板橋

板橋

[1] 板橋

Webページ

[2] 石神井川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E7%A5%9E%E4%BA%95%E5%B7%9D

地理 [編集]

東京都小平市花小金井南町に源を発し、東京都北部を東へ流れて北区堀船三丁目で隅田川に合流する。東京都小平市、西東京市、練馬区、板橋区、北区の各自治体を経る。

小平市花小金井南町の小金井カントリー倶楽部西側付近に源を発している。かつての源流はさらに西に遡っていた(後述)。同ゴルフ場内を大部分暗渠で流れ、嘉悦大学の南側で開渠の川になる。同大裏門から小金井公園通りまで蓋がけされた後、小金井公園沿いは柵渠となる。西東京市の南を流れ、練馬区に入る[2]。西東京市では、1980年度に芝久保調整池および南町調整池、1983年度に向台調整池が設けられ、増水時に川の水を貯留する[3]。小平市・西東京市に含まれる上流部は湧水のみによって涵養される小河川であり、流量は少ない。

練馬区に入ると、武蔵関公園の富士見池、石神井公園の三宝寺池、豊島園池などの湧水や河床からの湧水を合わせ、流量を増してくる。現在、富士見池や三宝寺池は湧水が減少し、地下水の揚水などによって池の水が維持されている。三宝寺池と石神井池は石神井川に接続していないが、富士見池はわずかな溢水が石神井川に流入している。富士見池は調整池の役割も果たしている[2]。水害防止のため、富士見池調整池(練馬区関町北三丁目)が1973年度に建設された[3]。

城北中央公園で板橋区に入り、桜川一丁目で田柄川を合わせて、川越街道、東武東上線、中山道を横断し、JR埼京線を潜って北区に入る。その後、王子駅の下を抜けて北区堀船三丁目で隅田川に注ぐ。石神井川は金沢橋付近(埼京線の上流約200m)から音無橋にかけて音無渓谷と呼ばれる深い谷となっていた。現在、渓谷部分はほとんどがコンクリートの垂直護岸となっていて、屈曲部の直線化や飛鳥山隧道建設などの改修によって流路も大きく変わっている。直線化の結果残った旧流路の一部は、氷川町つりぼり公園、音無もみじ緑地、音無さくら緑地などとして整備されている。

変遷 [編集]

上流域(小平市、小金井市、西東京市) [編集]

水源

現在は小平市花小金井南町にある小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水を水源とし、一級河川起点は「左岸:小平市花小金井南町三丁目1218番地先、右岸:同市同町三丁目1217番地先」[4](住居表示では「小平市花小金井南町三丁目2番地先」[1])である。かつてはさらに西に遡り、小平市鈴木町

[3] 創業期の鉄道, , http://uub.jp/hmt/hmt36.html

日本の鉄道創業 140周年を機会に、hmtマガジン 鉄道特集号 を作ることにしました。 最初の特集は 「創業期の鉄道」 と題して、1872年6月12日の品川−横浜間仮開業の記事から 同1872年10月14日【注1】に 明治天皇を迎えて行なわれた 新橋−横浜間開業式の記事へと 進めようと思いました。 【注1】日付について 「10月14日」は、ご存知「鉄道の日」ですが、政府が好んで使う「太陽暦換算」です。当時使用されていた暦(太陰太陽暦)では明治5年9月12日になります。品川仮開業日は明治5年5月7日です。 しかし、品川仮開業時【注2】の本格的記事は見当たらず、いきなり本開業の記事 [80065] [49808] から始めます。 【注2】品川〜横浜(現・桜木町)間仮開業時 所要時間は35分というから、意外なスピードに驚きます。但し新橋まで開通して途中駅に停車するようになったら53分。 [39140] [80065] には、公文録付属の「新橋横浜間鉄道之図」(国の重要文化財指定)、本営業に先立つ工部省布達 「汽車運転之時限並賃金表」、それに明治天皇の御案内役を勤めた 山尾庸三の伝記も リンクしてありますから、ぜひ リンク文書も御覧ください。 山尾の伝記には、工事中の明治4年8月に、早くも木戸孝允・大隈重信の試乗があり、11月には鉄道反対論の大久保利通も試乗した結果、双手を挙げて鉄道賛成に転じたというエピソードも綴られています。 [49808] には、開業時の終点であった(初代)横浜駅(現・桜木町駅)が記されており、両ターミナルの位置から「市街地に入れない」鉄道の問題点に触れています。この問題については、特集: 市街地乗り入れに成功した鉄道 を御覧ください。 明治5年の京浜間に続いて開業した鉄道は、明治7年の阪神間であり、この時の仮開業達も [80065] にリンクしました。 阪神間鉄道が大津まで延びた後は、とりあえずは水運が使える 琵琶湖を挟んで 長浜から大垣への 中山道鉄道 になりますが、この鉄道建設の起点が 日本海の港湾 金ヶ崎とされたのは 建設資材輸送があるためです。 そして中山道鉄道の東側も、半官半民の日本鉄道によって建設が開始されました。最初は資材輸送に隅田川の舟運も使われましたが、本格的には 品川−赤羽間の支線により 横浜港からの鉄道輸送を可能とする体制 を取

[4] 大谷口すり鉢エリア② 風呂釜支流(仮)編: 暗渠さんぽ, , http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2010/02/post-7a01.html

前回の続き、大谷口から石神井川に注いでいた支流を、河口から遡ります。

河口近く、最初の道路はちょっと広めの立派なものでした。 道沿いにあった、ちょっと惹かれる一角。食堂と、むかし本屋さんだったらしき店。

てくてく。あまり川らしさが無い道だったので、ほんとにここで良いのかなあ、とちょっと疑わしく思っていたところに、公園がありました。見てみると、「さくらづつみ公園」!

堤!? 立派めの桜がいっぱいありました。桜堤、なんて場所があったのだとしたら、なんだかすてきですね。

そしてその先の流路はあてずっぽうです。なんとな~~く歩いていくと、いきなり出現しました!

車止め×コンクリ蓋の完全体が!!

わーーー!やったぁ、なぜだかすっごくウレシイ! 初めて歩く、板橋の蓋暗渠です。

よく見ると、コンクリ蓋のサイドに、穴が開いてます。それから、ひとつひとつの奥行が、杉並のソレよりもずっと長いです。

まあ、杉並の中でも規格が違うことはあるのかもしれないですが、それにしても、「おお、なんだか蓋が違うぞ」というのが第一印象でした。

さて、支流を遡ります!

すっごいワクワクします~。

いままで辿ってきた暗渠とのもうひとつの違いは、圧倒的な私有地感、でしょうかw こういう物置がどっかり置いてあったり、所狭しと植木?があったり、いろいろ、いろいろ・・・

なかでもスゴかったのは、これ。

お風呂の浴槽・・・ですよねぇ。 でもって、タイヤですよねぇ。半分はプランター・・・?

でも浴槽があったのはここだけじゃなくて、この先にも、いくつもあったんです。ベビーバスも、何個も・・・w ベビーバスには雨水が溜められていたりして、用途はさまざまなのかもしれませんけど、ともかく風呂釜の多いこと!・・・てなわけで、ここは「風呂釜支流(仮)」と名づけることにいたしましたw

もすこし先には、こんなガタガタ・エリアが。

ぱっと見はちょっと怖いですが、歩いてみるとべつにガタガタ動くわけではなかったです。 スキマから底を見ようとしましたが、微妙に見えませんでした。(・・・おそらく、水は流れていないようでした)

かなりワンダーランドな風呂釜支流(仮)蓋暗渠部分でしたが、全長は短いものです。

そろそろ終焉・・・の前に、なんだか意味不明な場所でクライマックスですwなんだか色々なもんが釣り下がってます・・・

・・・罠? 罠なのか・・・?

[5] 首都圏の主要道路の変遷メモ, , http://anond.hatelabo.jp/20140309230249

■首都圏の主要道路の変遷メモ

明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。

■今昔マップ on the web 首都圏編

で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。

なお、情報源はこの今昔マップが主で、一部ウィキペディアからの情報で補足しているが、事実と異なる記述があったらご容赦。

自分の興味地域は、東京南部~神奈川なので、以下はそのエリアについてのみ。

【おもな放射道路編】

東海道(国道1号・15号)

日本橋~品川区間。

1900ごろ時点で現在の国道15号と同じルート。市電も敷設されていた。八ツ山橋が現在の道路形状になったのは1960ごろ。

品川~横浜間。

京急本線が1900ごろ時点ですでに敷設されているが、道路は現在の旧東海道のみ。

六郷橋は1900ごろ時点ですでに架橋されていた。

現在の国道15号品川~大森町駅間が開通したのが1930ごろ。川崎~新子安区間は1920ごろ。

横浜~平塚。1900ごろ時点で、おおよそ現在の旧東海道あるいは東海道に沿ったルート。

1900ごろ時点で、現在の横浜駅付近は鉄道以外は海で、当時の横浜駅は現在の桜木町駅付近にあった。

生麦~保土ヶ谷区間は、1930ごろには現在のルートになり、当時市電が走っていた。横浜駅も現在の位置へ移動。

狩場IC付近が現在のルートになったのは1960ごろ。

藤沢バイパス開通は1960ごろで、それまでは神奈川県道30号および藤沢本町駅付近を通るルートだった。

平塚駅付近の現ルートができたのは1960ごろで、それまでは旧道ルート。(現ルートの国道指定はタイミング遅れて1980ごろ?)

なお、1900ごろ時点で、浜離宮~平和島駅間は現在の山手線・京急本線がほぼ海岸線で、以東はその後の埋立地である。

現在の国道1号日本橋~横浜駅間について

日本橋~五反田間は、中原街道の原型として1900時点でおおよそ既にあった。

三田~高輪台駅区間は、1900ごろ時点では細い道しかなく、1930ごろまでにかけて大きな道として開通した。

ちなみに、三田慶應のT字路ができたのが1940ごろ、白金高輪駅から古川橋方面の区間が開通したのが1960ごろ。

なお、日本橋~札の辻と魚藍坂~五反田には市電が走っていた。

[6] 東京から一番近くて田舎っぽい雰囲気ふんだんにある場所教えろ!:哲学ニュースnwk, , http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4908067.html

1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/07/17(金) 16:52:59.468 ID:28m9ILEp0.net

[7] 改良進む首都高C2、でも渋滞は終わらない? その先にある新たな懸念 | 乗りものニュース, , http://trafficnews.jp/post/49335/

首都高のC2中央環状線で改良が進み、ある地点では渋滞が劇的に緩和されました。また今後、抜本的な対策も予定されています、が、その先には新たな懸念も。利便性の高いC2ですが、その渋滞、果たしてどうしたらよいのでしょうか。

板橋JCTで行われた最も手軽な 渋滞 対策 この2016年2月4日(木)、 首都高 C2中央環状線内回りの板橋JCTで車線運用が変更されました。

板橋JCTの上段では、C2内回り(2車線)と5号池袋線上り(2車線)が合流します。しかし、合流部である板橋JCT~熊野町JCT間の約1kmは3車線しかないため、5号線上り(平日平均4万5150台、2014年度調査)より交通量の少ないC2内回り側(同2万7660台)の車線を、合流前に1車線へ絞っていました。それが今回の変更により、合流部分で徐々に絞る形になったのです。

C2内回りからの合流が2車線になった板橋JCT(画像出典:首都 高速道路 )。 C2内回りは、板橋JCTを先頭に渋滞が恒常的に発生していましたが、この改良により交通流量が大幅に増え(恐らく5割前後の向上)、渋滞は劇的に緩和されました。感覚的には8~9割の減で、「ほとんど渋滞しなくなった」といえます。

首都高速 道路 株式会社によると、今回の車線運用変更は「できることはやってみよう」という試みのひとつとのことです。車線運用の変更 工事 は、ほぼ路面ペイントの更新だけ。費用もほんのわずかで済み、うまく行かなければ元に戻すのも容易ですから、確証はなくても可能性があれば積極的にいろいろ試してみるべき、最も手軽な渋滞対策なのです。

ただ、それだけなら「めでたしめでたし」ですが、片方の流れが良くなったということは、もう片方に負担が来ているということ。2月4日以降、5号線上りの渋滞量は若干増しているように感じます。午前中の上り渋滞ピーク時、これまで高島平付近までだった渋滞末尾が、戸田南付近まで数km伸びたようです。2~3割の増でしょうか。

[8] 悲劇の都営三田線 大手町駅が「大手町」にない理由 |エンタメ!|NIKKEI STYLE, , http://style.nikkei.com/article/DGXNASFK2301E_T20C14A4000000?channel=DF280120166608&style=1

東京・大手町には地下鉄の駅が5つある。うち4駅は住所も大手町。しかし都営三田線だけは、住所が大手町ではなく丸の内になっている。どうしてなのか。その理由を調べていくと、駅設置を巡る暗闘が見えてきた。駅の位置や直通運転の相手など、誤算続きの三田線の歴史を探った。 ■千代田線との場所取り合戦に敗れる まずは各駅の住所を見てみよう。 東京メトロによると、丸ノ内線・千代田線・半蔵門線の大手町駅の住所は「大手

東京・大手町には地下鉄の駅が5つある。うち4駅は住所も大手町。しかし都営三田線だけは、住所が大手町ではなく丸の内になっている。どうしてなのか。その理由を調べていくと、駅設置を巡る暗闘が見えてきた。駅の位置や直通運転の相手など、誤算続きの三田線の歴史を探った。 ■千代田線との場所取り合戦に敗れる まずは各駅の住所を見てみよう。 東京メトロによると、丸ノ内線・千代田線・半蔵門線の大手町駅の住所は「大手町1―6―1」、東西線は「大手町2―1―1」だ。これに対して三田線は「丸の内1―3―1先」。三田線だけは、道路を挟んで丸の内側に位置しているのだ。 ちなみにこの住所、メトロは駅事務所の位置、都営地下鉄はホームの中心地点に最も近い出口付近の住所だという。出口が道路上の場合、住所がないため最後に「先」が付く。

乗り換え距離も長い。ホーム上の表示を確認したところ、丸ノ内線から三田線に乗り換える場合、最大595メートルも離れている。これは東京の地下鉄で、同じ駅名間の乗り換えとしては最も長い。 なぜ、三田線大手町駅だけ「丸の内」なのか。一駅だけ離れているのか。「今だから話せる都営地下鉄の秘密」(洋泉社)の著者で、東京都交通局で40年間、地下鉄に関わってきた篠原力さんに裏話を聞いた。 「実は、東京都としては三田線の大手町駅をもっと北側に造りたかったんです。でも千代田線との場所取り合戦に敗れてしまった」

[9] 【首都圏最後のフロンティア】「八潮市」がNIMBYでヤクザな街からニュータウンへ脱皮する時 - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio-newtown/

【首都圏最後のフロンティア】「八潮市」がNIMBYでヤクザな街からニュータウンへ脱皮する時

2017/4/6

2017/4/6

八潮市

東京都心からたったの15キロ、足立区に隣接し、2005年に開通したつくばエクスプレス線で秋葉原から最短17分で来ることができる「埼玉県八潮市」…21世紀に入り初めて鉄道が開通したこの街は、これまで工場や産業廃棄物処理業者が乱立する工業地帯として発展してきた反面、住宅地として発展することもなく、足立区に隣接するお土地柄だけあって暴力団構成員やDQNなどガラの悪い人種が大量に流入し、治安の悪さでも頭角を現していた街でもあった。

前回この街を訪れた のは2010年、それから6年以上が経過して少しは駅前の風景も変わったのだろうかと気になって再度八潮の地に降り立ったんですが、以前より心なしか駅の利用者も増えた気がする。

つくばエクスプレス線開業直後の2005年には約7万5千人だった八潮市の人口も今では約8万7千人(2017年4月時点)に増えている。駅前ロータリーから見える周囲の街並みもマンションや商業施設が以前よりも明らかに多くなっている。まあ当然っちゃ当然なんですが、やはり沿線住民の人気は千葉県内に集まり、快速が通過する埼玉県区間は超絶不人気なのだ。

八潮駅開業の翌年2006年にオープンした駅前商業施設「フレスポ八潮」も健在である。これまで工場地帯と農村しか無かった八潮に初めて誕生した大型商業施設であり、近隣から車でやってくる現地民と、これまで他の街でたまるしかなかった中高生や不良DQNの姿で活気に満ちている。

ここの駐輪場で2010年11月に近くの オウム真理教(現・アレフ)八潮大瀬施設 に暮らす出家信者だった元妻を刺殺した男が逮捕された事件があったことはよく覚えていますよ、ええ。

八潮駅南口には何も無かったが今では商業施設が次々と誕生している

以前は原っぱしか無かったはずの駅南口ロータリー付近も続々と商業施設が出来ている。駅を出た真正面にある「BiVi八潮」は2013年11月オープン。まだ真新しい印象を受ける。郵便局やサイゼリヤやら学習塾、クリニックなどがちょこちょこ入居しているこじんまりしたモールである。出来て間もないせいか空きテナント多めですね。

そんなモールよりも圧倒的に大規模なのがパチンコ・パチスロ総台数1000台と大型立体駐

[10] 八潮 | 2010年 (埼玉県八潮市) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio/

警察署設置はいつ?足立区辺縁、オウムも巣食う治安最悪な街「埼玉県八潮市」はどんなとこ? (全3ページ)

2010/11/26

2017/4/5

八潮市

東京23区最強のDQNスラム地帯とかねてから評判の高い「足立区」に隣接する埼玉県八潮市は、近年つくばエクスプレスの開業でベッドタウンとしての開発がいよいよ始まろうとしている東京近郊最後のフロンティア。

つくばエクスプレスの区間快速で秋葉原からわずか17分、さらに首都高三郷線が通じている為にクルマでも電車でも交通の便が良くなった。当取材班は、この一見何にもなさそうな東埼玉の辺境地帯である八潮の街を訪れた。駅だけはやたら立派であるが周囲は殆ど宅地化されておらず、だだっ広い印象を受ける。

八潮駅を出ると、駅の南側にはひたすら原っぱが広がっている。これからマンションが続々建設されて、さぞかし近代的な街が生まれるに違いない。つくばエクスプレス沿線の駅前はどこもこんな感じでフロンティア感が凄まじい。

八潮駅南口ロータリー。実はここから亀有行きのバスが出ていたりする。北関東の田舎にでも来たかのような印象を受ける駅前のスカスカっぷりにあんぐりしてしまうが、車があると足立区や葛飾区は目と鼻の先。首都圏ってまだまだ土地が余ってるんですね。

足立区に接する八潮は、膨張する首都東京から溢れ出た「人」ではなく「工場」を受け入れて成長してきた街である。人口8万2千人という街の規模に対して工場数はさいたま市・川口市に次ぐ県内第三位。八潮にある工場の多くが狭い都心を離れて広い土地を求めて移転してきた。

23区に隣接しているとは思えない広大な田園地帯に、都心から移転、または退けられた工場や建設資材・残土置き場、産廃業者、葬儀式場、ラブホテルなどが点在する特異な風景が見られる場所、それが八潮だ。

この土地には不動産用語的に言う所の「嫌悪施設」が寄せ集められている。江戸時代の浅草・南千住小塚原よろしく東京の鬼門とされる右上部分にそうした施設が集まってしまうという土地の因縁は平成の世となった今でも受け継がれているようである。

中小企業の工場や事務所と思しき建物を見ても、殆どが工事関係の業者や塗装業といったガテン系職種のものであることが分かる。周りに何もないので余計に目立って見える。

ちなみに東京各所にいる塗装や土木など色んな現場作業の車両を見てみると

[11] 八潮 | 2010年 (埼玉県八潮市) - Page 2 of 3 - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/yashio/2/

警察署設置はいつ?足立区辺縁、オウムも巣食う治安最悪な街「埼玉県八潮市」はどんなとこ? (全3ページ)

2010/11/26

2017/4/5

八潮市

<1ページ目を読む

すっかりニュータウン臭くオシャレに変貌したつくばエクスプレス八潮駅前の風景を抜けると、その先には田園地帯に建設資材置き場が散在する、どこか殺伐とした独特の街並みが広がっている。現場作業のトラックや工事車両などはこの場所から東京都心に出て仕事をしているのだろうか、巨大なユンボのアームがいくつも錆びた鉄のフェンスから頭を覗かせている。土建屋と工場だらけの街、それが八潮である。

八潮駅から少し離れた首都高三郷線沿いに建つ、何の変哲もない3階建ての貸し倉庫。

ここがどうやらオウム施設として使われているらしい。

首都高の高架に沿って走る下道も大型車が引っ切り無しに通り抜けるような場所で排ガスだらけ、周りは工場地帯、住む環境としてはよろしいはずもないのだが、こんな場所をわざわざ選ばなければならない程、彼らは生活の場に不自由している訳だ。

見れば分かるが、ここは本来は工場関係の貸し倉庫として使われる為に建てられたはずのもの。そこにわざわざ生活の場を作り上げているのである。殆ど窓もなく、辛うじて見える窓はことごとく目張りがされていて中の様子を伺う事が出来ない。凄まじい住環境だ。

だがそこに人が暮らしている形跡は確かにある。住人の自転車置き場が建物横にあるのだ。元夫に刺されて亡くなった被害者女性もこの場所で生活していたことであろう。

一体この建物の中でどれだけの人間がどんな日常が繰り広げられているのか。迫害されながらもオウムの残党として暮らす方がマシだという日常は我々平凡な人間には理解出来る世界ではない。

そして当然のごとく貸し倉庫の周囲には地域住民による抗議の立て看板がずらりと並んでいて一目に見て異様さが伝わる。

「ここにオウムの巣があります」 だなんて書かれているので事情を知らないよそ者でも一発で事態が分かってしまう訳だ。 「出て行け出て行け出て行け」 と三連呼されたりして凄まじい嫌われっぷりだ。それでも信者達は「修行するぞ修行するぞ修行するぞ」とこの場所に居座り続けているようだ。

オウムの教団施設はここ八潮市大瀬の貸し倉庫の他、足立区辺縁部の環境の劣悪な工業地帯に何箇所か点在していて、今も活動を続けて

[13] 「すみ切り」を愛でる - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/150731194209_2.htm

住宅の場合でも角地は陽当たり的に重宝されるが、店でも角地は好まれるはずだ。上の写真の上段2つ、花屋と八百屋はその典型だ。

以前「 角のタバコ屋めぐり 」という記事でなぜか角の立地に多い(気がする)タバコやを取り上げたが、おそらくあれはタバコの販売が許可制であり、結果として界隈でもっとも有力な商店がその権利を取得したからではないか。つまり角地という立地は商店にとってとても有利であるということの表れなのではないか。

なにが言いたいのかというと、そういう貴重な角地、しかもすみ切り敷地であれば、それを大々的に利用しない手はない、ということだ。

一方、すみ切りを看板・広告に活用しているものの、正面入り口にまではしなかった例。商売の種類にもよるでしょうが、すみ切り趣味からすると、実に惜しい。嫌いじゃないけど。

[16] 東峰、三里塚…成田空港周辺を巡り、そして砂川に思いを馳せる - 日毎に敵と懶惰に戦う, , http://zaikabou.hatenablog.com/entry/20160910/1473433200

9月10日土曜日、 青春18きっぷ 有効期限最終日。そして手元には1回分の余り。どこに行こうか迷った末、成田に向かうことにする。行きたいところがあるのだ

横浜から6時32分に乗った 快速エアポート 成田は、2時間15分かけて空港第2ビル駅へ。ここから歩いてある場所に向かうつもりなのだけれど、案内版はどれも空港の空港としての案内であって、空港の外に向かう道案内は何もない。とは言え、成田であるからそこらじゅうに駅員も職員も警察官も山のようにいるわけで、道を聞けばいいではないかと思うだろうけれど、なんというか、ものすごーく聞きにくい場所なのである

ひとまず地下から1階に出て、方向的には北だろう…と北に向かえば、そうか、第2ターミナルから北には、 LCC 向けの第3ターミナルが出来たのだった。ひとまずはそちらに向かってみよう。

第3ターミナルは第2ターミナルから600m以上。無料送迎バスもあるみたいだけれど、とりあえず歩いてみる。なるべく金をかけずに作りました、ということが、ありありとうかがえる、長い長い通路が通じている。そして

暑さ対策に設置された、ヒマワリのレプリカから水蒸気を噴霧する機械が、 マッポ ー感を存分に醸し出している。それにしても、遠い…

ようやくたどり着いた第3ターミナルは、あまりお金を掛けないけれど小奇麗に作ってみました…みたいな遠慮がちなものではなく、このたてものはおかねをかけていません!!!と全力で叫んでているような、とても潔い建物だった

でも、ま、フードコートはリーズナブルそうだし、 LCC 向けの割り切りとしては良かったんじゃないでしょうか

春秋航空 ショップもあったぞ。メイン商材は チーバくん だったけど

さて、本日の目的地はここではない。とにかく空港の敷地から出たいのである。第3ターミナルの入口まで引き返して、見回してみると、外に向かえそうな緑の通路が

たくさんの警察車両に囲まれながらずんずん進めば…

やった、脱獄できた!ちゃんと歩いて出られるんですね、良かった。空港から一歩出ると、いきなり神社があるあたり、良い感じです

この神社を横目に、空港の北辺に沿って、ほんとうにチープな造りの第3ターミナルを眺めつつ進めば

東横イン が見えてきて、増築工事中の 東横イン の前から、さらに田舎っぽい道に迷い込む

こんな道をどんどん進むとですね、おっ、おお

[17] @nifty:デイリーポータルZ:「どこまで東京?」, , http://portal.nifty.com/2011/04/22/a/5.htm

しかしりんかい線およびコミケがなかったら新木場すら東京とは思われなかったかもしれない。くわばらくわばら。

[18] 大谷口すり鉢エリア① マチュピチュ編: 暗渠さんぽ, , http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2010/02/post-2ec0.html

やっと、大谷口に行けました。 ここは、去年ある方から教えていただいた場所です。すり鉢的には有名な場所なのかもしれませんが、私にとってはかなり魅力的でありながら、自力で辿りつくのは難しい情報だったと思います。

ある方、というのは、偶然にお会いした、河川・暗渠好きの方で、私が荒木町のすり鉢が良かったという話をしたら、大谷口を教えてくださいました。私より年若ながら、東京の地形のことをよく知っている人で、「若いのに、すごいなぁ」なんて感心した覚えがあります。

あちこちとさんぽしてきましたが、板橋はなかなか遠い印象がありました。が、ようやっと。大山の駅を降ります。以前、日大病院にお見舞いに行く機会が何度かあり、通るのはそれ以来です。大山の商店街を見るのは、サンドウィッチマンがM1取ったとき以来なので、これまたやや久しぶり。

そういえば以前大山のアーケードを歩いた時は、厚底ブーツを履いていました・・・ずいぶん前のことですね。あの頃は厚底なんて「全然」疲れませんでしたが、今じゃ数メートルで疲れるでしょうね、きっと。バランスだって、取れないかも。

アーケードを抜けると、「ハンサムらーめん」。うわぁw。・・・いや、でも、「ハンサム」という単語がむしろ新しく感じます。 その隣に材木屋さん。ここらへんたしか、千川上水が通っていたと思いますが、上水沿いにある材木屋さんって、どういうことなんでしょう。尾根沿いのわりかしまっすぐな運びやすい道があったということなのでしょうか。

さて、今回の第一の目的は「すり鉢を堪能する」なのですが、大谷口すり鉢エリアを通過するらしい、石神井川の支流をも堪能する予定です。

そこで、その水源といわれる大谷口1丁目のほうに向かいます。日大病院の脇を通過。 そしたら、もう無いものだとおもっていた、給水塔が見えました。リニューアルされていたんですねぇ。あたらしいけど、カタチは昔のものと同じなんですね。かわいいよなあぁ、あの帽子。

そして水源はこの近くみたいなのです。

もう遺構も、暗渠くささも何もない、きれいに舗装された道や、比較的新しい家が立ち並び・・・

でもこの道は、なんとなくあやしい。水源から、ここを流れ、すり鉢に向かうのでは・・・なんて、なんのあてもないのに勝手に妄想です。

その怪しい道の向い、コンビニの脇から北に向かおうとすると、おもむろにガックン!!と急降下し

[19] 日本経済新聞 印刷画面, , http://www.nikkei.com/news/print-article/?R_FLG=0&bf=0&ng=DGXNASFK2301E_T20C14A4000000&uah=DF120120126021

東京・大手町には地下鉄の駅が5つある。うち4駅は住所も大手町。しかし都営三田線だけは、住所が大手町ではなく丸の内になっている。どうしてなのか。その理由を調べていくと、駅設置を巡る暗闘が見えてきた。駅の位置や直通運転の相手など、誤算続きの三田線の歴史を探った。

[20] 都営地下鉄三田線 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%83%BD%E5%96%B6%E5%9C%B0%E4%B8%8B%E9%89%84%E4%B8%89%E7%94%B0%E7%B7%9A

三田線 (みたせん)は、 東京都 品川区 の 目黒駅 から 板橋区 の 西高島平駅 までを結ぶ、 東京都交通局 が運営する 鉄道路線 ( 都営地下鉄 )。『 鉄道要覧 』には 6号線三田線 と記載されている [1] 。開業当初は「都営6号線」と称した(後述)。

路線名の由来は名称制定時の終着駅である 三田 (みた)から。車体・路線図・乗り換え案内で使用される ラインカラー は「ブルー」(青): 、路線記号は I [2] 。

概要 [ 編集 ]

東京特別区部の南部から都心部の日比谷・大手町を経由し、北西部の板橋区まで、おおむね南北を弓なりに(西に向いた逆C字型)走る路線である。目黒駅で 東急目黒線 と 相互直通運転 を行っている(詳細は #運転 を参照)。

この路線は 高島平駅 側より開業したが、起点は目黒駅( 2000年 9月26日 - )である。 ワンマン運転 を実施しており、保安装置として 日立製作所 製の ホームゲートシステム [3] を全駅に装備する( #駅設備 を参照)。

収支状況は、 2004年 度決算で純損益が約16億2,131万6,000円の赤字 [4] 、 2005年 度決算で約14億8,247万4,000円の黒字 [5] 、 2006年 度決算で約21億6,957万6,000円の黒字 [6] で、着実に改善している。

路線データ [ 編集 ]

路線距離( 営業キロ ):26.5km

目黒 - 白金高輪間2.3km(第二種)、白金高輪 - 西高島平間24.2km

軌間 :1067mm

駅数:27駅(起終点駅含む)

複線区間:全線

電化区間:全線(直流1500V 架空電車線方式 )

地上区間:志村坂上 - 西高島平間

閉塞方式 :車内信号閉塞式

保安装置: CS - ATC

列車無線 方式: 空間波無線 (SR) 方式

漏洩同軸ケーブル (LCX) を使用したものである。

最高運転速度:75km/h

表定速度 :31.1km/h

全線所要時分:52分10秒

車両基地 : 志村車両検修場

目黒 - 白金高輪間 (2.3km) は 東京地下鉄 (東京メトロ) 南北線 と線路(施設)を共用しており、東京地下鉄が 第一種鉄道事業者 、東京都交通局が 第二種鉄道事業者 となっている。このため、運賃計算方式に特例がある。 東京メトロ南北線#運賃計算の特例 を参照

[21] 京都風光*勧進橋, , http://www.kyotofukoh.jp/report99.html

竹田街道に通じる勧進橋は、かつて会姓寺橋(かいしょうじばし)、銭取橋(ぜにとりばし)とも呼ばれた。

◆歴史年表 江戸時代、1633年、竹田村の百姓より架橋の願書が出される。また、同年、私設の板橋が架かり、橋詰に小屋があり通行人から一銭の通行料を取ったことから、俗称として「銭取橋」と呼ばれたともいう。(「奥田家文書」)

1864年、6月27日、禁門の変の際に、長州軍入京に対して幕府諸隊は橋東詰の九条河原に、新撰組は橋下に布陣している。(「幕府諸隊宿陣図」)。土方歳三、永倉新八、沖田総司、武田観柳斎が出陣したという。ここで20日以上宿陣を張る。

1867年(1866年とも)、6月22日(旧暦)、新撰組5番隊組長・武田観柳斎は、近藤勇との酒宴後、伏見の薩摩邸に帰る途中、橋を渡り切ったところで暗殺された。新撰組の剣術指南役・斎藤一、武田と親しかった篠原泰之進により、背後から大袈裟により斬殺されたという。

近代、明治30年代(1897-1906)、京電が路線拡張し、勧進橋が架橋され市電が川を渡っていた。

1947年、架け替えられる。

◆武田観柳斎 江戸時代後期の新撰組隊士・武田観柳斎(?-1867)。出雲国母里藩士の子。医学生ともいう。脱藩後、江戸・甲州流軍学(長沼流)を修める。1863年新撰組に参加。1864年副長助勤、のち五番組組長、文学師範、軍事方。1864年池田屋事件では古高俊太郎を捕縛する。御陵衛士・伊東甲子太郎、薩摩藩と接触を企てたとされる。武田は尊攘派であったため新撰組除隊後に暗殺されたともいう。ただ、隊士により油小路竹田街道で暗殺されたともいう。詳細不明。

◆市電 勧進橋の南詰、鴨川の東を走る竹田街道に市電の勧進橋電停があった。

京都市電稲荷線(1904-1970)は、日本最初の営業電車路線として開業している。当初、京都電気鉄道伏見線、その後京都市電稲荷線になる。京都市電唯一の専用軌道(勧進橋-稲荷)で、途中に電停はなかった。

勧進橋 架設年1947年 橋種 3径間連続鋼プレートガーター 橋長88.7m 幅員19m

*参考文献 『京の橋ものがたり』『京都新選組案内』『新選組大事典』

旧前川家

[22] 小竹向原~千川間連絡線新設工事(2011年1月9日取材) - Reports for the future ~未来へのレポート~, , http://mirai-report.com/blog-entry-1005.html

東京メトロ有楽町線・副都心線が分岐・合流する 小竹向原~千川間 では、現在 平面交差となっている線路を立体交差化するための連絡線の新設工事 が行われています。去る2011年1月9日に現地の状況を調査してまいりましたので、今回は鉄道関連の専門雑誌の内容も合わせてこの工事について解説いたします。 ■小竹向原駅の構造と問題点 小竹向原駅 は 東京メトロ有楽町線・副都心線 と両路線と直通運転を行っている 西武有楽町線 が乗り入れる 島式ホーム2面4線の地下駅 です。小竹向原駅が開業したのは1983(昭和58)年の有楽町線池袋~営団成増(現・地下鉄成増)間と西武有楽町線小竹向原~新桜台間が開業した時のことです。以後、各方面とも延伸開業を続け、有楽町線は和光市駅で 東武東上線 に、西武有楽町線は練馬駅で 西武池袋線 と直通運転を行うようになりました。さらに、1994(平成6)年には有楽町線と同時に建設されていた13号線(副都心線)の小竹向原~池袋間を先行供用する形で 有楽町新線 が開業し、現在の線路の形態が完成しました。 小竹向原駅の配線 ※クリックで拡大 小竹向原駅は西側で有楽町線と西武池袋線が、東側で有楽町線と副都心線がそれぞれ分岐・合流していますが、西側については 外側2線が有楽町線和光市方、内側2線が西武有楽町線練馬方へ立体交差で分岐 するのに対し、東側は 一旦4線から6線になったのち、平面交差で有楽町線と副都心線が分岐 する構造となっています。有楽町新線の開業時は列車本数・利用者はともに少なかったため、この平面交差が問題になることはありませんでした。しかし、2008(平成20)年に 副都心線 が当初の計画通り池袋~渋谷間で全線開業を迎えると、 これら4方向を行き来する大量の列車をこの平面交差のみで処理 せざるを得なくなり、 交差する列車同士の信号待ちによる列車の遅延が多発し、長時間にわたり直通運転を行っている他社線まで影響を及ぼす こととなりました。(副都心線開業後初めての平日となった 2008年6月16日の終日にわたるダイヤ混乱 はその際たる例。) 来る2012(平成24)年には、 東急東横線の代官山~渋谷間が地下化され副都心線と直通運転を開始 する予定となっています。これに伴い、副都心線の 列車本数はさらに増加 することが見込まれ、平面交差による列車の遅延が深

[23] 殉節両雄の碑 高幡山金剛寺, , http://members2.jcom.home.ne.jp/mgrmhosw/junsetutakuhon.htm

殉節両雄之碑

明治維新史談会2003年4月例会では前 田匡一郎 さんに、東京都日野市高幡観音境内の「殉節両雄之碑」について各種資料を御紹介頂いた。その上で松浦元治さんに読み下しをして頂いた。テキストは子母沢寛『新選組始末記』を用いたが、7ヶ所に誤りがあった。「亰」(けい)を「京」としたのが5ヶ所、ほかに「帥」を「師」、「二関」を「三関」、「昧」を「味」、「耶」を「郁」、「松本」を「松平」としている。とくに「商祚爰革」を「商詐変革」としている箇所は、まったく意味不明となっている。他に「輅之東軍」が「輅夫之東軍」となっている。下に碑文全文を掲げるが、 赤字 の部分が『新選組始末記』の誤字の部分である。

故幕府新選隊士近藤昌宜土方義豊碑

多摩之水発源武甲之境東流経青梅諸村川勢漸駛水清味甘在昔幕府堰為上水引之百里以養都下百万生霊其利用亦大矣哉而奇男子近藤

昌宜土方義豊実産於其両涯云昌宜小字勝太後改勇上石原宿人宮川久次三子養於近藤氏義豊称歳三石田村人善諄四子也二人天生忠勇

意気相投親如兄弟皆学剣法於近藤邦武先生各極其精妙文久三年春大将軍徳川家茂奉 詔上洛大募有志処士謂之新徴隊昌宜義豊踊躍

往帰焉与他応徴者無慮二百六十人以二月八日発江戸将軍以三月西上既而有命使新徴隊士皆東下昌宜慨然謂義豊曰吾察今之諸浪士大

率藉口勤王暴行恣議以排斥幕府物情洶洶変在不測為今之計者不如留 亰 師以警護輩下也乃与同志十三人連署以請為幕議可之更称曰新

選隊昌宜為之長義豊副之而隷守護職松平容保於是二人威名日著来属者甚多明年改元元治六月処士有古高俊太郎者潜居四条小橋西陰

謀火禁闕人偵知之逮捕以献焉為其夜与其党数十人闘三条街斬七人擒二十三人幕府嘉其功擬二人以上班騎士辞曰事君竭力臣之職也不

受七月長門老臣福原越後国司信濃益田衛門等託言控訴将兵数百人襲 亰 師飛丸及宮垣 亰 軍奮戦走之別将真木和泉屯天王山昌宜義豊進

撃敵自山上連砲扞之会会藩人西郷浅川等帥師至戮力攻撃甚急和泉知不可免自燔営与其党数人屠腹煙焔中福原等三将僅以身脱幕府大

賞其功特命昌宜為両番次班亦辞不受慶応二年前将軍家茂薨慶喜襲職三年十月上表辞職還政権於 朝退入大坂明治元年正月三日慶喜

奉 勅入覲先遣行人瀧川某請過伏見鳥羽二関戌兵不肯既而東兵大至 亰 軍発大熕輅之東軍応戦其時昌宜患銃創在大坂義豊独奮力戦銃

丸交注東兵遂敗慶喜自大坂駕回陽艦東帰昌宜義豊

[24] ミニレポ第170回 旧岩手県道 大荒沢停車場線 (机上レポ), , http://yamaiga.com/koneta/koneta_170.html

昭和34年3月31日、岩手県告示第280号によって、岩手県内の一般県道、158路線が告示された。

昭和29年に先だって認定を受けていた主要地方道20路線と合わせて、現行道路法下(昭和27年制定)における岩手県道網は、この合計178路線でスタートしたのである。

そしてこの一般県道の整理番号92番 (これが現在で言うところの「路線番号」と呼べるかは不明) に、 大荒沢停車場線 という路線が記載されているのだが、現在この路線名を持つ県道は存在せず、それどころか大荒沢停車場自体、いくら地図を探しても見つけることが出来なくなっている。

92 一般県道 大荒沢停車場線 起点、大荒沢停車場 終点、二級国道大船渡本荘線交点(湯田村)

この大荒沢停車場、つまり大荒沢駅とは、国鉄北上線の駅であった。

しかし、昭和37年に北上線の路線が付け替えられた際、大荒沢駅は信号所に格下げ(その後廃止)されている。

おそらくこの前後に、県道の認定も廃止されたものと考えられる。

では、その跡地はどうなっているのか。

古い読者さんならば、もうお分かりかもしれない。

大荒沢駅は、湯田ダムによって生まれた大人造湖である錦秋湖(きんしゅうこ)に沈んでいる。

そして私は8年前の平成16年10月、ダムの修繕のため異常に水位の下がった湖底で、この大荒沢駅の跡地を目撃するという、得難い体験をしている。 (関連レポ1) / (関連レポ2)

ただ、 探索当時の私は、この駅が“停車場線持ち”だったということを知らなかった。

このことが、今となっては悔やまれる。

もし知っていたら、廃駅とセットでこの廃県道をも探索しようと考えたかも知れない。

今さらではあるものの、机上調査によって、この失われた県道を想像追憶してみたいというのが、本稿の趣旨なのである。

さて、少し前提的な話しになるが、県道の中には“停車場線”と名付けられた大きな一群が存在し、道路と鉄道の橋渡しという、陸上交通上の重要な役割を担っている。

とはいえ、全ての駅に停車場線が認定されているわけではなく、しかも単純に利用者の多少のみで認定されるわけでもないようだ。

おそらくは旅客輸送や貨物輸送、そして地域開発上での“重要度(期待度)”を鑑みたうえで、停車場線の認定改廃が行われてきたようである。 (このことを考える上では、駅、停車場、

[25] @nifty:デイリーポータルZ:日本3大ガッカリ名所・再考察, , http://portal.nifty.com/2007/03/30/a/3.htm

これがひょっとして初代ガッカリはりまや橋…??

高知人の思いと迷いが交差する「はりまや橋」

説明文などによると…

江戸時代、堀で隔てられていた豪商播磨屋(はりまや)と、富商櫃屋(ひつや)が互いの往来のために架けた私橋が、後に「はりまや橋」と呼ばれるようになる。 当時は、簡素な木造りの橋だった。

明治41年、鋳鉄製の橋(写真の緑のやつ)に架け替えられる。

大正末期から昭和の初期、高知駅から南の道路整備に伴い、緑のやつは撤去。

その後、何度か架け替えられる。(地下通路に置いてあったやつ等)

昭和33年、南国博覧会のため、朱色の欄干が登場。翌年、歌謡曲「南国土佐を後にして」がヒットしたことで、同名の映画が作られ、スクリーンに映し出された朱色の欄干が「はりまや橋」として、全国に知られるようになる。

で、それを目当てに訪れた観光客が、実際のはりまや橋を見てそのギャップに驚き、いつしかガッカリ名所として有名になった。というのが、ことの経緯らしい。

が、ガッカリ名所と呼ばれるのもどうだろうかということで、周囲を公園として整備したり、2代目はりまや橋である鋳鉄製の橋を戻したり、初代のイメージのはりまや橋(赤いやつ)を再現したり、といろいろしたのが現在のはりまや橋周辺の姿というわけだ。

[26] 改良進む首都高C2、でも渋滞は終わらない? その先にある新たな懸念 | 乗りものニュース, , http://trafficnews.jp/post/49335/3/

C2の 渋滞 は無くならない? 新たな懸念、必要なその対策 2015年3月の品川線開通により、C2の交通量は大幅に増えています。開通3カ月後の調査では、熊野町JCT~西新宿JCT間の交通量は16%増。それによって、山手 トンネル 内の小さなサグを先頭にした渋滞がすでに恒常化し、ひどいときは中野長者橋付近の上り坂を先頭にした渋滞が、板橋JCT先頭の渋滞と一体化して延々とつながるようになりました。

「トンネルなら、もっとまっすぐ造ればよかったのに」という一般利用者の声も聞きますが、山手通り地下には 地下鉄 や共同溝など様々な構造物があり、 首都高 だけ水平に造るのは不可能でした。

2年後、板橋JCT~熊野町JCT間の拡幅が完成すれば、板橋JCTを先頭にした渋滞はほぼ解消されるはずです。しかし、代わって中野長者橋付近を先頭にした渋滞が、5号線上りやC2内回りへ延びる形になるのではないかと懸念されます。

新たなボトルネックになるかもしれないC2山手トンネルの中野長者橋付近(2016年2月、清水草一撮影)。 トンネルだけに拡幅は不可能。考えられる対策は、光の流れで速度の向上を促す「エスコートライト」ぐらいしか考えられません。山手トンネル内回りの中野長者橋付近には、なるべく早急に「エスコートライト」を設置すべきです。

「それについては以前から検討しており、トンネルだけに壁面が迫っており幅員に余裕がなく、幅を取るLEDランプは設置できないことから、薄型タイプを開発中でした」(首都 高速道路 株式会社)

首都高で第1号の「エスコートライト」である3号渋谷線下り池尻付近のものは、幅がおよそ15センチ。このままでは山手トンネル内には設置できないので今回、幅5センチの薄型タイプを開発し、まずはC2外回りの千住新橋付近に設置。その効果を見て、山手トンネル内にも導入を検討するとのことでした。

「エスコートライト」に過度の期待を持つべきではありませんが、トンネル内では光が目立つだけに、地上部より高い効果が期待できるでしょう。費用も数千万円レベルで、拡幅 工事 などに比べれば数100分の1以下。極めて安上がりです。

【了】

Writer: 清水草一(首都高研究家)

1962年東京生まれ。慶大法卒。編集者を経てフリーライター。『そのフェラーリください!!』をはじめとするお笑いフェラーリ文学のほ

[27] 新大宮バイパスに敗北 孤立した関越道、その未来は | 乗りものニュース, , http://trafficnews.jp/post/40376/2/

関越へ繋がる予定だった幻の「10号練馬線」 『首都 高速道路 公団三十年史』によれば、5号線の延伸は「単に新大宮バイパスの交通を都心、副都心(池袋)に流すことばかりでなく、東京都の都市計画事業のひとつである板橋トラックターミナルあるいは高島平に建設される大住宅団地といった大規模な交通発生源に対処することであった」とあります。この頃の 首都高 は、都が中心になって建設中の都市内高速 道路 で、地域的な交通の流れが重視されていたのです。

1973(昭和48)年、東京川越道路は、ようやく関越 自動車 道という名の国土開発幹線自動車道(つまり高速道路)に昇格しました。この昇格には、1972(昭和47)年に首相に就任した田中角栄氏の力があったといわれています。また角サンは、「関越道をまっすぐ目白御殿まで繋げろ!」と言ったという都市伝説もありますが眉唾です。

1969年の「大都市幹線街路調査報告書」では「延伸追加線」とされていた10号練馬線(画像出典:高速道路調査特別委員会)。 首都高には、もともと「10号線」という計画がありました。これも当初は関越道に直接接続するものではなく、終点は練馬区上石神井2丁目。現在の早稲田大学高等学院付近で外環道と接続する構想でした。

その後、関越道が徐々に延伸されるにつれ、70年代のどこかの時点で、この10号線は「練馬線」という名称になり、文京区関口(現在の早稲田出口)で5号線から分岐して、神田川上や目白通りを進んで関越道に直結する計画に変更されました(10号線は現在は晴海線の名称)。

これが実現すれば、目白御殿のすぐ裏へ本当に関越+首都高が繋がる形になったわけですが、こんな接続をしたら5号線の大 渋滞 は必至。そこで、やはり以前から計画にあった内環状線に直結させて……という紆余曲折があったものの、内環状線建設の見通しもまったく立たなくなり、着地点を失った練馬線は漂流を重ね、現在の“完全お蔵入り状態”になったのです。

[28] 古城万華鏡�V, , http://www.yamagen-jouzou.com/murocho/aji/kojyou3/kojyou3_11.html

富山に負けたくなくって言うわけではありませんが、高岡にだってその昔、舟橋はあったのです。『高岡史料』には、

「高岡の町数六十有余、しかして古にありて今、これなきものあり。・・・往古舟橋町と称し、および長舟町と称せしものありしとの伝説あり」と、かつて高岡に舟橋町・長船町の地名があったことを記しています。そして、

『右澤氏旧記』の一文をその根拠として引用しています。

「・・・高岡町は昔、関野が原と言っていた。千保川の川淵には、舟橋町という町があった。すなわち、横田町の内御宮(有磯正八幡宮)から橋までの間のことで、今の横田横町のことだ。わが右澤家はここに居住した。・・・千保川の今の 横田 橋 のと

ころは、大昔のこと、急流で川幅の広い大川になっていたので、舟橋をかけていた。舟橋にはたくさん人の往来があった。小舟を百艘つないで、その金鎖を川向こうの東のほうは、 大法寺の前 の藤のつるのからまりついた老松の大木につないでいた。川の手前の西のほうは、川淵に大きな岩があったのでこれに巻きつけていた。その頃は、 川原町 から旅篭町までことごとく石の川原で、中島町は、砂の中洲であった。横田町のうち、有磯正八幡宮から今の横田橋までの間を大昔は 舟橋町 といい、わが先祖はそこに住んで、舟橋を管理する役人をしていたのである。・・・以下略」

「大昔」とは、「 川原町 から 旅篭町 までことごとく石の川原で、 中島町 は、砂の中洲であった。」という描写から判断して、「関野之古図」に描かれる風景が広がっていた頃、高岡開町前後の時代、のことでしょう。

『右澤氏旧記』をそのまま信用するならば、かつて千保川には、大法寺前から舟橋町=横田横町までをつなぐ舟橋が架けられていたということになります。これは、直線距離にして約450メートルにも及ぶ長さです。その頃にかけられていた高岡の千保川の舟橋は、富山の神通川の舟橋をはるかにしのぐ壮大なものであったと考えざるを得ません。

何だか、ここでも富山に対するライバル心がむき出しとなった観がありますが、450mに及ぶ舟橋など、そりぁもう日本一の舟橋に、・・・間違いない。いや、驚きました。

また、『高岡町由緒聞書』という古文書には、

「長舟町 千保川の舟橋を架けさせたる舟大工、あまた居住につき町名と相成り申し候。津幡江屋新兵衛 手洗野屋彦兵衛は最初のものに

[29] 都バス一日乗車券で東京23区すべてまわれるか? - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/160816197195_1.htm

東京都交通局の運行する都営バスにひたすら乗りつづけ、一日で東京23区全てをまわることができるだろうか?

むりやり都営バス乗り継ぎの旅をやってみた。

※この記事は とくべつ企画「むりやり○○」 のうちの1本です。ライターがいろいろなことにむりやり挑戦します。

[30] 東金市滝沢 万策尽きたミニ分譲地 : URBANSPRAWL -限界ニュータウン探訪記-, , http://blog.livedoor.jp/yuwave2009/archives/6128305.html

東金市の滝沢は、東金線の東金駅から北西におよそ9㎞。以前紹介した極楽寺地区同様、やはり八街市との境に位置する静かな農村地帯である。しかし滝沢の場合、総武本線の八街駅からも8㎞ほどの距離があり、隣接する八街側もかなりの僻地のため、周囲は農家の他は工場や資材置き場、ラブホテルが点在するばかりで物販施設は皆無に近く、最寄りのバス停は九十九里鉄道バスの八街線(滝台経由)がわずかに1日1本やって来るのみ。この辺りは八街~東金間でもっとも人口密度の少ないと思われるエリアである。しかしこんな所でも、山林を切り開いて造成された小規模なミニ分譲地が点在する。 国道409号線から建築機械の製造工場の脇道に進入して少し進むと、今回紹介するミニ分譲地はある。周囲には同程度の規模のミニ分譲地が他にもいくつか点在しているが、ここはその中で最も空地の多い分譲地で、合計30区画弱程度の分譲地に、建てられている家屋は現在4棟のみ(井戸の跡が残されていた宅地があったので以前はほかにも住宅はあったようだが)。周辺は小高い木立の林で、山林を切り出して造成したことが一目瞭然の、北総でよく見かける典型的なミニ分譲地だ。前面道路沿いの区画に、小さな菜園が造られている。

分譲地背後に杉林が迫る。 分譲地に入ると、いきなり草木に覆われた空き家が目に入る。建物の状態は悪くなく、駐車場に車が進入しているような形跡もあることから、管理はされているのだと思うが人は住んでいない。敷地内に縦列で2台駐車可能であり、なかなか日当たりも良さそうで、バルコニーも広くて使いやすそうなのだが、やはり立地が不便なことがネックなのであろうか。空き家になる事情は様々なのであまりとやかくも言えないが、やはり勿体ない気がしなくもない。再利用の予定はないのであろうか。

玄関側は門扉に蔦が絡まっている。 続いて奥に進むと、駐車場にゴミが山積みとなった家屋が目に入る。こちらも空き家かと思いきや、「入居者募集 21ハイツ」と書かれた看板が掲示されている。一見すると一般の戸建住宅であるがどうやらアパートのようだ。北総では、バブル期の一軒家を改装して、上下階で各1世帯ずつのアパートとして転用されている物件をたまに見かける(玄関は共用で、中で入口が分離されている)。しかしこのアパートは、見るからに処分に手間がかかりそうな不燃ゴミが敷地内に汚らしく散乱

[31] 路線図をゼロから作り直してデザインを学ぶ授業 :: デイリーポータルZ, , https://dailyportalz.jp/kiji/rosennzu-design

1975年宮城県生まれ。元SEでフリーライターというインドア経歴だが、人前でしゃべる場面で緊張しない生態を持つ。主な賞罰はケータイ大喜利レジェンド。路線図が好き。

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> 個人サイト 右脳TV

路線図で「コミュニケーションデザイン」を学ぶ

というわけで千葉大学にやってきた。正確には千葉大学工学部。最寄りはJR西千葉駅である。

門の前で待っていたら歩道をテレビクルーが通り過ぎていった。『月曜からよふかし』の総武線ロケだろうか。

「コミュニケーションデザインⅣ」講義を担当する大森正樹さん。大学教授ではなく、鉄道会社JR西日本の方である。なぜ鉄道会社JRの人が大学で?というのは後ほど。

ひとくちに「デザイン」と言ってもいろいろある。

図形とか模様とかに限らず、建築も衣服もWebも工業製品もみんなデザインだ。「私もサザエさん、あなたもサザエさん」みたいなものである。

で、この講義で学ぶのは「コミュニケーションデザイン」。ははぁコミュニケーションのデザインですね……と、うっかり知ったかぶりしてしまうが、ちゃんと聞いてみよう。なんですかコミュニケーションデザインって。

「そうですね……たとえば、1985年に阪神タイガースがリーグ優勝しましたよね」

大森さんは熱狂的な阪神タイガースファンである。野球をよく知らないちびっ子たちもここは黙ってうなずいておこう。

「道頓堀にカーネル・サンダースの人形が投げ込まれたりして、それはもう大騒ぎでした。それから7年後、阪神は1992年に再び優勝争いに加わります。すると、大阪中の看板や人形たちが足かせをはめられ、地面や店舗にしっかり固定されたんです」

「うちのもんまで道頓堀に投げ込まれてはかなわん」ってことですね。

「でも、あの有名な『食いだおれ人形』は固定せず、代わりに吹き出しをつけて一言しゃべらせたんです。なんて言わせたと思います?」

なんでしょう。「やめてください」的な……?

「『わて泳げまへんねん』って言わせたんです。泳げへんならしゃあないわ、と投げ込まれず済んだんですね。一方的にダメですと言うのではなく、相手に心からの納得感があるかたちで伝える、それが理想的なコミュニケーションデザインです。相手の立場に立ってわかりやすく伝えることにより、デザインで問題を解決できる。

滝野川

滝野川

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[32] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24074289441030983

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