鴨川

鴨川

[1] 鴨川 (かもがわ)

Webページ

[2] 鴨川 (淀川水系) - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%B4%A8%E5%B7%9D_%28%E6%B7%80%E5%B7%9D%E6%B0%B4%E7%B3%BB%29

鴨川(かもがわ)は、京都府京都市を流れる淀川水系の一級河川。

[3] 増水した鴨川に生息する生き物たちの様子「呆然とする鴨、疲れたヌートリア 他」【画像まとめ】 - Togetterまとめ, , http://togetter.com/li/848845

[地域]

[近畿]

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動画あり

※午前7時30分現在、水位下回ったもよう

※午前11時現在、順調に水位下がっている..� 続きを読む

[7] 京の旧市街地, , http://www.akenotsuki.com/kyookotoba/shigaichi.html

京都に関する研究ではしばしば「洛中」「旧市街地」「昔からの市街地域」などの表現が使われますが、具体的にどの範囲がそれに当たるのか、はっきり説明がされている機会はそう多くないという印象があります。

そこでこのページでは古地図を見ながら、京都における市街地の範囲の変遷を検証してみます。

1889年(明治22年)

1889年(明治22年)、当時の京都府上京区と京都府下京区とが合併する形で京都市は誕生しました。その頃の市域は次の通りでした。

両図とも黒い線が現在の区域(区の境界線)で、色分けされているところが当時の市域・郡域です。

今日の京都市に比べればかなり面積が小さかったのですが、これでも当時としては、将来のことを見越して広めに市域を確保していたそうです*1。

この時代にはまだ「上京区」と「下京区」しかありませんでした。鴨川の西側では後に「中京区」が作られたため当時の上京・下京の境界が今では分かりにくくなっていますが、おおよそ現在の東山区・左京区の境界線をそのまま鴨川の西側へ延長させたところが当時の境界線です*2。

*1

「統計でみる京都市の歴史」のPDFより。

*2

鴨川の西側では上京区の南部と下京区の北部とを合わせる形で昭和4年4月に中京区が作られたのに対して、鴨川の東側ではそのような再編がなかったため、京都市が出来た当初の上京区・下京区の境界線が鴨川の東側では左京区・東山区の境界線という形でそのまま残った。

1887年(明治20年)

先に見た1889年の図はあくまで「当時の京都市の範囲」であり、実際に市街化していた範囲はこれよりも狭いものでした。

明治期の市街地を知るための資料としては、立命館大学地理学教室にて公開されている「現在の都心部の1887年(明治20年)ごろの土地利用」という地図が参考になります。これで当時の状況を確認してみましょう。

鴨川の東西で状況が異なりますので、分けて見てゆきます。

鴨川の西側

市街地はこの時代、既に上京区の北限まで広がっていたことが分かります。対して市街地の南限は概ね今日の京都駅(地図中、下方のエメラルド色の箇所)付近だったようです。

市街地の西の限りは、二条城の南側は概ね大宮通ないし神泉苑通~壬生川通あたり、二条城の北側はところどころ畑や竹林を挟みながらも千本通を越えるあたりまで人家が広がっていたことが読み取れます。

[8] 西日本最高価格7億円超 鴨川に面したマンション供給は11年ぶり「ザ・パークハウス 京都鴨川御所東」始動10月17日(土) モデルルームグランドオープン|三菱地所レジデンス株式会社のプレスリリース, , http://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000001.000015820.html

三菱地所レジデンス株式会社は、京都市上京区にて開発を進めている「ザ・パークハウス 京都鴨川御所東」(総戸数85戸)のモデルルームを10月17日(土)よりグランドオープンします。

本物件は、京阪鴨東線「神宮丸太町」駅徒歩6分、東側に「鴨川」・「大文字山」を望み、西側に「京都御所」・「京都御苑」が位置する地に誕生します。鴨川に面したマンションは11年ぶりの供給※1となり、京都の夏の風物詩「五山送り火」の一つ、「大文字」を正面から望むことのできる東向きの最高額住戸は、西日本最高価格7億円超※2を予定しています。

※1)京都市鴨川河川敷に敷地が面している新築分譲マンションは、2004年以来11年ぶりの供給となります。(2015年9月1日現在 MRC調べ)

※2)1995年以降に供給された新築分譲マンションにおいて、7億円超の販売住戸は西日本(近畿地方以西)最高価格となります。(2015年8月31日現在 不動産経済研究所調べ)

本計画の設計・監理は株式会社三菱地所設計、かつて「ザ・パークハウス グラン 千鳥ヶ淵」を手掛けたメンバーを中心とするチームが担当しています。三菱地所グループのものづくりへの想いを結集し、「うつろい」をテーマとしたランドスケープデザインや日本の伝統的建築意匠を盛り込んだ外観デザインとしています。その他、京都にゆかりの深い現代美術作家の作品を展示し、「京の美意識」を表現したインテリアデザイン等、京の風情と調和するフラッグシッププロジェクトです。三菱地所レジデンスは、今後も高品質・高付加価値な住宅を供給していきます。

▲外観完成予想CG

1.「ザ・パークハウス 京都鴨川御所東」の特徴

・鴨川に面した希少立地マンションは11年ぶりの供給※1

※1)京都市鴨川河川敷に敷地が面している新築分譲マンションは、2004年以来11年ぶりの供給となります。(2015年9月1日現在 MRC調べ)

・東側に「鴨川」・「大文字山」を望み、西側の「京都御所」・「京都御苑」に寄り添う立地

・京都市中心部にありながら、約5,000㎡超の敷地面積

・計画地は第一種住居地域、準防火地域、15m第2種高度地区、12m第2種高度地区、旧市街地型美観地区、岸辺型美観地区(一般地区)

▲眺望写真(現地3階相当より東方面を撮影した写真に、送り火を合成)

■「日本建築の

[9] ディープな京都・菊浜地区: 五条楽園(遊廓跡、旧赤線地帯)を探索 - ムラウチドットコム社長・村内伸弘のブログ, , http://murauchi.muragon.com/entry/788.html

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旧五条楽園エリア(京都市下京区)

五条大橋近くのサブウェイでデジカメの電池を充電して、準備万端!いよいよ、京都のガイドブックには載っていないディープな京都、遊廓跡(旧赤線地帯)の五条楽園エリアに侵入します。

「侵入」って、まあ、公道なので誰でも自由に入れるんですけどw

潜入とか、突撃とかって言葉も似合いますが、一応この記事のタイトルは "五条楽園の「探索」"としておきました。それではレッツゴー!!

五条大橋の牛若丸・弁慶像: 五条の橋の上で出会った牛若丸と弁慶を再現した銅像

牛若丸(義経)が弁慶の長刀(なぎなた)をひらりとかわし、橋の欄干に飛び移った瞬間のモニュメントです。

五条大橋。向こう側の山が清水寺方面です。

五条大橋の上から見た鴨川の流れ

この右側の地帯が旧「五条楽園」のエリアです。

上の写真の反対側: 五条大橋の上から見た比叡山(右の山)

五条大橋の欄干。牛若丸が飛び乗った欄干の子孫ですw

反対側の岸から見た旧「五条楽園」エリア

五条大橋のたもとのガソリンスタンド脇の道(木屋町通)に入りました。流れている川は高瀬川です。

鴨川を見ながらくつろげるカフェ・エフィッシュ (efish)。見るからにスタイリッシュな空間ですね。

源融の木

源融の木

源氏物語の光源氏のモデルとされる嵯峨天皇の皇子 源融(みなもとのとおる)の邸宅「河原院」の跡があり、この榎の大樹は、この邸内にあった籬(まがき)の森の名残とされる。すぐそばには小さな社と鳥居があり、榎大明神が祭られる。

光る君(ひかるきみ)~!京都らしいですよね!こんなある意味、観光客の立ち入らないような辺鄙な場所にも歴史がある。京都ならではです!

源融 河原院跡の看板

苔むす源融の木(エノキ)の風格がすごいです!

一体何人の男がこの木を見たのでしょうか?

鴨川沿いのお地蔵さん

お地蔵さんあたりから見えた鴨川

風情ある川辺の道

[10] 京阪鴨東線 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%98%AA%E9%B4%A8%E6%9D%B1%E7%B7%9A

鴨東線(おうとうせん)は、京都府京都市東山区の三条駅から同市左京区の出町柳駅までを結ぶ京阪電気鉄道の鉄道路線。

なお、正式な起点は三条駅[1]だが、列車運行および旅客案内では出町柳駅から三条駅へ向かう列車が下り、逆方向が上りとなっている。

概要[編集]

路線名は鴨川の東岸を走行することに由来している。京阪本線の延長線として鴨川沿いの川端通の地下に建設され、全線が地下線となっている。また、開業当初から建設費(約650億円)償還のために普通運賃で60円の加算運賃が設定されており[2]、鴨東線内各駅(三条駅から出町柳駅方面も含む)からの初乗り運賃は2011年現在、210円となっている[3]。

出町柳駅 - 三条駅の間では約12mの標高差(高低差)があり、駅構内の勾配は2‰だが駅間は12‰の勾配区間である[4]。

路線データ[編集]

路線距離(営業キロ):2.3km

軌間:1435mm

駅数:3駅(起終点駅含む)

複線区間:全線

電化区間:全線電化(直流1500V)

閉塞方式:自動閉塞式

最高速度:90km/h[5]

運行形態[編集]

詳細は「京阪本線#運行形態」を参照

京阪本線と一体的に運行されており、朝の三条発出町柳行き1本をのぞいて、全ての列車が大阪の淀屋橋・中之島方面と直通する。特急・準急(平日朝の淀屋橋・中之島方面は通勤準急)・普通がほぼ終日運行されているほか、朝と深夜に快速急行(朝ラッシュ時は通勤快急)・急行が運行されている。唯一の途中駅である神宮丸太町駅には急行以下の種別の列車が停車する。三条駅ではほとんどの時間帯において、上下線とも優等列車(特急・快速急行など)と準急・普通との緩急接続が行われている。

歴史[編集]

当線の免許は1924年(大正13年)に京福電鉄の前身である京都電燈が取得していた。京都電燈は1925年(大正14年)に叡山平坦線(現在の叡山電鉄叡山本線)を開業させたが、鴨東線については京都市電と平面交差[6]になることや景観の問題から着工できず、ようやくまとまり鴨東線建設のために資材を用意するも、1934年(昭和9年)の室戸台風や、翌1935年(昭和10年)の鴨川大洪水で資材が流失したり、これらの被害復旧のための資材として流用され、その後は戦時体制と戦後の混乱で着工できなかった。

戦後、1948年(昭和23年)に当時の京都市長神戸正雄が京阪神急

[11] 京都に最高7億円の眺め? 鴨川沿いにマンション建設:朝日新聞デジタル, , http://www.asahi.com/articles/ASHB8533RHB8PLZB01D.html

マンション開発の三菱地所レジデンスは8日、京都市上京区の鴨川沿いにマンション(総戸数85戸)を建設すると発表した。最も高額の部屋は7億円以上で売る計画で、同社は「1995年以降、西日本で分譲されたマンションでは最高価格」としている。

敷地(約5千平方メートル)は財務省京都財務事務所の跡地で、同社が2013年に63億円で落札した。価格が7億円以上の部屋は、鴨川に面した4階建ての棟の最上階にあり、広さは約287平方メートル。毎夏、京都で行われる「五山の送り火」の「大文字」が望めるという。

半数以上の部屋が1億円を超える見通しで、分譲戸数の6割は別荘に使われるとみて、英語対応の受付も置く。11月中旬に販売を始め、17年6月に引き渡す予定だ。森克明常務は「立地に見合う建築を企画でき、評価をいただけると思う」と販売に自信を見せた。

[12] ディープな京都・崇仁地区: 柳原銀行記念資料館と金網フェンスに囲まれた無数の空き地 - ムラウチドットコム社長・村内伸弘のブログ, , https://murauchi.muragon.com/entry/789.html

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京都・崇仁(すうじん)地区: 柳原銀行記念資料館

"ディープな京都" 五條楽園 からタクシーに乗って、 同じく"ディープな京都" 崇仁地区 に入りました。以前から見学したいと思っていた、「柳原銀行記念資料館」でタクシーを降りました。

桜田儀兵衛氏の碑

桜田儀兵衛翁の顕彰碑の概要

柳原銀行記念資料館

銭座場跡

京都市崇仁隣保館新築記念

柳原銀行記念資料館の柳の木

柳原銀行記念資料館の外観 淡いグリーンの外観がとてもステキな洋風木造建築ですっ!

京都市登録有形文化財!差別に立ち向かった崇仁地域の誇り!!

柳原銀行記念資料館の側面

反対側の側面のガラス窓

こぢんまりとしていて、とてもすてきな洋館です!

中に入ってみましょう~

崇仁歴史マップ 「非人小屋」という言葉も見られます。

人権ゆかりの地をめぐる ポスター

柳原銀行記念資料館について

柳原銀行は、明治32(1899)年、柳原町(崇仁地域)の町長であった明石民蔵(あかしたみぞう)ら地元の有志によって設立されました。

被差別部落の住民によって設立された日本で唯一の銀行であり、当時、差別のために資金を得られなかった町内の皮革業者等に融資を行い、産業の育成・振興に大きく貢献したほか、その利子を地元の小学校の運営資金や道路建設資金に充てるなど、自力で差別を撤廃していく模範とされました。

大正期には、山城銀行と改称し、事業を拡大していきましたが、金融恐慌などの影響を受けて、昭和2(1927)年に倒産しました。

その後、建物は商店や借家として使用されましたが、昭和61(1986)年に道路の拡幅工事に伴う建物の取壊し案が出たことを契機として、地域では,建物をまちづくりのシンボルとして保存する運動が盛り上がり、保存に向けた様々な取組が行われました。また、平成元(1989)年に本市が実施した調査において、貴重な明治後期の洋風木造建築物であることが判明し

[13] 淀川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B7%80%E5%B7%9D

淀川(よどがわ)は、琵琶湖から流れ出る唯一の河川。瀬田川、宇治川、淀川と名前を変えて大阪湾に流れ込む。滋賀県、京都府及び大阪府を流れる淀川水系の本流で一級河川。流路延長75.1km、流域面積8,240km²。

また、琵琶湖に流入する河川や木津川などを含めた淀川水系全体の支流(支川)数は965本で日本一多い。第2位は信濃川(880本)、第3位は利根川(819本)となっている。

地理[編集]

大津市で琵琶湖から流れ出る。ここでは瀬田川(せたがわ)と呼ばれる。京都府に入るあたりで宇治川(うじがわ)と名を変え、さらに京都府と大阪府の境界付近、大山崎町で桂川・木津川と合流する。この合流地点より下流が狭義での淀川となる。その後も大阪平野をおおむね南流し、大阪市で大阪湾に注ぐ。都島区付近で旧淀川と分派し、以降大阪湾に注ぐ方を「新淀川」と称する場合もある。旧淀川は大川・堂島川・安治川と名前を変えて大阪湾に注ぐ。

なお、河川法上では琵琶湖が淀川の水源としている。従って、琵琶湖より流出する瀬田川・宇治川は法律上では淀川本流である。又、琵琶湖に注ぐ全ての河川も、水系では淀川水系として扱われる。更に、神崎川に合流する猪名川も、淀川水系として包括される。

淀川開発史[編集]

為政者の治水・利水[編集]

淀川流域は古来より政治・文化・経済の中心地として極めて重要な位置を占めていた。それ故古来仁徳天皇時代茨田堤の建設に始まり以後河川整備は繰り返されていたが、氾濫も度々起こり、時の白河法皇をして比叡山の僧兵・双六博打(賽の目)と共に鴨川の治水問題が悩みの種となっていた。

豊臣秀吉が晩年伏見に居を移すにあたって、宇治川(巨椋池)の改修を行った。その主なものは、槇島堤を築くことで京都盆地南部に流れ込む宇治川の流れを直接巨椋池に流れ込む形から現在のような伏見への流れに変えたことであり、このことにより宇治川は伏見城の外濠の役目を担うことになるとともに、水位が上がったことにより伏見城下に港を開くことを可能にした。また淀堤(文禄堤)を伏見・淀間の宇治川右岸に築き流れを安定させた。これにより、伏見は交通の要衝として栄えることになった。

江戸時代、徳川家康の命により方広寺大仏殿造営の為の資材運搬を鴨川を用いて行った角倉了以・与一親子は、恒久的な運河として高瀬川を開削し、京都への水運整備を行い、物流を発展させた。大

[14] 竹田街道, , http://www.geocities.jp/ikoi98/kyouto/takedakaidou.html

竹田街道は、江戸時代に開かれた京と伏見をつなぐ街道の一つで、京の七口の一つである竹田口から伏見区竹田を経て伏見港へとつながっていた。同じく京と伏見を結ぶ伏見街道の西方にあって、伏見街道が名所旧跡に富んだ観光ルートであったのに対し、竹田街道はもっぱら牛車による物資の輸送を目的とした産業道路であった。

「口」とは出入り口としての土塁の切れ目である。豊臣秀吉が京に聚楽第を建ててその権力の頂点にあったとき、京都を土塁と堀でぐるりと囲った。土塁は御土居(おどい)とよばれ洛中、洛外の境界をなした。現在の京都駅付近の御土居は七条高倉から高倉通りを南下し、塩小路と八条通りの中間付近で西に折れ、油小路を南下して九条通りで再び西に延びていた。この前半の部分、七条高倉からセンチュリーホテルの南側にかけて逆L字形のいびつな形をした東塩小路向畑町がある。この区画が御土居の築かれた場所であろう。東塩小路向畑町の西端、現在の京都駅ビルに接する所に御土居の竹田口があった。その南北の通りを東洞院という。

現在の竹田街道(府道115号)はJR京都駅の南側、東洞院八条の竹田街道八条交差点から始まっている。京都駅が現在地より北寄りの塩小路通り近くにあったころ、竹田街道は八条からそのまま東洞院通りを上がって塩小路交差点に通じていた。ここが近代の竹田街道起点である。明治28年(1895)ここから我国最初の電気鉄道(後の京都市電)が伏見に向けて出発した。交差点の南西角に京都市電発祥の地の石碑が建っている。

南に向かって歩き出す。すぐに駅ビルに隣接する建物にぶつかる。JR忘れ物センターがある。このあたりが御土居の竹田口があった場所だ。線路に沿って高倉通りにでて、陸橋を迂回して竹田街道八条交差点にでる。

九条大石橋交差点を東にはいった陶化小学校の正門内に、竹田街道に敷かていた車石が残されている。伏見港と京との物資輸送を担う牛車がぬかるみで立ち往生しないように、わだちを削った敷石で街道に牛車専用レーンを設けた。鉄道線路のように厳格でなくとも、牛車の車輪幅は一定だったということか。分厚い石で、これを延々6kmも並べるのはさぞかし大変な工事であったろう。

隣に立つ「石敢当」(せきかんとう)と刻まれた常夜燈は安政元年(1854)建立のもので、鴨川に架かる勧進橋に建っていたものである。

竹田街道札辻交差点にさしか

[15] 本初子午線をゆくPart I 京都編, , http://stelo.sakura.ne.jp/135e/hizakuri200203.htm

塩屋天体観測所 | 東経135度子午線を訪ねて | 子午線道中膝栗毛

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本初子午線をゆく Part I 京都編

(2002年3月24日訪問)

「本初」とは“はじめ”“もと”という意味で、本初子午線は経度0°0′0″の子午線のこと。現在は世界的にイギリスのグリニッジ天文台を通過する子午線と定められているが、かつては国ごと、地域ごとに独自の本初子午線を用いていた。

日本がグリニッジ子午線を本初子午線とするのは1886(明治19)年のことで、それまでは国内に本初子午線があった。日本標準時子午線はグリニッジ基準子午線と同時に定められたものなので、それ以前は国内の本初子午線が、日本の経度の基準となってきたといえる。

そんなわけで、本初子午線を巡る旅に出た。ちょっと寄り道が多いのはご愛敬ということで……

<旧本初子午線>

京都改暦所旧跡 (中京区西ノ京西月光町)

ここ数年、立て続けに映画やドラマに取り上げられて、伊能忠敬もだいぶ知名度が上がってきた。彼の最大の業績はいうまでもなく「大日本沿海與地全図」の編纂だが、実はこの地図、京都に本初子午線が引かれている。

本初子午線の基準となったのは、上京区西月光町にあった京都改暦所。江戸幕府が寛政の改暦作業を行うために設けた天文台である。

山陰本線の二条駅より西に500mほど。住宅地の一角にある稲荷神社の裏手あたりが改暦所のあった場所だという。

この日は神戸から自転車をかついで出かけたので、自宅から乗り換えの少ない阪急電車で京都に向かった。JRの新快速より時間はかかるが、安いし、市街地の真ん中、四条烏丸や四条河原町に電車が着くので、便の良さは引けを取らない。

四条烏丸で電車を降り、自転車を組み立てて北へ向かう。いい加減に走っても、道が東西南北に沿っているおかげで、通りの名前さえ覚えていれば地図ですぐに現在地を確認できるのが京の街の良いところ。通りの名前も錦小路・蛸薬師小路・六角小路・三条通と何かの歌で聞いたようなものばかりで、道路の標識を見ているだけでも楽しくなる。

細い路地をつなぎながら走っていたら、「本能寺跡」の石柱に出くわしてしまった。1582年6月2日、織田信長が討たれた本能寺の変の現場である。本能寺は現在河原町にあるが、これは事変後再建した後のことで、明智光秀が襲撃したのは、この石碑の地である。今では普通のお

[16] 洛中の失われた小河川, , http://agua.jpn.org/yodo/katura/old.html

失われた洛中の小河川

京都市街にはけっこうな数の小川が流れていたが、現在ほとんどが暗渠となり、微妙な高低差のあった谷地も平らに均され、いまや水辺を偲ぶよすがとて無い。山城原野を流れた川の多くは、平安京造営時に大なり小なり改変を受けているので尚更跡を追いにくい。

失われた川たちは例えば、南流していた今出川、中川、西洞院川、小川、東西方向に流れていた四条川などが挙げられる。

■ 今出川

今出川は鴨川からの分流とも、雲ヶ畑からの水ともいう。

寺町通を流れたものと相国寺付近を流れたものがあるという。

かつては六条あたりまで南下する流れであったという。

左の写真は相国寺境内にある溝。不自然に境内を曲折しているので、もしかしたら川跡なのかも知れない。

また、相国寺の北の宅地には妙に曲がりくねった路地があり、旧河道の可能性があるが確たることは皆目わからない。

■ 中川

京極大路から下の今出川を称したものという。京極川の謂もあるが古くは中川といった。

用途は貴族邸内の園地に引き込むものや灌漑用水と思われる。

源氏物語の「空蝉」のくだりで、光源氏が方違えに訪れる下級貴族の家が中川から庭に水を引き込んでいる様子が描かれている。

■ 小川 ( こかわ )

堀川通の堀川紫明交差点の東から元本能寺あたりまで通じる「小川通」に名を残す、堀川に注いでいた川。寺之内付近には明瞭な川跡が残っているが、流水は全く見られない。下の写真、左は本法寺門前の橋で、河床には木が植わっている。右写真は報恩寺門前の橋で、家々の背割や墓地脇に涸れ川が残っている。宝鏡寺脇で小川に架かっていた「百々橋」は昭和38年の埋め立ての際取り払われ、西京ニュータウンの竹林公園に復元されている。橋の礎石は室町小学校にも残っている。左写真は宝鏡寺塀際に残された礎石。小川は、昭和初期には蛍飛び交う流れだったという。地表流は失われたが水脈は残っていて、井戸水は現在も茶を点てるのに珍重される。

■ 西洞院川

堀川通の東、小川通と新町通の間にある南北の小路・西洞院通に明治中期まであったという。市電開通にあたって暗渠化されたもので、現在は下水溝となっている。

もちろん、これ以前にも平安京造営にあたっての改変を受けているものと思われる。

*このほかにも、東洞院川、室町川、大宮川など都の造営にあたって消滅した小川が多数あると伝わ

[17] 京都市上京区役所:上京区の河川, , http://www.city.kyoto.lg.jp/kamigyo/page/0000012365.html

平安京創設以前,賀茂川は現在の堀川通を南下し,四条から五条の間で高野川と合流していた,というのが従来の説であるが,最近の研究では,現在とほぼ同様,北部では東南方向に流れ,出町で高野川と合流後は南流していたとみられている。平安造都に当たり,大きな流路変更はなかったのである。もっとも堀川は,賀茂川の1支流であり,その川床を利用して堀川を造り,これを東堀川と名付けた。同時に,西堀川(現在の紙屋川)も掘った。東西両堀川の開削は,京都北部の山岳地帯で伐り出した,平安京造営に必要な材木の運搬が目的であり,この両河川に挟まれた地域に大極殿や大内裏が建設された。紙屋川が西堀川であったことは,上京区の南西端近くに堀川町が現存する事実などからも容易に理解される。 鴨川と紙屋川との間には,東京極川,小川,大宮川,耳敏川,西大宮川が流れていた。特に東京極川は,現在の上御霊神社の前を南下し,相国寺を経て今出川通で今出川となり,東に流れて寺町に達し,中川となって再び南下し,二条において東行し鴨川に合流した川で,河畔には貴族の邸宅や寺院などが建ち並び,まさに山紫水明に相応しい景観を誇っていた。

[19] 城陽人の写真アルバム: 街道見て歩き<<東洞院通車道(竹田街道)・前編>>, , http://okucyann.blog.eonet.jp/cashio/2012/07/post-ff62.html

街道見て歩きも、回を重ねるようになり

奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・

東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・

伊勢街道・・・

郡山街道・・・

と、見てきました。

まだまだ、街道はありますが

今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。

という訳で、今回は、<<竹田街道>>を歩いてみました。

竹田街道は江戸時代、京都から南へと延びる、京の七口の一つである竹田口から伏見区竹田を経て伏見港へとつながっていた幹線道路で、鳥羽街道や伏見街道とともに、重要な道だった。ルートは、東塩小路村から南下して東九条村を通り、竹田村から伏見港に通じていた牛車による物資輸送を主目的とした産業道路的街道だったと思われます。伏見港からは、水路で大坂へつながっていました。竹田村を通ることから、竹田街道と名付けられました。

竹田街道は、逢坂山と同じく荷車の往来が盛んだった「車石」が敷かれた街道でした。

伏見といえば京橋を中心としています。街道の出発点も何といっても、ここ京橋です。秀吉の伏見城の城下町として、又、淀川より大坂への水路交通の基点として栄えました。

京橋より左(西)右(東)は淀川派流・濠川の三十石舟等の物資運搬の荷揚げ浜・伏見港の中心南浜(寺田浜)などで賑っていました。京橋附近の様子はこちら又は、こちらをご覧ください

1筋北の魚屋通(下油掛通)です。右角には老舗の「駿河屋」さんがあります。

その前に「チンチン電車」発祥の碑が建てられています。約100年前、明治28年に竹田街道の終点・塩小路東洞院通まで約7Kmを走りました。

もう1筋北の大手筋通です。

右(東)を行けば江戸時代は伏見城大手門に繋がっていました。

又1筋北の毛利橋通。通の名前は中国地方の「毛利家」の屋敷があったことから来ています。

その先、突き当たりを左に曲がります。肥後橋という停留所がありました

右(東)に寄り道しますと、平屋の古民家が見られます

こちらは浄土宗「西光寺」

本堂

通常は地蔵堂なのですがこちらは如来坐像?

お隣の虫籠窓の見える古民家

街道を左(西)に

右に「西養寺」・寛永九年創建、本堂は元禄六年上棟の真宗寺院で市内最古に属する様式を残した建物で市の文化財です

本堂

本堂の様式を詳しく説明されています

門前の地蔵堂

街道はその先の信号を右に折れます。京橋からここまでチンチン電車はこの道を走

[20] 京都市:第3回御池通沿道のマップづくりワークショップの記録, , http://www.city.kyoto.lg.jp/tokei/page/0000004831.html

京都市役所 〒604-8571 京都市中京区寺町通御池上る上本能寺前町488番地 電話番号:075-222-3111(代) 市役所へのアクセス

内容: 1 開会のあいさつと前回の振り返り(都市づくり推進課:江田担当課長) ・ 寒い中,日曜日にもかかわらず多数お越しいただきありがとうございます。 ・ 今回は,これまでに話し合ったことを基に実際にまちを歩いて見てみようということで開催しています。前回も各グループでいろいろなご意見をちょうだいすることができました。 ・ 新しく地域に住まれた方が,地元を理解できるようなマップにしようというご意見や,「ここに住んでいてよかった」と思えるマップにしようというご意見がありました。 ・ 1200年もの歴史は何層にも重ね合わせることで整理しなければいけないというご意見もありました。 ・ "水"をテーマにまちあるきをしようという意見が出されていたグループもありました。 ・ 範囲が広いのでゾーン別にしてはどうかということもおっしゃっていただきました。 ・ 御池通の由来を大切にしようということもおっしゃっておられましたし,身近な歴史や個人の思い出,建物などを紹介したい,将来に向けて何があればいいか話し合うマップになど,様々なご意見が出されていたと思います。 ・ 今日はまちで皆さんが気づかれたことをたくさん持ち帰ってください。 2 まちあるき 3つのゾーンに分かれてまちを歩きました。<千本~堀川><堀川~烏丸><烏丸~鴨川> 3 発表(発表順) <3班:千本~堀川> ・ 私は御池通の東の方に住んでいるのですが,今回は興味があって西の方を歩きたいと思い,この班に参加しました。 ・ 東側は高層マンション街ですが,西側にはほとんど高い建物がなく,対照的に感じました。 ・ まちにごみが落ちていなくてきれいで,お地蔵さんの手入れもされていて,住んでいる人の人情や温かさを感じました。 ・ この地域の特徴は,二条城があり,その南側に神泉苑があること,水が豊富なこと,染屋や薪などの燃料屋が多いことです。二条の駅に昔貨物がたくさん集まってきたので,そこから燃料屋が発達したのではないかということでした。 ・ 一緒に歩いたこの地域の方はおそろいの紫色の裃を着ておられますが,こういう取組を通じて人間関係を築いておられるのだと思いました。自分の住んでいるまちのことも

[22] 勧進橋, , http://web.kyoto-inet.or.jp/people/toyosima/bunkazai/kanjinbashi/kanjinbashi.htm

京都駅から竹田街道(24号線)を南に向かうと、久世橋通りで鴨川を渡る。

この鴨川にかかる橋を勧進橋という。

「勧進」というのは勧進帳でも有名なようにお寺などの建立や修理のために寄付を募ることだが、勧進橋もかつては渡り賃を取られた私有の橋で、渡り賃は伏見稲荷大社の改修費用に充てられたという。

渡り賃を取られる橋を昔は「銭取橋」といい、今でもこの名前を残す橋は各地に残るが勧進橋も幕末の頃はこう呼ばれていた。

位置的には昔の洛外にあたり、あまり歴史とは関係のないような橋だが新撰組活動史の中に2回ほど登場する。

最初は元治元(1864)年6月、池田屋事件に怒った長州勢が大挙して京へ押し寄せてきた時、会津藩兵や見廻組など幕府諸隊が九条河原に布陣したが、新撰組も銭取橋下に誠の旗を翻して布陣し、これが蛤御門の変に繋がっていく。

次は慶応2(1866)年6月、それまで新撰組の中で高い地位にあった武田観柳斎が薩摩藩と内通していたとして斎藤一に斬られた場所がこの銭取橋であったらしい。

当時は欄干もないような小さな橋だったようだが、明治時代には路面電車も通るようになって、かなり大きな橋になった。

写真は明治37年8月に開通した路面電車が勧進橋を渡るところを撮ったものだが、手前に歩行者用、後方に電車用と道が分けてあるのが判る。

以前は橋の東端から遠く左大文字も望めたが、1997年の京都駅の改修により見えなくなった。また昭和50年代までは周りは大きな染織工場などあったが、大規模マンションがができたり平成23年に阪神高速8号京都線という高速道路ができたりで、工場が無くなりすっかり景色が変わってしまった。

[23] 京都風光*勧進橋, , http://www.kyotofukoh.jp/report99.html

竹田街道に通じる勧進橋は、かつて会姓寺橋(かいしょうじばし)、銭取橋(ぜにとりばし)とも呼ばれた。

◆歴史年表 江戸時代、1633年、竹田村の百姓より架橋の願書が出される。また、同年、私設の板橋が架かり、橋詰に小屋があり通行人から一銭の通行料を取ったことから、俗称として「銭取橋」と呼ばれたともいう。(「奥田家文書」)

1864年、6月27日、禁門の変の際に、長州軍入京に対して幕府諸隊は橋東詰の九条河原に、新撰組は橋下に布陣している。(「幕府諸隊宿陣図」)。土方歳三、永倉新八、沖田総司、武田観柳斎が出陣したという。ここで20日以上宿陣を張る。

1867年(1866年とも)、6月22日(旧暦)、新撰組5番隊組長・武田観柳斎は、近藤勇との酒宴後、伏見の薩摩邸に帰る途中、橋を渡り切ったところで暗殺された。新撰組の剣術指南役・斎藤一、武田と親しかった篠原泰之進により、背後から大袈裟により斬殺されたという。

近代、明治30年代(1897-1906)、京電が路線拡張し、勧進橋が架橋され市電が川を渡っていた。

1947年、架け替えられる。

◆武田観柳斎 江戸時代後期の新撰組隊士・武田観柳斎(?-1867)。出雲国母里藩士の子。医学生ともいう。脱藩後、江戸・甲州流軍学(長沼流)を修める。1863年新撰組に参加。1864年副長助勤、のち五番組組長、文学師範、軍事方。1864年池田屋事件では古高俊太郎を捕縛する。御陵衛士・伊東甲子太郎、薩摩藩と接触を企てたとされる。武田は尊攘派であったため新撰組除隊後に暗殺されたともいう。ただ、隊士により油小路竹田街道で暗殺されたともいう。詳細不明。

◆市電 勧進橋の南詰、鴨川の東を走る竹田街道に市電の勧進橋電停があった。

京都市電稲荷線(1904-1970)は、日本最初の営業電車路線として開業している。当初、京都電気鉄道伏見線、その後京都市電稲荷線になる。京都市電唯一の専用軌道(勧進橋-稲荷)で、途中に電停はなかった。

勧進橋 架設年1947年 橋種 3径間連続鋼プレートガーター 橋長88.7m 幅員19m

*参考文献 『京の橋ものがたり』『京都新選組案内』『新選組大事典』

旧前川家

[24] くわはた - 今出川/焼肉 [食べログ], , http://tabelog.com/kyoto/A2601/A260202/26017479/

予算

~

営業時間

指定なし

ランチ

夜10時以降入店OK

夜12時以降入店可

始発まで営業

朝食

目的・用途

指定なし

友人・同僚と

デート

接待

宴会・飲み会

家族・子供と

一人で

こだわり条件を追加する

コース

食べ放題あり

3000円以下のコースあり

3000円~4000円のコースあり

4000円~5000円のコースあり

5000円~8000円のコースあり

8000円~10000円のコースあり

10000円以上のコースあり

サービス

2時間半以上の宴会可

お祝い・サプライズ可

ドリンク持込可

ソムリエがいる

子供可

ペット可

テイクアウトあり

特典

クーポンあり

プレミアムクーポンあり

無料電話予約あり

キャンペーン対象(Tポイントなど)

[25] 京都人 の密(ひそ)かな愉(たの)しみ 夏(真名ちゃんの純粋な至高の水&バリスタ茶人の究極の水): ミーハーライフ, , http://mhlife.seesaa.net/article/424226872.html

8月15日に、NHK・BSザ・プレミアムで、正月放送の「秋編」に 続き、第二弾とも言える、涼やかな「水」をテーマに切り取る「夏編」、 「京都人 の密(ひそ)かな愉(たの)しみ 夏」が放送されました。 ★ 主なキャスト 和菓子処「久楽屋 春信」若女将・沢藤三八子 (常盤貴子) 三八子の母・沢藤鶴子役(銀粉蝶) エドワード・ヒースロー(団時朗) 訳ありの雲水役・三八子の異母弟(深水元基) ヒースローの前に現れた謎の女(シャーロットケイトフォックス) ◎ 京都人物語其の一・真名井の女 柄本佑(八神鑿泉(さくせん)工業・専務・八神湧一) 中越典子(専務を慕う小料理屋屋女将&鉄輪の井の化身) 川島海荷(専務を慕う八神鑿泉事務員・真名&真名井の井の化身) ◎ 京都人物語其の二・珈琲 夢 夢譚(むたん) 叢林(そうりん)流茶道家元(柄本明) 家元長男バリスタ茶人 (眞島秀和) 家元次男(中村倫也) 妙心寺塔頭天球院住職(西田健) 【アナウンサー】松尾剛、井上あさひ【料理人】大原千鶴 貴船神社 ★ 貴船神社(御神水) (番組冒頭水を汲んでいた神社) 水の神様として知られ、読み方も濁らず「きふね」と言い 本宮の社殿前の石垣からこんこんとあふれ出ている御神水(ごしんすい) は、 聖なる山・貴船山より湧き出しています。 料理旅館 右源太 ◎ 貴船右源太(貴船の川床) 貴船神社周辺は、夏の風物詩である「貴船の川床(料理)」と知られ、 撮影協力していた料理旅館で、ちなみに左源太と言うお店もあります。 御霊神社 ★ 御霊(ごりょう)神社 上御霊(かみごりょう)神社とも呼ばれ、三八子が雲水と会っていた 場所は、境内にある福寿稲荷神社で、雲水は恋人でなく、、三八子の 異母弟と判明、実はこの神社は、時代劇の江戸市中シーンで よく使われる場所でもあります。 ◎ 茅の輪くぐり ヒースローが十年がかりで会得した茅の輪くぐりの作法。 6月30日の「夏越祓」、大晦日の「大祓」と年2回あり、 各地の神社で行われる行事です。 興聖寺 ★ 興聖寺(雲水・三八子の異母弟が修行する寺) 宇治市にある曹洞宗の寺院で、参道は「琴坂」と称し、 宇治十二景の1つに数えられています。 ★ 和菓子処「久楽屋 春信」 若女将・沢藤三八子のお店の撮影場所となっているのが、 上京区室町通にある有名な老舗和菓子店・俵屋吉富さんの

[26] 伏見港 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BC%8F%E8%A6%8B%E6%B8%AF

伏見港(ふしみこう)は、かつて京都府京都市伏見区に存在した河川港。1950年代頃まで、京都と大阪(大坂)を結ぶ水運の拠点として栄えた。

桃山時代の1594年(文禄3年)、豊臣秀吉は宇治川の治水および流路の大幅な変更を目的として、一般に「太閤堤」と呼ばれる槇島堤や小倉堤の建設をはじめとする大規模な工事を前田利家らに命じて行ったほか、宇治橋の撤去および巨椋池を介した交通の要衝であった岡谷津[1]・与等(淀)津の役割の否定、さらに小倉堤の上に新設した大和街道と城下を直結する位置に肥後橋[2]を設けたことにより、陸上および河川の交通を伏見城下に集中させた。伏見には、宇治川と濠川(ごうかわ、ほりかわ)を結ぶ形で港が設けられ交通の要衝となり、三十石船が伏見と大坂の間を行き来した。[3]

江戸時代には角倉了以・素庵父子が高瀬川を開削し京都と伏見が結ばれたことから、港の役割はさらに増した。幕府の伝馬所(問屋場)も置かれ、参勤交代の大名が立ち寄るために本陣や大名屋敷も置かれていた。幕末期には坂本龍馬が伏見港の船宿である寺田屋を常宿としていたのは有名である。

明治時代に入り、琵琶湖疏水(鴨川運河)が開通すると疏水とも接続し新たな水運のルートが拓かれたほか、宇治川も新たに開削されたことから琵琶湖への大型船の就航が可能となり[4]、大阪や琵琶湖へ蒸気船(外輪船)が就航した。また、日本初の電車である京都電気鉄道伏見線(後の京都市電伏見線)が港と京都市内を結ぶために建設された。1929年、宇治川の堤防が整備され宇治川と濠川に水位差が生じたため三栖閘門が建設されている。

蒸気船による水運は京都市と大阪市などを結ぶ鉄道が開通したあとも運賃が低廉だったことなどから一定の需要があったが、大峯ダム[5]の建設や京阪本線の開通による淀川(宇治川)での水運の衰退とともに港も衰退した[6]。第二次世界大戦後はほとんど使用されず放置されていたが1967年、跡地を埋め立てて公園とする都市計画が決定され事業化されたことにより港湾機能を喪失した(但し、法制上は引き続き地方港湾としての港格が残っている[7][8])。現在は、公園内に港湾施設の復元模型があるほか、濠川から三栖閘門の周辺は遊歩道が整備され観光用の十石舟が運航している。※観光船については、伏見十石舟を参照。

周辺には京橋・表町・柿ノ木浜・金井戸・北浜・西浜・

[27] 巨椋池 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B7%A8%E6%A4%8B%E6%B1%A0

巨椋池(おぐらいけ)は、京都府の南部、現在の京都市伏見区・宇治市・久御山町にまたがる場所にかつて存在した池。規模からいえば池よりも「湖」と呼ぶ方がふさわしく、現在「池」と呼んでいる最大の湖沼である湖山池よりも広かった。

豊臣秀吉による伏見城築城期の築堤をはじめとする土木工事などにより時代によって姿を変え、最終的には1933年(昭和8年)から1941年(昭和16年)にかけて行われた干拓事業によって農地に姿を変えた。干拓前の巨椋池は周囲約16キロメートル、水域面積約8平方キロメートルで、当時京都府で最大の面積を持つ淡水湖だった。

巨椋池の姿の変遷 [編集]

巨椋池の形態に大きな変化を与えた事業によって、いくつかの段階に分けて考えることができる。

古代から秀吉の伏見築城期まで [編集]

宇治川が京都盆地に流れ込むところは、京都盆地の中でも最も低いところに位置しており、琵琶湖から流れ出る唯一の河川である宇治川は、京都盆地へ流入する平等院付近から、京都盆地の西端にあった木津川、桂川との合流点の上流側にかけて広大な遊水池を形成していた。これがこの時代の巨椋池である。

平安京と平城京の間に位置しており、古代、中世を通じて、水上交通の中継地として大きな役割を果たした。また陸上交通は、巨椋池を避けるように盆地の外縁部を通っていた。

巨椋池の北側には多くの島州が形成されていた。現在も残る槇島や向島などの地名はそこが池に囲まれた島だったことに由来する。

秀吉の伏見築城期から明治まで [編集]

天下統一を果たした豊臣秀吉は、晩年伏見城を築城し伏見に居を移した。 それに伴い宇治川(巨椋池)に堤防を築き、河川改修を行った。代表的なものは以下の3件である。

槇島堤の造築

宇治橋下流で巨椋池に直接流れ込んでいた宇治川を、槇島堤によって分離、新たに出来た宇治川の流路は伏見城下に導かれ城の外濠の役割を果たすとともに、水位を上げたことにより城下に港の設置を可能にした。これによって、秀吉が設けた二つの城、大坂城と伏見城を水運で結ぶこととなり、政治都市伏見の繁栄を招いた。築造には前田利家が当たったと伝え、当時は左岸側のみが築造されたと考えられている。このことにより右岸側には洪水の危険を齎すこととなるが(実際、のちに木幡池など多くの池沼が右岸側に生まれた)、秀吉はそうした不都合を顧慮することなく、さらには追い

[28] 梨木神社境内にマンション計画 京都御苑の東隣 : 京都新聞, , http://www.kyoto-np.co.jp/top/article/20130911000014

マンション建設予定地となっている境内の駐車場(京都市上京区・梨木神社)

京都御苑の東隣にあり、ハギの名所として知られる梨木神社(京都市上京区)が境内の土地を業者に貸し、マンションの建設計画を業者が進めていることが10日、分かった。同神社は「本殿などの改修費用を借地料収入で確保する」と説明している。 計画では、境内約8100平方メートルのうち、参道があり、駐車場として使っている南側部分約2100平方メートルを、下京区のマンション開発業者に60年間の期限付きで貸す。業者は地上3階(最高部は13メートル)と地下1階で、35室の分譲マンションを建設し、2015年に完成する予定だ。 梨木神社は昨年、所属する神社本庁(東京都)に建設計画を伝えた。しかし、参道上に建設し、御所に近いため承認を得られず、同庁を離脱した。 多田隆男宮司(62)によると、京都三名水の一つとされる「染井の井戸」は現状のまま残る。神社は2011年、老朽化した築130年の本殿や拝殿などを約1億3千万円かけて改修。社務所や能舞台などの改修も予定しているが、寄進が集まっていない。 市によると、現地は高さ15メートル以下ならマンションなどを建設できる地域。都市計画法に基づく歴史遺産型美観地区のため屋根や軒の設置が必要で、周辺と調和した色合いにしなければならない。市眺望景観創生条例で京都御苑から見える眺望を建造物で阻害しないよう求めている。 梨木神社は1885年の創建。王政復古を唱え、明治維新の原動力となったといわれる三條実萬・実美の父子を祭神としてまつる。

【 2013年09月11日 08時30分 】

[29] 台風被害 亀岡駅 豪雨で水没。淀川 桂川 鴨川 宇治川 大和川の水位が危険。嵐山 渡月橋が冠水 - NAVER まとめ, , http://matome.naver.jp/odai/2137919844011476501

嵐山すごい事になってんな。桂川こんなに氾濫してたのか。。。。これは某友人が鳩を捕まえた場所の近くですな。 pic.twitter.com/Lay8hkTEZu

[30] 京都大学が運営する芦生森林鉄道を訪ねてみた(前編) - とれいん工房の汽車旅12ヵ月, , http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20100825/p1

鉄道関係の時事ネタを紹介するブログです。趣味の外縁部に転がっている、生活には役に立たない情報を中心に語ります。廃線、未成線、LRT、鉄道旅行、鉄道史、駅、遊覧鉄道、鉄道マニア、鉄道本書評、海外の鉄道、奥祖谷観光周遊モノレール、宮脇俊三、種村直樹、今里筋線、阪急新大阪線、三江線、西武線、マンガ、アニメ、読書...etc。

「鉄道未成線を歩く」など同人誌3点をただいま書店販売・通販中。http://d.hatena.ne.jp/katamachi/20121228/p1参照。

■[特殊鉄道]京都大学が運営する芦生森林鉄道を訪ねてみた(前編)

先日、ドライブがてら、というか別な目的があって、京都の最深部にある美山町......今は南丹市を訪れました。

美山というのは茅葺き屋根のたくさん密集している地域として観光バスも多数訪れるエリアです。その一部は重要伝統的建造物群保存地区に指定され、京阪神からの日帰りツアー、ドライブやツーリングなども頻繁に行われています。外国人旅行者御用達の「Lonely Planet Japan (Country Guide)」なんかにも載っているので白人さんなんかも見ることがあります。

だが、そのさらに奥にある芦生(あしゅう)という集落は知る人ぞ知る存在なんだと思います。

ここには、京都大学フィールド科学教育研究センターの森林ステーション芦生研究林というのがあります。

京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林http://fserc.kyoto-u.ac.jp/asiu/index.html

京都大学の芦生演習林

南丹市というのは自治体区分だと京都市右京区に隣接しているのですが、鴨川あたりの景色とはぜんぜん別物の山奥に位置します。

出町柳にある京都大学から60km。クルマで2時間くらい。公共交通機関だと、JR京都駅からJRバス高雄経由で周山に行き、そこから南丹市営バスを3本以上乗り継ぐ形になる。所用4時間〜6時間。美山の中心集落から少し行けば福井県若狭なんだし、まあ大変遠い所なんです。

演習林は大正時代から整備されてきた由緒ある学習施設で、芦生演習林として農学部系学生や研究者たちが様々な実験や研究をこの森の中で行ってきた。カモシカやニホンザル、イノシシなどが住む林の広さはなんと4,179.7ha。

ハイキング客や登山客の間で

[31] 信楽高原鉄道、廃線も視野 台風18号禍で甲賀市長 : 京都新聞, , http://www.kyoto-np.co.jp/shiga/article/20131002000187

台風18号による被害で橋脚などが流失し、運休が続いている滋賀県甲賀市の信楽高原鉄道について、同市の中嶋武嗣市長は2日の定例会見で、「存続そのものを決断しなければならない」と述べ、同鉄道の廃線も視野に入れていることを明らかにした。 中嶋市長は、同鉄道の運転再開について「大変、残念だが、復旧の見通しがたたない」とした上で、「安全性を考えた場合、80年前に造られた橋脚を全て点検、改修することも必要」とした。 同市長は9月26日に、太田昭宏国土交通相に同鉄道の再開支援を要請した。しかし、鉄道軌道整備法では事業費を国と自治体が25%、事業主が50%と規定しており、今年4月から上下分離方式で第3種鉄道事業者となった甲賀市は県の支援を得られない場合、最大で75%を負担しなければならない。 市によると、流失した杣川(そまがわ)鉄橋(延長95・69メートル)の橋脚1基の被害額は約3億5千万円。JR西日本に技術支援を要請する方針だが、同鉄橋の橋脚は5基あり、点検、改修となると膨大な費用が予想される。中嶋市長は「住民が『乗って残そう信楽線』と守ってきた鉄道で、乗るから何とかして、との強い熱意も理解できる。国、県の支援を期待するが、費用対効果も考えなければならない」と語った。最終的な決断の時期については、JR西日本の調査期間がどの程度になるか不明で、明らかにしなかった。 市の調査では、同鉄道の被害は杣川鉄橋の橋脚1本と橋桁2本のほか、線路盤陥没やのり面崩壊、土石流入など24カ所に及ぶ。9月16日から信楽駅-貴生川駅間は代替バスを運行しているが、運行経費は半年で約4000万円という。

【 2013年10月02日 23時28分 】

[32] 寺町通 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%BA%E7%94%BA%E9%80%9A

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。

出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2013年8月)

寺町通(てらまちどおり)は京都市の南北の通りの一つ。北は紫明通から南は五条通まで。途中の三条通で以北に比べ以南は西に少しずれており、真っ直ぐではないのが特徴。三条以北は平安京の東京極大路(ひがしきょうごくおおじ)にあたる。

都の東端の大路であったが、右京の衰退や相次ぐ戦乱等によって京都御所が移転してきたため、現在は京都御苑の東を限る通りとなっている。豊臣秀吉による京都改造によって天正18年、通りの東側に寺院が集められたことからこの名前になった。本能寺もこの時、現在の中京区元本能寺南町からこの通りに移された。寺町三条にある通りのずれは、ここに大寺である誓願寺が現在の上京区元誓願寺町から移されたため生じた。

寺を集めた目的は、税の徴収の効率化と京都の防衛であった。東の御土居に沿うように寺を配置することで東から進入する軍勢の戦意の低下をねらったと言われる。急遽移転させられた寺院の負担が大変であったことがフロイスの『日本史』に書かれている。鴨川に近く、狭隘な敷地が多かったためしばしば水害や火災に見舞われた。この頃、洛中北部にも、聚楽第の北辺を守る形で京都改造の一環として同じく寺院集中地区である「寺之内」が形成されたが、寺町と違って水害の不安の無い高燥地で、法華寺院のしかもいずれも大寺が配置されたため、寺町との環境の差は歴然としていた。このため、寺町の寺からは「奉行の前田玄以が法華宗だからいい場所を法華寺院に与えた」との不満が出たと伝えられるが、実際は寺町にも本能寺や妙満寺などの法華寺院が移されていた。相次ぐ火災に見舞われて江戸時代中期以降には寺地を寺町から洛東に移す寺院もあり、例えば真如堂も元禄の大火の後、寺町今出川付近から現在の左京区に移っている。

かつては南北方向の主要な通りの一つであり、今出川通から二条通にかけては京都電気鉄道寺町線(のちに買収され京都市電)の路面電車が走っていた。1920年代に河原町通が拡幅されると、市電のルートもそちらに移るなどメインストリートの座を譲った。市電の廃線後、しばらくは代わって市バスが通っていたが、それも廃止され、現在は騒音に悩まされることない静かな通りとなっている。

丸太町通から二条通までは、古

[33] 京都市電 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E9%9B%BB

京都市電(きょうとしでん)は、京都市交通局が運営していた市電(路面電車)である。1895年に京都電気鉄道によって日本最初の一般営業用電気鉄道として開業され、1912年の市営路線開設、1918年の全面市営化を経た後、1978年9月30日限りで全廃された。

概要[編集]

1895年(明治28年)、民間企業である京都電気鉄道により第1期区間が開業。日本最初の一般営業用の電車となった[1]。京都に日本初の電車が開業した背景には、国内に先駆けて(世界でも2番目ともいう)水力発電が行われたことが挙げられる。京都は東京奠都に伴って天皇の膝下という地位を失い、市民の間で衰退が懸念されたことから、その挽回策として政府からの下賜金をもとに琵琶湖疏水が計画された。当初水車に利用する予定であった水力が発電に使えると知った設計者田辺朔郎は、急遽渡米して世界初といわれる水力発電設備を調査の上、帰国後ただちに設計を変更して蹴上に水力発電所を建設した。だが、電力を得ても当時はまだ電灯の使用が見込めず、産業用動力としてもなじみがなかったため、結果的に路面電車が電力の唯一の使い道となった。

最初の路線は京都市南部の伏見から京都駅前付近までで、その後、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。岡崎で開催予定の内国勧業博覧会への足として、大阪から淀川を船で来る客を見込んでのこととされる。ただし、開業当初は京都駅付近の軌道が繋がっておらず、乗客は踏み切りを渡って乗り換えなければならなかった。また、開業当初には路面電車による交通事故を防止するため先導役の少年が電車の前を走りながら「電車、来まっせ。電車、来まっせ」と声を張り上げた。時には先導役の少年自身が電車に轢かれるという痛ましい事故もあったという。

その後、京都市によっても1912年(明治45年)の4路線7.7km開業を皮切りにして独自に路線建設がなされ、それと競合することになった京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、市へ1918年(大正7年)に買収された。

京都電気鉄道買収後、路線は戦後に至るまで延長され、最盛期は76.8km、車両351両(1957年度)の路線となった。乗客も増え1963年(昭和38年)には一日平均564,488人の利用があった。

しかしその後の自動車の普及により乗客の減少がつづき経営が困難とな

[34] 花の御所 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8A%B1%E3%81%AE%E5%BE%A1%E6%89%80

花の御所(はなのごしょ)とは、現在の京都府京都市上京区にあった足利将軍家の邸宅の通称(地図)であり、敷地は東側を烏丸通、南側を今出川通、西側を室町通、北側を上立売通に囲まれた東西一町南北二町を占めた[2]。京都御所(地図)がある京都御苑の北西、烏丸今出川交差点を挟んで斜め向かいの一角に位置した[3]。

概要[編集]

元の室町家の花亭と今出川家の菊亭を併せて1つの敷地としたため、広大な敷地を有する邸宅となった。

現在の同志社大学今出川校地の烏丸通を挟んで向かい側の場所にある同志社大学・寒梅館以南に位置していた。名残としては、邸内に建てられた岡松殿に始まる大聖寺が現存する。

室町通に面して正門が設けられたことから室町殿、室町第とも呼ばれた。この将軍の居所にちなんで足利将軍(家)の事を「室町殿(室町家)」と呼ぶ時もある。更に古くより将軍の居所は「幕府」と呼ばれる事があり、すなわち「室町幕府」である。江戸時代中期より武家政権の名前として幕府の用語が使われるようになり、足利家の政権を「室町幕府」と呼称するのはこれに由来している。また、北小路室町にあることから北小路亭とも呼ばれた。ちなみに北小路とは現在の今出川通のことである。

沿革[編集]

南北朝時代、後醍醐天皇と対立して京都に武家政権を開いた足利尊氏は、北朝を後見するため二条高倉[† 1]に住み、2代将軍の足利義詮は父の命で鎌倉から京都に戻った際に足利直義が住んでいた三条坊門第に入った。この時の邸宅は観応の擾乱で焼失したために近くに仮の邸宅を置いていたが、将軍就任後に元の三条坊門第は、直義の鎮魂のために八幡宮とすることになり、自分はその東隣に新たな三条坊門第を造営した。八幡宮は現在の御所八幡宮のことである[† 2]。

花の御所と足利家との関係は足利義詮に始まる。義詮は、室町季顕から、その邸宅である花亭を買上げて別邸とし、のちに足利家より崇光上皇に献上された。崇光上皇の御所となったことにより花亭は「花の御所」と呼ばれるようになったが、しばらくして使用されなくなった。

3代将軍となった足利義満は1378年(天授4年/永和4年)に北小路室町の崇光上皇の御所跡と今出川公直の邸宅である菊亭の焼失跡地を併せた敷地(東西1町、南北2町)に足利家の邸宅の造営を始めた。同年元の菊亭部分の施設が完成すると直ちにそれまでの三条坊門第から移住した。

[35] 上京区 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%8A%E4%BA%AC%E5%8C%BA

上京区(かみぎょうく)は、京都市を構成する11区のうちのひとつ。市の中心部に位置し、かつての京都の北側に該当する。東側には鴨川が流れる。京都府庁もこの区に置かれている。

地理[編集]

区を構成する町:京都市上京区の町名

沿革[編集]

1879年(明治12年)4月10日 京都府に上京区ができる。

1889年(明治22年)4月1日 下京区と合併して京都市が発足。上京区と下京区は共に京都市の行政区となる。

1929年(昭和4年)4月1日 上京区と下京区の2区より左京区、中京区と東山区を分区する

1955年(昭和30年)9月1日 上京区から北区を分区する

教育機関・博物館・文化施設[編集]

小学校[編集]

京都市立室町小学校

京都市立京極小学校

京都市立新町小学校

京都市立西陣中央小学校

京都市立乾隆小学校

京都市立翔鸞小学校

京都市立仁和小学校

京都市立正親小学校

京都市立二条城北小学校

中学校[編集]

京都市立烏丸中学校

京都市立上京中学校

京都市立嘉楽中学校

京都市立二条中学校

私立同志社女子中学校

私立平安女学院中学校

高等学校[編集]

京都府立鴨沂高等学校

私立同志社女子高等学校

私立平安女学院高等学校

大学[編集]

京都府立医科大学

同志社大学

同志社女子大学

専修学校[編集]

裏千家学園茶道専門学校

京都建築専門学校

京都第二赤十字看護専門学校

京都保健衛生専門学校

京都美容専門学校

専門学校ビジネスカレッジ京都

バイオカレッジ京都

YMCA国際福祉専門学校

特別支援学校[編集]

京都市立北総合支援学校

廃校[編集]

京都市立待賢小学校 - 1997年3月31日 廃校

京都市立滋野中学校 - 2002年4月に上京中学校と京都柳池中学校へ分割統合

博物館[編集]

京都市考古資料館

京都市歴史資料館

茶道資料館

楽美術館

京菓子資料館

益富地学会館

国の行政機関[編集]

法務省

京都保護観察所

交通[編集]

鉄道路線[編集]

京都市営地下鉄烏丸線

(至国際会館駅) - 鞍馬口駅※ - 今出川駅 - (至竹田駅)

※鞍馬口駅は京都市北区との境界に位置する。

かつて存在した路線[編集]

京福電気鉄道北野線(一部廃線)

(至帷子ノ辻駅) - 北野駅※

※北野白梅町駅 - 北野駅間廃止により、1958年(昭和33年)に廃止となった。

道路[編集]

名所・旧跡・観光スポット

[36] 琵琶湖疏水クルーズ、3月から試験運航 大津-京都間 : 京都新聞, , http://www.kyoto-np.co.jp/sightseeing/article/20150126000158

琵琶湖疏水クルーズのコース

琵琶湖疏水で3月下旬から観光船の試験運航を実施する京都市や大津市などは26日、期間やコースなどの実施計画を決めた。3コースで行い、2月から参加者を募集する。通船が途絶えて60年以上たつが、今年は琵琶湖疏水の第1疏水が完成して125年の節目で、関係者は「先人が作り上げた歴史遺産を多くの人に知ってもらい、両市が活性化するよう本格実施につなげていきたい」としている。 試験運航は3月28日から5月6日までの土日祝日に行う。船は京都市上下水道局が所有する8人乗りの屋根付きモーターボートで、参加者6人が乗船できる。コースは、第1疏水の大津から蹴上(7・8キロ、運航約1時間)、大津から山科(4・2キロ、約30分)、山科から蹴上(3・6キロ、約30分)の3コースで、大津から京都方面の下りのみで実施する。1日につき、各コースで午前と午後に2便ずつ運航する。乗下船場は、大津は第1トンネル入り口付近、山科は安朱橋東詰、蹴上は旧九条山浄水場ポンプ室前に設ける。 参加者は小学生以上が対象で、1日あたり72人を募集する。参加費はコースにより1人2千円~千円(小学生は半額)。2月5日に両市などのホームページに募集要項を掲載する。本格実施は、参加者へのアンケートなどを踏まえ、議論を深める。 門川大作京都市長と越直美大津市長は26日、中京区の京都市役所で共同記者会見した。門川市長は「周辺地域のにぎわいや活性化に寄与すると思う。本格実施に向けてあらゆる努力を重ねていきたい」、越市長も「大津市民や全国、世界から来るみなさんに日本を代表する歴史的な遺産を堪能してほしい」と話した。琵琶湖疏水は1885(明治18)年に着工、5年後に第1疏水が鴨川合流点まで完成した。旅客や物資の運搬に利用されたが1951年に通船は途絶えた。試験運航の申し込みの問い合わせはJTB西日本京都支店TEL075(365)7721。

【 2015年01月26日 22時40分 】

[37] 竹田街道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E8%A1%97%E9%81%93

竹田街道(たけだかいどう)は、京(京都市中心部)と伏見(京都市伏見区)をつなぐ街道の一つ。京の七口の一つとしてあげられることもある竹田口から、旧紀伊郡竹田村(京都市伏見区竹田)を通り、伏見港へとつながっていた。 奈良街道や大坂街道の一部とも位置づけられる。

現在でもなお京都市中心部と伏見市街を結ぶとともに、奈良方面へとつながる国道の一部として主要な幹線道路となっている。

沿革[編集]

竹田街道は、江戸時代に拓かれたと言われる。車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が行われていた。その車石の一部が陶化小学校に残されている。 1895年に日本で初めての営業用の電気鉄道が、京都電気鉄道の手によってほぼ竹田街道に沿って京都駅から伏見京橋の間に敷設された。この路線は京都市電伏見線に引き継がれたが、1970年に市電全廃に先駆けて廃止された。 翌1971年に竹田街道は国道24号に指定された。

現在の道のり[編集]

現在は京都府道115号伏見港京都停車場線(竹田街道十条より深草加賀屋敷町までは国道24号との重複)が竹田街道と呼ばれている。同府道は、竹田街道八条から伏見の京都外環状線までを結んでいる。

東洞院通の延長上にあるが現在は京都駅で断絶しているため、京都駅の北側へは高倉跨線橋(通称・たかばし)によって塩小路高倉で高倉通とつながっている。

約1km東の山沿いを伏見街道が並行している。

交差する道路など[編集]

交差する道路などの特記がないものは市道。

交差する道路など

西←<竹田街道>→東

交差する場所

路線番号

烏丸五条から

(km)

[38] 神戸市文書館 源平特集:福原遷都 語句解説, , http://www.city.kobe.lg.jp/information/institution/institution/document/genpei/fukuhara/fu_kaisetu.html

◇平清盛(1118〜1181)

平安時代末期の武将で最高権力者。忠盛の長男で、父の死後、武門の棟梁としての地位を継ぐ。 父同様、鳥羽上皇の近臣として昇進するが、

保元の乱では後白河天皇方の中心的な武力として活躍した。 さらに平治の乱では熊野詣から引き返して源義朝を倒した。

以後、全国的な軍事警察権を掌握し、仁安2年(1167)には従一位太政大臣に至った。

翌年出家して摂津福原に別荘を造営し、そこに移って京都の政界からは引退する。しかし、

以後も平家一門の家長として発言権を維持しつづけ、大事には上洛して存在感を見せつけた。

清盛は当初、妻の妹で後白河上皇最愛の后であった平滋子(建春門院)を仲立ちとして、 後白河上皇の院政とは協調的な関係にあったが、

安元2年(1176)に滋子が没すると、両者の対立が表面化した。治承元年(1177)には、 清盛打倒の謀議の発覚で院の側近を処刑 (鹿ヶ谷事件)。

同3年に院の政策に反発してクーデタを決行、後白河院を鳥羽殿に幽閉した。 清盛は娘徳子の生んだ

安徳天皇を即位させ、本格的な平氏政権が発足するが、一方で後白河幽閉や強引な政治手法に対し、反発も強まってゆく。

治承4年、以仁王の乱が起こり、それを機に内乱状態が全国に広がり、各地で武士が挙兵した。福原から還都した後、反乱への対応につとめたが、

治承5年熱病にかかり、 64歳で没した。なお、『平家物語』などに白河法皇の落胤であったと記されているが、その昇進が異常なスピードであったことからも、

その可能性は高いと見られる。

→関連リンク 源平特集-人物解説

◇上皇

退位した天皇のこと。このころは幼い天皇に代わり、その直系尊属である上皇や法皇(出家した上皇)が政治に積極的に関与していた。

その中でも天皇家の家長を治天(治天の君)といい、退位した治天が政治の実権を握っている政治のあり方を院政という。

◇保元の乱

保元元年(1156)7月、天皇家・摂関家の内部対立から京都で起きた兵乱。久寿2年(1155)、近衛天皇が危篤状態に陥ると、後継の地位をめぐって、

近衛の異母弟・崇徳上皇の皇子である重仁を推す勢力と、崇徳の同母弟の雅仁親王の皇子である守仁を推す勢力が対立した。

近衛の生母である美福門院得子は、崇徳が治天となることで、自らの影響力が低下することを恐れ、近衛が没すると、鳥羽にはた

[39] 御池通 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%BE%A1%E6%B1%A0%E9%80%9A

この記事は検証可能な参考文献や出典が全く示されていないか、不十分です。

出典を追加して記事の信頼性向上にご協力ください。(2014年6月)

京都市の中心に位置する中京区の中央部を横断し、川端通 - 堀川通間は京都市内で最も通りの幅が広く、京都市は川端通から堀川通までをシンボルロードとして整備した[2]。地下鉄の東西線が走っている。

平安京の三条坊門小路にあたる。東は川端通から西は太秦の天神川通までの4.9kmであるが、途中二条駅前で行き止まりとなり、一筋北に通りがずれている。神泉苑の池の傍を通るためこの名前になったという説が現在広まっているが、江戸時代初期の1665年(寛文5年)発行の地誌『京雀』には「【三条坊門通】この筋を東にては八幡町通と云、…、西にては御池通と云、此筋室町に御池町あり、むかし鴨居殿とて御所あり、鴨の下居池の井ありける跡也とかや」とあり、神泉苑には結びつけていない。また、江戸時代中期の1762年(宝暦12年)発行の『京町鑑』には「此通の号は神泉苑の前通ゆへ斯くよぶ 又此通両替町人家の裏に御池の旧跡なりとて今讒(纔わずか)に残り池中に社等有とぞ」と両論併記している。これらから「御池通神泉苑起源説」は「御池」の痕跡が薄れ人々の記憶から失われた後に生まれた説である可能性が大きい。

今も烏丸御池付近には「御池之町」「龍池町」「二条殿町」の地名が残る。池も含めて二条殿の地は、二条関白家の邸跡で、織田信長の「二条新御所(二条城)」の故地でもある。この二条殿は『京雀』にいう「鴨居殿」が後に拡張された屋敷と見られ、『おもひまゝの日記』には池の中に「島々」や「五尺ばかりの滝」があったと記すから[3]、御池通の地名起源に相応しい大規模な池があったことが分かる。滝があったことは室町時代の洛中洛外図屏風にも描かれている。室町通御池上ルには「二条殿御池跡」の碑も現存する。「御池町」の名も文亀年間の文書に現れる。神泉苑の池は古来「池」でなく聖なる「泉」であったことを考慮すれば「御池通神泉苑起源説」は俗説とすべきで、「二条殿御池起源説」に従うべきだろう。

川端通 - 堀川通[編集]

東端の区間である川端通から堀川通の間は、第二次世界大戦時に沿道にあった家屋を防火帯として強制疎開させた跡なので、往復8車線の広い通りとなっている。以前は側道が設けられており、本線と側道の分離帯に

[40] ブラタモリで東京駅の地下にトンネル発見 ※ネタバレあり #未成道 #ロリ鉄 #東京駅 #ブラタモリ (2ページ目) - Togetterまとめ, , http://togetter.com/li/849555?page=2

どうも昭和40年代は幹線道路の交差点付近でアンダーパス空間の確保を行政指導されていたようで、記憶の中では港北NT各地(未完)や横浜市営地下鉄高島町駅(完成)とか。本件の委託工事で国鉄が営団に引き渡した構造物一式のうち、道路分は建設省(国道1号だから国だよね?)に行ったのだろうか。

[41] 北千住が「北干住」!? 千代田線の駅名標識にまさかの誤植判明(全文表示) - ニュース - Jタウンネット 京都府, , http://j-town.net/kyoto/news/localnews/209499.html?p=all

東京メトロ千代田線、北千住駅の駅名標識が「ちょっとおかしい」と話題になっている。北千住の「千」の字が、千ではなく「干」ではないか、という指摘が相次いでいるのだ。

その噂を聞きつけたJタウンネット編集部は、早速北千住へ向かった。現場で撮影した写真がこちらになる。

確かに、どうみても「干」の字としか見えないような......。これでは、「きたかんじゅ」である。

問題となっている標識は2015年7月はじめに新しく設置されたばかりのものだという。以前のタイプの標識では、このような指摘はとくに無かったそうだ。

「誤植では?」と東京メトロ広報部に聞いてみると......

北千住駅に設置された他の表示と比較してみても、「干」のように見えるのは、新しく設置された標識だけのようだ。

[42] 京都市の橋 部品に溶接不良 意図的か NHKニュース, , http://www3.nhk.or.jp/news/html/20150828/k10010208261000.html

京都市の国道に架かる橋の耐震補強工事に使われた部品に溶接が不十分なものが見つかり、国土交通省は、部品を製造した福井市の会社が意図的に不十分な溶接をしていた疑いがあるとみて調べています。

工事は、おととしから先月にかけて行われましたが、先月、「工事の部品に発注と異なるものが使われている」と匿名の通報が寄せられ、国土交通省が調べたところ、調査した80のうち58の部品で溶接が発注どおりに行われていませんでした。 部品を製造した福井市の久富産業は調査に対し「別の作業と時期が重なったため溶接工程の一部を省いた」と説明しているということです。 また、部品を検査した同じ福井市にある北陸溶接検査事務所は、久富産業から頼まれ、問題があるとする検査結果を報告しなかったと話しているということです。 国土交通省は、久富産業が意図的に不十分な溶接をし、北陸溶接検査事務所がそれを隠していた疑いがあるとみて、過去5年間の工事についても調べることにしています。 また、勧進橋は震度7程度の揺れに対する耐震性は保たれていて通行止めにはしないということですが、工事で使われた問題のある部品をすべて交換することにしています。 取材に対し久富産業は「責任者が不在で答えられない」、北陸溶接検査事務所は「調査中のため詳しい回答は控える」としています。

[43] 京都観光Navi:勧進橋, , http://kanko.city.kyoto.lg.jp/detail.php?InforKindCode=1&ManageCode=3000029

内容概要

伏見区と南区の境の鴨川に架かり国道24号が通る橋。勧進橋の名は、平安期に僧侶が勧進して集めた浄財でつくられた橋に由来し、ほかにもある。この橋の固有名詞になった経緯は不詳。旧五条橋も別名勧進橋といった。市バス勧進橋すぐ。

[44] 国道の橋、耐震補強に溶接不良 京都の24号勧進橋 : 京都新聞, , http://www.kyoto-np.co.jp/politics/article/20150812000147

国土交通省京都国道事務所は12日、鴨川にかかる国道24号勧進橋(京都市南区、伏見区)で、橋を補強する耐震部材に溶接不良が見つかったと発表した。震度7程度の耐震性はあるといい、通行止めにはしない。 溶接不良が見つかったのは、東京都内の建設会社が受注し、福井市内の下請け業者が製造した耐震部材で、2013~15年の耐震補強工事などで150基が取り付けられた。7月末に「溶接不良がある」という通報を受けた同事務所が今月4、5日に超音波調査できる80基を調べ、58基に溶接不良が見つかったという。 京都市も12日、同じ下請け業者の耐震部材を用いた京川橋(南区、伏見区)について、同様の通報があったことを明らかにした。これまで検査した28基のうち、3基で溶接不良が見つかったという。

【 2015年08月12日 21時58分 】

[45] 房総 笹川支流田代川を遡る ( 登山 ) - 降っても晴れても・・・ - Yahoo!ブログ, , https://blogs.yahoo.co.jp/nobuhiro_suzu/39718195.html

昨年地形図を見ていて気になるラインを発見しました。笹川湖の上流で元清澄山の西面に突きあげる沢で、名前がわかりません。田代川林道が近くを通っているということで、(仮称)田代川としてチャレンジします。調べても記録は全く未見です。

[46] 廃線レポート 元清澄山の森林鉄道跡 第3次探索編, , http://yamaiga.com/rail/motokiyosumi/main17.html

2017/2/7 8:08 【現在地】

果たして、“源流の隧道”は存在した。

スー氏のブログ で見た通りの姿だが、実際に目にした感激は褪せたものではなかった。 それに、今日の私は隧道を探しに来たのではなく、素性を調べに来たんだ。目前のご馳走に涎が出る。

位置は、スー氏の記事の通りでおそらく間違いはない。私が入渓した田代林道の橋から約800mの地点だ。

これは、田代林道の起点に近い本日のスタート地点からだと5kmを超える奥地であり、まして林道を用いずに(スー氏のように)田代川の谷を通ったならば、6kmは歩かねば辿り着かないだろう。

こうした数字は、今回の探索の動機でもあった、“未知の軌道4km”に対しては、少しばかり過剰である。

仮に、この隧道が軌道用であったならば、問題がある。それは、実際には6km以上も未知の軌道が存在したか、或いは途中に軌道の分断があったか、そもそも私が従来把握したと考えていた「7.5km前後」という数字の方に誤りがあったのか…。

正直なところ、変数となる仮定や可能性が多すぎて収拾がつかない。

全体像の把握をここで試みようとするのは、いささか思考の無駄といえそうだ。

無駄な思索は諦めて、今回ここへ来た最大の目的である、 “源流の隧道”が軌道に関係するものであるか否か を、調べることにしよう。

隧道の第一印象として、まずは軌道用として違和感ないサイズであると感じた。

これまで私が小坪井軌道で目にしてきた3本の隧道のうち、断面の大きさが判明している2本( 【小坪井沢奥の隧道】 、 【片倉ダム直下の隧道】 )と比較して、天井の高さも横幅も少し小さいような感覚はあるが、手押し軌道の隧道として不自然な小ささではない。

とはいえ、このようなサイズ感は、房総の河川に頻出する 川廻し の水路隧道であるとしても矛盾はないし、スー氏も(前回登場した切り通しと共に)川廻し用であろうと指摘している。

私としては、この隧道が軌道用であってくれれば嬉しいけれども、 軌道説を採るうえでの最大の難点は、隧道内を沢の水が普通に流れていること だと思っている。

今日は水量が少なく、隧道を水が流れていることの違和感は少ないが、スー氏の写真を見るとこれよりも遙かに水量が多く、坑口前には小さな滝と滝壷まで出来ていた。しかも上流からもたらされる沢の水の全量が隧道内へ導

[47] 天神川(紙屋川)開キ地区の不法占拠について/京都府ホームページ, , http://www.pref.kyoto.jp/sabo/1330927775154.html

天神川(紙屋川)開キ地区の不法占拠について

京都市北区衣笠の天神川(紙屋川)開キ地区は、一級河川天神川の上流にあり昭和28年に完成した砂防ダムの堆砂敷で河川区域でもある国有地になっており、ここに許可なく建物を建設することは河川法違反になります。しかしながら、このダムの建設後、住むところがなく困った方が、次第に集まり住み始めたものと思われます。

京都府としては、昭和30年代から建物の撤去などを指導してきたところですが、生活の基盤がないこと等から、居住者数は減少しているものの居住が続き、現在に至っています。(平成25年度の調査では28世帯54人、住居は46戸(うち空き家16戸))

また、最近の集中豪雨等により、ここ6年間で5回も浸水被害が発生している状況であり、もともと砂防ダム内であるため居住者の安全を確保できず、大雨時には増水や土石流の危険性があることを、お伝えしているところです。

京都府では、これまでも鴨川の陶化橋や桂川の新川地域といった大規模な河川敷における建物の対策に全力をあげ、これを解決してきたところですが、平成24年11月に、国、京都府、京都市の三者で構成する「河川敷地環境整備対策協議会」の部会を設置し、平成25年度には砂防課に「天神川環境整備担当課長」のポストを置き、「居住状況等調査」(聞き取り調査)と「測量調査」を実施し、また、平成26年度には2戸、平成27年度には7戸、平成28年度には4戸の空き家を撤去するとともに、毎週、現地訪問するなど粘り強く取組を進めているところです。

歴史的な経過や居住者の生活基盤の確保という課題もあるため、短期間での解決は困難な面もありますが、引き続き、居住者との意見交換を重ね、協議会の中で対策について協議・協力しながら、関係機関とも十分に連携し所要の対策を進めていくこととしています。

(平成27年1月30日公開、平成28年2月29日、平成29年1月20日一部修正)

履歴

[58] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24074289439025582

メモ