富岩運河 (ふがんうんが)は、 神通川 下流の東岸に沿って位置し、 富山湾 の岩瀬港(富山市岩瀬)から 富山市 湊入船町までをつなぐ 運河 である。 富山県道30号富山港線 や 富山ライトレール富山港線 とほぼ平行に流れている。
地理 [ 編集 ]
富山市中心部、富山駅北側の湊入船町にある 富岩運河環水公園 から流れ始め、 中島閘門 までは 工場 や 住宅地 の間を流れる。中島閘門を過ぎると住宅地や工場や 木材 などの資材置き場、 日本海ガス のガス貯蔵庫などがあり、途中で住友運河と合流する。萩浦小橋を過ぎると右岸には工場、左岸は神通川の堤防が続く。富山港付近になると 港湾 関係の施設が続き、富山港に流れ出る。
歴史 [ 編集 ]
江戸時代 、現在の富山港には他の地方からの船舶が多く停泊していて岩瀬地区では古くから商業が盛んであった。しかし、岩瀬地区から 富山城 のある富山市中心部までは遠くて不便であった。さらに 明治時代 に入ると資材の運搬が盛んになり、岩瀬地区と富山市中心部を結ぶ 水運 が不可欠となった。
1928年 、当時 内務省 の技師であった赤司貫一( 1890年 - 1954年 )が立案した計画をもとに富山の都市計画事業が決定する。赤司が立案した計画は、当時はばらばらに整備するのが一般的だった運河、区画整理、街路や公園の整備を同時に行う画期的な計画だった。この計画に当時の内務省幹部は「日本初の試みだ。」と賞賛した。
1930年 に工事は着工した。この工事ではエキスカベーカという掘削機が使用されていた。そして、 1934年 に、整備は完成した。この工事で削り取られた130万m³の土砂は富山市市街地で曲がっていた神通川の馳越(はせこし)工事による廃川地の埋め立て工事と富山港修築工事に利用された [1] 。
戦前は木材や貨物などを運ぶために敷設された 富岩鉄道 (現在の 富山ライトレール )や安い電力、広い工業用地などで流域には多くの工場が建設された。これによって富山の工業は発達した。
しかし戦後は、電力料金の高騰や上流の水質悪化、住宅地建設、などで立地環境が低下した。そのため流域の工業は衰退した。また、木材置き場になりつつあって本来の役割を果たしていなかった。県は 1979年 に運河を埋め立てて富山市中心部と 国道8号 をつなぐ幅25mの道路を建設する計画を