今回はちょっとばかりスリリングな廃線跡を紹介しよう。
皆さまは、 日本一 、
いや、
東洋一
とさえといわれた、そんなケーブルカーをご存知であろうか。
大正14(1925)年から昭和19(1944)年までの19年を生きた登山鉄道である。
その名は 朝熊登山鉄道 といい、全長4.2kmの「平坦線」と、全長1.1kmの「鋼索線」からなっていた。
今回紹介するのはこのうちの鋼索線で、これが所謂ケーブルカーである。
そしてこの鋼索線は、廃止されるまで “ある日本記録”を保持 していた。
右図は、この短命に終わった朝熊登山鉄道の姿を描いた数少ない5万分の1地形図である、昭和24(1949)年応急修正版「鳥羽」だ。
平坦線、鋼索線とも昭和19(1944)年には既に休止されていたので、良く見るとこの地形図には、「朝熊登山線」「鋼索鉄道」などの路線名や、「ひらいわ」「あさまたけ」などの駅名、さらに駅の記号上に「×印」が付されている。
本来の地形図の図式にはない表現だが、戦後間もない応急修正版ということで無理やりに修正されている。
朝熊登山鉄道の鋼索線は、その短命さや(実質的な)廃止時期の古さもさることながら、鋼索線の途中に隧道が1本描かれていることが私の興味をそそった。
そこで、「 鉄道廃線跡を歩くVII 」で最低限の知識を得て、あとは行き当たりばったりの現地探索を行ったのが今回のレポートである。
(個人的にケーブルカーの廃線跡が好きで、日光、箱根、赤城、榛名、あとは愛宕山など色々と探索しているが、「山行が」でレポートするのははじめてかも?)
以下は、本路線の経歴と朝熊山についての簡単な解説である。
朝熊ヶ岳(あさまがたけ) (朝熊山、朝熊岳ともいう) は、伊勢市の東部にある標高555mの山で、南北に延びる山嶺は古来から伊勢・志摩両国の境であった。
山頂近くにある金剛證寺(こんごうしょうじ)は、伊勢神宮の鬼門(北東)を守るの奥の院とされ、近世に成立した伊勢音頭に「お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り」と歌われるほどに多くの参詣者があった。
明治期の廃仏毀釈により一時期衰退するが、伊勢・鳥羽に連なる風光明媚の山岳地としても早くから有望視され、観光開発が進められた。
その初期の開発の中核を担ったのが、朝熊登山鉄道である。
朝熊登山鉄道は、大正8(191