太平山

太平山

[1] 太平山

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[2] ミニレポ第212回 太平山トンネル構想, , http://yamaiga.com/mini/212/main.html

所在しません地 秋田県秋田市〜上小阿仁村〜北秋田市 探索日 ----.--.-- 公開日 2015.08.30

今回は、今まで当サイトで取り上げたことはないと思うが、実は私が大好きだというテーマをやりたいと思う。

そのテーマとは…

実現しなかった道路構想。

未成道に近いが、未成道といえば通常は、途中まで実際に建設されて、それでも完成しなかったものを指す。

今回取り上げるのはそうではなく、本当に構想だけで1mも建設がされず、かつ、構想自体も既に過去のものになってしまった、そんな「非現実道路」である。

道は存在しない=必然的に現地探索が成立し辛いので、基本的には机上レポートとなる。

別にネタ切れではないのだが、今後はこうした構想だけで消えてしまった道も、積極的に取り上げていきたいと思っている。

ただ、今回の道もまさにそうなのだが、基本的にこの手のネタを知るためには、古い新聞記事など、かなり目立たない情報に頼る必要がある。

なので、皆さまからの情報提供に今まで以上に頼る必要があると感じている。

皆さま何卒、「構想だけで終わった」道についての情報も、当サイト宛にお寄せいただきたい( 情報提供フォーム )。これは私の大好物である。

【周辺図(マピオン)】

今回取り上げるのは、 太平山トンネル構想 である。

数年前に秋田県の地方紙である魁新報のバックナンバーを検索していて見つけたもので、今のところはここに掲載した1枚の記事 ―昭和59(1984)年1月7日(土)夕刊― の他に情報は無い。

少なくとも魁の紙面には、これ以降採り上げられなかったようである。

こうしたことから、おそらく短期間で実現性が消えた泡沫のような構想だったと思われるのだが、とはいえ県民の講読率が極めて高い魁新報の夕刊1面に大きな紙面が割かれており、もし実現していれば、県の交通網を刷新しうるほどの大規模な構想である。

とりあえず、見出しの文字を拾えば構想の大まかな方向性は見えるだろう。

「太平山にトンネル構想」

「秋田市―阿仁地区を直結」

「関係市町村 59年度に促進協」

「経済活性化狙う」

などとあり、従来は太平山に阻まれ県都秋田市からの交通が不便な阿仁町(現北秋田市阿仁)に直行するトンネルの構想である。

そして、秋田県の現実の道路網を知っている人間であれば、一緒に掲載されている1枚

[3] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/kanayamataki_3.html

恐ろしいねじれ穴を攻略した私は、更なる奥地に眠ると言う、もう一つの隧道を求め更に沢を遡ることにした。

しかし、この先には道が無い。

やはり、この隧道が上流へ向かう道だったのであろうか?

やむを得ず、隧道上を直接越えることにした。

すると、河岸の険しい崖の上部には意外なほど広い平地が広がっていた。

そして、再び斜面を下ると。

反対側の坑門が存在していたと思われる部分には、小さな小さな穴が口をあけていた。

しかし、とても人が入れる大きさは無い。

顔を入れることさえ出来ない。

覗き込むと、内部にも狭い空洞が続いていることが分かる。

だが、大きな隧道が埋没した姿と言うよりかは、もともと人の入れる隧道ではなかったように見える。

やはり、隧道最奥部で見た土管と、この小さな穴は続いているのだろうか?

とすれば、やはり水路として利用されていた隧道、いや、水道だったのか。

ただ、隧道内部で見た崩落閉塞点の先が、どこかへと通じていたのだとしたら、それは、どこなのだろう。

付近には、隧道の坑門とおぼしき物は見当らない。

謎の多い隧道であった。

再び上流へ向けて歩き出すと、先ほどまでと同じような道が現れた。

特に険しい部分には土橋が桟橋状に設けられており、ビニールで底面を補強した形跡がある。

このビニールの残骸と、

道は非常に緩やかな勾配で、一方的に上っているということ。

途中にわざわざ多数の桟橋を設け、可能な限り水平を保つように設計されていること。

さらに、先ほど見たとおり、この険しい河岸の断崖を敢えて通らずとも、広い河岸段丘が存在していること。

これらのことから、この道は、水路だったのだろうとほぼ断定できる。

現在では荒野となってしまったようだが、下流木曽石の河岸段丘上には、「開拓田」と呼ばれる地名があった事を『秋田山想会著 太平山登山総ガイド(1979刊)』から知った。

この水路との関連は不明である。

桟橋の一部は腐り、崩落しかけている。

これらの場所は、細心の注意を払って斜面に張り付いて進む。

斜面が幾分緩やかな場所は、概ね笹薮に覆われている。

そして、そこには未だ水を蓄えた水路が残されていた。

もっとも、淀んだ水に流れは無い。

だが、この道が、本来は水路であった証といえるだろう。

河床もだいぶ狭くなり、流量も減ってきた

[5] 金山滝, , http://www.akitabi.com/taki/kanayama.html

金山滝概要: 三吉神社から4kmほど行くと金山滝があります。太平山登山口には何箇所かあるそうですがここが本来のルートで、太平山信仰の修験僧はこの滝で身を清め頂上を目指しました。金山滝は大きさはあまり無いのですが、かなり神聖な雰囲気があり、現在でも滝麓にある祠の中には祭壇が設え信仰が続いているのが分かります。理由を知っているせいか緊張感すら感じられ、本来あまり人が入る場所ではないのかも知れません。

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[6] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/komata.html

私の住む秋田市の東半分は、太平山を頂点とする深い山岳に支配されている。

そしてそこには、隅々まで林道が張り巡らされている。

まだ少年だった私が、チャリの面白さと林道の奥深くへと分け入る興奮を覚えたのは、これらの林道のおかげであり、その意味で我が山チャリ発祥の地といってよい。

今回の舞台、上新城は小又沢上流に伸びる小又林道も、それら若き日の旅の一ページを、いや、それ以上を彩った思い出の道である。

しかし、次第に行動範囲が広がるにつれ、地元の山々である太平山地から、他へと興味が移って行ったのも自然な流れだっただろう。

そして、初めての山チャリから10年目の秋。

再びこの地に私の目を向けさせる、衝撃の情報がもたらされた。

情報提供者は、FTDティーさん。

以下に、その衝撃的なメールの一部を抜粋して紹介させていただきたい。

上新城のトンネル(廃モノ含む)が3つほど紹介されてますよね!

私、上新城に大親友がいまして、よく山にも入ったりしてるんですけど、その友人の情報によると、まだ見ぬトンネルが上新城に存在するという話なんすよ!

場所は小又大滝付近、滝の上の林道の対岸から、滝の下に抜けるトンネルらしいです。

友人も偶然発見したらしく驚いてました。

林道は知っての通り封鎖されてますが、ぜひ山チャでレポートしていただきたい!

小又大滝は、私にとっては『なつかしい』という気持にさせる、そんな場所になっていた。

もう、かれこれ5年以上は近付いていない。

しかし、通算するともう4回は探索している。

もちろん、隧道があるというのは初耳であり、これまではただ、林道探索のついでに滝も鑑賞したという程度だ。

それでも、隧道の存在は、俄かには信じがたい。

…いや。

信じがたいというのは嘘で、何か引っかかるものは、たしかにあった。

そうだった、思い出した。

かつて滝を見たとき、「あそこにはどうやっていくのだろうか?」と不思議に思った場所があったのだ。

もう、すっかりとそんな事は忘れていたし、まさか隧道があるなどとは思いもよらなかった。

無論、私の記憶に在る“アノ場所”と、今回の隧道が関連する物なのかは、分からない。

ただ、猛烈に興奮した。

もう、これはすぐにでも探索するしか無いと思った。

そして、情報をご提供頂いた次の休みに、早速行動を起したのであ

[7] 奥羽本線旧線(前山〜二ツ井間) - 失われた鉄道 - 秋田各駅停車の旅, , http://www7a.biglobe.ne.jp/~akitetu/lost/l_ouu/

開業当初は太平山を南側に迂回する形で国道7号線沿いに敷設されていました。その後、前山〜富根間の複線化の際、曲線改良と短絡化による時間短縮を目的に太平山に太平トンネルときみまち坂トンネルが新設され、この区間は直線化されました。これにより旧線は放棄されました。旧線は4つのトンネルがあり、現在でもその姿をとどめています。

路線概要

[8] CCSF - 逐次雑記 2008年4月下旬, , http://ccsf.jp/diary/200804-3.html#d20080430-n1

◇ 仮面のメイドガイ ご奉仕 三「ロマンティックが止まらない?」(4月19日放映分)

評価……☆☆☆☆(前回比: ±0)

女子剣道部vs男子剣道部……というか, 乳ファンクラブ。一瞬でもまともに相手しようとした時点でなえかの精神的負けです(^^;;; そんな変態どもを成敗している脇でなえかを見つめる目に気付く, 妖怪センサーならぬメイドガイセンサー。これはフルメタっぽくなるのか, と思いきや……むしろロッカー爆破しそうなのはなえかの方でしたな(^^;;;

「昔は姉ちゃんも, 運命の出会いに憧れ, フラグにときめき, ベストエンディングを夢見た恋する少女だったんだ」なんだその表現。しかるにそんな甘酢っぱい過去も, 『毒殺女』の異名と共に返上してしまったなえか。でもベッドの下には……ちょっと古めのティーンズ雑誌? 「たった一度の失恋も乗り越えられないぶんざいで剣の道を語るなど笑止!」「失恋がどんなに辛いか知ってるの!? 僕なんてバッドエンドの度に枕を濡らしているんだから!」幸助は二次元が真剣に恋人らしい……。「何が眼鏡に妹に猫耳だ! この呪われた子孫達め!」鞠絵にキョン妹に葉月ですな。葉月は角川系ではないんですけど。

「メイドガイ特製ドリンク, しかも嬉しいカロリー0!」なえかの扱いに一つ慣れたようです(^^;;; で, その中身は……媚薬ですか? 今の富士原家においては, 誰を相手に発情しても面白い事になってしまいますな。ということで被害者はフブキ「コガラシさんどうするんですかこれー!?」「心配するなもっとやれ。小一時間ほど外に出ている」空気読まなきゃbyマイメロ(^^;;; そしてやってきたじーちゃん → 猟奇現場(^^;;;

エビフライ特訓……回想シーンで出来てたのは, 少なくとも見た目はまともな弁当だったのに, 結局爆発料理人なんですな(^^;;; 「お食べ(↓)」「女の子の料理は残さず食べる, それが男の運命です(↓)」最低限, 食べても命に別状無いものなのであれば, そうだけどさ(^^;;; 「……食べ物だ! 人が食べても平気なものだ! しかもエビフライだと味で判るほどの出来栄えだ!」そこまで感動されてしまうのって, なえかが如何に猛毒料理人として名を馳せていたかが知れるというものです。あの弁当1食だけじゃないって事だよね。

ここまで来てようやくラブレター開

[9] 隧道レポート(初期レポート集1), , http://yamaiga.com/tunnel/tunnel1.html

このレポートの最終回ないしは最後に更新した回の 「この位置」に、レポートへの採点欄とコメント欄を用意しています。 あなたの評価、感想、体験談などをぜひ教えてください。

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国道13号線は、秋田市を出発し延々内陸を縦貫、果ては山形を越え、福島市にまで至る元一級国道の名に恥じない最重要路線だ。

栗子トンネルなどの大きなトンネルを初め多数のトンネルを有するが、実は秋田県内には、トンネルはひとつも無い。(山形県境の雄勝トンネルを除く)

しかし実は、ほんの数年前まで、たった一つ、秋田市の間近にあった。

それがここに紹介する、和田トンネルだ。

この昭和36年竣工のトンネルは、僅か延長100m。

年代相応の狭隘なもので、昼夜を問わず交通量の多い国道13号線において、大きなボトルネックになっていたことは、想像に難くない。

前後にあった歩道もここで途切れるほどであったのだから。

そしてまた、地理的な条件(このトンネルが越えた低い稜線は、秋田市と河辺町を分かつものであり、秋田市の門というイメージが強かった。)や、その古さが想像させる過去の事故歴、最後まで無灯隧道であった事などが災いして、県内有数の心霊スポット(「男鹿プリ」か”ここ”というほどの)とされてきた。

私もたびたび深夜にここを自転車で通ったが、短いとはいえ歩道も無い狭く埃っぽい無灯の隧道を、背後から大型車が来ていないことを確かめてから、進入するのは、気持ちよいものではなかった。

見込みを誤り、大型車に追い立てられた時など、そのまま巻き込まれて死ぬのではないかと恐怖したものだ。

…幽霊云々ではなく、事実上、怖い場所であったのだ。

遅ればせながらと言う感じだが、最近になって、やっとここにトンネルを供さない、バイパスが完成した。

そして、そのバイパスは、あまりに旧トンネルに近い場所を巨大な切り通しで駆け抜けるものとなった。

すなわち、旧トンネルは、破壊され、消え去ったのだった。

私は埋め立てからほぼ1年がたった、2001年夏、久々にこの場所に行ってみた。

以下はその時に撮影したものだ。

[10] 道路レポート, , http://yamaiga.com/road/hakkouda/main4.html

上のマークをクリックして、是非地図をご確認頂きたい。

この松森のヘアピンカーブは、御鼻部口から11km地点にあり、どちらから入山しても、もっとも遠い場所になる。

一帯には一切の分岐や間道はなく、この地点より先に進めば、もう「戻る」という選択は、殆ど現実性を失うだろう。

考えるだけでも、いま来た道を戻るのはゴメンだ。

入山から、すでに4時間42分を経過している。

なんという、凄まじい難道なのだ!

自己ワーストの更新は、ほぼ間違いないだろう。

山行が史上、最も難しい道。

道半ばで、もうその称号を手にしてしまった十和田八甲田連絡道路、果たしてこの先どうなるのか?!

その行く末にいちばん戦々恐々としていたのは、ほからなぬ私自身であった。

180度ここで進路が転換される。

まさに、いかにも車道らしい大ヘアピンカーブである。

そして、ヘアピンの先には、遂に車道時代の遺構として、決定的なものを発見した。

いや、もうそれは大きなものであり、発見というよりも、遭遇という方が相応しいだろう。

石垣である。

まだ芽の出ていない日影の木々の向こう、山側の路肩を形成しているのは、明らかに石垣である。

しかし、この石垣は崩落が進んでおり、今にも崩れ落ちそうな有様だ。

確かに、放置された時間が相当に長いという事もあろうが、もともと丁寧な石垣ではなかったという印象を受けた。

というのも、使われている石が不揃いだし、石と石との間にも隙間が目立つ。

明らかにテキトーな感じに積まれている石もある。

これまで、これと同じか、或いはもっと古い由来を持つ石垣を多数見てきたが、それらはどこも丁寧な仕事ぶりが印象的だった。

職人らしさを感じたものである。

しかし、ここは荒っぽい。

各地の古道の石垣と、この道の石垣、その施工に感じられる印象の違いは、おそらく、工事を担当した人間の違いだろう。

例えば、立派な路傍の擁壁が大変に印象的な福島山形県境の万世大路。

施工は同じ昭和の初期だが、競争入札に勝利した一流の職人達が工事にあたっている。

一方、この道の由来を思い出して欲しい。

そう。

昭和初期の飢饉に端を発する農民達の貧困を救うため、県が「救農事業」として、雇用の創設を図る目的でここに道を通す工事を興したのだった。

穿った言い方になるが、この道が永く使われるかど

[11] 熊野神社 (碓氷峠), , http://www.genbu.net/data/kouzuke/kumano_title.htm

随神門をくぐると社殿のある境内。 右手の群馬側には当社・群馬県熊野神社の拝殿(神楽殿)があり、 左手の長野県側には長野県熊野皇大神社の拝殿がある。

また、正面には三棟並んだ社殿があり、 中央が群馬(上州)と長野(信州)にまたがった本宮。 右手の上州側には新宮、左手の信州側には那智宮が鎮座。 中門の手前に、左手に「熊野皇大神社」、右手に「熊野神社」と記された 社号標が建っている。

長野側の那智宮を熊野皇大神社が、 群馬側の新宮を当社・熊野神社が、中央の本宮を共同で管理しているのだろう。

社伝によると、第十二代景行天皇の頃、 日本武尊の東夷征伐凱旋の途中、武蔵、上野を経て坂本にさしかかった時、 荒ぶる山神が白鹿に化けて日本武尊を苦しめんと姿を現したが 蒜(ネギやノビルなどの植物)を白鹿の目に打付けて殺してしまった。

ところが、たちまち濃霧が発生して何も見えなくなり、道に迷われてしまった。 そこに一羽の八咫の烏が現れ、紀の国熊野山の椰の葉をくわえて来て、 日本武尊の御前に落とし前導するように飛んで行くので 八咫烏について行くと、無事に碓氷峠に到着した。 日本武尊は、熊野神霊の加護に感謝し、 この碓氷の嶺に熊野大神を勧請したのが当社の起源。 景行天皇四十年十月のことであるという。

碓氷の嶺に立った日本武尊は、雲海から海を連想され走水で入水された 弟橘比売命を偲ばれて「吾嬬者耶」と嘆かれたという。

当社の鎮座する碓氷峠は中山道の要所にあり、 皇室公卿方をはじめ参勤交代の諸大名や一般通行の諸人なども当社に参拝した 道中の安全と家業の繁栄を祈願したという。 往昔には、新田義貞によって広大な神領を寄進され 西は信濃国長倉村鳥居原に、 東は上野国碓氷郡新堀村鳥居坂に大鳥居があったという。

「碓氷」という地名は、万葉集の「上野国歌」にあり 群馬県側(上野国)の方が有名で、日本武尊が苦労して登ったのも群馬側。 碓氷峠の熊野権現は、本来は上野国の神だったのかもしれない。

だが、「上野国神名帳」碓水郡に当社の名前はなく、 『明治神社志料』熊野神社の項には、 元は長倉神社、長倉山熊野権現とも称していたとあって、 信濃国の式内社・長倉神社であると記されている。

思うに、峠の上に鎮座しているため冬季の参拝が不便となり、 また、碓氷峠の東側(群馬側)が寂れ、西側麓、長野県の軽井沢町が

[12] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/iokari_2.html

五百刈沢隧道は、秋田市の北部、外旭川と上新城を分ける稜線上に幾つもある隧道のひとつだ。

この稜線は、太平山地の末端に位置し、太平山前衛の山々を取り囲むように存在するが、その標高は100mにも満たない。

そして、上飯島地区の飯岡山を最後のピークとして、あとは、かつては海の底であった広大な水田地帯に落ちている。

五百刈沢隧道は、私にとって、山チャリで出会った初めての隧道(トンネルではなく、隧道)であり、その消長というほどではないが、十年来の姿を追ってきているので、とくに思い入れがある。

まあ、当サイトで紹介している他の隧道に比べれば、迫力には乏しく、ただの狭くて小さな隧道と見えると思うが、どうかお付き合い願いたい。

今回は、新たな発見があったので、これを中心に、五百刈沢隧道の再訪レポートをお送りする。

2003年12月11日、午前8時すぎ、自宅から5kmほどの地点にある五百刈沢隧道を目指し、主要地方道72号線(秋田北インター線)を、終点目指して走る。

五百刈沢隧道は、秋田北インターチェンジのすぐ裏の山にあり、高速道路があと50m山側を通過していれば、確実に消滅していただろう位置にある。

隧道への道は目印に乏しいが、一般の道路地図にもちゃっかりと掲載されているので、誰でも簡単に訪れることが出来よう。

数日前に始めて積雪したのだが、今日はそれもかなりとけている。

まあ、ちょっとした所用(当サイト用トップページの写真撮影です)で、道川製油軌道隧道に用事があって、そのついでに五百刈沢も行ってみようと思っているだけなので、山チャリというほども無い。

まさか、あんな発見があろうとは、思ってもいなかった。

高速道路の下を潜って、隧道への上りに入る。

この右手には、高速の建設のために集団移転して無人となった五百刈沢集落の墓地があって、そこには移転記念碑も建立されている。

高速道路のために集団移転するケースは珍しい。

過去何度と無く上り、または下ってきた道である。

急な道なので、ママチャリには少し辛かった覚えもある。

色々な思い出のある道を、ほんの50mも登れば、杉の木立の中、隧道がすぐに見えてくる。

今回の探索の目的としては、この五百刈沢隧道の起源を解明する手がかりを得ることである。

探索の前日に、地元にお住まいの方より情報を頂いていた。

それに

[13] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/kanayamataki.html

当サイトが縁で出会った仲間の一人に、パタリンという人物がいる。

気さくな彼からは、有益な情報がたくさん情報がもたらされて来た。

今夏遂に発見となった「道川製油軌道隧道」についても、なんとその一年も前より彼の口からは「あそこにはまだヨッキの知らない隧道が二本あると思うよ。」と、思わせぶりな発言があった。(失礼ながら、その時には信じられなかった。)

そして、その後もことあるごとに情報を提供していただいたが、遂に、私を異常に駆り立てる隧道情報がもたらされた。

(前略)

太平山 金山滝の右の沢奥に 手彫り隋道の情報あり。

アクセスは登山道入り口より右の沢のさらに右の尾根越えだそうです。

(後略)

金山滝といえば、これまた秋田市をねぐらに走る者にとっては、お馴染みの地名だ。

現在では県道太平山八田線の終点で、古くからある太平山登山道の一つ木曽石口の起点である。

今回もたらされた情報によれば、登山道からも外れた山中に、手掘りの隧道が存在するという。

さらに、今回の情報は特殊であった。

なんと、このメールを頂いたわずか2日後、彼が私の働く店に現れたのである。

そこで、仕事に追われる私の手を止めさせるに十分な衝撃事実が、彼の口から語られたのである。

彼は、私にメールをした後に、自分で探索しに行ったという。

そして、正味3箇所の穴を発見したというではないか。

さらに、現地はかなりの危険箇所であるという。

沢歩き経験豊富な彼がそういうのだ…、はたして、私に攻略出来るのか…。

一抹の不安はあったが、これは自身の目で確認せねばなるまいと、次の休みに朝一直行したのである。

いざ、金山滝へ。

金山滝傍の車道終点に到着したのは、9時45分のことだった。

歴史ある登山道と言っても、近年ではもっと距離の短い旭又コースなどの人気に押され、訪れる人はまばらだ。

まして、平日ともなれば、案の定先客の姿は無い。

もっとも、私は登山道(写真左の道)ではなく、パタリン氏の情報に従って、正面の東屋の裏手へすすむ。

もちろん、地図には無い道だ。

当然、チャリはここにおいていく。

東屋の裏手に立つと、すぐ上流に大きな砂防ダムが見える。

これが矢櫃沢で、向かうのは、このさらに上流だ。

右手の急な斜面には、微かだが踏跡があり、それに従って慎重にダムを超える。

矢櫃沢の

[14] 隧道レポート, , http://yamaiga.com/tunnel/kotunagi_2.html

明治34年の竣工。昭和46年新線の開通により廃止された、およそ3.9kmの旧線が、奥羽本線二ツ井・前山間に存在する。

ここを、二ツ井駅側から探索開始。

景勝きみまち坂をかつて貫いていた2本の隧道のうち、一本を通過。

しかし一本は発見できず、多分消滅したものと考えた。

残る区間は約半分、そこにもかつて2本の隧道が存在していたとされる。

はたして、その探索の行方は。

前回の続きである。

結局発見できなかった第三小繋隧道の失われただろう前山側坑門は、この写真の範囲内のどこかにあったはずなのだが…。

ちなみに、左の道が旧国道(現在は県道)で、右のトンネルは現国道のきみまち坂トンネルだ。

こうやって見ると、旧国道脇の法面はかなり削られた形跡があり、旧国道の拡幅が近年のことであるとしたら、隧道は丸ごと削り取られたのかも知れない。

悔しいが、色々な想像が働くのみで、これ以上の現地調査からは何も得られそうに無かったので、次に進むことにした。

(この写真、国道7号線の真ん中に立って撮影しているが、真似しないように。)

きみまち坂を越えたそこは小繋集落といい、今回の隧道群の名称にもなっている。

道路的には国道7号線と、主要地方道3号線の分岐点になっており、昼夜を問わず通行量の多い場所だ。

そしてまた、最近は道の駅『二ツ井』がオープンし、白神山地のメジャー化と相俟って、賑わいを見せている。

この道の駅の広い駐車場の裏側に、現在の線路が走っている。

直線に敷かれた線路の先には、長い長い太平トンネル(延長約3km)が巨大な複線断面を開けており、どっしりとした太平山を貫いていく。

直前の(鉄道用)きみまち坂トンネルも長大(約1km)であり、この現在線のもたらす時間的な効果は相当に大きいと思われる。

県内の鉄道の路線の付け替えでは、以前紹介済みの矢立峠の前後の区間についで、二番目に大きな工事といえるだろう。

現役当時の詳細な地図を持ち合わせておらず、この先の探索は半ば、宝探しとなった。

小繋の集落内をしばし彷徨った後、やっと、旧線と思われる敷地を、国道からは100mほど山側に入った場所に発見し、接近を試みた。

そこは、ある私企業の敷地を通らねば行けない場所であり、(或いは写真に写る自動車学校の敷地を通らねばたどり着けぬ)詳細は伏せるが、先ほどの道の駅裏の線

[15] 小様トンネル | あきた元気ムラ!秋田県のがんばる農山漁村集落応援サイト, , http://common.pref.akita.lg.jp/genkimura/village/detail.html?cid=9&vid=0&id=1584

国道105号線から小渕方面へ進み、上小様地域へ向かう坂道を登っていくと、延長463m、2車線の「新小様トンネル」が見えてきます。そして新小様トンネルのすぐ右手には、車が1台通れるくらいの、舗装された狭い道が見えます。

この道は、上小様地域の人々が、集落から阿仁町に抜ける生活道路に使用していた「旧小様トンネル」へ続く道です。

現在は生活道路の面影はありませんが、登り坂を進んでいくと平成9年(1997年)まで現役だった幅3~4m、車1台がようやく通れる「旧小様トンネル」が見えてきます。

旧小様トンネルに向かう登り坂は急こう配で、冬場は危険を伴います。住民は坂を登る前に車のタイヤにチェーンを巻いてから車を発進させたといいます。

上小様と下小様の両自治会は全住民で「期成同盟会」を結成し、秋田県庁の事業を活用し、平成9年(1997年)、現在の新小様トンネルの竣工に漕ぎ着けました。

[19] 私的な宇宙船地球号 院内銀山跡訪問① 中編, , http://sentyo.blog81.fc2.com/blog-entry-186.html

金山神社。平成20年に大部分が修復されたが、文政13年(1830年)に建築された社殿の一部は残っているようである。現在も祭りの舞台となるなど唯一人の匂いのする場所でもある。

これが天保期に描かれた銀山の俯瞰図である。デフォルメが強い。当時の人口は7000人ほどであったと考えられている。現在は金山神社を残して跡形もなく消えている。 こちらは明治13年の地図。より正確に描かれており、見えにくいが地図の端、現在の松ノ木峠付近まで坑道が延びている。 現在の地形図。跡形も無いものの、切り拓かれた場所であることが分かる。 さて、現存する坑道の一つ、御幸坑が見えてきた。 立ち入ることは出来ない。なかなか立派な作りをしているが、実はさらに屋根がかけられていたことが異人館の写真からわかる。 なぜ出入口が一つしか無いのかという疑問が浮かんだ方もおられるだろう。ようは金銀の個人による持ち出しを防ぐためである。特に金は1トンの鉱石から2グラム取れれば採算が合うらしく、僅かな鉱石すら持ち出されぬよう取り締まる必要があった。よって作業の服装は褌一丁、裸同然であり、厳しい身体検査が行われた。禁を破ったものは重罰を課せられ、最悪死罪、追放されれば日本の鉱山には出入り禁止の徹底ぶりだったという。 中は厳重に閉じられている。この扉の向こう、しばらく進むと竪穴にあたり、これは上部に位置する第一山市竪坑から実に410mの深さがあるという。ここまで深くなると、それは地下水との戦いでもあり、水抜きのために大切疎水道が作られた。出口である大切坑がすでに水没していることを考えると、御幸坑から降りて大切疎水道に達する辺りはすでに水の中かもしれない。 なお、御幸坑の横には小道があり、小規模ながら墓地がある。年代は先の墓地と同じだが、特に案内や看板などは無し。以前あった西光寺の名残だろうか。 御幸坑の先には、なにやら水場のようなものが見える。 思わぬところで名水発見。 味は…まぁ普通。ちょっと一般人だと飲むのをためらいそうな水回り。多分雰囲気が味を悪くしている。 こういうのは覗くのに勇気がいる。底の見えない水って怖い。 浅かった。沢ガニが侵入していた。沢ガニは「きれいな水」の指標生物なので、この御前水および沢が汚れていないのは確かなようである。 さらに進むとちょっとした景勝地のようなところに出る。 寛永開坑ということ

[20] 乳頭山 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B9%B3%E9%A0%AD%E5%B1%B1

乳頭山(にゅうとうさん)とは、秋田県仙北市と岩手県岩手郡雫石町にまたがる山である。十和田八幡平国立公園の中に位置する。

遠くから見たゆったりとした印象とは異なり、山頂の東側は断崖絶壁となっている。山頂は崩壊が進んでいる。

秋田駒ヶ岳とともに古くから知られた山で、秘湯で名高い乳頭温泉郷の北東に乳房のような山容を見せている。山頂からは、岩手山や林野庁の森林生態系保護地域に指定されている葛根田川源流部などを一望できる。また、東隣の笊森山と三角山の鞍部に広がる千沼ヶ原は、尾瀬にも匹敵するほどの高層湿原とも言われている。

名称[編集]

秋田県側から見ると乳房を伏せた形に見えるので「乳頭山」と名付けられている。一方、岩手県側からは烏帽子のように見えるので、「烏帽子岳」や「烏帽子山」と呼ばれている。

国土地理院の地図には「烏帽子岳(乳頭山)」と表記されているが、登山関連書籍では「乳頭山」または「乳頭山(烏帽子岳)」と表記されているものが多い。

登山ルート[編集]

黒湯温泉から一本松沢沿いに登るルートが最短であり、利用者が最も多い。山頂まで約2時間。

この他にも、孫六温泉から田代平を経由するルートや、岩手県側の滝ノ上温泉からのルート、秋田駒ヶ岳方面からの縦走コースもある。

この一帯は、良質なタケノコが採れるため、入山者が多く、遭難騒ぎも後を絶たない。迷った人がやみくもに沢を下ると、かならず通る沢の出会いには「あなたは山で迷いました。こちらの沢を下ってください」という道標すらあるという。

乳頭山の東側斜面の断崖絶壁でロッククライミングを行う人もいる。

[21] 飯豊山 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E8%B1%8A%E5%B1%B1

概要 [ 編集 ]

磐梯朝日国立公園 内に位置し、可憐に咲く 高山植物 が有名で、 日本百名山 のひとつに数えられている。飯豊連峰の最高峰は、標高2,128 mの大日岳である [2] 。

飯豊山は、 福島県 と 新潟県 そして 山形県 三県の 県境 にあるが、南東麓の福島県側から山頂を経て御西岳に至る登山道付近のみが 福島県 喜多方市 になっており、山頂付近は喜多方市である [3] 。理由は、明治期に廃藩置県後飯豊山付近が 新潟県に編入 されたが、 飯豊山神社 宮とする福島県側の猛烈な反対運動により、参道にあたる登山道および山頂を再び福島県にすることで決着した結果である [3] 。そのため、福島県の県境がいびつな結果になっている [4] 。

山名の由来 [ 編集 ]

飯豊山の名の由来には諸説あり、確定していない。 福島県 会津 地方では「いいとよさん」とも呼び、雪化粧した山容が飯を豊かに盛った様子に見えることから、この名がついたとされる [5] 。 陸奥国風土記逸文 には飯豊山の名の由来について、以下の2つの伝承が記されている( 飯豊青皇女 の項目も参照のこと)。

飯豊(いいとよ)を歴史的仮名遣いで表記すると、「いひとよ」となる。「いひとよ」とは 古代日本語 で フクロウ をさす言葉であり、それが語源であるという説もある。他にも、山麓に温泉(湯ノ平温泉)があることから「湯出(ゆいで)」が変化したものだとする説がある [6] 。

飯豊連峰の主な山 [ 編集 ]

大日岳 (2,128 m) :飯豊連峰の最高峰 [2]

飯豊山 (2,105.1 m) :飯豊本山であり、飯豊山神社が置かれている

北股岳 (2,024.9 m) :晴れた日には日本海が望める

烏帽子岳 (2,017.8 m)

御西岳 (2,012.5 m)

三国岳 (1,644 m)

地蔵岳 (1,539 m)

山岳信仰 [ 編集 ]

652年 ( 白雉 3年)、知同和尚と 役小角 が開山したとされる古い 山岳信仰 の場である。飯豊山大権現を祀る 修験 の場として栄え、 江戸時代 初期までには修験道の 修験者 が多く訪れた。 元禄 期以降は修験色は弱まり、稲作信仰、成人儀礼、死者供養などを中心とする庶民信仰の形態に移行した。

また、 明治 初年の 神仏分離 によって 飯豊山神社 となり、地域住民から崇敬された

履歴

[22] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24140404085882149

メモ