御霊谷戸

御霊谷戸

[1] 御霊谷戸

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[2] 太鼓曲輪尾根, , http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/taikokuruwa-one.html

御主殿の南に 城山川 に沿うように東西に延びる尾根上に太鼓曲輪がありました。城郭の外郭を成す尾根で、みようによっては城の南を護る長大な土塁にもみえる。これを十連寺山の方へ東に辿る尾根上の陣として築城当時は曲輪が在ったのではないかと考えられていて、御主殿を鶴翼の陣で守るように東西に広がり、五つの堀切で区切れていたと研究者達が考えているのですが、その尾根路を探して歩いてみることにします。

曳き橋の南辺りで、路の無い城山川のかなりきつい南斜面を攀じ登るように上ると、細い尾根上には獣道のように路があります。上って来た後ろを振り返ると、木々の間からくっきりと御主殿の平らな芝生が見えて、これで城を護ろうと考えたのかと、唖然とする程に直ぐ下の間近に見えています。

ここは太鼓曲輪の奥の上部で、この曲輪が守られていればまだしも、奪われてからでは丸見えの御主殿をどのように護ったのだろうかと不思議でなりません。

ここまで責めて来るのには、尾根を東から攻めるよりも、 太鼓曲輪尾根の 更に南側の御霊谷川に沿って上り、各所から一斉に太鼓曲輪の尾根を目指せば、北斜面よりも傾斜も緩く上りやすい為、護りの薄い城方はたちまちに崩れてしまったのではないでしょうか。事実、攻め手は根小屋地区から攻め込んだのではないかと考えられていて、御霊谷に沿って遡りながらそこに在った家々や、陣を焼き払い、太鼓曲輪に攻め上ったと、この地区の発掘調査を元に推理されているようです。

尾根が土塁だと言いましたが、尾根の南斜面は城内である北斜面より傾斜が緩く上りやすい。また延びきった陣は護るには人手が多く必要と成り、無理があったのではと思いながら、 地図と現地を比較しながらゆっくりと東へ尾根を辿り始めます。

路は無いと言うべきか、こんな所を歩く人は山菜取りぐらいの人ぐらいでしょうか、その割りに歩いてみれば想像よりも楽に歩け、雑木林の中を伝っていけます。所々、尾根を切り落して、防御用の柵を設けたと考えられる堀切の窪地も、周囲が崩れ今は緩やかに窪んでいるだけで、藪を漕ぎ進むと、長閑な山歩きができます。なんとか歩いてはいるのですが、夏場の草木が繁っている時期は止めた方がよさそうです。

やがて少しずつ南へずれながら十連寺山を過ぎて中央高速の音が右手にうるさく聞こえて来ると、広い大きなやや窪みに出ます。この辺りが御霊谷川から上が

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