滝山

滝山

[1] 滝山

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[2] 滝山コミューン1974 - 琥珀色の戯言, , http://d.hatena.ne.jp/fujipon/20070906

出版社/著者からの内容紹介

「僕は感動した。子供たちの裏切られた共和国だ!!」 作家・ 高橋源一郎 氏

マンモス団地の小学校を舞台に静かに深く進行した戦後日本の大転換点。たった1人の少年だけが気づいた矛盾と欺瞞の事実が、30年を経て今、明かされる。著者渾身のドキュメンタリー

東京都下の団地の日常の中で、1人の少年が苦悩しつづけた、自由と民主主義のテーマ。受験勉強と「みんな平等」のディレンマの中で、学校の現場で失われていったものとは何か? そして、戦後社会の虚像が生んだ理想と現実、社会そのものの意味とは何か?

2007年、今の「日本」は、1974年の日常の中から始まった。

この本に興味を持ったきっかけは、『 ダ・ヴィンチ 』の「マンガ狂につける薬」で 呉智英 さんが紹介されているのを読んだことでした。

呉さんは、この本を、こんなふうに紹介されています。

これは、書名だけ見ると、一昔前にあった 秩父 困民党やらパリコンミューンになぞらえて住民運動を過大評価したドキュメントのように思えるが、全然違う。むしろ、正反対の本である。政治史についての洞察力を欠いたまま民衆権力のコンミューンという扇動的言葉に憧れた善意の人たちが作り出した教育の牢獄の記録である。

僕がこの本を読みながら感じていたのは、なんというか、うまく言葉にできない「居心地の悪さ」だったのです。僕は著者の 原武史 さんの10歳年下なのですけど、この「滝山コミューン」を「時代錯誤の教師や親たちが作ろうとした、偽りの楽園の物語」と総括できるほど、僕はこの物語と無関係ではありませんでした。

当時はそんなこと考えもしなかったけれど、この本を読んでみると、自分たちが「普通の授業」「普通の学校生活」だと思っていたものには、大人たち(そして一部の「自覚した子供たち」)の意思が反映されていたのだ、ということがわかったんですよね。

これは、「滝山コミューン」の話ではなくて、この本に引用されている、当時の「全生研(全国生活指導研究協議会)方式」についての朝日新聞の記事(1973年7月)なのですが、

班競争がスタートしてみると、(T君の母親の)不安はますます大きくなり、不安は失望に変わった。

先生は、週ごとに子どもたちに努力目標を立てさせ、各班に持ち点50点を与えて、オリンピックの体操競技さながらに減点法によって得点を競わせた。

[3] 黒目川・落合川とその支流(1)西妻川 : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/12079317/

東久留米市内から流れ出す黒目川とその支流たちは、都内の中小河川では珍しく今でもあちこちに湧水の水源が残っていて、川の水も綺麗で、かつての神田川水系や北沢川水系もこのような感じだったのだろうと思わせる。 そんな黒目川の支流のひとつ、西妻川。 東久留米駅(西武池袋線)と花小金井駅(西武新宿線)のちょうと中間にある滝山団地の一角、白山公園にその源流を発し、北に向かって流れている。 古い地図をみるともともとはもっと南まで谷筋と川が延びていたが、滝山団地の造成でなくなったようだ。 滝山団地は1960年代に造成されたマンモス団地だ。原武史「1974滝山コミューン」という70年代の団地の小学校に出現した奇妙な集団主義教育のルポが面白い。西妻川の湧き出す白山公園は、この団地の遊水地としてつくられている。

公園全体が谷底の平地となっており、いつもじめじめしていて、雨の多い時期には水浸しになるという。公園の中を歩いていくと、北に進むにつれ、草むらの中の土が湿っぽくなる。公園の真ん中にかかる橋を過ぎると、西側の隅からいよいよ水が湧き出し、川が始まる。 まるで田舎の田園風景の中を流れているように見える。 川は公園から流れ出した後は普通のコンクリート水路となり、黒目川に注ぐ。 この近辺には黒目川やその支流の出水川、揚柳川や落合川といった川の水源も集中している。 共通の地下水脈があるのだろうか。

[4] 太鼓曲輪尾根, , http://www7a.biglobe.ne.jp/~kyukaidou-tougemichi/taikokuruwa-one.html

御主殿の南に 城山川 に沿うように東西に延びる尾根上に太鼓曲輪がありました。城郭の外郭を成す尾根で、みようによっては城の南を護る長大な土塁にもみえる。これを十連寺山の方へ東に辿る尾根上の陣として築城当時は曲輪が在ったのではないかと考えられていて、御主殿を鶴翼の陣で守るように東西に広がり、五つの堀切で区切れていたと研究者達が考えているのですが、その尾根路を探して歩いてみることにします。

曳き橋の南辺りで、路の無い城山川のかなりきつい南斜面を攀じ登るように上ると、細い尾根上には獣道のように路があります。上って来た後ろを振り返ると、木々の間からくっきりと御主殿の平らな芝生が見えて、これで城を護ろうと考えたのかと、唖然とする程に直ぐ下の間近に見えています。

ここは太鼓曲輪の奥の上部で、この曲輪が守られていればまだしも、奪われてからでは丸見えの御主殿をどのように護ったのだろうかと不思議でなりません。

ここまで責めて来るのには、尾根を東から攻めるよりも、 太鼓曲輪尾根の 更に南側の御霊谷川に沿って上り、各所から一斉に太鼓曲輪の尾根を目指せば、北斜面よりも傾斜も緩く上りやすい為、護りの薄い城方はたちまちに崩れてしまったのではないでしょうか。事実、攻め手は根小屋地区から攻め込んだのではないかと考えられていて、御霊谷に沿って遡りながらそこに在った家々や、陣を焼き払い、太鼓曲輪に攻め上ったと、この地区の発掘調査を元に推理されているようです。

尾根が土塁だと言いましたが、尾根の南斜面は城内である北斜面より傾斜が緩く上りやすい。また延びきった陣は護るには人手が多く必要と成り、無理があったのではと思いながら、 地図と現地を比較しながらゆっくりと東へ尾根を辿り始めます。

路は無いと言うべきか、こんな所を歩く人は山菜取りぐらいの人ぐらいでしょうか、その割りに歩いてみれば想像よりも楽に歩け、雑木林の中を伝っていけます。所々、尾根を切り落して、防御用の柵を設けたと考えられる堀切の窪地も、周囲が崩れ今は緩やかに窪んでいるだけで、藪を漕ぎ進むと、長閑な山歩きができます。なんとか歩いてはいるのですが、夏場の草木が繁っている時期は止めた方がよさそうです。

やがて少しずつ南へずれながら十連寺山を過ぎて中央高速の音が右手にうるさく聞こえて来ると、広い大きなやや窪みに出ます。この辺りが御霊谷川から上が

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