剱岳

剱岳

[1] 剱岳

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[2] , , http://www.enraku.com/old/mountain/turugidake.htm

北アルプスの南の重鎮を穂高とすれば、北の俊英は剣岳であろう。層々たる岩に鎧(よろ)われて、その豪宕(ごうとう)、峻烈、高邁(こうまい)の風格は、この両巨峰に相通じるものがある。大学山岳部が有能な後継者を育てるための夏季合宿、精鋭を誇るクライマーのクラブが困難なルートを求めて氷雪に挑む道場を、大ていはこの剣か穂高に選ぶのも故あるかなである。

『万葉集』に載っている大伴家持の「立山の賦並びに短歌」に讃えられている立山は、今の立山ではなく、剣であったろうという見解を私は持っている。太刀(剣)を立ち連ねたようなさまであるから「たちやま」と名づけられた。家持の歌に出てくる「可多加比河(片貝川)の清き瀬に・・・・・」とか、その歌に和して大伴池主の作った歌の中の厳(こご)しかも岩の神(かむ)さび・・・・・」とかいう描写は、剣以外には考えられない。

まことに剣岳は、そんな昔から、それを仰ぐ人々の心を高揚する山である。なによりその風采の豪毅(ごうき)にして風爽たる点である。日本アルプスの高峰にはそれぞれの風格があるけれど、一つの尖端を頂点として胸の透くようなスッキリした金字塔を作っているのは、この剣岳と甲斐駒ヶ岳ぐらいであろう。

全く剣岳は太刀の鋭さと靭さとを持っている。その鋼鉄のような岩ぶすまは、激しい、険しいせり上がりをもって、雪を寄せつけない。四方の山山が白く装われても、剣だけは黒々とした骨稜を現している。その鉄(くろがね)の砦と急峻な雪谷に守られて、永らく登頂不可能の峰とされていた。弘法大師が草鞋千足を費やしても登り得なかったという伝説はさておき、日本アルプスの山々が登り尽くされる最後までこの峰は残った。

その剣岳の神秘の開かれる日がきた。明治40年(1907年)7月30日、陸地測量部の一行によって、ついにその登頂は踏まれた。ところが、人跡未踏と思われていたその絶頂に初めて立ったのは彼等ではなかった。彼等より以前にすでに登った者があった。測量部一行は頂上で槍の穂と錫丈の頭を発見したのである。

槍の長さは約一尺、修行者が頂上で修法する時に用いた宗教用の剣であった。錫丈の頭は、長さ8寸1分、厚さ3分、これは極めて古いもので、シナの竜門洞窟仏像の錫丈と同じものと思われ、唐時代の作であろうと学者によって鑑定された。槍の穂も錫丈の頭も多年の風雪に曝されて、少し間隔をおいて遺さ

[3] 北アルプスの本当の山名, , http://kaizaemon.com/OTDR/KITAALPS/kitaalps.html

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北アルプスの本当の山名はこうだった!

北アルプスの山々は、江戸時代の初期頃から加賀藩の「黒部奥山廻り役」

らによって、山頂はもちろん尾根の縦走、谷、沢等、くまなく調査されていった。

(水晶池や高天原の温泉までもが、もうすでに発見されていた!)

そのため、ここでの旧山名は、実際それらの山に登って調査し記録した人々の呼称を

主とします。山名には別名がある山もあるし、時代によって変化したり、旧山名が

復活したり、取り違えられた山名もある。また、現在までも変わらぬ山名もあります。

現在主に使われている山名は、おおむね明治の後半頃より付けられていった山名であ

るが、その命名ぶりは実に珍妙で、案内者や強力の仮称などはまだ良い方で、行き当た

りバッタリ式のものや、山名を付けてから理由をデッチ上げるというヘンテコなものの

多いことにはなさけないが、しかし現在その呼称が多くの人々に由来も知らないで使わ

れ定着してしまっていることは、妙におもしろいことでもある。

下の太字で書かれている山名が、現在主に使用されている呼称である。

後立山連峰

ゑぶりか岳→朝日岳

赤男山→赤男山

鉢ヶ岳→雪倉岳

雪倉ヶ岳→鉢ヶ岳

朝日岳→旭岳

上駒ヶ岳、大蓮花山→代馬岳→白馬岳

小蓮花、薬師岳→杓子岳

鑓ヶ岳→大蓮花→白馬鑓ガ岳

不帰ヶ岳、錫杖ヶ岳→不帰峰

上犬ヶ岳、ミカゲガ岳→唐松岳

赤鬼ヶ岳→大黒岳

餓鬼ヶ岳、割菱岳→五龍岳

後立山→鹿島槍ヶ岳

栂山、五六岳→爺子岳→爺ガ岳

コスバリ→赤沢岳とスバリ岳の間

地蔵岳→針ノ木岳

北針ノ木岳→舟窪岳

針ノ木南岳→不動岳

裏銀座周辺の山々

折岳、三吉岳→烏帽子岳

真砂ヶ岳→三ツ岳

火打ヶ岳→野口五郎岳

赤牛岳→赤牛岳

中岳剣、六方石山、水晶岳→黒岳→水晶岳

中岳→赤岳

獅子ヶ岳→割物岳

東鷲ノ羽ヶ岳、龍池ヶ岳→鷲羽岳

鷲ノ羽ヶ岳→三俣蓮華岳

蓮華岳→双六岳

岩苔平→奥ノ平→雲ノ平

カベキ岳→祖父岳

鍋岳→黒部五郎岳

上ノ岳→上ノ岳、北ノ俣岳

立山周辺の山々

薬師ヶ岳→薬師岳

浄土山→浄土山

立山→立山

大汝山→大汝山

別山→別山

剣岳→

[4] 第一章 偉人紹介その2(おおやま物語)〜大山観光協会, , http://www.ohyama-k.jp/story/ijin2/ijin2.html

1871年(明治4)〜1945年(昭和20)旧大山町和田出身。

1907年(明治40)陸軍測量部に雇われ、人跡未踏といわれた剱岳に登頂し測量三角点を設置した。彼の登頂を記念して、登山ルートの谷を「長次郎谷」と名付けられた。黒部峡谷全域も踏破し、名ガイドとして尊敬された。

1970年(明治40)7月12日、測量隊の案内人として、標高2999メートルの剱岳に初登頂した時の様子を、作家新田次郎は「剱岳・点の記」に次のように記した。

「長次郎は、なんにもいわず、岩壁に取りついた。手はすいと伸びた、足もよく動いて、ちょっとした岩の出っ張りや窪みにぴたりと吸いついた。長次郎はなんのためらいもなく、岩場を攀じ登っていった。動きがリズミカルになると速度を増した。−岩壁を攀じ登ったところは、目もくらむばかり明るい岩尾根だった。太陽が頭上に輝いていた。すぐ先に雪田があり、その向うに、剱岳の頂上の丸みが見えた。雪田から頂上までは岩壁だったが、今度は、はだしになるほどのこともないように見える傾斜面だった。−頂上は意外に広々とした岩石の丘だった。大小無数の岩石が重なり合いながら、絶頂に向ってゆるい傾斜を作っていた。−そこは日本中の山が一望のもとに見えるほど高いところに思われた。遮るものはなに一つとして無かった。どの方向もすばらしい景観にあふれ、区々としては目をひくものはなく、弾き返すような勢いで全体として迫っていた。なにか壮大な景観に圧倒されて眩暈がしそうに思われた。」剱岳は、針の山、地獄の山として恐れられ多くのガイドは近づこうとはしなかった。しかし、地図を作る基点としての三角点をこの頂上に是が否でも設けなければならないので、長次郎にガイドの白羽の矢が立ったのである。この登頂の折、山頂に錫杖の頭と槍の穂先を発見し、初登頂の夢が消えたが、何百年、あるいは千年も前に修験者がすでに剱岳を極めていた事実がわかった。

長次郎は耕地の乏しい山村に生まれ、子供の時から山仕事に従事した。時には伐木、時には渓谷の流木流しに、時には砂防工事に雇われた。・・・彼は若い時から大力で、百貫(約375キログラム)の荷物を背負って、こともなげに歩いたそうだが、普段はそんなことをおくびにも出さなかった。

剣阻な山を前にしても、悠揚迫らず、その鍛えた身体で上手に地物を利用して手際よくこなしてゆく、長次郎の山登りの手際には登

[5] 飯豊山 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E9%A3%AF%E8%B1%8A%E5%B1%B1

概要 [ 編集 ]

磐梯朝日国立公園 内に位置し、可憐に咲く 高山植物 が有名で、 日本百名山 のひとつに数えられている。飯豊連峰の最高峰は、標高2,128 mの大日岳である [2] 。

飯豊山は、 福島県 と 新潟県 そして 山形県 三県の 県境 にあるが、南東麓の福島県側から山頂を経て御西岳に至る登山道付近のみが 福島県 喜多方市 になっており、山頂付近は喜多方市である [3] 。理由は、明治期に廃藩置県後飯豊山付近が 新潟県に編入 されたが、 飯豊山神社 宮とする福島県側の猛烈な反対運動により、参道にあたる登山道および山頂を再び福島県にすることで決着した結果である [3] 。そのため、福島県の県境がいびつな結果になっている [4] 。

山名の由来 [ 編集 ]

飯豊山の名の由来には諸説あり、確定していない。 福島県 会津 地方では「いいとよさん」とも呼び、雪化粧した山容が飯を豊かに盛った様子に見えることから、この名がついたとされる [5] 。 陸奥国風土記逸文 には飯豊山の名の由来について、以下の2つの伝承が記されている( 飯豊青皇女 の項目も参照のこと)。

飯豊(いいとよ)を歴史的仮名遣いで表記すると、「いひとよ」となる。「いひとよ」とは 古代日本語 で フクロウ をさす言葉であり、それが語源であるという説もある。他にも、山麓に温泉(湯ノ平温泉)があることから「湯出(ゆいで)」が変化したものだとする説がある [6] 。

飯豊連峰の主な山 [ 編集 ]

大日岳 (2,128 m) :飯豊連峰の最高峰 [2]

飯豊山 (2,105.1 m) :飯豊本山であり、飯豊山神社が置かれている

北股岳 (2,024.9 m) :晴れた日には日本海が望める

烏帽子岳 (2,017.8 m)

御西岳 (2,012.5 m)

三国岳 (1,644 m)

地蔵岳 (1,539 m)

山岳信仰 [ 編集 ]

652年 ( 白雉 3年)、知同和尚と 役小角 が開山したとされる古い 山岳信仰 の場である。飯豊山大権現を祀る 修験 の場として栄え、 江戸時代 初期までには修験道の 修験者 が多く訪れた。 元禄 期以降は修験色は弱まり、稲作信仰、成人儀礼、死者供養などを中心とする庶民信仰の形態に移行した。

また、 明治 初年の 神仏分離 によって 飯豊山神社 となり、地域住民から崇敬された

履歴

[10] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054545747456

メモ