三原橋

三原橋

[1] 三原橋

Webページ

[2] 日経新聞 「東京ふしぎ探検隊」河尻定氏記事「東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ」に係る疑義: 骨まで大洋ファンby革洋同, , http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2013/04/post-0de1.html

※この項は、日経新聞に掲載された記事を検証することを主目的にしております。

「銀座の幻の地下街」の設立経緯等にご関心の方は、別項 東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html をご覧ください。

------------------------------------------------------

日経新聞の「 東京ふしぎ探検隊 」に、「 東銀座に地下広場出現 現役最古の地下街は閉鎖へ 」という河尻定氏の署名記事が掲載されていた。

http://megalodon.jp/2013-0422-0253-00/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/

http://megalodon.jp/2013-0422-0254-04/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=2

http://megalodon.jp/2013-0422-0256-56/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=3

http://megalodon.jp/2013-0422-0257-20/www.nikkei.com/article/DGXNASFK17045_Y3A410C1000000/?df=4

三原橋地下街と歌舞伎座をからめて書いた記事で、今時ありがちな記事ではある。 ただ、私も今までそれなりに三原橋地下街について調べてきた目で見て、河尻定氏の記事の中身に疑義があるので、整理してみる。

------------------------------------------------------

三原橋地下街は、露店を収容するためのものだったのか? 河尻定氏の記事では、

東銀座周辺にはかつて三十間堀川が流れ、三原橋という橋が架かっていた。終戦後、戦災で生じたがれきの処分先として川は埋め立てられたが、なぜか橋桁だけが残った。1952年(昭和27年)に 露天商を収容する目的で地下街を造った 際も、橋桁を残したまま開業した。

とある。

(※「橋桁だけが残った

[3] 東銀座「幻の地下街」を作った経緯が(ほぼ)分かった: 骨まで大洋ファンby革洋同, , http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2015/02/post-3bf6.html

こととしており、その関連として、祝田橋~三原橋間の地下自動車道路の計画を具体化させていた。

※「都市計画と東京都」都政調査会発行(1960)から引用

この地下自動車道と日比谷線は導入空間が競合するため、紆余曲折があり、結果現況の有楽町駅付近のガード下付近のみ一方通行の地下道になっている。

このあたりの経緯は、 東京五輪関連:地下鉄と競合して未成となった銀座の地下自動車専用道路にして首都高速計画線の名残 に記したところである。

そこでも指摘したのだが、山田正男 元・東京都建設局長は、後に自著において

しかし今でも残念なのは、銀座界隈の最後の道路交通対策として計画した, 祝田橋方面と三原橋方面とを結ぶ地下自動車道計画 を地下鉄2号線(※引用者注:日比谷線のこと)の工事と同時に施工し、 三原橋を撤去することによりついでに七不思議の一つを解消しようとした が,オリンピック東京大会をひかえて工期の関係等もあって断念せざるを得なくなり、遂に中途半端な一方通行の地下道に終わってしまい,七不思議の一つも今だにその醜態をさらしていることである。

「 時の流れ・都市の流れ 」都市研究所刊、山田正男著 25頁

と記し、「 安井都政の七不思議 」の一つである三原橋問題を地下道建設とあわせて解決しようとしたが達成できなかったことが分かる。

しかし、この山田局長の意向と「幻の地下街」を繋げる確証がなかった。それが見つかったのである。

------------------------------------------------------

「交通技術」1962年10月号(財団法人 交通協力会 刊)に「 営団地下鉄2号線銀座-日比谷間建設計画 」という報文が掲載されている。著者は安藤正人 帝都高速度交通営団建設部第1設計課長である。

この報文が貴重である理由は、上に記した東京都の地下自動車道と日比谷線の導入空間調整において、一旦は合意しながらその後流れて幻に終わった「地下道路は地下2階(銀座駅付近は地下3階)・地下鉄は地下3階相当の一体構造」に基づくものを図面入りで紹介しているところである。

これだけではよくわからないので、現況と比較してみる。

お手元に「 パンフレットで読み解く東京メトロ建設と開業の歴史 」実業之日本社刊をお持ちの方がいらっしゃれば、是非97~101頁の記事と見比べてほ

[4] 地下駐車場に直結(道路には連結していない)首都高速道路八重洲出入口: 骨まで大洋ファンby革洋同, , http://kakuyodo.cocolog-nifty.com/blog/2012/12/post-7fe0.html

東京駅東側の八重洲地下街を歩いていると、こんなドアがある。

「高速道路出口」?? 地下街なのに?

実は、首都高速道路八重洲線の八重洲出入口は、八重洲の地下駐車場に直結していて、地下街経由で人が降りてこれるようになっている。

八重洲地下街株式会社のサイトをあわせて参照されたい。 http://parking.yaechika.com/access_02.html

北行きの高速道路入口はこんな感じで地下駐車場の中から首都高速八重洲線に合流していく。

高速道路から人が降りることができるプラットホームがある。高速道路を下りずに、東京駅へ向かう同乗者を降ろしていけるという仕組みである。

なお、降りたら戻れない。

奥に見えるのが首都高八重洲線の本線への合流部で、手前は「乗客降り口」用の分岐線。

ちなみに、八重洲線南行きの出入り口もこんな感じ。首都高の出入り口としては有数の急こう配ではなかろうか。

なお、通常の首都高速道路の出入り口の連結施設は「国道○○号」とか「都道○○号」といった道路だが、ここはずばり「八重洲駐車場」が連結施設となっている。

NEXCOの高速自動車国道では「新空港自動車道」が成田空港に直結しており、道路には連結していないことから同様の扱いとなっている。

このような構造にした理由を記載した論文を見つけた。

土木史研究 第15号(1995年6月)

「都市の地下街空間における開設動機分析」西 淳二氏、高橋清氏、佐藤馨一氏、浅野光行氏 http://library.jsce.or.jp/jsce/open/00044/1995/15-0045.pdf

「また、東京都の都市計画地方審議会の特別委員会の中で現在の首都高速の基本計画が検討される。1955年(昭和30年)ごろ、既に平面道路の交差点が全部渋滞という状態のときに高速道路のランプを下ろすことや、できるだけ都心部に自動車の交通量増大を図らない形で上手に処理する方法など考えられた。その議論の中で高速道路のランプに連続して大駐車場を作る方法が検討されたのである。すなわちランプから地上へ来るときに、脇の駐車場へ入れる。平面道路にはインパクトを与えない。設置場所はできるだけ業務の盛んなところ、駅に結節するので駅前がよいと考えられた。例えば八重洲駐車場(1965年開業、571台)常盤橋駐車場(1973年、地下3階駐車場が首都高

履歴

[7] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24074289439334226

メモ