野川

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[2] 野川に切り離された、入間川の本当の下流部~深大寺用水と入間川を紐解く(16) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/17982310/

野川に切り離された、入間川の本当の下流部~深大寺用水と入間川を紐解く(16)��

2012年 05月 20日

「深大寺用水と入間川を紐解く」シリーズの最終回は、失われた入間川の下流部を辿る。まずは前回の記事でも取り上げた、入間川の河口。現在の入間川は、調布市入間町と狛江市東野川の境目で、野川に合流して終わっている。前回の記事では水の流れる2008年6月、涸れている2012年2月の写真を載せたが、今回の写真は2012年5月のもの。水はしっかり流れている。右側に見える別の合流口は、かつての合流式下水道の排水口らしく、今では使っていないそうだ。

入間川と野川の流路の変遷 下の地図は、京王線以南から小田急線を挟んで二子玉川付近までの一帯の、現在見られる河川の流路を示している(一部暗渠)。野川が北西から南東に横切り、そこに入間川、仙川が合流している。また仙川は野川に合流する手前で丸子川を分け、そちらには途中から谷沢川が合流している。これらの川が現在のような流路となったのは1967年以降のことだ。

1967年以前の流路は、下の地図のようになっていた。大きく異なるのは「六郷用水」の存在だ。また、狛江市内の野川は今よりも西側を流れていた。そして、小田急線喜多見駅付近の、現在野川が流れている辺りには、入間川が流れていた。この失われた入間川下流部が今回の記事の主題だが、その前に一帯の河川・用水の変遷について簡単に触れておこう。

六郷用水 六郷用水は、江戸時代初期、1597(慶長2)年から1611(慶長16)年にかけて15年の歳月をかけてによって作られた、多摩川から分水した灌漑用水だ。開削を主導した小泉次大夫吉次にちなみ、「次太夫堀」とも呼ばれている。なお、多摩川を挟んだ反対側(川崎側)には同時期に二ヶ領用水が開削されている。 取水口のある狛江近辺の水路は1605(慶長10)年に開削が始まり、1609(慶長14)年には開通して現在の狛江と蒲田の間の本流が繋がった。そののち引き続き小堀(六郷領内の分流)が開削され1611年に完成した。その延長は23kmに及ぶ。当初は六郷領21ヶ村にのみ水利権があったが、のち1726(享保11)年に、世田谷領の14ヶ村についても利用が認められた。 六郷用水の廃止と野川の改修 300年以上にわたり、現在の世田谷区南部と大田区の田畑を潤してきた六郷用水は、

[104] マセ口川 - 川のプロムナード, , http://riverpromenade.blog.fc2.com/blog-entry-49.html

2015.05

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2015.07

調布市深大寺南町四丁目にある都立農業高校神代農場を水源とする野川の支流 マセ口川 (ませぐちがわ、別名:佐須用水)を追ってみた。 マセ口とは、付近の小字名から名づけられたものだが、そのマセ口という字名 の由来は不明のようだ。 まず、神代農場と三鷹通りを挟んで向かい側、 青渭神社 に立ち寄ってみる。 祭神は水波能賣大神・青沼押比賣命、創建年月は不明であるが、古代の先住民 が水を求めて居住した際に、祠を建て水神を祀ったと伝えられる。 かつて社前には湧水から出た大池があり、青波をたたえていたことから青波天 神社とも称されていた。 境内には樹齢数百年という大欅があり、江戸名所図会にも描かれている。 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載) さて 都立農業高校神代農場 からマセ口川を追い始めてみる。 前身は青年学校の射撃用地、昭和23年(1948)に農業高校の付属農場として 譲渡された。 毎週木曜日には一般公開しているそうだが、この日は土曜日のため入れず、 仕方なく西側沿いに歩いていく。 農場沿いに歩いていくと、柵の下に池(心字池)を望むことができる。 農場内にはかなり深い谷となっており、湧水を湛えていることが想像される。 歩いていくと中央高速手前、右手に小さな 池ノ上神社 がある。 絵堂(旧字名)の鎮守社で創建は不詳、明治40年(1907)に里の稲荷社と 池ノ上の稲荷社を合祀して、池ノ上神社となったとのこと。 池ノ上という名前が興味をそそる。 その中央高速の手前から左手、谷(池ノ谷)へ下りていく階段がある。 谷へ下りると、神代農場から流れ出るマセ口川の清流を見ることができる。 その脇、別の湧水からの小さな流れも合流している。 ここから南へ 深大寺自然広場 が続くが、残念ながらマセ口川は暫く暗渠と なってしまう。 中央道のガードを潜ると広場内に 野草園 がある。 園内には約300種類1万本以上があるとのことだが、開園期間は3月か ら10月まで、また期間内においても休園日が多いので、訪問時には注意 が必要である。 その野草園の入口近くには湧水があり、かな

[105] 暗渠ハンター 涯のうえした・狛江喜多見に成城学園: 東京Peeling!【とうきょうピーリング!】, , http://lotus62.cocolog-nifty.com/blog/2010/04/post-16a8.html

もう1ヵ月も前の話ですが、小田急線・狛江駅駅前の泉の森会館というところで「六郷用水の今と昔」という小さな展示が行われていたので見に行ってきました。

六郷用水とは、小田急線が多摩川を渡るあたり(駅でいうと和泉多摩川駅)のちょっと上流から取水し、狛江、喜多見、世田谷の西端方面jからずっと下流の大田区・品川区あたりまで網の目のように続く、付近の田畑を潤していた用水です。つまり、国分寺崖線の下に広がる農地にぶわっと拡がっていたわけですね。 その、特に狛江周辺の昔の様子を地図や写真、絵で解説する、という展示でした。六郷用水についてはまだあまり詳しく知らなかったので、この上流のほうの全体像を把握するにはとても勉強になりました。

さて、ついでですからこのあたりの暗渠や湧水を見て回って帰りましょうかね。

展示施設のすぐ隣、もう狛江の駅のまん前には泉龍寺弁財天池という大きな池があります。 奈良時代からいつの旱魃にも枯れることなく一帯を潤してきた湧水でしたが、1972年の11月に枯れ尽きてしまったとのこと。現在は復元された姿となっています。ちなみに、隣の駅は「和泉多摩川」ですが、この「和泉」というのはこの池から取られたという説もあるようです。

さて、池つながりでもうひとつ。駅を新宿寄りに二つ戻って(狛江→喜多見→成城学園前)成城学園前に降りてみます。 狛江、喜多見と成城学園前。駅は至近距離ですが決定的に違うのは、国分寺崖線の崖下なのか、崖上なのか、という点。もちろん成城は崖上です。崖線には野川が流れており、崖上の成城側には当然国分寺崖線湧水ポイントがいくつか。 成城から歩いてこの湧水を見に行ってみることにします。

てくてく歩いて崖線近くにまで来ると現れるのが「みつ池」。しかし残念ながら保護区域に指定されていて、柵に阻まれ近づくことができませんでした。・・・無念。

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※訂正・・・さきほどまでここであたかも「みつ池」の如く池の写真を掲載しておりましたが、あれは先の「泉龍寺弁財天池」の画像でした;;;;;申し訳ありません、お詫びいたします;;;;

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近くのベンチでビール休憩したあと、なんとかこの池から野川に流れ込む様子を見られないかと崖を降りてみつ池の下あたりをうろう

[106] マセ口川ピクニック: 暗渠さんぽ, , http://kaeru.moe-nifty.com/ankyo/2013/04/post-77da.html

肌寒かったり、雨ふりだったり。そんな日が続きますが、春らしい記事をふたつ、書こうと思います。ひとつめは、暗渠と開渠のピクニックのおはなし。

行先は、調布にあるマセ口(ませぐち)川。 これが正式名ですが、最初に「ませろ」と読んでしまったため、またそのほうが呼びやすいため、わたしは普段は「ませろがわ」と呼んでいます。 だから現地でも声に出して「ませろがわ」、と連呼するわけですが、それが聞こえてしまった地元の方がもどかしく思っているかどうかは、知りません。

以前、秋にマセ口川の水源を見に来たことがありました( ゲゲゲの湧水前編 )。また別件で調布を歩いていたときにマセ口川の脇をたまたま通り、「春にピクニックに来たらよさそう!」と、思っていたのでした。

そして、待ちに待った春がやってきました。

マセ口川の水源は、都立農業高校神代農場の敷地内。普段は入ることができません。 その、水源のある谷戸はかつてまるまる池で、池の谷とも呼ばれていました。いまでも湧水が豊富で、おそろしく澄んだ水を使い、ワサビ、ニジマス、ヤマメなどが育てられています。

ここは農場のすぐ下流側で、ここなら普段から一般人が出入りできます。

農場内を流れる澄んだ水を思い出しながら、フェンスに近づいていくと・・・なんと、湧水がはみ出ているではありませんか。

きれい・・・。

そしてはみ出ていた湧水は、農場の田んぼを通ってくる流れとここで合わさり、一度地下の管渠におとされ、地面の下にくぐるようです。

でも、その落とされたすぐ先にも浅い凹みがあって、あちこちからじゅくじゅく、じゅくじゅくと水が湧いていました。

みごとな湿地。自然のままの姿です。 ここも”神代農場南側斜面”という、調布の湧水点のひとつとして挙げられています。

この、はみ出し湧水と、じゅくじゅく湿地がいっぺんに見られる場所に、自分たちだけが立っている。すてきなお庭に居るような・・・。まだ朝でしたが、あまりの気持ちの昂りに、おもわず、乾杯 。(まだ咲いていませんでしたが、ここには桜の木まであるのです!)

この場所、豊水期に行かれたえいはちさんが 記事 にしていますが、やはり春とは水の量が違いますね (しかし暗渠写真の撮り方がものすごく被っていて、おもしろかったです)。

じゅくじゅく湿地のおわりには、橋のようなものがありました。 橋?の先で中央自動車道をくぐり、

[107] 東京から一番近くて田舎っぽい雰囲気ふんだんにある場所教えろ!:哲学ニュースnwk, , http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4908067.html

1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/07/17(金) 16:52:59.468 ID:28m9ILEp0.net

[108] 甲州街道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93

概要 [ 編集 ]

元は「古甲州道」であり、甲州街道は江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。 江戸 ( 日本橋 )から 内藤新宿 、 八王子 、甲府を経て 信濃国 の下諏訪宿で 中山道 と合流するまで38の 宿場 が置かれた。近世初頭には「甲州海道」と呼称され、 正徳 6年( 1716年 )4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められる。 中馬 による陸上運送が行われた。江戸の町において 陰陽道 の 四神相応 で言うところの 白虎 がいるとされる街道である。 多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保~府中~調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更された。その後も古く狭い街道が、新しくできたバイパスへと路線が変更となっている。

歴史 [ 編集 ]

甲州街道「江戸~甲府」の開設は慶長7年であり、すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった。

近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は 徳川家康 の江戸入府に際し、 江戸城 陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、 甲府城 を有する 甲府藩 が 親藩 であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。

参勤交代 の際に利用した 藩 は 信濃 高遠藩 、 高島藩 、 飯田藩 である。それ以外の藩は 中山道 を利用した。下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。その事から、発展が遅れ、衰退する宿場町もあった。

近世には旅の大衆化に伴い甲州道中上の名所旧跡などを紹介した地誌類や視覚化した絵図類が製作されており、絵図では『 甲州道中分間延絵図 』や『 甲州道中図屏風 』が知られる。また、 宇治採茶使 は甲州街道を利用した。

宿場 [ 編集 ]

多くの宿場があり人々は国府参り等を旅路の楽しみとして賑わっていたが、趣向の変化で国府も西の外れ近くと

[109] 新小平駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B0%8F%E5%B9%B3%E9%A7%85

駅周辺 [ 編集 ]

西武多摩湖線 青梅街道駅 - 東へ約700m。正式な乗換駅には設定されていないが [2] 、武蔵野線が事故等で運転を見合わせている際は、振替乗車票を持って青梅街道駅から乗車するよう指示される。一方、 西武新宿線 ・ 拝島線 の 小平駅 は2.5kmほど離れており、乗換駅ではない。

小平郵便局

ゆうちょ銀行 小平店

小平警察署

小平市中央図書館

津田塾大学

国際ビジネス専門学校

国際パティシエ調理師専門学校

小平市立小平第十五小学校

国立精神・神経医療研究センター

第一屋製パン 本社・小平工場

平櫛田中彫刻美術館

石塔が窪

青梅街道 ( 東京都道5号新宿青梅線 )

鎌倉街道

府中街道 ( 東京都道16号立川所沢線 、 東京都道17号所沢府中線 )

小平グリーンロード

歴史と文化の散歩道 府中国分寺コース

小川用水

玉川上水

バス路線 [ 編集 ]

東行(駅東側青梅街道上)

梅70系統 ( 都営バス ): 柳沢駅 、 小平駅 行

寺64・寺64-1 ( 西武バス ): 国分寺駅 北入口行・循環

系統番号なし 「出入庫線」(西武バス):小平駅南口行

西行

梅70系統(都営バス): 青梅車庫 、大和操車所行

系統番号なし「出入庫線」(西武バス): 小平営業所 行

北行(駅西側青梅街道上)

銀河鉄道バス (ぎんてつ): 明法学院 行・循環(2014年3月25日より 休止中 [14] 。新小平駅始発停→ 小川駅 ・ 明治学院 経由。休校日運休、学校行事に応じて増発)

1991年10月の水没事故 [ 編集 ]

経緯 [ 編集 ]

この年は8月から記録的な長雨が続いており、近接する 所沢 アメダス の積算降水量 [15] は8月が394mm(観測史上8月として6位)、9月が447mm(観測史上4位、9月として2位)であり、10月も台風21号の接近に伴い活発化した前線により事故前日で既に200mmを超えていた。

このため、9月半ばにはホーム北(新秋津側)の壁面から地下水が噴出し始め、10月11日朝から接近した台風21号による大雨(所沢の24時間積算雨量95mm)により23時45分頃 [16] ホーム北側と線路を含むU字形構造全体が120mにわたって最大1.3m隆起 [注釈 2] し、擁壁継目には最大70cmの開口部が生じ、土砂混じりの地下水が大量(復旧時の計測で

履歴

[110] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054545995920

メモ