神田川

神田川

[1] 神田川

Webページ

[2] 神田川1985(4)谷端川合流点(JR水道橋駅前) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/13226330/

1985年8月に神田川を撮影した写真からの紹介シリーズ、忘れた頃にやって来た4回目は谷端川の合流部である。 今までの記事はコチラ ・神田川1985(1)桃園川合流地点 ・神田川1985(2)川の上の送電線 ・神田川1985(3)神田川最上流 谷端川(やばたがわ)はかつて豊島区から文京区にかけて流れていた川だ。豊島区要町2丁目の粟島神社に現存する弁天池などを水源とし、そこから千川上水の分水を併せていったん南下したのち、西武池袋線椎名町駅付近より北上、JR埼京線板橋駅付近で向きを南東に変え、山手線大塚駅を経由し、小石川を流れて水道橋で神田川に合流していた。下流部では小石川、礫川、西大下水、また千川上水の水を引いていたことからか千川とも呼ばれていた。

中・下流部は戦前に、上流部も1970年代までには全区間が暗渠化された。現在上流部は遊歩道に、中下流部は大塚三業通りや千川通りといった道路になっている。最下流部は現在雨水幹線「千川幹線」となっていて、幅4.2m深さ4.7mの矩形暗渠が東京ドームシティを横切っている。 1985年当時、水道橋駅北側の神田川北岸に、河岸が十数メートルほどだけ凹んだ形で、谷端川の合流部が開渠で残っていた。感潮域であるためか河口にも水があり、鯉が泳いでいるのが見える。

2009年現在、河口は船着場となってしまった。「神田市兵衛河岸防災船着場」の看板が掲げられ、浮き桟橋が設置されていて、河岸には階段がつくられている。向かいに見える水道橋駅の駅舎は窓の配置まで以前のままだ。

[104] 秋葉原 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A7%8B%E8%91%89%E5%8E%9F

概要[編集]

第二次世界大戦後の日本において、高度経済成長とともに多様な電子機器や部品(ハードウェア)およびソフトウェアを取り扱う店舗が建ち並ぶ世界有数の電気街として発展した。世界的な観光地の顔も有する。秋葉(あきば)・アキバ・AKIBAの略称で呼ばれる。

当初はジャンク品の商店とそこから発展した家電量販店が中心の電気街だったが、高度経済成長を経て音楽ブームを背景としてレコードやCDを取り扱う専門店が軒を連ね、その後は電子ゲームブームの到来とともにゲームショップが繁盛した。この電子ゲームブームが本格化すると仮想空間を嗜好する需要に着眼したホビーショップやアニメショップも建ち並ぶようになった。近年では都市再開発により秋葉原駅を中心に多くの複合ビルが建設され、訪れる年齢・客層も様々になっている。

地理[編集]

秋葉原と呼称される区域の明確な定義はないが、東京都が策定した都心等拠点地区における秋葉原地区の範囲は、東は昭和通り、西は昌平橋通り、南は神田川、北は蔵前橋通りに囲まれた区域、すなわち東京都千代田区外神田一丁目・外神田三丁目・外神田四丁目・神田佐久間町一丁目・神田花岡町・神田相生町・神田練塀町・神田松永町・台東区秋葉原を指す[1]。秋葉原電気街とサブカルチャー関連の店舗は主にJR秋葉原駅周辺および中央通りの万世橋北詰から東京メトロ銀座線末広町駅のある外神田五丁目交差点までを中心に広がっている。

JR秋葉原駅には東西に総武線、南北に山手線・京浜東北線(東北本線)が通り、東京メトロ日比谷線秋葉原駅やつくばエクスプレス秋葉原駅とも接続するターミナル駅として多くの人に利用されている。住居表示では電気街口前が外神田一丁目、その北の中央通り東側が外神田四丁目、西側が外神田三丁目となっている。

秋葉原電気街の外側は主にオフィス街だが、古くから建っている民家も見ることができる。前述のように鉄道各線の駅が近く、都心の一等地として地価・家賃ともに高価になる傾向がある。

歴史[編集]

前史[編集]

現在でいう秋葉原にあたる地域は、徳川家康入国後、神田川が現在の流路を通るように開削されると、川沿いに材木商が集まり、神田佐久間町が起立したほか、大部分は大名屋敷・旗本屋敷などで占められた。しかし、江戸の人口が拡大するにつれ、大名や旗本は大火等を契機に次々に郊外へ移転し、跡地にはより中心の町民が

[105] まぼろしの銀座線”万世橋駅” : 野菊のハッカー, , http://signal9.exblog.jp/6680102/

名所旧跡があるわけでもない、こういう場所でカメラを構えていると、通行人の怪訝な視線を受けることが多い(笑)

ああ、開店準備中の電気店の方の「なにコイツ」な視線が痛い(笑) どこだかお判りになるだろうか? アキバに詳しい人はわかるだろう。さよう、万世橋の交差点、石丸電気一号館の前である。 ナニを撮りたかったかというと、ベストの素敵な店員さんの足元の、鉄製の網目である。 この網目の横にはこういう蓋がついている。

「ずい道内消防用連結送水管送水口」。隋道というのはいうまでもなくトンネルのことだ。そう、この網目は、東京メトロ銀座線の通風孔なのである。 地下鉄の通風孔なんて珍しくも無い。そんなものが注目されるのはマリリン・モンローのスカートを巻き上げる時くらいである…確かに。 だが、この通風孔は単なる通風孔とはちょっと違う。 実はここに、かつて地下鉄の駅があった 、というのである。 東京メトロ銀座線、以前は営団地下鉄銀座線であったが、そもそもは東京地下鉄道株式会社という私鉄だった。 この銀座線設立に関しては、日本初(つまりアジア初)の地下鉄建設という偉業に相応しい、いろいろと面白いエピソードがあるのだが、逐一書いていると本が一冊書けてしまう。中村健治氏の近著 『メトロ誕生-地下鉄を拓いた早川徳次と五島慶太の攻防』 (交通新聞社、2007年)を参照されたい。俺もこの銀座線の万世橋駅に関しては、この本で初めて知った。 で、ここでは、ざっくり概況だけ。 東京地下鉄道は当初から資金難に悩まされた。アメリカ資本導入計画も折悪しく発生した関東大震災で頓挫、結局、当初計画していた新橋ー上野間の敷設を後回しにし、上野ー浅草間での部分開業を目指し、大正14年9月末に工事を開始した。 浅草発の銀座線に乗ったことのある人はご存知と思うが、あの路線にはちょっとした特徴がある。 非常に浅いところを通っていることだ。 実は当初は 15メートル の深さに電車を通すということで許可を得たのだが、この資金難の折、「浅く掘れれば安く済む」という理由で 1.5メートル で再申請したところ 東京府のチェック漏れというラッキー で(笑)、うまく鉄道省の許可を得てしまう。 結果、地面を掘り下げて線路を降ろした後で蓋をするという「オープンカット方式」での工事ができることになった。 逆

[106] 羽田秋葉原運河探検クルーズ│人気の東京・横浜 パーティー クルーズ ジール, , http://www.zeal.ne.jp/plan/203.html

東京・横浜港の数ある客船の中から、クルーズコンサルタント有資格者や船舶操縦資格を持った海に詳しいスタッフが、お客様に最適なパーティープランをご提案いたします。お気軽にご相談ください。

秋葉原の万世橋と羽田空港を水路で結ぶ★秋のシルバーウイーク★の特別企画です

羽田空港ターミナルから送迎バスで多摩川に面した羽田空港船着場へ。多摩川を出航した船は東京の運河を探検しながら秋葉原の万世橋を目指すロングクルーズです。大型船では航行困難な東京の水路(海老取川や神田川)を小型オープン船で通り抜けします。途中、品川(天王洲ヤマツピア)で乗下船できるプランもご用意致しました。

プラン詳細

運航日程

2015年9月19日(土)~9月26日(土)

運航時間

コースにより異なる

集合場所

コース①、③・・・ 羽田空港:「国際線ターミナル2階ロビー指定箇所」[PDF]

コース②、⑤・・・ 秋葉原(万世橋)[PDF]

コース④、⑥・・・ 品川(天王洲)

予約形態

乗合クルーズ(社会実験モニタークルーズとなります)

お客様にはアンケート回答ご協力お願い申し上げます。

利用人数

1名様よりご予約可能

ご利用料金

早期予約割引!(予約後9月16日まで要事前振込)

①・② 羽田空港~秋葉原(万世橋)

大人 おひとり様 2,900円 / 小人 おひとり様 2,000円

③・④ 羽田空港~品川(天王洲)

大人 おひとり様 1,620円 / 小人 おひとり様 900円

⑤・⑥ 品川(天王洲)~秋葉原(万世橋)

大人 おひとり様 2,380円 / 小人 おひとり様 1,500円

※9月17日以降のご予約分は全て当日現金支払い料金となります。

当日お支払いの場合、以下の料金となります

①・② 大人 おひとり様 3,500円 / 小人 おひとり様 2,500円

③・④ 大人 おひとり様 2,000円 / 小人 おひとり様 1,000円

⑤・⑥ 大人 おひとり様 3,000円 / 小人 おひとり様 2,000円

※小人は4~12歳までです。

※3歳以下のお子様は大人1名に付き1名まで無料ですが、ご乗船の場合はご予約時に必ずお申し出ください。(2名以上の同伴は小人料金が適用となります)

料金内容

料金には、乗船料、消費税が含まれます。

使用船舶:

ルーク号(定員40名)

最大乗船人数:

40名様

特記事項

※出航の

[107] , , http://kawawalk.sakura.ne.jp/kandagawa/jou2/wadasiryuu1.html

地下鉄丸の内線新高円寺駅近く、五日市街道入り口交差点の東南角に車止め付通路が顔を出している。そこを道なりに進むと、結局、中野富士見町駅近くで善福寺川と合流後の神田川にたどり着く。流域としては善福寺川左岸にあり、古地図では善福寺川の左岸分流に合流しているようだが、現在の流路に従い神田川の直接の支流として扱うことにする。

この支流跡を合流点からさかのぼる。全行程2500mでかなり長いが、車止め、深い谷筋など一般の道路に紛れることはほとんどなく、たどりやすい支流跡である。

[108] 東京坂道ゆるラン | 坂の町・東京(主に文京区、新宿区、千代田区)を歴史ラン。古地図、古写真でタイムスリップ!走って探すお江戸の物語。, , http://sakamichi.tokyo/

頼朝伝説と堀部安兵衛の新宿区早稲田、太田道灌の面影橋、砦のような造りの寺社など、遠い昔の古鎌倉街道に想いを寄せて観てきましたが、ここ金乗院前も街道色の濃い地であり、深い歴史に彩られています。

古鎌倉街道を行く1(新宿区編)

古鎌倉街道を行く2(豊島区前編)

宿坂(江戸名所図会より)。残念ながら観音堂は今はない。

宿坂

中世の頃、「 宿坂の関 」と呼ばれる所が、このあたりにあった。この坂の名が、宿坂道と残っているのは、おそらくそれにちなむものと思われる。

“宿坂の関”は鎌倉街道の道筋にあったものといわれ、したがって、ここ宿坂はその街道上の地名と考えられる。古地図によると、鎌倉街道は現在のこの道より、やや東寄りに位置していたが、一応ここも鎌倉街道の名残りといえよう。

今から三百年ほど前、このあたりには樹木が生い茂り、昼なお暗く、くらやみの坂道として狐狸の類がとびはねて、通行人を化かしたなどという話もいまに伝わっている。

説明書きには「 現在のこの道より、やや東寄り 」と書いています。明治の地図で見ると、

明治41-42年(1908-09年)1万分の1測図。 ブルーライン が古鎌倉街道。

東側( 赤矢印 )に崖があり、そちらの方に蛇行していたのでしょう。

東の崖上から宿坂を見る。

江戸名所図絵を見ても坂はクネクネしています。宿坂西隣りの「のぞき坂」は上下通行車道としては都内ナンバーワンの急坂。

のぞき坂坂上より

同じ目白台地を登る宿坂も、かなり急なので少しカーブしながら登っていたということでしょう。

金乗院の裏門あたりに「 宿坂の関 」と茶屋があったと云います。

宿坂の関は関東お留の関の一つ。中世には、四ツ谷、三軒茶屋、品川、千住などにも関があったと伝えらています。

また今は無き 姿見橋 の由来になった刑場もこの辺りにあったと云いますが、江戸以前、後北条氏の頃の話で場所の特定もできず、今では単に言い伝えとして残るだけの怖い話です(姿見橋=罪人の後ろ姿を見送る)。

金乗院門前の読めない碑

金乗院門前のこの碑、「むせる」?

またまた出現した読めない崩し文字。ということでいつものように歴史のFBグループに質問するとなんと、「 はせ寺 」と読むとのこと。長谷寺?金乗院なのに長谷寺とはこれ如何に?

そうです。ここには太平洋戦争の戦災(昭和20年、1945年5月)にあった

[109] スーさんの釣り堀 ( 東京都 ) - なんたって中央線 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/ikansokutai/4119382.html

今日もまた雨。

本当に梅雨に舞い戻ってしまいましたね、これでは。

気象庁の方々、ちゃんと高円寺の気象神社にお参りに行ったのかなぁ?(笑)

よく気象神社に「明日晴れますように」とお参りに行かれる方もおいでのようですが、もともと気象神社は「天気予報が的中しますように」という神社ですから、お間違いなきように。

じゃぁ昨日に引き続き、今日も水っぽいお話しといたしましょう。

まず例の2005年9月の水害時、水没?した阿佐ヶ谷駅について。

阿佐ヶ谷駅の南口ロータリーから西に延びる商店街は「川端商店街」と言います。

このあたり、かつて文学者が多く住んで「阿佐ヶ谷文士村」などという通称もあったということで、川端康成先生の旧宅があった・・・・とか、そういうわけではありません。

実際に「川端」だったからこそのネーミング。

そう、水没もするはず。阿佐ヶ谷駅前は、元々はなんと川だったのです。

高円寺には馬橋稲荷神社という、こちらも由緒ある神社があります。ここでは江戸時代、よく雨乞いが行われていたそうです。

江戸中期以降に田畑の開発が進んだ中野・杉並地区では、やがて水不足に直面します。

宝永年間に天沼・阿佐ケ谷村は、千川上水(元禄年間に開削)から分水を引くことを許されました。これは通称「六ケ村分水」と呼ばれます。けれどもその先の高円寺・馬橋・中野の三ケ村は、その恩恵に預かることが出来ませんでした。天沼の弁天沼を源とする桃園川の水量は乏しく、そのため田圃の用水は雨水に頼るしかないため、雨乞いが盛んに行われたのです。

しかし、いつまでも神頼みでは仕方がありません。「天は自ら助くる者を助く」というじゃありませんか。しかも「天保の大飢饉」が関東一円を襲いました。高円寺・馬橋・中野三ケ村の名主さんたちは相談し、水量豊かな善福寺川から桃園川に通じる水路を開削しました。工事は青梅街道という丘を胎内掘り(地下トンネル)で越すという難しいものでしたが、幕府の協力と優秀な民間技術者、川嶋銀蔵の力により見事成功。これが「新堀用水」です。荻窪団地のあたりで取水し、杉並高校横の成宗弁天池を中継地とし、地下トンネルで青梅街道を横断。杉並区役所やショッピングアーケード「パールセンター」の地下を通り、桃園川の東橋付近で合流していました。

豊かな農村地帯であった高円寺や阿佐ヶ谷近辺には、こうした用

[110] 高架下と神田川の問屋街、浅草橋 - 路地ウラ観光案内, , http://rojiurawatch.hatenablog.com/entry/2017/03/12/001736

JR 浅草橋駅 から馬喰町方面に行く途中に渡る 神田川 。

「はぜ釣、屋形船、花火船」などと書かれた船宿の看板が並び、川には屋形船が浮かんでいるノスタルジックな風景です。

大小様々な船、使い込んだ杭が水面に映っていますね。

川周辺の柵に、手袋を干してあったり植木鉢を並べたり、生活感満点です。

鉄、錆、トタン、杭、縄、梯子。かっこいい。

浅草橋界隈は、アクセサリーや人形などの問屋街。

仕事に生きる街、ものづくりの街、活気のある駅前、渋さと元気の入り混じる雰囲気が好きです。

高架下をフル活用。

めまいを起こしたような何とも言えない気分になる。なぜだろう。

正面から見てみると、右側が少しへしゃげていました。。。なるほど、これか。

高架下の純喫茶。

「久」でケーキセットを頼み、くつろいでいると、

他のテーブルの話し声が聞こえてくる。問屋さん側と工場の方の打ち合わせのようだけど、短い時間の中で信頼関係と良いものをつくりたい気持ちが伝わってきました。

喫茶店では、ちょっとした本音や悩み相談などが漏れ聞こえてくる。

おしゃれなカフェにはない人間臭さを感じることができるのが醍醐味。

外国人観光客に人気の 食品サンプル も、年季が入ってます(笑)

神社。

しめくくりは 柳橋 にある篠塚稲荷神社です。

背筋の伸びるような佇まいでした。

↓↓お手間でなければポチッとお願いします♪

にほんブログ村 にほんブログ村

[111] 万世橋駅 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%B8%87%E4%B8%96%E6%A9%8B%E9%A7%85

国鉄 万世橋駅 は、 国有鉄道 (休止時、 運輸通信省 鉄道総局)中央本線にあった駅。 東京都 神田区 (現: 千代田区 )の 神田駅 と 御茶ノ水駅 との間にあった。

前史 [ 編集 ]

神田川に面する 万世橋 界隈は 江戸時代 から繁栄していた。万世橋の南側に位置する 田町(後の多町、現・神田多町) には、 青物 商が集まっていた。青物商は 17世紀 初期( 慶長 年間)から田町、連雀町、佐柄木町に散在しており、 1657年 ( 明暦 3年)の 明暦の大火 の直前には81軒まで増えていたが、同大火の後、多町にまとめられた。 享保の改革 が行われた 1724年 ( 享保 9年)に 幕府 御用達 となってからは急速に発展し、後の 神田市場 の母体となる。神田川北岸には、 米 、 薪炭 、 竹 などの 問屋 があったほか、 職人 仕事の諸 材料 の荷受け地でもあった。 幕末 期には、 住宅地 としても発展した。 幕府 が財源確保のために、ところどころを 町人 に貸したこともあって、神田っ子の町が育って行った。

明治 以降、更に発展した。主に 洋服 生地 を扱う問屋街が周辺に形成された。万世橋駅前の連雀町(今は 神田須田町 - 神田淡路町 の一部)には、 飲食店 、 寄席 、 映画館 が次々と開業した。現在も「神田食味街」などと呼ばれる一画がある。

歴史 [ 編集 ]

繁栄する万世橋地区を目指して、 鉄道 を延伸しようとしたのは 私鉄 の 甲武鉄道 である。甲武鉄道は 1889年 ( 明治 22年) 4月11日 、 立川 - 新宿 間を開通させ、 都心 への延伸を進めていた。

1912年 (明治45年) 4月1日 、万世橋駅の 営業 を開始した。甲武鉄道は 1906年 (明治39年) 3月31日 に 国有化 されたため、 鉄道院 の駅となる。なお万世橋駅の開業によって御茶ノ水 - 万世橋にあった 昌平橋駅 は役目を終えて 廃止 された。

初代の駅舎は豪華であった。 東京駅 と同様に 辰野金吾 の設計による赤 煉瓦 造りで [1] 、 一等 ・ 二等 待合室 、 食堂 、 バー 、 会議室 等を備えていた。また、貨物用の エレベーター も整備されていた。中央本線の ターミナル としてだけでなく、ここから 両国駅 方面への 総武線 の敷設計画をも見据えたものであった。 駅前

[112] 浅草橋 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%85%E8%8D%89%E6%A9%8B

浅草橋(あさくさばし)は、東京都中央区と台東区にまたがる、神田川にかかる橋。また、同橋より付けられた、台東区内の地名。

郵便番号 111-0053

概要[編集]

その名の通り都心と浅草を結ぶ橋であり、かつては浅草寺の門前橋(浅草橋御門)であった。江戸時代には、明暦の大火の際、牢獄での非常時の罪人解き放ちを「集団脱獄」と取り違えた役人が門を閉めたため、神田・日本橋側から浅草の方へ避難しようとしていた一般民衆までもが行き場を失い、2万人以上もの犠牲者を出すという過去もあった。

1873年に、技術の高さで有名な肥後の石工である、橋本勘五郎に架けられ、1930年に当時の最新技術を駆使して現在の浅草橋が建設された。

現在では人形やビーズアクセサリー、雑貨、店舗用品等を取り扱う会社・店舗が多く建ち並んでいる。

地理[編集]

浅草地域の南部に位置し、千代田区(神田和泉町・神田佐久間町・東神田)・中央区(東日本橋)との区境にあたる。

河川・橋

神田川

左衛門橋

浅草橋

柳橋

交通[編集]

鉄道

JR総武線■浅草橋駅

都営地下鉄浅草線○浅草橋駅

道路

国道6号

関連項目[編集]

東京都の橋一覧

浅草橋ヤング洋品店

外部リンク[編集]

台東区HP

[113] 首都圏の主要道路の変遷メモ, , http://anond.hatelabo.jp/20140309230249

■首都圏の主要道路の変遷メモ

明治~現代の各時代の古地図が見れるサイトを見つけて、古地図&道路フェチとしましては、むさぼるように見入ってしまいましたとさ。

■今昔マップ on the web 首都圏編

で、主要道路がこれまでどんな変遷をたどってきたのか、知ることができた内容をメモ代わりに。

なお、情報源はこの今昔マップが主で、一部ウィキペディアからの情報で補足しているが、事実と異なる記述があったらご容赦。

自分の興味地域は、東京南部~神奈川なので、以下はそのエリアについてのみ。

【おもな放射道路編】

東海道(国道1号・15号)

日本橋~品川区間。

1900ごろ時点で現在の国道15号と同じルート。市電も敷設されていた。八ツ山橋が現在の道路形状になったのは1960ごろ。

品川~横浜間。

京急本線が1900ごろ時点ですでに敷設されているが、道路は現在の旧東海道のみ。

六郷橋は1900ごろ時点ですでに架橋されていた。

現在の国道15号品川~大森町駅間が開通したのが1930ごろ。川崎~新子安区間は1920ごろ。

横浜~平塚。1900ごろ時点で、おおよそ現在の旧東海道あるいは東海道に沿ったルート。

1900ごろ時点で、現在の横浜駅付近は鉄道以外は海で、当時の横浜駅は現在の桜木町駅付近にあった。

生麦~保土ヶ谷区間は、1930ごろには現在のルートになり、当時市電が走っていた。横浜駅も現在の位置へ移動。

狩場IC付近が現在のルートになったのは1960ごろ。

藤沢バイパス開通は1960ごろで、それまでは神奈川県道30号および藤沢本町駅付近を通るルートだった。

平塚駅付近の現ルートができたのは1960ごろで、それまでは旧道ルート。(現ルートの国道指定はタイミング遅れて1980ごろ?)

なお、1900ごろ時点で、浜離宮~平和島駅間は現在の山手線・京急本線がほぼ海岸線で、以東はその後の埋立地である。

現在の国道1号日本橋~横浜駅間について

日本橋~五反田間は、中原街道の原型として1900時点でおおよそ既にあった。

三田~高輪台駅区間は、1900ごろ時点では細い道しかなく、1930ごろまでにかけて大きな道として開通した。

ちなみに、三田慶應のT字路ができたのが1940ごろ、白金高輪駅から古川橋方面の区間が開通したのが1960ごろ。

なお、日本橋~札の辻と魚藍坂~五反田には市電が走っていた。

[114] アキバの道路は、どうして渋滞知らずなのか | 街・住まい | 東洋経済オンライン | 経済ニュースの新基準, , http://toyokeizai.net/articles/-/98479?page=2

秋葉原駅では下ろした荷物を船に積み替え、水路を通じて神田川に出し、東京各地に流通させていた。JR東日本の広報担当者によると、秋葉原駅の駅長室には現在でも秋葉神社の「分社」が残る。非公開だが、神棚のような形をしているとのことだ。上野駅から北東にしばらく歩いた一角にも、秋葉原駅が整備された際に移ってきたとされる「秋葉神社」がある。

次の節目は1923年の関東大震災で、江戸時代から神田川の南にあった巨大な青果市場が壊滅したことだった。市場はその後復興したものの、「延焼防止目的で東西方向に整備された靖国通りに分断される形になったのに伴い、1928年に秋葉原駅の西北に移転した」(高木氏)。その際、市場の東に昭和通りが整備され、現在の秋葉原の道路網の原型が出来上がった。

青果市場は1990年に大田区に移転するまで、秋葉原に存在し続けた。跡地には現在、UDXなどの巨大ビルが建つ。一方、戦後のGHQによる指導でラジオや電子部品の露天商が規制されたことから秋葉原駅のガード下に店が集まるようになり、電気街へと発展した。

千代田区議の小林氏は、「青果市場があった当時、中央通りの片側3車線のうち歩道寄りの1車線は常にトラックに占領されていた」と盛況ぶりを振り返る。「市場が無くなって、その分のスペースが空いた」ことが、渋滞が起きない要因だという。

目配りしやすい体制

万世橋署の伊東課長は、同署の取締り体制も効果を挙げていると語る。「交通課約25人のうち、駐車違反に携わる人員はたった4人だが、警視庁が契約するみなし公務員である駐車監視員は2人1組で7〜8組が常に動いている」。一方で、同署の管内は約1.5平方キロと都内の警察署では2番目に狭いため、目配りも効きやすい。「よく秋葉原に来る人にとっては、駐車違反できないイメージが強い」ことが抑止力になっているわけだ。

両氏は町会の結束力の強さも指摘する。「どこどこ1丁目という単位ではなく、江戸時代以来の小さな地域単位で町会がある。町会長は先祖代々の住居を貸しビルに改装して最上階に住んでいる例が多い。ビルオーナーであるため税務署の法人会で先輩後輩であり、区や警察との連携も非常によく取れている」(伊東氏)、「駐車違反があったら、すぐ警察に苦情が行く」(小林氏)現状が、交通整理や防犯に寄与しているのだ。

[115] なぜある?旧東富坂の抜け穴と講道館の抜け穴(後編・開運坂) | 東京坂道ゆるラン, , http://sakamichi.tokyo/?p=5473

講道館開運坂道場の抜け穴?

都市伝説で、柔道の講道館師範、嘉納治五郎が開運坂道場から下富坂道場まで地下通路で行ったという話があるのです。

開運坂の項 で書こう書こうと思ったのですが、え〜まさかぁ?と思いますよね。

それも疑惑なのですが、講道館開運坂道場の写真と、地図上の講道館の位置が違うのです。これは 大きな謎 です。

古写真:開運坂中腹にある開運坂道場。

開運坂道場とされるこの写真では、開運坂( 紫ライン )の中腹にあるのですが、地図上の講道館は奥まったところにあるのです。

講道館ビルの二階、資料室と図書室が無料で利用できます(ここに来られる外国の方はなぜかみんな短パンです)。

講道館ビル

キレイでやさしそうな学芸員の方に、私の疑問を投げかけてみました。

地図を見せる私。

学芸員の彼女は「確かにそうですねぇ。」とおっしゃる。

続けて彼女は、

「この開運坂一帯は嘉納治五郎先生が買い取った土地ですから、この一帯すべてを講道館と云います。いろいろな機関がありました。」と。

坂上の講道館本部跡。

「坂上のこの建物が講道館本部です。講道館宛に手紙を出すと、全てここに届いたと云います。」

なるほどぉ〜、続けて私は開運坂道場とされるもう一枚の写真を見せ、この写真、今の公園手前(地図上の講道館の位置)の光景に似ているのですがぁ?

古写真:もう一枚の開運坂道場とされる写真。実は嘉納治五郎の住まい?

「ああ、そうですね。その裏が嘉納治五郎先生一族のお住まいです。お住いから道場まで 抜け穴 を掘ったと云いますから。

あら、そうですねぇ、それが本道場でしょうね。お住いから開運坂への 抜け穴 だと、少し遠いですものねっ☆。」

え〜っ!聞こうと思っていた「 抜け穴 」が彼女の口から、、、

「おほほ、そうなんですよ。開運坂道場から下富坂道場への地下通路というのは、ここから出てきた都市伝説なのですよぉ」と笑顔でお話してくださる。

抜け穴はあったのだ 。短いけど。

古写真:講道館下富坂道場。

嘉納治五郎先生は道場を常に監視するため、雨に濡れるのがイヤで、自宅近くの道場までトンネルを掘ったそうです。

さすがっ嘉納先生、やることが違います!

「地図オタ対美しき学芸員」技あり!合わせ技で一本!つかっ、連携プレーで謎が解けました。

一件落着ではなく、二件目落着!

いつもは地図とニラメッコの苦悩

[117] 神田 (千代田区) - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E7%94%B0_%28%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%94%B0%E5%8C%BA%29

上記のうち、「神田」を冠称しない町域ではすべて住居表示が実施されているのに対し、「神田」を冠称する町域においては住居表示が実施されていない。住居表示を実施するたびに神田を冠称しない町名に変更がなされており(例、神田末広町・神田金沢町・神田旅籠町三丁目の各全域を外神田三丁目に変更)、かつての神田岩本町・神田鍛冶町の町域のうち、住居表示が実施された町域が岩本町・鍛冶町である。また、神田多町と神田司町に(二丁目が存在するにもかかわらず)一丁目が存在しないのは、住居表示実施に伴う町名変更により一丁目のみ消滅した為である。(住居表示前後の町名町域対照地図を参照。)

町名の読み方は主に、起立や町名町域変更のたびに「東京市公報」によって告示された読み方が使われている。これによると、「神田○○町」のうち「かんだ○○まち」と読むのは「神田司町(かんだつかさまち)」「神田小川町(かんだおがわまち)」の二つで、その他は「かんだ○○ちょう」と読む。

この地区の地下鉄においては、「神田」を取り除いた町名が駅名に採用されている(岩本町駅・末広町駅・神保町駅・淡路町駅・小川町駅)。これは、千代田区発足前(「神田」を冠称しない町名時代)に敷設された路面電車(東京市電・のち都電)の停留所名とその位置を踏襲して地下鉄駅が建設されたことによる(例えば、神保町時代に神保町停留所が設置されたが、戦後、町名が神田神保町に変更されても停留所名は変わらなかった。その後の神田神保町時代、神保町停留所の位置に地下鉄神保町駅が建設されたが、町名が変更されても駅名はそのまま残った)。

外堀通り、靖国通りなどの両側にまたがる町域において、地番を、道の片側の街区に偶数番、反対側の街区に奇数番をあてるという日本では変則的な付番をしているところがある。(参考:神田神保町#奇数番地と偶数番地)

歴史[編集]

地名の由来については、神田(歴史用語)、神田明神の項を参照のこと。

元は、現在の大手町の平将門首塚付近から神田山(駿河台)にかけての一帯を指したが、江戸城城下町整備後には常盤橋から浅草橋にかけての奥州往還沿いに成立した本町通りの北側地域を指すようになった。

本町通りは基本的には上方から移住した商人が集まって町を形成したが、神田は徳川氏の関東移封に従って江戸に移住した三河国などの職人集団の居住区に割り当てられた。

江戸時代後期に

[118] 荒木町〜策の池 - 東京さまよい記, , http://blog.goo.ne.jp/asaichibei/e/b3df689bb1b1ddb7bdc70eaf902a74c9

津の守坂下から西側の横町に入ると、荒木町の北側をぐるりと半周して階段の上につく。津の守坂の一本上の横町に入ればすぐにここにつけた。

この階段を下り、階段下から撮ったのが右の写真である。 この階段を仲坂というらしい。写真のように階段下の両脇に礎石があり、そこに仲の字が見える。昭和7年(1932)の施工である。この坂は、「東京23区の坂道」や「東京の階段」に紹介されている。

津の守坂の西側一帯は、窪地となっていて、荒木町料亭街がある。明治地図には特にのっていないが、戦前の昭和地図には荒木町に三業地とあり、昭和6年(1931)に芸者屋85軒、芸者数230名で、荒木町の芸者は「津の守芸者」といわれ、気品が高く、新橋、赤坂をさけて通う客も多かったという。

階段下を進み、Y字路を右手に歩いていくと、策の池がある。以前、津の守坂に初めてきたとき、この池を訪ねようとしてこのあたりをぐるぐる回った覚えがある。

左の写真のように池は水がいっぱいであり、湧水がまだかなりあるのであろう。池のそばに弁天を祀る小祠がある。

この池はもと策の井ともいった。

「紫の一本」に策の井について次のようにある。

「四谷伊賀町の先にあり。いま尾張の摂津守殿屋敷の内にあり。東照宮御鷹野へ成らせられし時、ここに名水あるよし聞し召し、御尋ねなされ、水を召し上げられ、御鷹の策の汚れたるを洗はせなされ候ゆゑえと云ふ。」

家康が鷹狩りに来たとき、ここに名水があることを尋ね、その水で御鷹のむちの汚れたのを洗ったため、この名があるということである。尾張の摂津守とは、尾張徳川家二代光友の次男で、のちに美濃高須藩主となった。

宮島資夫(1886〜1951)は「大東京繁昌記」の「四谷・赤坂」で津の守附近として次のように書いている。

「この坂を少し下って行くと、右側に木立が繁っていた。木立の下には名ばかりの茶店があった。茶店の下が崖で、不動尊の像か何かあった下の竹の筒から、細い滝が落ちていた。津の守の滝といった。その辺り一帯は、今も残る通りの凹地であって、底には池があった。周囲の崖には昼も暗い程大木が矗々(ちくちく)と茂っていた。夏は赤く水の濁った池で子供が泳いだ。巡回の巡査が時々廻って来て子供を叱る。『お廻り来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる』悪たれ口をついて、子供達は裸で逃げ出した所である。秋になると、崖ぶちの恐ろしく高い

[119] 常盤橋 (千代田区) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%9B%A4%E6%A9%8B_(%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%94%B0%E5%8C%BA)

常盤橋 (ときわばし)は、 東京都 千代田区 大手町 と 中央区 日本橋本石町 との間の 日本橋川 にかかる橋。別名は 常磐橋 (読み方は同じ)。ただし、現在は上流にある人通専用の旧橋を 常磐橋 、その後造られた新橋を 常盤橋 と称する。

元は「 大橋 」と称され、 江戸城 の大手門から 浅草 に直接向かう本町通り(現在の 江戸通り の原型とされる)上に置かれていた。また、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれた。

太田道灌と親交が厚かった 正宗龍統 が記した『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』に登場する河口に架かる 高橋 を当時の平川(現在の 神田川 ・日本橋川)の河口付近にあったと推定されている常盤橋に当てる説( 菊池山哉 説ほか)があるが、賛否両論がある。その一方、 永禄 11年( 1568年 )に 北条氏政 が 下総国 の 高城胤辰 を江戸城防衛のために駐屯させた「江城大橋宿」は大橋(常盤橋)そばにあった宿場町であったとする説もある。 徳川家康 による江戸の再整備後に 日本橋 が誕生して江戸の交通が南北を軸にする以前は、江戸城及び大橋(常盤橋)を中心とした東西の軸によって陸路が形成されていたと考えられている(江戸城の西の道は 鎌倉 や 府中 に、大橋を通る東の道は浅草を経由して 奥州 や 房総 に連絡していたと考えられている)。

ただし、大橋が架かる 日本橋川 は徳川家康の関東移封後に開削されたとも考えられており、その場合は常盤橋もそれ以前には存在しないことになる。この場合、当時の平川は 日比谷入江 に注いでおり、そこに架かっていた現在の江戸城大手門の橋(大手橋)は三ノ丸が内城に取り込まれるまでは 大橋 と呼称されていた(『別本慶長江戸図』『慶長江戸絵図』、それまでは現在の二ノ丸下乗門を大手門としていた)。『 東京市史稿 』では高橋は大橋=大手門として、当時の江戸市街の中心がそこにあったとしている。

寛永 6年( 1629年 )、常盤橋の前に常盤橋門が設置され、この頃に「常盤橋」の名称が登場したと考えられている。「常盤」の由来については、『 金葉和歌集 』(巻1)の「色かへぬ松によそへて東路の常盤のはしにかかる藤浪」に由来する説や、「徳川氏=松平氏」と松が持つ常盤(常緑)を掛けて同氏の繁栄が続く事を願ったとする説がある。江戸の交通の中心は日本橋にその地位

[120] 常盤橋 (千代田区) - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B8%B8%E7%9B%A4%E6%A9%8B_%28%E5%8D%83%E4%BB%A3%E7%94%B0%E5%8C%BA%29

常盤橋 (ときわばし)は、 東京都 千代田区 大手町 と 中央区 日本橋本石町 との間の 日本橋川 にかかる橋。別名は 常磐橋 (読み方は同じ)。ただし、現在は上流にある人通専用の旧橋を 常磐橋 、その後造られた新橋を 常盤橋 と称する。

元は「 大橋 」と称され、 江戸城 の大手門から 浅草 に直接向かう本町通り(現在の 江戸通り の原型とされる)上に置かれていた。また、浅草に通じていることから「浅草口橋」とも呼ばれた。

太田道灌と親交が厚かった 正宗龍統 が記した『江戸城静勝軒詩序并江亭記等写』に登場する河口に架かる 高橋 を当時の平川(現在の 神田川 ・日本橋川)の河口付近にあったと推定されている常盤橋に当てる説( 菊池山哉 説ほか)があるが、賛否両論がある。その一方、 永禄 11年( 1568年 )に 北条氏政 が 下総国 の 高城胤辰 を江戸城防衛のために駐屯させた「江城大橋宿」は大橋(常盤橋)そばにあった宿場町であったとする説もある。 徳川家康 による江戸の再整備後に 日本橋 が誕生して江戸の交通が南北を軸にする以前は、江戸城及び大橋(常盤橋)を中心とした東西の軸によって陸路が形成されていたと考えられている(江戸城の西の道は 鎌倉 や 府中 に、大橋を通る東の道は浅草を経由して 奥州 や 房総 に連絡していたと考えられている)。

ただし、大橋が架かる 日本橋川 は徳川家康の関東移封後に開削されたとも考えられており、その場合は常盤橋もそれ以前には存在しないことになる。この場合、当時の平川は 日比谷入江 に注いでおり、そこに架かっていた現在の江戸城大手門の橋(大手橋)は三ノ丸が内城に取り込まれるまでは 大橋 と呼称されていた(『別本慶長江戸図』『慶長江戸絵図』、それまでは現在の二ノ丸下乗門を大手門としていた)。『 東京市史稿 』では高橋は大橋=大手門として、当時の江戸市街の中心がそこにあったとしている。

寛永 6年( 1629年 )、常盤橋の前に常盤橋門が設置され、この頃に「常盤橋」の名称が登場したと考えられている。「常盤」の由来については、『 金葉和歌集 』(巻1)の「色かへぬ松によそへて東路の常盤のはしにかかる藤浪」に由来する説や、「徳川氏=松平氏」と松が持つ常盤(常緑)を掛けて同氏の繁栄が続く事を願ったとする説がある。江戸の交通の中心は日本橋にその地位

[121] 開通前夜 - 総武・東京トンネル(1) - Reports for the future ~未来へのレポート~, , http://mirai-report.com/blog-entry-8.html

※クリックすると目次ページを表示します。 千葉に住んでいる私は東京へ出る際に必ずといってよいほど総武快速線を利用しています。この路線は錦糸町(正確には両国)駅から品川駅まで地下線になっていますが、鉄道構造物マニア(?)の私はここで当然のことながらこのトンネルの構造について調べたくなり、試しにネット上を検索してみました。ところが、 その情報が全くといってよいほど無い のです。何しろ建設から40年近くたっているわけで、最近開業した路線のように電子媒体の情報はほぼ存在しないと考えてよく、ある意味当たり前です。 それなら自分でゼロから調査してしまおう 'と考えたのがこのレポートの発端です。本レポートはこのブログ初めての本格的な文献研究+現地調査として今日の大深度地下鉄道の礎をつくったこのトンネルの内部に迫っていこうと思います。 ■国会図書館へ ネット上で資料が見つからないとなると、残されるのは紙の文献である。最も手っ取り早いのは新線建設ではかならず発行される工事誌をあたることである。しかし、年代が古いだけに地元の図書館ではそれらしき資料は見つからなかった。そうなると、最後の手はこれである。日本の全出版物が収蔵されている 国立国会図書館 だ。ゴールデンウィーク前半、私は東京・永田町へ向かった。そして館内のPCで検索すると・・・ あった 「総武線線増工事誌:東京・津田沼間 日本国有鉄道東京第一工事局1973年」 「東海道線線増工事誌:東京・品川間 日本国有鉄道東京第一工事局1977年」 どちらも千ページを超える超大作である。しかも、前者に関しては「東京・津田沼間」というタイトルながら内容の約4分の3が私が求めていた東京~錦糸町間の地下区間に関する情報であった。よって、このレポートはこの工事誌2冊を主要な出典として話を進めていくこととしたい。 ■総武快速線開通前の情勢 総武快速線E217系電車(下総中山)。総武線は近郊型初の4ドア車となるこのE217系や首都圏では初となる幅広車体の通勤型E231系が導入されるなど、平成の現在も混雑緩和の努力が続けられている。 昭和30年代の日本は高度経済成長期に突入し、首都圏では郊外まで住宅が次々と建設され爆発的に人口が増加する。これにより、当時の首都圏の国電は異常事態といえるほどの混雑を呈していた。千葉県のホームページにこのレポートの対象とした

[123] 京浜東北線 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E6%B5%9C%E6%9D%B1%E5%8C%97%E7%B7%9A

京浜東北線 (けいひんとうほくせん)は、 埼玉県 さいたま市 大宮区 の 大宮駅 から、 東京都 千代田区 の 東京駅 を経由して 神奈川県 横浜市 西区 の 横浜駅 を結ぶ 東日本旅客鉄道 (JR東日本)が運行する 電車線 の 運転系統の通称 である。大宮駅 - 東京駅間は 東北本線 の、東京駅 - 横浜駅間は 東海道本線 の一部である。

運行形態は横浜駅 - 磯子駅 - 大船駅 間の 根岸線 と一体であり、合わせて 京浜東北・根岸線 と呼ばれる場合もある。以降、必要に応じて根岸線区間も含めた大宮駅 - 大船駅間の状況について記す。

概要

京浜東北線は、 東京 の 電車特定区間 内の運転系統( E電 )の一つであり、東京の 都心 を南北に縦貫し、北は 埼玉県 さいたま市 、南は 神奈川県 横浜市 ・ 鎌倉市 まで結んでいる。 ラインカラー は スカイブルー ( ■ )で、車両の車体帯の色や駅施設などにおける案内に使用されている。

1914年 (大正3年) 12月20日 の 東京駅 開業と同時に「 京浜線 」として 東海道本線 東京駅 - 高島町駅 (現存せず)間で開始された電車運転が起源であり、その後北は 東北本線 大宮駅、南は 根岸線 大船駅まで運行区間が延伸されて 1973年 (昭和48年)に現在の運行形態となった。 2014年 には運行100周年を迎えた。

「京浜東北線」の名称は、その運行区間である東 京 と横 浜 間を結ぶことに拠る『京浜』と、東北本線の 電車線 であることに拠る「東北」からなる(名称の経緯は「 #歴史 」節も参照)が、これは旅客案内上の通称であり、正式な線路名称は東京駅 - 横浜駅 間が東海道本線、東京駅 - 大宮駅 間が東北本線、横浜駅 - 大船駅間が根岸線である。一般的には運営事業者(JR東日本)はもとより、 国土交通省 や関係する各鉄道事業者、 マスメディア などが『京浜東北線』の名称を使用するため、この名称が定着している。

長い間東京の中心部を南北に縦断し埼玉県域と神奈川県域を結ぶ唯一の鉄道運行系統であったが、 2001年 の 湘南新宿ライン 運行開始、東京都心の地下鉄線と郊外の鉄道各線との直通運転実施 [注 1] 、さらに 2015年 に東北本線と東海道本線間の中距離電車の相互直通運転( 上野東京ライン )が開始されたこと [1

[124] 羽田空港~秋葉原を結ぶ船便を9月に試験的に運行 | THE PAGE 東京, , http://tokyo.thepage.jp/detail/20150825-00000007-wordleaf

国土交通省は25日、羽田空港から東京都心部への舟運の可能性を検証するため、羽田空港船着場~秋葉原(万世橋)の運航を試行的に行うと発表した。

羽田空港から東京都心部間を結ぶ定期的な航路設定は初めての試み。神田川、隅田川、京浜運河に架かる30橋以上の橋梁群を眺めることができるルートとなる。

日時は、9月19日(土)~26日(土)の8日間。コース・運航時間は、[1]品川(10:30 )→ 羽田空港船着場(11:20)、[2]羽田空港船着場(11:30) → 秋葉原(14:00)、[3]秋葉原(15:00) → 羽田空港船着場(17:30)の3コース。

料金は、秋葉原-羽田空港船着場で2,900円、秋葉原-品川で2,380円、品川-羽田空港船着場で1,620円(いずれも9月16日までの事前購入の大人料金)。

予約は、下記の運航会社ホームページへ。

http://www.zeal.ne.jp/plan/203.html

[125] 水路をゆく・第二運河 富岩運河で遊ぶ…9, , http://suiro.blog27.fc2.com/blog-entry-1609.html

(『 富岩運河で遊ぶ…8 』のつづき) ● 中洲ができた原因は、正横を通過したときに一目でわかりました。小河川が運河の東岸に河口を構え、ほぼ直角に流入していたのです。ガイドさんによれば、「がめ川」とのこと。変わった名前ですが、漢字ではどう書くのか、帰宅後に検索してもわかりませんでした。 カワウ君と鴨さんが、船がすぐそばを通過しても、驚くそぶりも見せずおくつろぎの様子。ここから眺めたかぎりでは、少なくとも表面は砂礫っぽく、泥っ気はありませんでした。がめ川も流速が意外と速いのでしょう。 艀船運河としての処理を徹底するなら、流入河川は伏越(アンダーパス)で立体交差させ、神通川に落とすのが理想的ですが、それができない理由があったのでしょう。あるいはここも、運河竣工時は可航河川として利用されていたのかもしれません。 ● 中洲が水面上に顔を出している面積はわずかでも、浅瀬は大きく流路中央を侵食しているようで、「ふがん」は右側の岸に寄せること寄せること、そのギリギリっぷりは相当なもの。ちなみに、赤い桁橋は国道8号線富山高岡バイパスを渡す、富岩運河橋とそのものズバリの名前。神通川の中島大橋につながっているとのこと。 操舵席後ろから前方を見ても、右舷から顔を出して後方を振り返って(下写真)も、接岸せんばかりに寄せていることが、わかるかと思います。 ● ゴロタ石のある水際が間近に迫り、引き波は浅い岸辺の泥を巻き上げるほど。 水面下に杭か、沈置物でもあるのか、小さなブイが揺れているのも不気味でした。船長のご苦労も大変なものと思います。 ● 水深はその後、たたみかけるように浅くなり、ついには0.61mまで! 想像の斜め上をゆく豪快(?)な河床の上がりぶりに、言葉がありません。 たびたび引用している矢野剛「運河論」(昭和10年4月発行)によれば、「朔望平均干潮面以下水深‥‥水閘の下流に於いては五尺八寸」つまり、中島閘門から下の感潮水域でも、平均干潮面から約1.76mの水深を確保する設計だったとのこと。先ほど下流で見た水深と、ほぼ一致することがわかり、また、がめ川の及ぼす影響が、いかに大きいかも理解できます。 これでは現役だった時代も、定期的な浚渫が欠かせないなど、ネックになっていたのではないでしょうか? どのくらい放置するとここまで堆積が進むのか、ちょっと興味を惹かれるものがありますね。 ●

履歴

[148] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054542936757

メモ