鈴木小学校

鈴木小学校

[1] 鈴木小学校

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[2] 石神井川の源流を探して(4)源流解題ー鈴木遺跡・鈴木田用水・経理排水・石神井幹線 : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/16682228/

さて、3回にわたって石神井川の源流部を探索してきたが、最後に源流部の変遷について、現地の状況や様々な資料からわかった範囲で纏めておこう。 石神井川は25kmを越える流路を有する都内の中小河川を代表する川のひとつでありながら、その源流についてはまとまったかたちで検証がされることがなかったようだ。様々な文献を見ると、「かつては小平市鈴木町で、現在は小金井カントリー倶楽部敷地内の湧水」「小平市御幸町(小金井カントリー倶楽部の西側敷地)が源流」といった説明をよく目にするものの、カントリー倶楽部内の湧水は今では枯れているようだし、湧き出した水が何時頃どこをどう流れていたのかまではいずれも触れられていない。 そこで、古地図、公図、航空写真や、郷土誌、行政の刊行物、直接川とは関係のない資料などから石神井川源流部やそれに関連する水路の変遷について推定してみた。 (1)旧石器時代から江戸時代以前にかけての石神井川源流―鈴木遺跡 前回記事でも紹介した「鈴木遺跡」は1974年、鈴木小学校の建設時に発見された。旧石器時代後期、3万年前から1万年前の遺跡で、局部磨製石斧の発見で知られている。その規模は東西220m、南北330m(東西600m、南北670mとする資料も)にわたり、石神井川の流れる谷戸の源頭部(今の武蔵野団地)を囲む台地上にC字型に広がっていた。下の地図のオレンジ色の範囲にあたる(以下、地図はgoogle mapを加工)。

この時期はヴェルム氷期の最終期にあたり、海面は今よりも100m低かったというから、遺跡近辺の標高は約170mほどとなり、現在の青梅のあたりと同じだ。そこで湧き出ていた水はおそらく多摩川からの伏流水で、水量も豊富だったのだろう。現在の落合川の源流のように、大量の地下水が一度に地上に姿を現していたのではないか。鈴木遺跡資料館の展示物にあった当時の想像図に描かれた湧水はかなりの規模だ。

だが、縄文時代に入るとすでに水源はかなり東へ移り(現在の小金井街道付近か)、人々が生活するのに十分な水が得られなくなったという。そのため、鈴木遺跡周辺は生活の場から、狩猟採取の場に変化した。そして弥生時代になり農耕社会となると、水に乏しいことから一帯に人々が定住することはほとんどなくなったという。この状態は江戸時代に入るまで続いた。 これらの状況を考えると、鈴木町近辺が石神井川の

[3] , , http://www.kodaira.ed.jp/18kodaira/shisetsu2.html

鈴木遺跡

鈴木遺跡は、昭和49年6月に鈴木小学校建設予定地内で発見されました。発掘調査は、同年8月から56年3月まで鈴木遺跡調査団の手によって行われました。

遺跡は、石神井川源流の谷頭部に位置し、標高約74m、南北に334m、東西に220mの広がりをもっています。発掘総面積は13398�uにおよび主な出土品は、近世の陶器類、縄文時代の土器・石器など、旧石器時代のナイフ型石器・尖頭器・スクレイパー・彫刻刀・礫群・石斧などが出土し、総数112500点に及んでいます。

中でも石斧(局部磨製石斧)は、世界的にみても最古に属し、旧石器時代に磨製技術が存在したことを証明する貴重な石器です。また、礫群(蒸焼材理跡)・石器製作場・たき火跡などが発見され、学術研究を行う上で貴重な位置を占めるようになりました。

昔の道具

私たちの小平市や近くの町にすんでいた人々の生活や仕事に使われていた昔の道具です。昔の人びとの生活を想像してみましょう。

これらの品物は湊正之先生(みなとまさゆきせんせい)が農家からいただき、集めたものです。

履歴

[4] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054542573429

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