西大泉町

西大泉町

[1] 西大泉町 (にしおおいずみまち)

35.7634166666667 139.566972222222

Webページ

[2] 西大泉町 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E5%A4%A7%E6%B3%89%E7%94%BA

西大泉町(にしおおいずみまち)は、東京都練馬区の町名。住居表示未実施。現行では1179番地のみ存在する。郵便番号は178-0066。面積は0.002km²、世帯数6世帯、人口13人(平成23年現在)。2015年初頭から南側の農地が造成・宅地化され、6件の戸建て建物が建築中である。

[3] 飛び地ケーススタディ(1) 練馬区西大泉町, , http://uub.jp/arc/arc478.html

私の住む練馬区にも飛び地があります。

それほど大きくはありませんが、

練馬区西大泉町(余談ですが、これ以外の西大泉は西大泉1〜6丁目と表記します)は埼玉県新座市片山3丁目に囲まれています。

しかしながら、ここに何があって何ゆえ飛び地なのかは存じません(;^_^

>神奈川県川崎市麻生区岡上

私はこの地区の事情をよく存じ上げないのですが、

地図だけ見ると南側に隣接するのが奈良町、緑山ですから、

横浜市青葉区でもよさそうですけどね。

ちなみに岡上が川崎市であるために、

玉川大学は農学部の一部が「神奈川県川崎市麻生区」

工学部などが「神奈川県横浜市青葉区」

教養学部、農学部などが「東京都町田市」にあります。

3つの市にまたがる大学って他にありますかね?

[4] [mixi]東京都練馬区西大泉町 - 飛び地研究会 | mixiコミュニティ, , http://mixi.jp/view_bbs.pl?comm_id=532147&id=3793184

東京都練馬区西大泉町

2006年01月08日 19:13

mixiユーザー

東京都練馬区西大泉町1179番地の情報提供をお願いします。何でも結構です。私は現地に行ったことがあります。道路を隔てて片側は更地、もう一方には一戸建てが建っています。しかも、歯抜けのように、東京都と埼玉県が入り組んだ部分もあります。 どうして、飛び地になったんでしょうかね?上下水道なんかどうなっているんでしょうかね?不思議です。

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[1] 2006年01月08日 21:53 mixiユーザー はじめまして。飛び地愛好者の緑川だむです。

この練馬の飛び地はある意味飛び地界ではいちばん有名なシロモノかもしれませんね。いわゆる「農地の所有者で自治体境界線を引いたら飛び地」パターンですが。

あと、飛び地に関するサイトというとこのあたりかと。

飛び地の疑問

http:// glin.jp /arc/ar c.cgi?N =20

世界飛び地領土研究会

http:// www.geo cities. co.jp/S ilkRoad -Lake/2 917/

飛地スレッド@2ちゃん.地理・人類学板

http:// academy 4.2ch.n et/test /read.c gi/geo/ 1094171 029/ イイネ! 返信 [2] 2006年01月11日 15:26 mixiユーザー > 緑川だむさん

ありがとうございます。飛び地愛好家がいらっしゃって私は大変うれしいです。

飛び地については、数年前に日経新聞が特集をしていましたが、練馬区役所も知らないって言ったそうです。記事には地主の所有権の関係ではないのかと推測では書いてありました。

西大泉町については、この土地の所有者が練馬区民だったということでしょうか? イイネ! 返信 [3] 2006年01月12日 02:51 mixiユーザー 初めまして。

自分の職場が西大泉にあるのですが、そんな変な所が眼と鼻の先にあったとは、長年通っていて初めて知りました。

明日の昼休みにでもひとっ走り見に行ってみます。 イイネ! 返信 [4] 2006年01月12日 07:20 mixiユーザー > ミソグラムさま

来訪ありがとうございます。西大泉町は非常に狭い地域です。地番表示はきちんと出ていますので、すぐに分かると思います。ごらんになったら是非ご報

[5] 旅たび倶楽部部録 旅たび倶楽部 第6回部会・部録, , http://tabitabi401.blog.fc2.com/blog-entry-7.html

2012年3月24日(土) 小雨後曇り、後晴れ 練馬区西大泉町飛地から新座市平林寺へ 東京都と埼玉県の境をめぐる・その2 参加者: 柳沢道生、岩瀬 翠、飯降昌吾(集合写真順)、弓 祐美(撮影) 岩瀬は、ひるねの森から参加 写真は平林寺(埼玉県新座市野火止3-1-1)中門(なかもん)門前にて 1.保谷駅~区市境路地 集合は西武池袋線保谷駅北口、この駅の住所は西東京市(旧保谷市)下保谷4丁目だが、池袋寄りのホーム3分の1ほどは練馬区南大泉4丁目にある。区市境にまたがる駅だ。午前11時にメンバーが集合し、小雨の中、散策を開始した。練馬区側の住宅地の路地を北に進む。ほどなく、左側の住居表示が西東京市に変わった。右は練馬区のままである。この何の変哲もない路地が東京23区最西端の区市境なのだ。 保谷駅、上り電車の最後尾あたりが区市境にあたる この路地の真中が区市境、左が西東京市、右が練馬区 2.保谷山福泉寺 駅から徒歩7~8分、住宅地の中に畑が点在し始める。路地を左折し西東京市のバス通りに出る。福泉寺通りといい、すぐにその名の由来となったお寺が見えてくる。 保谷山福泉寺、日蓮宗。創建年代は不詳だが、もと三十番神社・現下保谷天神社の別当寺で、寺が保有する木彫彩色三十番神神像は市の文化財に指定されている。文化・文政期(1804-29)に編纂された新編武蔵風土記稿にこの寺の記事がある。本堂脇になつかしい1号丸型ポストがあった。近くには本の形の碑があり、帝釈天の由来と遷座、「郵政事務官高橋清の菩提」のため堂宇と井戸屋形の再建と奉納の経緯が紹介されていた。ポストは故高橋氏ゆかりの品なのだろう。傍らの狸がほほえましい。 福泉寺本堂、前には紅白の梅 本形の碑 丸型ポスト、当然使用不可 3.新井憩いの森~大乗院 福泉寺通りを北に歩き、最初の十字路を右折する。また練馬区に入る。行く手の左に大きな木々が見える。お寺さんかと行ってみると、看板に「新井憩いの森」とあり、土地所有者の好意で区民に開放されているという。かなりの広さで植生も多彩だ。ちょうど植木屋さんが2人、手入れをしていた。話を聞くと、この森に汚物を放置する事件が続き、昨夜もあったという。地主さんの好意を、文字通

[6] 東京都練馬区西大泉町(飛び地)を散策する・・・の巻|乾パンのブログ, , http://ameblo.jp/kampan/entry-12022894252.html

このGWは実家に帰省したのですが、散歩で東京都練馬区西大泉町まで散策に出かけました

練馬区西大泉町は一部の方々には非常に有名ですが、埼玉県の中に東京都の飛び地がある場所です。

飛び地とは・・・ Wikipedia

によると『一つの国の領土や行政区画の内、地理的に分離している一部分である。』

とあります。

現在の「日本国」の領土には飛び地はありませんが、国内の行政区画には結構飛び地が存在しています。

.

その中でも練馬区西大泉町は、東京23区内にあること、小規模であること、存在のユニークさ、から

比較的よく知られている場所ですな

場所はココ

埼玉県新座市片山地内に、ちょっとだけ東京都練馬区が存在しています。

下の「練馬区本土」の行政地名は練馬区西大泉。

「西大泉町」はこの狭い区画だけということになります。

なお住所は練馬区西大泉町1179番地で、練馬区で住居表示(○丁目○番地○号のような住所表示)が

未実施な唯一の場所です。

実家から歩いて90分ほどで、散歩にはちょっと遠いか

キャベツ畑。

練馬区でもこの辺りにはまだ農地が散在しています。

練馬と言えば誰しも「練馬大根」を思い出すでしょうけど、私の幼少の頃はもう大根畑はなかった。

その替わり、キャベツ畑が一面に広がる風景がまだ見受けられました。

私的に大泉でキャベツ畑を見るとどうしても 大泉サロン

(少女漫画家板「ときわ荘」)を思い出しますが、

アレがあったのは南大泉で場所的にはかなり離れているな

現場に行ってみて分かったのは、西大泉町付近は坂道に囲まれた凹地だってこと。

雨が降ると水溜まりが出来そうで、恐らく昔は人が住めない場所だったと思われます。

だからこそ、東京都と埼玉県の都県境なんでしょうけどね・・・

う~ん・・・「稲荷台自治会住宅案内図」にも東京都部分は省かれているな

なお「稲荷台」とあるけど、この場所は台地ではない

この辺りが西大泉町。

驚いたのは「飛び地 練馬 西大泉町」で検索できる多くのブログで「農地」と紹介されている場所に

住宅が新築中であること。

西大泉町は「世帯数6世帯 人口13人(平成23年現在)」だそうだけど、もうすぐ人口が倍増するぞ

東京23区内で人口が突如として2倍になる町なんて・・・と思うと愉快です。

ホントに何気ない普通の住宅地なのですがねぇ

飛び地の直ぐ側にお稲荷さん(稲荷明神)あ

[7] 飛び地「練馬区西大泉町1179番地」 - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/post_374/

飛び地… それはある種のマニアにとっては土地の歴史や成り立ちを想像させる、ロマンを感じる存在。決して大阪の 飛田新地 のことではない。 世界中のどこにでも国境はあるし、また日本の中にも廃藩置県の時代から行政区画が存在し、各々の土地の歴史を示してきた中で、都道府県の間の境界線を越えた向こうにぽっかりと孤島のように土地が残るという奇妙な地区がいまだに残っている。 自治体まるごと都道府県の 飛び地 という 和歌山県北山村 を代表例に、それは全国各地に点在しているわけだが、この東京23区にも、周りを埼玉県に取り囲まれた東京都の飛び地というものが実在している。 それが埼玉県新座市片山三丁目16に存在する「東京都練馬区西大泉町」なのだが、わざわざその飛び地を見るためだけに西武池袋線大泉学園駅からバスに乗り継いで、やってきましたよ。 東京23区でもっとも農地面積が広い練馬区。埼玉県境に近い大泉までやってくると至る所に広大な農地が見える。下手すると八王子よりも田舎臭い場所があるが、それも練馬の魅力の一つであろう。 この界隈は都県境が複雑で、あちこち住宅地と化した地区一帯に昔の基準で設けられた都県境がそのまま使われている為、隣の家で東京と埼玉が分かれていたり、家のど真ん中で東京と埼玉が分かれていたりするなど、かなりややこしい事になっている。 都県境が入り組んだ特殊事情もあるためか道路インフラ整備も中途半端で、昔ながらの曲がりくねった道なりに住宅地が形成されている。地図帳がなければ間違いなく迷子になるだろう。 住居表示板にある片山三丁目の案内図。16番地のごくごく一部に矢印で「東京都練馬区」と示された奇妙なエリアがあることに気づくだろう。 ここまでやってきたら、まずは注目して欲しいのがマンホールの形状である。 水道などは基本的に都道府県市町村毎に整備されるべきものだが、県境が錯雑している練馬区西大泉と新座市片山付近では、東京都と新座市のマンホールが双方敷かれていて、路上がマンホールだらけになっている光景が拝める。 ちなみに、もみじマークのマンホールは新座市のものだ。 こちらが、東京の街中でもよく見かけるお馴染みの東京都のマンホール。 東京都と新座市のマンホールが競い合うかのように敷かれる住宅地の一角。それぞれ下水道や上水道は別々に整備されているのか? しかしここまでマンホールが多すぎる

[8] 埼玉県の中にある練馬区[!?]…日本列島飛び地の謎[?] | おじさんのスポーツおたく奮戦記?, , http://ivory.ap.teacup.com/issan/915.html

岡山スポーツをまとめて応援するおじさんの気ままな戯言です。お気軽にお立ち寄り下さい。

背景を変えてみました。ベーシックなissanで勝負です(笑)

晴れの国から、岡山スポーツの応援をメインに様々な話題も拾っていこうと思います。

今後ともよろしくお引き立て下さいませ。

飛び地シリーズの第2弾です。地図に載らないほど小さな飛び地は日本各地にあります。今回は、たった7軒の民家と畑を含めてわずか563坪の飛び地の話です。

では、再び『日本列島飛び地の謎』よりの抜粋です。

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東京都の飛び地が、都県境を越えて埼玉県にある。練馬区西大泉の一部が、埼玉県新座市の中にまるでガラスの破片のように飛び離れているのだ。

なぜこのような飛び地が発生したのか。土地台帳に誤って記載されたためだとか、開発業者が住宅を建築する際に、新座市の土地を練馬区だと思い込んで、間違って練馬区に申請してしまったからではないかなどと諸説あるが、本当のところはよくわからないらしい。

だが、飛び地とはいっても、練馬区の本体からわずか数十メートルしか離れていない。それでも周囲をすべて新座市に囲まれているのだから、れっきとした飛び地である。飛び地の面積はわずか1,859�u(563坪)と小さく、その中に7軒の民家と小さな畑がある。その民家も一列に並んでいるわけではなく、新座市の民家と練馬区の民家が入り交じっている。具体的にいうと、飛び地の一画に14軒の家があり、そのうち7軒が練馬区で7軒が新座市の家。8軒と6軒、2列に並んでいるが、そのうちの1列には新座市の家が6軒と練馬区の家が2軒、もう1列は5軒が練馬区で1軒が新座市の家なのである。これからもわかるように、練馬区にある家の両隣が新座市の家という複雑さなのだ。

1962(昭和37)年に施行された「住居表示に関する法律」に基づき、練馬区の本体は住居表示法が実施されて「西大泉1丁目〜6丁目」という新しい住所になっているが、飛び地は住居表示法が実施されておらず、「西大泉町1179番地」という旧住所のままだ。

飛び地で一番気になるのが行政の問題だろう。例えば、上下水道は新座市からサービスを受け、ゴミの収集は練馬区が行っている。また、住民税は練馬区に納めているが、水道料金は新座市に払っている。飛び地はあくまでも

[9] 埼玉県新座市内 練馬区の飛び地の謎 | リアルホーム武蔵境Blog, , http://rhm-blog1.jugem.jp/?eid=30

飛び地という言葉はご存知でしょうか?

明治以降(?)市町村が合併を繰り返す度に境界線の

策定が繰り広げられてきたようですが、もともと住んでいた

土地の上に突然見えない境界線が引かれ、「あなたは〜市住民」、「あなたは〜町住民」と、行政の都合で分けられたようです。

そこで、元々住んでいた住民の強い反対があったからでしょうか。

昔の地名、市町村の地名のまま住みたいという強い希望があり、

本来ある

『市町村として境界線が一本で結ばれるエリア』

以外にもその地名が発生する事が稀に起こり、これが飛び地として

未だに残っております。

この飛び地ですが、東京都練馬区に飛び地があり、

これが埼玉県新座市に存在するのはご存知でしょうか?

埼玉県新座市片山3丁目の中にある練馬区の飛び地は

”練馬区西大泉町”

として、丁目も無く、単独で存在します。

私が聞いた話ですと、この飛び地のエリアですが、とある開発分譲

業者がかなり昔に”埼玉県新座市”にあるにもかかわらず、

業者の勝手な勘違いで”東京都練馬区”と申請したらしいのです。

そのまま練馬区、新座市の眼を素通りし、練馬区として認可されてしまった為に、

未だに飛び地として埼玉県の中にポツンと

練馬区が存在してしまう事になったそうです。

ここで我々不動産屋として面白い側面を見る事になるのですが。

なんども飛び地の解消をしようとしても、住民の強い反対に遭って

そのまま飛び地として存在しているようです。

この事の何が面白いのか・・・

なぜ、新座市に組み込まれる事を頑なに拒否するのか?

なぜ、この見えないラインに固執するのか?

それは自分の土地が

練馬区西大泉なのか、埼玉県新座市なのか、、、

という事に重きを置いているという点でしょうね。

当然、23区と市町村部であれば、隣接地であっても

多少は評価が異なりますので、売買取引価格は変わってきます。

サンプルとして、西武池袋線の大泉学園、保谷の駅を取ってみると

分かりやすいのですが、練馬区西大泉、西東京市北町、新座市野寺、

新座市片山で比較してみると面白いです。

道路付け、土地の面積、周辺環境、土地の形、日当たり加減など、

大体が同じ条件の下で比較したとしますと、

東京都 練馬区 西大泉 > 東京都 西東京市 北町 > 埼玉県新

[10] 区政へのご意見/寄せられた声の紹介:練馬区公式ホームページ, , http://www.city.nerima.tokyo.jp/cgi-bin/koe/detail.cgi?id=240900001&Link=true&Tuki=0&Sesaku=67&Sosiki=0&Words=&Field=6&Nendo=16&Page=1

寄せられた声と回答の要旨

寄せられた声

西大泉町は、なぜ新座市内に飛び地になっているのか、歴史と経緯について教えてほしい。また、今後も飛び地は継続していくのか。

区の回答

「飛び地」ができた歴史的な経緯は不明です。区は、「飛び地」を新座市に編入する方針をかためています。国は、編入の前提として住民全員の同意を得ることとしていますが、同意を得られておらず「飛び地」が存続しています。

担当:区民部管理課 17年01月24日回答 施策:戸籍・住民記録

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回答の内容はすべて回答日現在のものです。 制度改正などにより記載の内容や対応方法など変更されている場合があります。

[11] 練馬の地名 今むかし(西大泉):練馬区公式ホームページ, , http://www.city.nerima.tokyo.jp/annai/rekishiwoshiru/nerimanochimei/hokusei/ima_nishiooizumi.html

旧新座郡小榑村の一部であった。江戸時代初めは幕府直轄領であったが、元禄16年(1703年)村高の半分730余石を武州久喜藩主米津(よねづ)出羽守に給せられ幕末まで及んだ。 榑(くれ)は山出しの木材や薪(まき)のことで、地名はそうした作業を行った所と解する説が有力である。一方、クレは呉に通じ、帰化人に関係あるとする説もある。天平宝字2年(758年)新羅(しらぎ)の帰化僧らを武蔵国に移し新羅郡を置いた(続日本紀)。新羅郡はのちに新座郡となった。座はザともクラとも読み、今も隣接して新座市があり、和光市に新倉(にいくら)の地名がある。これに対して小榑は「ふるい(古)クレ」か、というのである。 明治22年橋戸村と合併して榑橋村と称した。当時流行の合成地名である。今の杉並区でも井草と荻窪を合併して井荻村とした。両方とも地名はなくなったが、井荻は駅名に、榑橋は公園(大泉町5丁目)の名に生きている。 榑橋村は明治24年東京府へ編入大泉村となり、昭和7年5町にわかれ、ここは西大泉町となった。56年住居表示が実施され(一部未施行)現町名となった。

ねりま区報 昭和59年9月21日号 掲載

履歴

[14] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24074289441260434

メモ