を呈するようになった。
総重量1100キロを超える巨像で古来日本一と伝えられた重文丈六不動三尊は修復作業が完了し現在奥殿にご安置されている。
[5] この記事はSuikaWiki Worldで2015-10-29T06:08:25Zに作成されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24255448187038316