[1] 花咲町
投稿の中から、はまれぽ編集部もキニナルことを調査してお答えします! ぜひ投稿してみてね。(200文字まで)とうとう『旧三井物産横浜支店生糸倉庫』(旧日東倉庫)跡地に駐車場が完成しそうです。裏側に元々あった駐車場(倉庫跡地と同じ所有者)と繋げていました。もう、この跡地に何があったのか忘れてしまいそうなくらい...0330riさん海の公園の潮干狩り。例年に比べ、アサリの数が少なく、小さいものしかいません。なぜ今年はこんなにアサリがいないのか、調べて欲しいです。海の公園のアサリはシーズン前に捲かれているという噂、こちらもキニナリ...いちごらいおんさん
投稿の中から、はまれぽ編集部もキニナルことを調査してお答えします! ぜひ投稿してみてね。(200文字まで)
とうとう『旧三井物産横浜支店生糸倉庫』(旧日東倉庫)跡地に駐車場が完成しそうです。裏側に元々あった駐車場(倉庫跡地と同じ所有者)と繋げていました。もう、この跡地に何があったのか忘れてしまいそうなくらい...
0330riさん
海の公園の潮干狩り。例年に比べ、アサリの数が少なく、小さいものしかいません。なぜ今年はこんなにアサリがいないのか、調べて欲しいです。海の公園のアサリはシーズン前に捲かれているという噂、こちらもキニナリ...
いちごらいおんさん
桜木町駅 を野毛方面へ出て北西に進み、 紅葉坂 を登って神奈川県文化センターの脇を入っていったところに掃部山公園がある。「掃部山」は「かもんやま」と読む。このあたりは野毛山から続く丘陵の一部で、県立音楽堂の建つあたりから公園へと向かう道は東に視界が開けて眼下に花咲町の町並みが見え、その向こうにはランドマークタワーが間近に見える。 現在の掃部山公園のある丘には明治初期には鉄道建設のために来日した外国人技師たちの官舎があった。鉄道開通後も付近一帯は鉄道用地となっており、そのためこの丘は「鉄道山」と呼ばれていたのだという。 紅葉坂 の方から県立音楽堂の脇を抜け、公園入口の石段を登ると広場があり、広場の奥は一段高くなって井伊直弼の像が建っている。井伊直弼は幕末の開港期に於ける重要な人物で、「安政の大獄」や「桜田門外の変」などの歴史上の出来事などでもその名を知られる人物だ。 井伊直弼は彦根藩第11代藩主直中の14男として1815年(文化12年)に生まれている。青年時代までの直弼は政治の表舞台に立つこともなく、武芸や学問に励む身であったといい、特に茶道で秀でていたのだという。その直弼が政治の表舞台に登場するのは1850年(嘉永3年)、時の藩主直亮が亡くなった後に第13代藩主の座についてからだ。時代は1853年のペリー来航を迎えようとしていた時だった。 この時、幕政は将軍後継問題に揺れていた。時の13代将軍家定は病弱な人物で実子がなかった。慣例として御三家から後継が選ばれるわけだが、一橋慶喜を推す島津斉彬、松平慶永、水戸の斉昭らに対して、井伊直弼は譜代大名らと大奥とを味方につけて紀州藩主徳川慶福(家茂)を擁立した。一橋派と南紀派の対立が激化する中で、1857年(安政4年)、一橋派であった老中阿部正弘が病死、翌1858年(安政5年)に井伊直弼は大老に就任する。 実質的な幕閣最高位の地位を得た井伊直弼は独裁的に政策を断行、勅許を待たずに同年「日米修好通商条約」に調印、将軍後継を慶福に決定した。将軍後継の争いに勝利した井伊直弼は水戸の斉昭、尾張藩主徳川慶勝らの一橋派を処分、さらには攘夷派の志士や学者たちをことごとく弾圧した。「安政の大獄」である。吉田松陰が処刑されたのもこの時だった。 1860年(安政7年)、雪の中を登城途中であった井伊直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士ら18名
桜木町駅 を野毛方面へ出て北西に進み、 紅葉坂 を登って神奈川県文化センターの脇を入っていったところに掃部山公園がある。「掃部山」は「かもんやま」と読む。このあたりは野毛山から続く丘陵の一部で、県立音楽堂の建つあたりから公園へと向かう道は東に視界が開けて眼下に花咲町の町並みが見え、その向こうにはランドマークタワーが間近に見える。
現在の掃部山公園のある丘には明治初期には鉄道建設のために来日した外国人技師たちの官舎があった。鉄道開通後も付近一帯は鉄道用地となっており、そのためこの丘は「鉄道山」と呼ばれていたのだという。
紅葉坂 の方から県立音楽堂の脇を抜け、公園入口の石段を登ると広場があり、広場の奥は一段高くなって井伊直弼の像が建っている。井伊直弼は幕末の開港期に於ける重要な人物で、「安政の大獄」や「桜田門外の変」などの歴史上の出来事などでもその名を知られる人物だ。
井伊直弼は彦根藩第11代藩主直中の14男として1815年(文化12年)に生まれている。青年時代までの直弼は政治の表舞台に立つこともなく、武芸や学問に励む身であったといい、特に茶道で秀でていたのだという。その直弼が政治の表舞台に登場するのは1850年(嘉永3年)、時の藩主直亮が亡くなった後に第13代藩主の座についてからだ。時代は1853年のペリー来航を迎えようとしていた時だった。
この時、幕政は将軍後継問題に揺れていた。時の13代将軍家定は病弱な人物で実子がなかった。慣例として御三家から後継が選ばれるわけだが、一橋慶喜を推す島津斉彬、松平慶永、水戸の斉昭らに対して、井伊直弼は譜代大名らと大奥とを味方につけて紀州藩主徳川慶福(家茂)を擁立した。一橋派と南紀派の対立が激化する中で、1857年(安政4年)、一橋派であった老中阿部正弘が病死、翌1858年(安政5年)に井伊直弼は大老に就任する。
実質的な幕閣最高位の地位を得た井伊直弼は独裁的に政策を断行、勅許を待たずに同年「日米修好通商条約」に調印、将軍後継を慶福に決定した。将軍後継の争いに勝利した井伊直弼は水戸の斉昭、尾張藩主徳川慶勝らの一橋派を処分、さらには攘夷派の志士や学者たちをことごとく弾圧した。「安政の大獄」である。吉田松陰が処刑されたのもこの時だった。
1860年(安政7年)、雪の中を登城途中であった井伊直弼は江戸城桜田門外で水戸浪士ら18名
[6] この記事はSuikaWiki Worldで2015-05-15T09:47:17Zに作成されました。 2016-03-31T09:21:46Zに最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054563388718