大石橋

大石橋

[1] 大石橋

34.9795161706442 135.761151909828

Webページ

[2] 「九条竹田街道」。 なぜ「大石橋」? - ちょっと気になる京都の風景, , http://blog.goo.ne.jp/asashio82/e/5fc2644765b6346a269b6b95a72d6118

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ここは竹田街道を九条から少し下ったところ。この竹田街道には昔 京都市電の伏見線が走っていました。そう思って見て頂くと このカーブ、何となく線路のカーブに見えてきませんでしょうか?

さて、「九条竹田街道」(竹田街道九条でもいいのですが、ここでは十条竹田街道に倣って"九条竹田街道"と書きます)。この交差点はずっと昔から「大石橋」と呼ばれてきました。

市電が走っていた時、九条線と伏見線が交差する その停留所名も「大石橋」でしたし、今の京都市バスの停留所名も「大石橋」です。

現在、この交差点の100mほど西に地下鉄「九条駅」があり、市バスは「次は大石橋、地下鉄九条駅です」と放送されます。

なぜここを「大石橋」というのか ず〜っと不思議なままなんですが、今回調べてみてもその由来は全くわかりませんでした。

竹田街道は車でよく通るのですが、この日はフラリと「大石橋」でバスを降り、細い路地を東に入ってみました。

その静かな路地にはいかにもレトロな銭湯が佇んでいました。

表通りの竹田街道にあってもよい位の立派な構えです。

まず、門をくぐって入るようになっていますが、中の唐破風屋根がまた渋いですね。

竹田街道から一つ東の細い裏通りを南に向いて…

あまり京都らしい雰囲気ではなく、何となくレトロな大阪って感じの街並みでした。

画面中央奥付近には何か気になる塔が…

その正体はキリスト教会の礼拝堂の尖塔でした。

さらに南へ歩くと、古い大きな農家が点在し このような土蔵も散見できました。

車でサッと通過するのと歩いてみるのでは、全く違った雰囲気を感じる事ができました。

[3] 城陽人の写真アルバム: 街道見て歩き<<東洞院通車道(竹田街道)・前編>>, , http://okucyann.blog.eonet.jp/cashio/2012/07/post-ff62.html

街道見て歩きも、回を重ねるようになり

奈良街道(大和街道・伏見街道)・・・

東海道五十七次(京街道・大津街道)・・・

伊勢街道・・・

郡山街道・・・

と、見てきました。

まだまだ、街道はありますが

今の所は、京都から行ける街道を歩いてみたいと思っております。

という訳で、今回は、<<竹田街道>>を歩いてみました。

竹田街道は江戸時代、京都から南へと延びる、京の七口の一つである竹田口から伏見区竹田を経て伏見港へとつながっていた幹線道路で、鳥羽街道や伏見街道とともに、重要な道だった。ルートは、東塩小路村から南下して東九条村を通り、竹田村から伏見港に通じていた牛車による物資輸送を主目的とした産業道路的街道だったと思われます。伏見港からは、水路で大坂へつながっていました。竹田村を通ることから、竹田街道と名付けられました。

竹田街道は、逢坂山と同じく荷車の往来が盛んだった「車石」が敷かれた街道でした。

伏見といえば京橋を中心としています。街道の出発点も何といっても、ここ京橋です。秀吉の伏見城の城下町として、又、淀川より大坂への水路交通の基点として栄えました。

京橋より左(西)右(東)は淀川派流・濠川の三十石舟等の物資運搬の荷揚げ浜・伏見港の中心南浜(寺田浜)などで賑っていました。京橋附近の様子はこちら又は、こちらをご覧ください

1筋北の魚屋通(下油掛通)です。右角には老舗の「駿河屋」さんがあります。

その前に「チンチン電車」発祥の碑が建てられています。約100年前、明治28年に竹田街道の終点・塩小路東洞院通まで約7Kmを走りました。

もう1筋北の大手筋通です。

右(東)を行けば江戸時代は伏見城大手門に繋がっていました。

又1筋北の毛利橋通。通の名前は中国地方の「毛利家」の屋敷があったことから来ています。

その先、突き当たりを左に曲がります。肥後橋という停留所がありました

右(東)に寄り道しますと、平屋の古民家が見られます

こちらは浄土宗「西光寺」

本堂

通常は地蔵堂なのですがこちらは如来坐像?

お隣の虫籠窓の見える古民家

街道を左(西)に

右に「西養寺」・寛永九年創建、本堂は元禄六年上棟の真宗寺院で市内最古に属する様式を残した建物で市の文化財です

本堂

本堂の様式を詳しく説明されています

門前の地蔵堂

街道はその先の信号を右に折れます。京橋からここまでチンチン電車はこの道を走

[4] 竹田街道 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%AB%B9%E7%94%B0%E8%A1%97%E9%81%93

竹田街道(たけだかいどう)は、京(京都市中心部)と伏見(京都市伏見区)をつなぐ街道の一つ。京の七口の一つとしてあげられることもある竹田口から、旧紀伊郡竹田村(京都市伏見区竹田)を通り、伏見港へとつながっていた。 奈良街道や大坂街道の一部とも位置づけられる。

現在でもなお京都市中心部と伏見市街を結ぶとともに、奈良方面へとつながる国道の一部として主要な幹線道路となっている。

沿革[編集]

竹田街道は、江戸時代に拓かれたと言われる。車石が敷かれ、牛車による物資の輸送が行われていた。その車石の一部が陶化小学校に残されている。 1895年に日本で初めての営業用の電気鉄道が、京都電気鉄道の手によってほぼ竹田街道に沿って京都駅から伏見京橋の間に敷設された。この路線は京都市電伏見線に引き継がれたが、1970年に市電全廃に先駆けて廃止された。 翌1971年に竹田街道は国道24号に指定された。

現在の道のり[編集]

現在は京都府道115号伏見港京都停車場線(竹田街道十条より深草加賀屋敷町までは国道24号との重複)が竹田街道と呼ばれている。同府道は、竹田街道八条から伏見の京都外環状線までを結んでいる。

東洞院通の延長上にあるが現在は京都駅で断絶しているため、京都駅の北側へは高倉跨線橋(通称・たかばし)によって塩小路高倉で高倉通とつながっている。

約1km東の山沿いを伏見街道が並行している。

交差する道路など[編集]

交差する道路などの特記がないものは市道。

交差する道路など

西←<竹田街道>→東

交差する場所

路線番号

烏丸五条から

(km)

[5] 八条口〜十条周辺, , http://www004.upp.so-net.ne.jp/ofuroyasan-teki/8joguchi3.html

京都駅八条口にある新都ホテルの東側の道を、南に行ったところにある大正湯さんです。外観はきれいに改装されていますが、瓦屋根が昔の面影を留めています。

脱衣場もきれいに改装されていて、お風呂屋さんらしきアイテムも男女仕切の上に、紐で首輪のように柱に結ばれている白磁の招き猫がいるくらいです。飲み物も自販機が置かれ、冷蔵庫はありませんでした。洗面台の裏の所に、備え付けの洗面器置き場があるのがちょっとユニークです。

浴室の方も全面改装されています。奥に6人ほど入れるスチームサウナと、壺の水吐きが付いた水風呂。男女壁側にふくらはぎ&足裏刺激付き腰掛け型ジェット、ジェット一カ所付の浅風呂と深風呂、脱衣場側に泡風呂の酵素風呂がある構成です。男女壁にレリーフ風のタイルが使われているのがアクセントになっています。

私の行ったのは祝日の夕方で、お客さんはおじいちゃんがほとんどでしたが、その中に男の子と女の子のお孫さんを連れて来ている方がいました。子供達は小学校の低学年ぐらいでしたが、おじいちゃんと一緒のお風呂に入って楽しそうでしたし、何よりおじいちゃんの嬉しそうな顔と言ったら思い出すだけでニヤリとしてしまいます。子供達のおじいちゃんの記憶の中にも、お風呂の風景が思い浮かぶんでしょうね。

お風呂上がりに、番台のおっちゃんに大正湯という屋号の由来を聞くと、ここは元々別の方がやっておられた銭湯だったそうです。今の経営者のお父さんは元々京都駅の現在は近鉄名店街になっている辺りで別の銭湯を大家さんから借りてやっておられたそうです。それが昭和20年の強制疎開で立ち退きになり、同じ大家さんが持っておられた現在の大正湯に移って来られたそうです。近鉄名店街付近で、先代のご主人が銭湯を始められたのが昭和4年で、大正湯はそれよりも古いという話でしたので、屋号の由来はやはり大正時代に始まった銭湯というところにあるようです。また戦後、銭湯業界では農地解放で地主から小作人に土地が渡されたように、大家さんから実際に働いている人にGHQの指導で権利が渡されたという話も聞かせてくださいました。

人に歴史あり、銭湯に歴史ありです。おっちゃんは話し好きで次から次へと昔話が出てきますので、みなさんもどうぞおっちゃんに話を聞いてみてください。

八条口を西に行くと油小路通の手前にPHP研究所の京都本部があります。PHP

履歴

[7] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054550815807

メモ