十津川村

十津川村

[1] 十津川村 (とつかわむら)

33.988504 135.792611

Webページ

[3] 十津川村 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E6%9D%91

十津川村(とつかわむら)は奈良県の最南端に位置する村。

[4] 小辺路 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B0%8F%E8%BE%BA%E8%B7%AF

小辺路は弘法大師によって開かれた密教の聖地である高野山と、熊野三山の一角である熊野本宮大社とを結ぶ道である。熊野古道の中では、起点から熊野本宮大社までを最短距離(約70キロメートル)で結び、奥高野から果無山脈にかけての紀伊山地西部の東西方向に走向する地質構造を縦断してゆく[1]。そのため、大峯奥駈道を除けば最も厳しいルートである[2]。(→#自然誌参照)

近世以前の小辺路は紀伊山地山中の住人の生活道路であり、20世紀になって山中に自動車の通行できる道路が開通してからも、おおよそ昭和30年代までは使用され続けていた。そうした生活道路が、熊野と高野山を結ぶ参詣道として利用されるようになったのは近世以後のことであり、小辺路の名も近世初期に初出する。小辺路を通行しての熊野ないし高野山への参詣記録は近世以降のものが大半を占め、近世以前の記録もいくつか確認されているが少数である。(→#歴史参照)

高野山(和歌山県伊都郡高野町)を出発した小辺路はすぐに奈良県に入り、吉野郡野迫川村・十津川村を通って柳本(十津川村)付近で十津川(熊野川)に出会う。柳本を発って果無山脈東端にある果無峠を越えると和歌山県側に入り、田辺市本宮町八木尾の下山口にたどり着く。ここからしばらくは熊野川沿いに国道168号線をたどり中辺路に合流し、熊野本宮大社に至る。(→#小辺路の峠参照)

古人のなかには全ルートをわずか2日で踏破したという記録もある[3] が、現在では2泊3日または3泊4日の行程とするのが一般的である[4]。日本二百名山に数えられる伯母子岳が単独で、または護摩壇山の関連ルートとして歩かれている[5] 他は交通至難であることも手伝って歩く人も少なく、静謐な雰囲気が保たれている。また、高野山から大股にかけてなど著しい破壊の見られる区間(後述)も若干あるものの、良好な状態の古道がまとまって残されている[6] 点も評価されている。

ただ、全ルートの踏破には1000メートル級の峠3つを越えなければならず、一度山道に入ると長時間にわたって集落と行き合うことがないため、本格的な登山の準備が必要で、冬季には積雪が見られるため、不用意なアプローチは危険と言われている[7]。

歴史[編集]

開創[編集]

高野・熊野の2つの聖地を結ぶことから、小辺路は『修験の道』[8] としての性格をも帯びており、修験宿跡や廻峰記念額

[5] 奈良・十津川村 なぜ「東京弁」(謎解きクルーズ) :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXLASIH25H01_V20C14A9AA1P00/?df=2

古代から、十津川村は独自の歴史を歩んできた。672年、大海人皇子(おおあまのみこ、後の天武天皇)が大友皇子(おおとものみこ)の軍勢を破った壬申(じんしん)の乱では、十津川郷士と呼ばれた集団が出兵。戦功をあげて公租を免れる免租地となり、それは明治維新の地租改正まで1200年も続いたという。地勢と、藩に頼らない自治権が長く認められたことが自主独立の精神、独自の言語を育んだのだろう。 方言分布では、民俗学者の柳田国男が唱えた「方言周圏論」が知られる。都を中心に方言が同心円状に分布しているという説だ。松本清張の推理小説「砂の器」で、島根県出雲地方に東北弁に似た方言が存在し、事件解決の重要な鍵となり有名になった。 奈良出身の中井教授は「近畿でも日本海側には東京式アクセントの地域がある」と指摘。その上で、「十津川村は直線では都からそれほど遠くないが、険しい地形を考えると実質的な距離は遠い。そう考えれば周圏論が当てはまる」とみる。 △ △ △ 十津川村が京阪式アクセントではない背景は見えてきたが、なぜ東京式なのか。考えを巡らせていると、松実さんが「あくまで仮説」と前置きして話し始めた。「南北朝から室町時代、都で多くの戦があった。足利尊氏と戦った新田義貞軍など関東武士も多く、南へ南へと逃れた落ち武者が十津川村にたどり着き、関東の言葉を広めた」 十津川村には落ち武者の伝承や痕跡が数多い。源義経が逃れたという説や、平維盛の墓とされるほこらが存在。「楠木正成の孫に当たる楠正勝、織田信長に仕えた佐久間信盛の墓所がある」(村観光振興課)。幕末には天誅組の変に加わった十津川郷士に象徴されるように、代々剣道が盛んな土地柄。武骨な関東武士の気質が受け継がれたと想像することもできる。 深い緑と谷に囲まれた十津川村は独自の言葉を守り、壮大な時のロマンが流れる土地だった。心を弾ませ帰りのバスに乗り込んだ。 (大阪・文化担当 多田明)

[6] 奈良・十津川村 なぜ「東京弁」(謎解きクルーズ) :日本経済新聞, , http://www.nikkei.com/article/DGXLASIH25H01_V20C14A9AA1P00/

新潟県出身の記者が何気なく方言関係の雑学本を読んでいたら、「奈良県十津川村で東京弁が話されている」という記述に目が留まった。関西弁は近畿であまねく使われていると思っていたからビックリ。なぜそうなったのか。興味をかき立てられ、奈良の最奥部に向かった。

JR五条駅(奈良県五條市)を降り、奈良交通の路線バスに乗る。近鉄大和八木駅(同橿原市)とJR新宮駅(和歌山県新宮市)を6時間半かけて結ぶ全長166.9キロメートル、高速道路を使わない路線では日本一の長距離バスだ。峡谷沿いの断崖に張り付いた国道168号を縫うように走る。乗用車がすれ違うのもやっとの狭い場所も多い。 2時間ほどで十津川村の観光名所「谷瀬の吊(つ)り橋」に着いた。雄大な渓谷にかかる高さ54メートル、長さ297メートルと日本でも有数の長い鉄線つり橋だ。住民の生活道路として使われている。土産物店でちらしずしを買う。「300円です。ありがとうございます」。店員さんの言葉に関西弁のイントネーションは感じられない。 △ △ △ 村の教育委員で、郷土史に詳しい松実豊繁さんに話を聞く。「十津川村の人は東京式アクセントで話すので、周囲とは言葉の特徴が異なる言語島の一つと言われている」と教えてくれた。 関西弁の京阪式アクセントと標準語の東京式アクセントの違いでよく知られるのが、橋と箸だ。京阪式の橋は一音節を高く、二音節を低く発音。箸は一音節を低く、二音節を高く発音する。東京式は正反対になり、橋は低高、箸は高低のアクセントになる。 十津川村の人と話すと語彙は関西弁と同じ場合もあるが、東西で共通する言葉のアクセントは標準語と変わらない。そのため東京の人と話しているような感じがする。もっとも、松実さんによると、蛇を「ぐちなわ」と呼んだり、語尾に「~ね」の意味で「のら」を付けるなど、「関西弁とも東京弁とも違う独自の方言が少なくない」という。 富山大学の中井精一教授(日本語学)によると「奈良県北部は京都、大阪に近く、中世以降、交流も活発だった。一方、十津川村など南吉野は険しい山間地で往来は不便。そのため、独自の言語体系が発展した」という。

[7] 十津川郷士 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8D%81%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E9%83%B7%E5%A3%AB

十津川村 は南大和の村で、 神武天皇 東征 のとき道案内に立った 八咫烏 (ヤタガラス)を トーテム とする。 幕末 に御所警備の際、日の丸に「菱十(菱の中に十字)」の旗を頂き、それ以前の「丸十(丸に十字)」から、以後菱十紋を旗印とした。今日、十津川村および北海道の 新十津川町 のマークも同紋である。後述するような、むしろ特異とも言える独立独歩の精神からか、現在の十津川村も 平成の大合併 に際しても、最初から近隣のどの自治体とも合併する気などなかったと言われている。その背景として、十津川は独特の地理的歴史的環境から文化や言語の面でも独自性が強いことが挙げられる。民俗学者の 柳田國男 も、近畿圏にありながら 東京式アクセント であるその特色について注目している。

歴史 [ 編集 ]

古代~江戸時代後期 [ 編集 ]

古くから地域の住民は 朝廷 に仕えており、 壬申の乱 の折にも村から出兵、また 平治の乱 にも出兵している。これらの戦功によりたびたび税減免措置を受けている。これは明治期の 地租改正 まで続き、全国でもおよそ最も長い減免措置であろうと言われている。

南北朝 時も吉野の 南朝 につくしている。米のほとんどとれない山中ということもあり、 室町時代 になっても 守護 の支配下に入らなかったという。 太閤検地 時にも年貢が赦免された。 大坂の役 の際は十津川郷士千人が徳川方となり、近隣の豊臣派の一揆を鎮圧した。この功も合わせて、 江戸時代 に入っても大和の五條代官所の下で 天領 となり免租され、住民は 郷士 と名乗ることを許された。

以上のような経緯があり、十津川郷士は 純粋な勤皇 であり、 討幕 の意識は薄かったとされる。

険しい山に守られた稀有な歴史があり、古来より先述の南朝をはじめとして 源義経 など、貴種の流人、時勢の逃走者、表舞台への再起を志す者が多く辿り着く場所であった。

幕末 [ 編集 ]

幕末 になると、上平主税などを筆頭に勤皇の 志士 となるものも多く、また千名を超える兵動員力を期待され、過激派 公家 の思惑などから 薩摩 、 長州 、 土佐 等と並んで宮廷警護を命ぜられた。 天誅組の変 の際には多くの郷士が参加していたが、装備の古さや 天誅組 側の戦略の無さなどから劣勢であり、朝廷より「天誅組は朝廷軍ではない」との正式判断が出されたため離脱。そ

[8] 国道311号線(2), , http://3koku.uroneko.com/nr311-452.htm

R311は熊野市大泊町の大泊海岸交差点でR42と合流すると重複して和歌山県新宮市方面に向かう。鬼ヶ城トンネルを抜けると熊野市市街地に入る。市街地といってもR42(R311)は七里御浜に沿って海岸線近くを通る。交通量の多いR42を5kmほど進むと立石南交差点に到着。ここでR311はR42から単独分岐。ここから先、終点となる和歌山県西牟婁郡上富田町までR42と接することはない。

立石南交差点から単独分岐したR311は、平坦な2車線道となって熊野市有馬町の町中を進んで行く。跨線橋でJR紀勢本線を越えると町から離れて郊外の田畑の中を進んで行く。r141(県道鵜殿熊野線)との交差点を越えてホームセンター横を通り過ぎると、緩やかな左カーブを描きながら市道を過ぎ、ほどなくして2車線坂道となって山間に入って行く。金山トンネル(L=97m)を過ぎるとアップダウンが続く2車線道となり、立石南交差点から約3kmほどで熊野市金山町のr52(県道御浜北山線)との交差点に至る。

[9] 奥吉野方言 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A5%A5%E5%90%89%E9%87%8E%E6%96%B9%E8%A8%80

奥吉野方言 (おくよしのほうげん)は奈良県南部、 十津川村 周辺で話される 日本語の方言 である。周囲とは特徴の異なる 言語島 となっている。奈良盆地の方言とは特徴が大きく異なる。( 奈良弁 も参照。)

アクセント [ 編集 ]

京阪式アクセント である 近畿方言 の中にあって、奥吉野方言は内輪 東京式アクセント である。京阪式アクセントとの隣接部では 垂井式アクセント 等が分布する。

文法 [ 編集 ]

近畿方言と共通する特徴の他、独自のもの見られる。

断定助動詞は他の近畿方言と同じく「や・じゃ」であるが一部「だ」も見られる。十津川村・下北山村には「かあて(書いて)」「なあて(泣いて)」のような音便がある [1] 。天川村洞川には「とんだ(研いだ)」「つんだ(注いだ)」のようなガ行撥音便があり、天川村坪内にはその前段階とみられる「とい ん だ」、黒滝村桂原には両者を合わせた「とんだ/といんだ」がある [2] 。十津川村・旧大塔村・下北山村には「のおで/のお ん で/のおんで(飲んで)」のようなバ・マ行ウ音便がある [3] 。またサ行イ音便は天川村洞川では徹底して音便化する [4] 。

脚注 [ 編集 ]

^ 飯豊毅一・日野資純・佐藤亮一編『講座方言学7 ―近畿地方の方言―』国書刊行会、1982年、118頁。

^ 飯豊・日野・佐藤編 (1982)、131頁。

^ 飯豊・日野・佐藤編 (1982)、132頁。

^ 飯豊・日野・佐藤編 (1982)、131頁。

[10] 国道311号 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9B%BD%E9%81%93311%E5%8F%B7

概要[編集]

田辺市・尾鷲市間では国道425号が並行しているが、国道425号が狭路のため迂回路として利用される。海岸沿いを走る国道42号線と共に紀南地方の主要道路の一つであり、1999年(平成11年)の南紀熊野体験博開催に向けて道路整備、拡幅が行われた。

奈良県を僅かながら通過しているが、国道169号重複区間を含む奈良県域の道路管理は和歌山県東牟婁振興局新宮建設部が担っている。 阪和自動車道として高速道路が南紀田辺インターチェンジまで開通する以前までは大阪方面(和歌山市内)から紀伊半島南部や尾鷲方面に行く手段として、海岸線の国道42号は大型トラックや信号機、一般車輛の交通量が多い為に信号機が数機しか無い国道424号、国道168号を経てこの国道311号に突き当たり西に白浜温泉、東に尾鷲と走る事が可能なショートカットの道路として地元では有名であり、この道路を別名サンピンピンとも呼ばれている。 国道311号は熊野川付近の大日山トンネルの北側出口(緯度33.826043度 経度135.776487度)途切れ国道168号になる。また再び(緯度33.878050度 経度135.861120度)国道311号が現れ尾鷲方面に行く事が出来る。

路線データ[編集]

一般国道の路線を指定する政令[1]に基づく起終点および経過地は次のとおり。

起点:尾鷲市(大字南浦字矢ノ川長尾1980番2地先[2]:新矢ノ川橋西交差点=国道42号交点)

終点:和歌山県西牟婁郡上富田町(岩崎交差点=国道42号交点)

重要な経過地:熊野市、和歌山県東牟婁郡熊野川町[注釈 1]、同郡本宮町[注釈 2]、同県西牟婁郡中辺路町[注釈 2]

路線延長:160.6km(実延長129.7km)[3][注釈 3]

三重県区間:85.8km(実延長72.9km)

和歌山県区間:71.8km(実延長54.1km)

奈良県区間:3.1km(実延長2.7km)

指定区間:国道42号と重複する区間[4]

歴史[編集]

1970年(昭和45年)4月1日

一般国道311号(尾鷲市 - 和歌山県西牟婁郡上富田町)として指定。

路線状況[編集]

バイパス[編集]

曽根梶賀バイパス(三重県尾鷲市)

本宮バイパス(和歌山県田辺市本宮町)

中辺路バイパス(和歌山県田辺市中辺路町)

上富田バイパス(和歌山県西牟婁郡上富田町)

別名[編集]

熊野街道

[11] 新十津川町 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%8D%81%E6%B4%A5%E5%B7%9D%E7%94%BA

町名の由来 [ 編集 ]

1889年に起きた 奈良県 吉野郡 十津川村 での 十津川大水害 の被災民がトック原野に入植し新十津川村と称した。この関係で十津川村とは同じ町(村)章を用いている。

地理 [ 編集 ]

北海道 空知総合振興局 管内のほぼ中央に位置し、東部は石狩川と空知川の合流部、石狩川右岸、西部は 暑寒別岳 を中心とした暑寒連峰がある。

山: 奥徳富岳 、南暑寒岳、 ピンネシリ 、 待根山 、徳富(トップ)岳、鷲峻岳、留久(ルーク)山、壮志岳、 察来山 、大滝山、知来岳、総富地(そっち)岳

河川: 石狩川 、徳富(トップ)川、尾白利加川、ワッカウエンベツ川、ルークシュベツ川、幌加徳富川、樺戸川、樺戸境川

湖沼:袋地沼、留久貯水池、暑寒湖、和歌貯水池、南幌加貯水池

隣接している自治体 [ 編集 ]

空知総合振興局

滝川市

砂川市

樺戸郡 浦臼町

雨竜郡 雨竜町

空知郡 奈井江町

留萌振興局

増毛郡 増毛町

石狩振興局

石狩市

石狩郡 当別町

歴史 [ 編集 ]

1889年 奈良県吉野郡十津川村水害遭難、壊滅。

1890年 600戸2489人がトック原野(徳富川流域)に移住。<新十津川開村>

1902年

滝川村(現・ 滝川市 )と結ぶ石狩川橋(初代)、道内初の鋼トラス道路橋として竣工。

4月1日 新十津川村、二級町村制施行。

1907年4月1日 新十津川村、一級町村制施行。

1931年10月10日 札沼北線、 石狩沼田駅 - 中徳富駅(現・新十津川駅)間開通。

1935年10月3日 札沼線 全通。

1943年10月1日 札沼線部分(新十津川町内も含む)休止。

1953年11月3日 札沼線部分(新十津川町内も含む)営業再開、中徳富駅が新十津川駅に改称。

1957年1月1日 新十津川村、町制施行。「新十津川町」。

1972年6月19日 札沼線、新十津川駅以北廃止。

1990年 開基100年。

2000年 総進不動坂遺跡における発掘品捏造事件発覚。

2002年 滝新橋竣工。

経済 [ 編集 ]

産業 [ 編集 ]

農業:米

立地企業 [ 編集 ]

金滴酒造 株式会社

農協 [ 編集 ]

ピンネ農業協同組合(JAピンネ)

本所、花月支所

金融機関 [ 編集 ]

北門信用金庫 新十津川支店

郵便局 [ 編集 ]

新十津川郵便局

橋本郵便局

石狩大和郵便局

石狩吉野郵便局

履歴

[13] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24074289435862538

メモ