品川用水

品川用水

[1] 品川用水

Webページ

[2] 謎解き仙川用水その1ー品川用水上流部と深大寺用水下流部の母体~深大寺用水と入間川を紐解く(10) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/17636543/

謎解き仙川用水その1ー品川用水上流部と深大寺用水下流部の母体~深大寺用水と入間川を紐解く(10)��

2012年 03月 10日

【一部追記修正】3月10日、11日にかけ、記述・地図の追加、修正をしています。 今まで9回にわたって深大寺用水(一部入間川も)を追ってきたが、今回からは深大寺用水と入間川に関係の深い「仙川用水」と入間川の残る区間について取り上げていく。紛らわしいが「仙川用水」は「千川上水」とも「仙川」とも異なる、かなり古い時期に玉川上水より分けられた用水路である。 仙川用水とは 「仙川用水」は「上仙川村、中仙川村、金子村、大町村組合用水」とも呼ばれた玉川上水の分水で、現武蔵野市境で分水され、現三鷹市中部で入間川の中流部と仙川の(本来の)源流部に接続されていた。引かれた水は、仙川の源流部に広がる上仙川村(現三鷹市新川)の水田、入間川の中流沿いに広がる中仙川村(現三鷹市中原)の水田を潤し、また、入間川へ引き込まれた水は途中で再び別の用水路に分かれて、野川沿いの金子村(現調布市西つつじヶ丘)、大町村(現調布市菊野台)の水田を潤した後、野川に注いでいた。用水の開削時期は17世紀半ばと推定されるが、正確な時期はなぜか記録に残っていない。玉川上水より上仙川村に入るまでの区間は17世紀後半に「品川用水」に、そして下流の入間川から分かれて以降は明治初期に「深大寺用水東堀」に利用された。 下の地図で黄緑色のラインが仙川用水と品川用水の水路である。左上から右下に横切る青緑色のラインが仙川、右下のエリアが今まで取り上げてきた深大寺用水と、入間川の流れるエリアだ。

仙川用水と品川用水の関係 深大寺用水東堀については前回までの記事をみていただくこととし、ここでは「品川用水」について軽くふれておこう。品川用水は「戸越上水」を前身とする灌漑用水路だ。「戸越上水」は玉川上水開通(1654年)の10年後の1663年から1664年にかけて、品川領戸越、蛇久保両村入会地(現品川区豊町、戸越、東中延)にあった熊本藩細川家の下屋敷の庭内の泉池(現在の戸越公園と元国文学研究資料館 (過去記事参照) )の用水として、仙川用水からの分水のかたちで開削された。庭園のためだけに延々20km以上もの水路を開削した戸越上水だが、わずか2年後の1666年には廃止されてしまった。敷地内の湧水で事足りたからとも、

[74] 暗渠ハンター 内川の南馬込支流群: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-d364.html

(品川用水シリーズの途中ですが、違うトピックを挟みます。これも速報系ですねw)

内川については、当ブログでも何回か触れてきました。 初めて行ったときは 主に上流の流路の確認だったり。 次に行ったのは 開渠から暗渠になる付近だったり。

この二つの記事の間の流路は、 桜並木としてよく整備された道となっているのですが、 今回はその本流でなくその付近の支流、 特に内川の谷と、その南西に位置する本門寺の山の間にある いくつかの暗渠をご紹介していきます。 ここではこれらまとめて、内川の南馬込支流群、と呼ぶことにします。 一度にたくさんご紹介させていただきますので、 ぜひ今回はじっくりとご覧いただければ、と思います。 どうぞよろしくお願いいたします。

ひとつめはこちら。 地図中の南馬込支流①です。 南馬込6-24のブロックから、 隣のブロック6-19に延びる暗渠。 目視できるのは、6-24と20の間のところと、

隣の6-19と16の間でだけ。

ここ、ちょっと奥を覗きこんでみましょう。

そしてその西。 地図中の南馬込支流②です。 6-14と15の間にも短い暗渠が隠れています。

この左手の崖下の歩道から奥に。 歩道が尽きると金網に囲まれてしまいます。

その金網のさらに奥に蓋が続いていました。

残念ながら終点は未確認です。

地形からしてこれと繋がっているのかもしれないもう一つの暗渠。 地図中の南馬込支流③は、 さらに一つ西のブロックです。

道を隔てた6-9の空き地に現れる水路。

その行く先は、ブロックの反対側の、 高台の公園の崖下を縫って続きます。

しかし残念ながらこちらもこの先行方不明…。

圧巻は次。 地図中の南馬込支流④です。 北西に2ブロック辿ると、 梅田小学校がありますが、 なんとその校庭の端っこには細く深く抉られた小さな谷があり、 その奥は「はしご式開渠」になっていまいた。 これはびっくり。思わず声を上げてしまったくらいです。 (左側が小学校校庭です)

ちょっとアップで。

この開渠、校庭に沿ってまっすぐ北(内川方向)に行くのですが、 ぎっしり民家があってその後の流路は ブロック反対側でしか確認できません。 逆に上流方向は、暗渠はつながっているようなのですが 今回確認はできませんでした。

で、ブロック反対側で確認できるポイントがこれ。

多少油の浮いた、赤茶

[75] 1Q64 « 庵魚堂日乗, , http://tanken.life.coocan.jp/weblog2/?p=341

東海道新幹線の高架下。

そこをくぐっている水路を見に来ました。

内川の上流のひとつです。

1964-1 という刻印がくっきりと残った壁面。‥‥まあ鉄道高架が風化してボロボロだったら怖いんですけど。

東海道新幹線が開業したのがこの年の10月のことだそうです。

樹齢45年の雑草たち。

周辺情報ではなく、暗渠化された年がはっきり刻まれた物件って、ちょっと珍しいですね。

そもそも内川自体が、東京の河川の歴史を小さく凝縮したような側面を持っている一方で、今となってはなぜそこを流れているのか分からない、存在自体が謎の川。

そんなわけで、探ってみるとなかなか興味深いものが出てきます。

履歴

[79] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/24058370944435078

メモ