四谷荒木町

四谷荒木町

[1] 四谷荒木町

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[2] 策の池界隈(四谷荒木町) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/12391351/

かつての花街としての雰囲気を色濃く残す四谷荒木町界隈。町の中心に南北に伸びる大きく深いスリバチ状の窪地があり、その谷底の一角にひっそりと「策(むち)の池」と呼ばれる小さな池が佇んでいる。現在は長さ10m弱、幅5m弱の小さな池だが、かつては長さ130m、幅も20〜40mある大きな池だった。

江戸時代、荒木町は街全体が松平摂津守の屋敷の敷地だった。その中にあった庭園の中心にあったのが、策の池だ。池の名前の由来には諸説あるが、いずれも「乗馬用の策(ムチ)」を池もしくは池の水源で洗ったことが由来とされている。 明治時代に入ると庭園は払い下げられた。池の一角に天然の滝があったことから明治初期には茶屋が出来、観光名所となった。滝は落差4mほどあったというが、周囲の急速な都市化で明治後期には既にほとんど枯れていたという。一方で町自体は歓楽街として発展し、数百人の芸者を擁する花街となった。 明治16年に測量された地形図を見ると、池は南側に丸い池が一つ、そして北側に大きく細長い池が伸びている。そして、池の北側にある等高線を見れば明らかなように、本来このスリバチ地形は南側を谷頭とする谷戸地形で、北側に高い土手を築いて谷戸を遮り水流を堰止め、池が造られていたことがわかる。この谷戸は「紅葉川」の枝谷である。紅葉川は富久町に発して曙橋付近から市ヶ谷に伸びる谷筋を流れていた川で、市ヶ谷より下流部は江戸時代以降は外堀として利用されている。 明治後期の地形図では既に池は姿を消しており、現在残っている部分だけとなっていたものと思われる。 (地図は「五千分之一東京図測量原図 東京府武蔵國四谷区四谷伝馬町近傍 明治16年(1883年)より) 初夏の夕暮れ時、策の池を訪れてみた。新宿通りに面する車門通りから荒木町の歓楽街に入ると、早速緩やかな下り坂となっている。突き当たりの金丸稲荷神社の右脇から、石畳の坂道が谷底に向かってジグザグに伸びている。明治時代の地図にもこの道は描かれており、坂の右側の窪地はかつて丸い池となっていた場所だ。 谷底まで降りきると、東側に階段の坂が見え、かなりの高低差があることがわかる。モンマルトルの坂とも呼ばれているとか。 谷底はひっそりとした住宅地となっているが、ところどころ石畳の道も残っていて、かつての花街の気配が残っている。料亭のある一角に出ると、その向かいに、ビルと崖に囲ま

[72] 荒木町〜策の池 - 東京さまよい記, , http://blog.goo.ne.jp/asaichibei/e/b3df689bb1b1ddb7bdc70eaf902a74c9

津の守坂下から西側の横町に入ると、荒木町の北側をぐるりと半周して階段の上につく。津の守坂の一本上の横町に入ればすぐにここにつけた。

この階段を下り、階段下から撮ったのが右の写真である。 この階段を仲坂というらしい。写真のように階段下の両脇に礎石があり、そこに仲の字が見える。昭和7年(1932)の施工である。この坂は、「東京23区の坂道」や「東京の階段」に紹介されている。

津の守坂の西側一帯は、窪地となっていて、荒木町料亭街がある。明治地図には特にのっていないが、戦前の昭和地図には荒木町に三業地とあり、昭和6年(1931)に芸者屋85軒、芸者数230名で、荒木町の芸者は「津の守芸者」といわれ、気品が高く、新橋、赤坂をさけて通う客も多かったという。

階段下を進み、Y字路を右手に歩いていくと、策の池がある。以前、津の守坂に初めてきたとき、この池を訪ねようとしてこのあたりをぐるぐる回った覚えがある。

左の写真のように池は水がいっぱいであり、湧水がまだかなりあるのであろう。池のそばに弁天を祀る小祠がある。

この池はもと策の井ともいった。

「紫の一本」に策の井について次のようにある。

「四谷伊賀町の先にあり。いま尾張の摂津守殿屋敷の内にあり。東照宮御鷹野へ成らせられし時、ここに名水あるよし聞し召し、御尋ねなされ、水を召し上げられ、御鷹の策の汚れたるを洗はせなされ候ゆゑえと云ふ。」

家康が鷹狩りに来たとき、ここに名水があることを尋ね、その水で御鷹のむちの汚れたのを洗ったため、この名があるということである。尾張の摂津守とは、尾張徳川家二代光友の次男で、のちに美濃高須藩主となった。

宮島資夫(1886〜1951)は「大東京繁昌記」の「四谷・赤坂」で津の守附近として次のように書いている。

「この坂を少し下って行くと、右側に木立が繁っていた。木立の下には名ばかりの茶店があった。茶店の下が崖で、不動尊の像か何かあった下の竹の筒から、細い滝が落ちていた。津の守の滝といった。その辺り一帯は、今も残る通りの凹地であって、底には池があった。周囲の崖には昼も暗い程大木が矗々(ちくちく)と茂っていた。夏は赤く水の濁った池で子供が泳いだ。巡回の巡査が時々廻って来て子供を叱る。『お廻り来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる』悪たれ口をついて、子供達は裸で逃げ出した所である。秋になると、崖ぶちの恐ろしく高い

[73] 四谷・荒木町―池の底の花街│BEAMS 青野賢一の「東京徘徊日記」, , http://andsmile.tv/c/00022-clm22.html

#010

四谷・荒木町―池の底の花街

2013-08-19 23:12:00

先日、とある企画が一段落したので、打上げと称して四谷・荒木町に出向いた。荒木町はこれまでも年に数回程度、夜に訪れたことがあるのだが、一向に全体像が掴めない。大体、人に連れられて行くことが殆どだし、また当然ながらアルコールも入っているので、お店の場所や名前についての記憶が甚だ曖昧ということも当然あるのだが、それ以上にこの街の迷宮のようなつくりが、歩く者を惑わすのだろう。

細い路地に飲食店が軒を連ねる。荒木町の面白さのひとつは、こうしたお店探しにある(迷うが)。

荒木町の最寄り駅は、地下鉄丸ノ内線の四谷三丁目駅。大雑把に言うと、新宿通りと外苑東通りの交わる四谷三丁目交差点を靖国通り方面に進んだ右手のエリアが荒木町ということになる。東側は、津の守(つのかみ)坂通りまで、北側は靖国通りよりは少し手前までである。元々この一帯は、江戸時代に、美濃国高須藩藩主・松平義行(松平摂津守)の上屋敷があったところで、津の守坂通りの名は、このことに由来している。訪れたことがある方には分かると思うが、荒木町はいわゆる窪地である。それもかなりの高低差があって、それ故、幾つかある階段も急勾配。上り下りするのもなかなか大変だ。すり鉢状になった一番下の方には「策の池(むちのいけ)」がある。徳川家康が鷹狩りの際に、馬の鞭の汚れをここで落としたとされることから、この名がついたそうだ。現在は非常に小さな池であるが、松平義行が上屋敷を構えた頃は随分と大きな池であり(最長部で130mあったとか)、4mほどの落差のある天然の滝が注ぎ込んでいて、見事な景観を誇っていたということである。

竹垣の向こう側が現在の「策の池」。左手には「津の守弁財天」がある。この辺りがすり鉢の底にあたる。

平成9年に行われた荒木町の下水道再構築工事のとき、地下約10mのところから石組みの暗渠が発見された。この石組み暗渠は長さ約53mあり、昭和初期に敷設された鉄筋コンクリート管と接続されていて、公共下水道として現在も十分な機能を果たしているのだが、これは松平義行が屋敷を建てる際に、池の水を排水するために作ったものだということがその後の調査で判明した(東京都下水道局「ニュース東京の下水道」No.199を参照)というから驚きである。言われてみれば、階段の下にあるエ

[74] 信濃町 | 2007~2009年 (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/shinanomachi/

2007年夏、初めての信濃町 東京の地理に詳しい知人の話で「一度信濃町と言う所に行ってみろ、凄いから」という強いお勧めを受けて、2007年の真夏の暑い中、新宿から総武線各駅電車に乗って信濃町駅を目指した。 新宿御苑、神宮外苑、赤坂御用地など、皇室関係の敷地が数多くあるお陰で首都のど真ん中にありながら広大な緑地と自然環境が残ったエリアが存在するのは、東京に来て驚く事の一つである。そんな絶好のロケーションの土地が、とある新興宗教団体によって次々買い占められているという話を聞いたのは、もうかなり昔の事だ。 公称1000万人、日本最大の新興宗教団体「創価学会」の本拠地がここ信濃町にある。一体どんな場所だろうという好奇心だけでやってきたのだ。 信濃町駅の改札を降りた、駅の構内からして既に教団関係の広告ばかりでありヤバイ。 「信濃町饅頭・信濃町しぐれ 三色味」と書かれた饅頭屋は和風とは似ても似付かぬ鮮やかな青黄赤の極彩色大勝利カラーに包まれていて非常に香ばしい。信濃町限定の代表的な土産物だ。 赤色には梅、黄色には栗、青色にはずんだ餡が使われているのだそうだが、この青はどう見ても正常な食品の色には見えないぞ。 学会員ではない人でも、神宮球場や、この慶応義塾大学病院は足を運ぶ機会があるだろう。この病院は過去に前総理大臣安倍晋三氏が運ばれたり首を吊った松岡利勝農水大臣が運ばれたりするなど、政府要人などの大物が利用している。 他にも、謎の死を遂げたZARDの坂井泉水氏が転落した螺旋スロープもある。この件も事故だったのか自殺だったのか結局謎のままだ。 だが、それよりも信濃町と言えばやっぱり青黄赤の大勝利カラーである。町中至るところに大勝利カラー。ここはルーマニア領ですか? しかも、このステッカーをよく見ればわかるが、信濃町商店振興会のものだ。商店街からして既にSGIの配下にあるということなのだろう。いやはやたまげました。 信濃町から四谷三丁目までを南北に抜ける外苑東通り。ここにも創価専門仏壇店や書店などの関連店舗がズラリと軒を連ねる。 本当は一歩裏通りに入っていくと凄まじい密度で創価関連施設が密集しまくっているのだが、今回は写真なしです。ヘタレですみません。 ちなみに、この界隈では普通にカメラを持ってうろつくだけでも謎の警備員に尾行されたり、「何か御用ですか」とさりげなく尋問されたりする

[75] 信濃町 | 2007~2009年 (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/shinanomachi/4/

<3ページ目を読む 都心のコアエリアに位置し、周辺に商店街も市街地も見当たらないこの駅の利用者は、神宮球場とはじめとした神宮外苑の施設が目当てか、慶應義塾大学病院に通う患者か職員か、もしくは学会関係者くらいしか居ないと思われる。また中央線が人身事故でストップしていたので、仕方なく総武線各駅停車に乗っていたものの、ふと気が変わって信濃町の駅で降りてみただけである。 そういえば信濃町駅の構内も、学会村と呼ばれるだけあって、創価関連の広告がやたら目立つ。一部の人々には確かに「聖地」なんだろうが、やはり異様な雰囲気だ。 学会本部から新聞社、関連企業にあたるまでが密集し、まるで一つの国家として機能しているかのような信濃町界隈の街並みについては先ほど伝えたばかりだが、もう一つ重要な施設が信濃町駅前に存在している。 それが、信濃町駅ホームからも建物が見える政権与党「 公明党 」の本部だ。言わずと知れた創価学会政治部でありプレジデント大作先生が創立した政党。公明党本部は学会村とはJR線を挟んで向かい側に置かれている。やはり学会村の建物同様、ハコモノにあまり金を掛けない主義でいるのか、つい最近まで連立与党だったとは思えないちゃちな建物を意外に思ってしまう。 信濃町駅からは急坂を下り窪地へと降りる格好となる。東京ならではの起伏のある地形は意外な場所に意外な風景を隠して居る事がある。公明党本部前の路地にもご覧のような低層木造住宅群があり唖然としてしまう。 公明党本部の建物はご覧のように4階建てで、建物自体の大きさは地方の市役所レベルの規模しかない。万年野党の 日本共産党 ですら代々木にある本部建物がリニューアルされて立派になっているというのに、この佇まいは何なんだと(笑) 先の 衆議院選挙 で小選挙区から出た太田前代表を含め冬柴氏や北側氏など閣僚経験者も揃って全員敗退。自民党とともに下野する羽目となったわけだがこれからどうなるのか。 公明党本部と学会村の間にある首都高速4号新宿線の高架下。まさに都会のダークゾーンであり人っ子一人通っていない。 そんな寂しい場所に吊るされている意味深な標語。 「のっちゃだめ うまい話に 落し穴」 高速道路に隣接してJR線の高架下を潜る。都心のど真ん中であるにも関わらず人影もなく陰鬱なトンネルである。 その先には学会村へ通じる急な登り坂が… 路地の狭さに加え

[76] 百人町区営アパート (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/hyakunincho-kuei-apartment/

不法占拠バタヤ住民を住ませて半世紀、JR大久保駅近くにある「百人町区営アパート」の怪 2015/6/12 新宿区

新宿のお隣、最近元気が無くなってきたらしいコリアタウン新大久保の現状は先日お伝えしたばかりだが、またしてもこの街に残る胡散臭い話題を聞きつけてしまった。 JR大久保駅から線路沿いの道を職安通り方向に進むと現れる、三軒棟続きの二階建て長屋の存在…通りがかる人々は誰もがそこを何も無かったかのように通り過ごすが、実はこの場所にとんでもない「戦後史」が隠れ潜んでいた… この建物、地図上で見ると「百人町区営アパート」と記されている。それにしても全く生活感は感じさせないのだが、これが「住民」が存在する新宿区営のれっきとした区営住宅という事になる。何故こんなものが大久保駅近くのこの場所にあるのだろうか。 二階部分が住居、一階部分は事務所や作業所といった使われ方をしている様子だが、落書きされまくっているわ、どうにも荒れ果てている。外壁に蔦が絡まって余計に不気味さを増しているあたりが、かつての大久保の暗黒街ぶりを思わせる。 この区営住宅が特殊な存在である事は、二階へ上がる階段の手前の壁に据え付けられた住民の郵便ポストを見れば分かる。殆どどれも在日コリアンの苗字ばかりである。さすが大久保と言いますか、やっぱりガチなコリアタウンなんですね… 二階に上がると建物の裏側が廊下になっており各世帯の玄関口もこちら側にある。しかしこの陰鬱っぷり…JR中央総武線の線路の土手に阻まれ、昼間でもろくに日光が当たらず薄暗い廊下である。ベランダもなく洗濯物を干す場所は事実上ここしかない。生活環境としてはかなりアレな部類に入る。 この「百人町区営アパート」をネット上で調べると、とある 区民オンブズマンのブログ記事 に行き当たった。そこにはこの建物の正式名称が 「新宿区立百人町作業宿泊所」 である事と、月々の「使用料」という名目の家賃が2300円~6600円と極めて激安である事が記されている。大久保の賃貸相場で外国人でも借りられるような風呂なしボロアパートでも5万円台は見なければならないのに、このアパートの住民は特権的だ。 さらにその成立経緯についても、昭和39(1964)年の東京五輪開催を前にしたスラムクリアランスの一環で、職安通りを挟んだ南側にある「新宿都税事務所」(旧西新宿保健センター)の敷地

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[77] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054542937164

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