入間川

入間川

[1] 入間川 (いりまがわ)

Webページ

[2] 謎解き仙川用水その4ー入間川から金子方面導水路まで~深大寺用水と入間川を紐解く(13) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/17838599/

「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの中で、「仙川用水」の暗渠/水路跡を辿る回としては最後となる今回は、前々回の記事のラスト、消防大学校から辿り、入間川(中仙川)にいったん合流したのち、再度分離して金子方面に向かうまでの区間を取り上げる。 まずは地図を(google mapよりキャプチャ)。ピンクの矢印で示したのが今回取り上げる区間だ。緑色のラインが仙川用水に関係する水路、途中で経由する入間川(中仙川)とその分流は赤紫のラインで示してある。仙川、野川、入間川の京王線以南の区間と中央高速付近の一部以外の水路についてはすべて暗渠か埋め立てにより現在は存在しない。

仙川用水入間川養水ルート 写真は 前々回の記事 ラストでとりあげた消防大学校敷地の南縁。中に立ち入ることは出来ないが、送電線の脇に見える並木が、かつての鎌倉街道の名残で、そこに沿って奥から手前に仙川用水のいわゆる「入間川養水ルート」が流れていた。鎌倉街道跡は、現在では三鷹市と調布市の境界でもある。消防大学校の敷地内ではかつて、 前回記事 にした「島屋敷ルート」の水路が分かれていた。

先の写真の南側(中仙川西原交差点)には、鎌倉街道跡の道がまっすぐに南へ下っている。こちらもひきつづき三鷹市と調布市の境界となっている。水路は道路の東側(写真だと左側)を流れていたようだ。住宅地図の記載を信じれば、80年代初頭まで残っていたようだ。鎌倉街道跡の道は中央高速道にぶつかるまでまっすぐに続き、そこで入間川養水は入間川に合流していた。

写真は中央高速道にぶつかる手前の入間川の暗渠。 シリーズ第3回目 で取り上げた区間の続きとなる。 第3回の記事 で取り上げたように、「入間川」は深大寺東町の「諏訪久保」に流れを発し、通称「野が谷」と呼ばれる谷筋をここまで流れてきている。この「諏訪久保」には、仙川の丸池周辺と同様、「釜」と呼ばれ、水が地面から釜を伏せたような形で吹き出す湧水があり入間川の主水源となっていたが、これが1855(安政2)年の安政大地震で涸れ、野が谷地区の水田が干上がったことが深大寺用水開削の第一の理由だった(詳細は第3回記事参照)。 川名の「入間」は京王線以南のかつての村名であり、当然ながら上流部ではそのような呼び方はされていなかった。深大寺地区では大川と呼ばれていた。 入間川の源流部は車道となっていて痕跡を残

[104] 荒川 (関東) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%8D%92%E5%B7%9D_%28%E9%96%A2%E6%9D%B1%29

歴史[編集]

荒川は、江戸時代初期以前は現在の元荒川の川筋を通っていた。つまり関東平野に出たのち東へ下り、武蔵国・下総国境付近(今の越谷市・吉川市周辺)で南流していた利根川と合流、そこから合流と分流を繰り返しながら江戸湾(現在の東京湾)に注ぐ川だった。「荒」という名の通りの暴れ川でしばしば川筋を変え、下流域の開発も遅れていた。本流が今の綾瀬川を流れていた時代もあるが、戦国時代に水路が掘られて東の星川に繋がれ、綾瀬川と分流した[2]。

利根川東遷事業[編集]

1629年(寛永6年)に関東郡代の伊奈忠治らが現在の熊谷市久下で河道を締切り、和田吉野川の河道に付け替えて入間川筋に落ちるようになった。元の河道は、熊谷市で荒川から離れて吉川市で中川と合流する元荒川となっている。同時期の工事で利根川は東に瀬替え(利根川東遷事業)して古利根川流路から江戸川の流路を流れるようになった。付け替え後の荒川(元の入間川)は、下流で現在の隅田川の河道を通っていた。この部分は流速が遅く、台風で大雨が降るとしばしば溢れて江戸の下町を水浸しにした。明治時代の調べでは、大雨の際、熊谷市と川口市で最高水位に達する時刻の差が48 - 60時間あった[3]。洪水が人や家を押し流すことはないが、浸水による家屋と農作物の被害は深刻であった。しかし、荒川の舟運にとってはこの瀬替えによって水量が増えたことにより物資の大量輸送が可能となり、交通路としての重要性を高めた[4]。

荒川放水路[編集]

荒川放水路(あらかわほうすいろ)は、荒川のうち、岩淵水門から、江東区・江戸川区の区境の中川河口まで開削された人工河川を指す。途中、足立区千住地区、および墨田区・葛飾区の区境を経由し、全長22 km、幅約500 mである。1913年(大正2年)から1930年(昭和5年)にかけて、17年がかりの難工事であった。

計画に至る過程[編集]

明治43年(1910年)8月5日ごろから関東地方では長雨が続き、11日に房総半島をかすめ太平洋上へ抜けた台風と、14日に甲府から群馬県西部を通過した台風が重なり、荒川(現隅田川)を含む利根川や多摩川などの主要河川が軒並み氾濫し、死者769人、行方不明78人、家屋全壊2,121戸、家屋流出2,796戸に上る関東大水害が発生した。利根川左岸上五箇・下中森の破堤により群馬県邑楽郡一帯に被害が集中したほ

[105] 暗渠ハンター 山王崖下の「池尻掘」?①湧水つきの東側掘: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-c37c.html

大田区に遠征してきました。 今回から数回にわたって、池尻掘、六郷用水北堀、内川の様子をシリーズでご紹介します。

まずは池尻掘から。 実はこの池尻掘、 カケダシのころからの愛用テキスト「 川の地図辞典 」にはしっかり載っているのですが、 その他の文献でも見当たらないしググっても出てきません;;;; もしかして名前の記載ミス?・・・という疑いを持ちつつも、便宜上もうこの「池尻掘」という名前で通すことにしますw ※補記:大田区の資料ではいくつか「池尻川」という表記が見られます。

※2011.7.18追記:大田区の小学校史の記事に、「環7内側・山王近辺の谷からの流れも内川の源流のひとつ」である旨の記述を見つけ、池尻堀も内川水系として扱うことにいたしました。

池尻掘は、 環7の馬込交差点あたりを真ん中にして 西と東それぞれから流れ出して南下し、 途中でこの2本が合流して 池上通りとの交差点あたりで六郷用水北堀と合流する水路です。Yの字形みたいに。

まずは東側の水路から探検。 「川の地図辞典」と手元地図を見比べていると、 どうも川の地図辞典の記載より上流がありそう。 そこから探ってみましょう。

「川の・・・」記載の始点に立ってみると、 果たしてさらに東のほうにあからさまな暗渠がありました。 この先が上流ですね。

すっかり無理固められていますが、ザッツ川筋。

おっと、金網フェンスで囲われている洋館。廃屋のようですがとことなくキッチュな風格(なんだそれw)があります。

奥に進んでいくと二筋に分かれるところがあります。まずは右に折れて進んでみます。

さらに狭い暗渠がまっすぐに続いていました。

足元には「 おしくらマンホール 」モドキが出現!

うわっさらに狭くなってきたw かなり好みの暗渠ですよこれ!!!

この暗渠は100mくらい続き、最後はは10段程度の階段となって、崖上に出ます。 その崖上からの暗渠の眺めはこれ。

この崖の横には駐車場があり、このへんが谷頭となっているようです。

この崖を含む台地が山王、台地の向こう側がJR大森駅となります。 先ほどの二筋の分かれ道のもうひとつの暗渠は、数10m続いてすぐに終り、この奥に消えてしまいます。

もうちょっと奥まで分け入っていくとこんなかんじ。 まだこの先の崖下伝いに先がありそうですが、もう流路は追えません・・・。

[106] 八高線 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%85%AB%E9%AB%98%E7%B7%9A

八王子駅 - 高麗川駅間 [ 編集 ]

中央本線 上りホームの反対側1番線から 八王子駅 を発車すると、右手に 横浜線 が分岐し 京王線 を跨ぐ。左へカーブし中央本線から分かれ、 浅川 を渡り、 国道16号 ( 八王子バイパス )を跨いで勾配を上っていく。 国道20号 (甲州街道)を潜って巨大な倉庫や工場の林立する 北八王子駅 に到着する。北八王子を発車すると勾配を下り、 中央自動車道 を潜ると間もなく 小宮駅 に到着し、勾配を下りながら 1945年 に 八高線列車正面衝突事故 のあった 多摩川橋梁 にかかる。多摩川両岸に向き合う 東京都下水道局 の二つの 下水処理場 を右手に見ながら鉄橋を渡ってしばらく直線に進むと 青梅線 を跨ぎ、青梅 電留線 、 米軍横田基地線 、 保線 基地などを大きく抱き込む形で左にカーブし、右手から 西武 拝島線 が寄り添ってきて 拝島駅 に到着する。

拝島駅を出るとすぐ国道16号の武蔵野橋を、 五日市線 、青梅線とともにくぐり、両線を左に分けながら住宅街の間のゆるい勾配を直線で上り、 東福生駅 に到着。東福生駅 - 箱根ケ崎駅間の路線は 横田基地 拡張にともない付け替えられたが、基地を完全に迂回したわけではなく、駅を出るとしばらく基地内の住宅やスーパーマーケットの間を走る。基地内を出て右に並行していた国道16号が、 瑞穂バイパス となり下をくぐって左に分かれていくと、コンクリート壁の間を抜ける。この部分は 滑走路 からすぐの延長線上にあり、未電化時代は トンネル となっていた部分である。これは昔、 飛行機 からの部品落下などが時おりあったためだが、飛行機の安全性向上もあり、電化の際に 架線 を張る邪魔になるため上部が取り壊された。 新青梅街道 を跨いですぐに、 箱根ケ崎駅 に到着。箱根ケ崎駅は拝島方面からの折り返し列車もある。以前は待避線もあったが撤去された。

箱根ケ崎駅を出ると、かつては本線の右側を複線のように貨物線が並走していた。撤去された現在は草に覆れ面影が乏しい。ゆるい登り勾配を進むと、瑞穂バイパスの跨線橋をくぐる。ここで、八王子駅から当線の左右を並行して走ってきた国道16号と一旦別れ、 川越市 までは、当線と 川越線 とは全く別ルートを走る。 埼玉県 入間市 に入り、 狭山茶 の 茶畑 の中を走り標高158メートルの八高線最高

[107] 渋谷川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%8B%E8%B0%B7%E5%B7%9D

[編集] 名称

「渋谷」の地名は、渋谷川を流れる渋色(赤茶色)の水に由来する、という説がある。渋谷川流域では渋谷粘土層と呼ばれる特有の地層が水を遮るため、上層にある関東ローム層(赤土層)に染み込んだ雨水は、その鉄分を溶かし込みながら川へと排出され、水を赤茶色に染めるのだという。現在も、渋谷で湧いている井戸水には、全国平均の24倍にあたる鉄分が検出されている[1]。

「渋谷」および「渋谷川」の本来の由来は、今の大和市渋谷地区(旧・渋谷村)を出自とする渋谷氏一族が、周辺地域に居を構えたことによるようである。

なお、穏田川は宮益橋から新宿御苑方面へと遡る渋谷川支流の名だが、古地図などではその名が見えず、かわりに渋谷川と書かれている場合が少なくない。この場合渋谷川は新宿御苑付近から始まるということになり、これは「渋谷川」の広義の用法であったということになる。

[編集] 流路・支流

(大雨時には)上流の東京都公共下水道の千駄ヶ谷、宇田川両幹線で集水された雨水を収容し、渋谷駅前の宮益橋を起点とし、広尾、麻布の台地下を流下して、芝公園の南側を通り、東京湾に注ぐ[2]。

宮益橋の約200 m下流の稲荷橋から開水路となり、市街地を流れる。渋谷川では1986年から、老朽化した護岸を包み込む形でコンクリート護岸による河川改修が行われているが、天現寺橋から下流の古川では、古い石積護岸が今も残る。赤羽橋から河口までは、昭和30年代から防潮堤が整備されている[2]。また、天現寺出入口付近より下流は首都高速2号目黒線が、一ノ橋JCTより下流は都心環状線が直上を通っている。

渋谷川はいくつか主要な源流をもっていたが、現在ではほぼ全て暗渠化されて下水道として使われ、渋谷川には流入しなくなっている。現在渋谷駅付近の渋谷川は大雨時を除きほとんど水が流れていないが、清流復活事業の一環として、新並木橋のところで下水を高度処理した水を流している。

(以下、下流より記載する)

入間川(いりあいかわ) - 厳密には支流ではなく、旧川筋。江戸時代に現在の流路が開削されて付け替えられた

赤羽川

玉名川 - 白金台二丁目にあった「玉名の池」が水源。明治学院大学と八芳園のあいだを北上し、高松中学校、松秀寺のわきを通って新古川橋にて合流する

笄川 - 南青山一丁目-六丁目付近からの流れ

いもり川 - 青山学院大学敷地東側に

[108] 天覧山 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%A4%A9%E8%A6%A7%E5%B1%B1

概要[編集]

天覧山は、山麓にある能仁寺に愛宕権現を祀っていたので、もとは愛宕山と呼ばれた。それが時代を下り、徳川五代将軍綱吉の病気平癒のお礼に、生母桂昌院が十六羅漢の石仏を奉納したので、羅漢山と呼ばれるようになった。それが1883年(明治16年)4月18日に、山麓で行なわれた近衛兵春季小演習を明治天皇がこの山頂から統監したことにより、天覧山と呼ばれるようになり[1]、行幸記念碑が建てられている。 標高は低いが頂上からの眺望はよく、飯能市街が一望できるのはもちろん、奥武蔵・奥多摩の山々のほか、遠く富士山を望むこともできる。史跡や文化財も点在し、春の桜、初夏のツツジ、秋の紅葉など一年を通じ見るものも多く、老若男女に親しまれている。 付近の飯能河原、多峰主山、宮沢湖、巾着田などとあわせたハイキングも楽しい。 飯能駅から登り口まで徒歩約20分、頂上まではそこから20~30分。

天覧山は、同名の日本酒が有る。(五十嵐酒造)

付近の寺社・文化施設[編集]

能仁寺 - 関連項目参照

常盤御前(源義経の母)の墓

江戸幕府老中・沼田城主黒田直邦の墓

観音寺

諏訪八幡神社

飯能市郷土館

中央公園 - 桜の名所

付近の山川[編集]

雨乞池

奥武蔵自然歩道

多峰主山(とうのすやま、標高271m、常盤平)

吾妻峡

入間川

飯能河原

関連書物[編集]

『美しい星』著・三島由紀夫 新潮文庫 ISBN 4101050139

『命売ります』著・三島由紀夫 ちくま文庫

脚注[編集]

[109] 古隅田川 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%8F%A4%E9%9A%85%E7%94%B0%E5%B7%9D

東京都足立区・葛飾区の境を流れる流路延長5.45kmの河川。葛飾区小菅3丁目で綾瀬川左岸に合流する。現在は下流部の一部を除き暗渠となっている。また、東京拘置所付近に延長1.1㎞に亘り、綾瀬川の開削で分断された旧流路跡(裏門堰親水水路)が残る[2]。

支流[編集]

葛西用水路

河川施設[編集]

大六天排水場

橋梁[編集]

河道の暗渠化の際、欄干が撤去され親柱のみとなった橋も多数存在する。

境四橋

南新橋

境三橋

旭橋

境一橋

元隅田橋

白鷺橋 - 捷水路に架かる

綾南橋

境田橋

富士見橋

袋橋

北野橋

千鳥橋

古川橋(レンゴー葛飾工場前)

陸前橋(綾瀬コミュニティー道路)

鵜乃森橋

周辺[編集]

古隅田川親水水路

東京法務局城北出張所

綾瀬駅

古隅田川緑道

裏門堰親水公園(古隅田川跡)

古隅田川と利根川[編集]

かつて、隅田川は利根川の下流に位置しており、武蔵国と下総国の境界線となっていたと考えられている。埼玉県と東京都にある2つの古隅田川はかつては利根川-隅田川の一部であり、現在の河川に則すれば、古利根川から古隅田川(埼玉側)、元荒川、中川、古隅田川(東京側)、隅田川という流れが利根川及び荒川の本流であったと考えられている。

なお、現在の埼玉県の古隅田川は元荒川の近く(さいたま市岩槻区南平野付近)を源として古利根川に向かって注いでいるが、中世以前は反対に古利根川から元荒川に向かって大河川が流れていた。

これは現在も一部に残る自然堤防跡や古文書[3]において現在の古隅田川流域の東側地域(春日部など)が「下総国」下河辺荘に属していることからも分かる。

その後、関東造盆地運動の影響により古隅田川一帯が隆起して、利根川の本流が現在の古利根川からそのまま中川に向かう経路を取る様になり、更に江戸時代の利根川東遷事業やそれに付随した入間川の荒川・隅田川への付け替え工事によって利根川・中川・荒川(隅田川)が切り離され水位が低下、埼玉の古隅田川の流れも逆方向に向かうようになったと考えられている。[4]。

脚注[編集]

^ a b 荒川水系 荒川左岸ブロック河川整備計画付図 (PDF)59p、埼玉県、2006年

^ 裏門堰親水水路 - 国土交通省 荒川下流河川事務所(荒川知水資料館)

^ 例えば、「延元々年三月二十二日後醍醐天皇綸旨写」(武州文書・『新編埼玉県史 資料編5』中世1-29

[110] 呑川 - 世田谷の川探検隊, , http://tanken.life.coocan.jp/setagaya/nomikawa-2.html

呑川 (のみ-かわ)

桜新町で忽然と姿をあらわし、日本体育大学の脇を抜け、深沢をゆうゆうと流れていく。 なんといっても深沢7丁目付近の親水公園が見事。それから桜の季節のこの川は何往復でも歩きたくなる。

桜新町

ここがすぐそれと分かる形で残っている呑川(暗渠)のスタート地点。

ちょうど「サザエさん通り」の2ブロックほど東を並行している道です。

下流から川筋に沿って住宅地をどんどん遡ってきたら、ここに着きました。

沿線はこんな感じの暗渠が続きます。

源流を探そう

→探してみると、たくさん見つかる呑川の源流。

国道246号線と交差

246号線の北側に残された欄干。

古色漂うつくりから想像すると、高架はもとより国道が現在のように拡幅される以前からあったものかもしれません。

246号の南側から始まるのが、呑川親水公園。

ひとつひとつが優美に、奇抜にデザインされた橋。沿道には桜。

ここはちょっとした花見の穴場でもあります。

呑川親水公園

ここには決してクルマで来ちゃダメです。無理してでも歩いて行くこと。

ちょっと距離がありますが、東急新玉川線桜新町駅が最寄駅。

さくらの季節は特に見事です。

呑川橋

親水公園はここまで。ここから下流は緑の散歩道が続きます。

しもやま橋

駒沢公園通りが呑川を渡る“しもやま橋”の跡。

かつて川だった部分には潅木がうっそうと茂っています。

あまり手入れされていない様子ですが、それほど悪い感じはしません。

桜の並木

幅が広くて、ゆったりした桜並木。

学校が多いせいか、落ち着いた感じのする街並みです。

ちょっと季節を外しちゃいましたが、これが全部桜の木。

東深沢小学校付近

緑道を探訪していると、必ずと言っていいくらい近くに小学校が建っています。

このあたりはソフトな舗装が足に気持ちいい。転んでも痛くないぞ、きっと。

緩やかに蛇行しながら川筋は東に進みます。

けっこう大きな川だったことがわかります。

目黒区へ

ここらへんで緑道は一度目黒区内に入ります。

八雲

呑川の南側に続くしどめ坂。

見下ろすとこんな感じ。

このあと呑川は目黒通りを越えて南東に進み、都立大学駅付近で東急東横線を越えます。

緑が丘

東京工業大のキャンパスを通過します。

東急目黒線と大井町線を越えたあたりで九品仏川が合流します。

ここから下流の呑川は開渠になります。

[111] 八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る - 時空散歩, , http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2013/06/post-227.html

八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る

八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。

その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。

で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。

搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。

本日のルート; JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅

集合

履歴

[113] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054547994525

メモ