市ヶ谷

市ヶ谷

[1] 市ヶ谷

Webページ

[2] シチューかき回しながら市中引き回しのルートをたどる - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/130416160338_3.htm

見せしめといっても、市中引き回しは、おもに罪人を町人に向けて晒すものであり、大名屋敷や旗本などの武家屋敷が立ち並ぶようなまち=外堀の内側に行く必要がなかったからかもしれない。

[4] 策の池界隈(四谷荒木町) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/12391351/

かつての花街としての雰囲気を色濃く残す四谷荒木町界隈。町の中心に南北に伸びる大きく深いスリバチ状の窪地があり、その谷底の一角にひっそりと「策(むち)の池」と呼ばれる小さな池が佇んでいる。現在は長さ10m弱、幅5m弱の小さな池だが、かつては長さ130m、幅も20〜40mある大きな池だった。

江戸時代、荒木町は街全体が松平摂津守の屋敷の敷地だった。その中にあった庭園の中心にあったのが、策の池だ。池の名前の由来には諸説あるが、いずれも「乗馬用の策(ムチ)」を池もしくは池の水源で洗ったことが由来とされている。 明治時代に入ると庭園は払い下げられた。池の一角に天然の滝があったことから明治初期には茶屋が出来、観光名所となった。滝は落差4mほどあったというが、周囲の急速な都市化で明治後期には既にほとんど枯れていたという。一方で町自体は歓楽街として発展し、数百人の芸者を擁する花街となった。 明治16年に測量された地形図を見ると、池は南側に丸い池が一つ、そして北側に大きく細長い池が伸びている。そして、池の北側にある等高線を見れば明らかなように、本来このスリバチ地形は南側を谷頭とする谷戸地形で、北側に高い土手を築いて谷戸を遮り水流を堰止め、池が造られていたことがわかる。この谷戸は「紅葉川」の枝谷である。紅葉川は富久町に発して曙橋付近から市ヶ谷に伸びる谷筋を流れていた川で、市ヶ谷より下流部は江戸時代以降は外堀として利用されている。 明治後期の地形図では既に池は姿を消しており、現在残っている部分だけとなっていたものと思われる。 (地図は「五千分之一東京図測量原図 東京府武蔵國四谷区四谷伝馬町近傍 明治16年(1883年)より) 初夏の夕暮れ時、策の池を訪れてみた。新宿通りに面する車門通りから荒木町の歓楽街に入ると、早速緩やかな下り坂となっている。突き当たりの金丸稲荷神社の右脇から、石畳の坂道が谷底に向かってジグザグに伸びている。明治時代の地図にもこの道は描かれており、坂の右側の窪地はかつて丸い池となっていた場所だ。 谷底まで降りきると、東側に階段の坂が見え、かなりの高低差があることがわかる。モンマルトルの坂とも呼ばれているとか。 谷底はひっそりとした住宅地となっているが、ところどころ石畳の道も残っていて、かつての花街の気配が残っている。料亭のある一角に出ると、その向かいに、ビルと崖に囲ま

[5] 荒木町〜策の池 - 東京さまよい記, , http://blog.goo.ne.jp/asaichibei/e/b3df689bb1b1ddb7bdc70eaf902a74c9

津の守坂下から西側の横町に入ると、荒木町の北側をぐるりと半周して階段の上につく。津の守坂の一本上の横町に入ればすぐにここにつけた。

この階段を下り、階段下から撮ったのが右の写真である。 この階段を仲坂というらしい。写真のように階段下の両脇に礎石があり、そこに仲の字が見える。昭和7年(1932)の施工である。この坂は、「東京23区の坂道」や「東京の階段」に紹介されている。

津の守坂の西側一帯は、窪地となっていて、荒木町料亭街がある。明治地図には特にのっていないが、戦前の昭和地図には荒木町に三業地とあり、昭和6年(1931)に芸者屋85軒、芸者数230名で、荒木町の芸者は「津の守芸者」といわれ、気品が高く、新橋、赤坂をさけて通う客も多かったという。

階段下を進み、Y字路を右手に歩いていくと、策の池がある。以前、津の守坂に初めてきたとき、この池を訪ねようとしてこのあたりをぐるぐる回った覚えがある。

左の写真のように池は水がいっぱいであり、湧水がまだかなりあるのであろう。池のそばに弁天を祀る小祠がある。

この池はもと策の井ともいった。

「紫の一本」に策の井について次のようにある。

「四谷伊賀町の先にあり。いま尾張の摂津守殿屋敷の内にあり。東照宮御鷹野へ成らせられし時、ここに名水あるよし聞し召し、御尋ねなされ、水を召し上げられ、御鷹の策の汚れたるを洗はせなされ候ゆゑえと云ふ。」

家康が鷹狩りに来たとき、ここに名水があることを尋ね、その水で御鷹のむちの汚れたのを洗ったため、この名があるということである。尾張の摂津守とは、尾張徳川家二代光友の次男で、のちに美濃高須藩主となった。

宮島資夫(1886〜1951)は「大東京繁昌記」の「四谷・赤坂」で津の守附近として次のように書いている。

「この坂を少し下って行くと、右側に木立が繁っていた。木立の下には名ばかりの茶店があった。茶店の下が崖で、不動尊の像か何かあった下の竹の筒から、細い滝が落ちていた。津の守の滝といった。その辺り一帯は、今も残る通りの凹地であって、底には池があった。周囲の崖には昼も暗い程大木が矗々(ちくちく)と茂っていた。夏は赤く水の濁った池で子供が泳いだ。巡回の巡査が時々廻って来て子供を叱る。『お廻り来い、裸で来い、こっちで罰金とってやる』悪たれ口をついて、子供達は裸で逃げ出した所である。秋になると、崖ぶちの恐ろしく高い

[6] 百人町区営アパート (東京都新宿区) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/hyakunincho-kuei-apartment/

不法占拠バタヤ住民を住ませて半世紀、JR大久保駅近くにある「百人町区営アパート」の怪 2015/6/12 新宿区

新宿のお隣、最近元気が無くなってきたらしいコリアタウン新大久保の現状は先日お伝えしたばかりだが、またしてもこの街に残る胡散臭い話題を聞きつけてしまった。 JR大久保駅から線路沿いの道を職安通り方向に進むと現れる、三軒棟続きの二階建て長屋の存在…通りがかる人々は誰もがそこを何も無かったかのように通り過ごすが、実はこの場所にとんでもない「戦後史」が隠れ潜んでいた… この建物、地図上で見ると「百人町区営アパート」と記されている。それにしても全く生活感は感じさせないのだが、これが「住民」が存在する新宿区営のれっきとした区営住宅という事になる。何故こんなものが大久保駅近くのこの場所にあるのだろうか。 二階部分が住居、一階部分は事務所や作業所といった使われ方をしている様子だが、落書きされまくっているわ、どうにも荒れ果てている。外壁に蔦が絡まって余計に不気味さを増しているあたりが、かつての大久保の暗黒街ぶりを思わせる。 この区営住宅が特殊な存在である事は、二階へ上がる階段の手前の壁に据え付けられた住民の郵便ポストを見れば分かる。殆どどれも在日コリアンの苗字ばかりである。さすが大久保と言いますか、やっぱりガチなコリアタウンなんですね… 二階に上がると建物の裏側が廊下になっており各世帯の玄関口もこちら側にある。しかしこの陰鬱っぷり…JR中央総武線の線路の土手に阻まれ、昼間でもろくに日光が当たらず薄暗い廊下である。ベランダもなく洗濯物を干す場所は事実上ここしかない。生活環境としてはかなりアレな部類に入る。 この「百人町区営アパート」をネット上で調べると、とある 区民オンブズマンのブログ記事 に行き当たった。そこにはこの建物の正式名称が 「新宿区立百人町作業宿泊所」 である事と、月々の「使用料」という名目の家賃が2300円~6600円と極めて激安である事が記されている。大久保の賃貸相場で外国人でも借りられるような風呂なしボロアパートでも5万円台は見なければならないのに、このアパートの住民は特権的だ。 さらにその成立経緯についても、昭和39(1964)年の東京五輪開催を前にしたスラムクリアランスの一環で、職安通りを挟んだ南側にある「新宿都税事務所」(旧西新宿保健センター)の敷地

[7] 川上幸義の東海道線創業史, , http://ktymtskz.my.coocan.jp/kawakami/tokai.htm

*****************************

序 写真集1 写真集2 東海道 山陽 九州 四国 山陰 ��

関西線 北陸 �

信越 上越 東北 奥羽 北海道 HOME

川上幸義の東海道線創業史

( 新日本鉄道史より鉄道と運輸の抜粋)

1 東京−横浜間の鉄道建設まで �@

2 東京−横浜間の鉄道建設まで �A

3 新橋−横浜間の建設

4 品川−横浜間、新橋−横浜間の開業

5 雇外人について――京浜間に在勤した人々

6 施設の改良――複線化、六郷川橋梁の架換え

7 横浜〜国府津・浜松および大船−横須賀の建設

8 明治4〜24年の東海道線東部の運輸

9 神戸−大阪間の建設

10 大阪−京都間の建設

11 京都−大津間の建設

12 雇外人について――京阪神間在勤の人々

13 長浜−武豊、大府―浜松、馬場−深谷の建設

14 明治7〜24年の東海道線西部の運輸

15 明治24〜39年の東海道線の改良、支線の建設

16 東京市街の高架線の建設

17 明治24〜30年の東海道線の運輸

18 明治30〜39年の東海道線の運輸 �@

19 明治30〜39年の東海道線の運輸 �A

20 明治30〜39年の東海道線の運輸 �B

1 東京−横浜間の鉄道建設まで �@�

top

明治2年4月、明治政府が首都を東京へ移した直後のこと、横浜に住む英人アレキサンダーカンファーという者が、東京−横浜間に鉄道を敷設したいと政府に請願した。

首都東京と最寄の開港場横浜を鉄道で連絡しようという計画は、既に徳川幕府の時代に米人アルセポルトマンの出願があり、2年前の塵応3年12月老中小笠原壱岐守の名義で、江戸−横浜間の鉄道の建設・使用に関する免許状が出ていた。

ボルトマンは明治新政府に改めて既得権として承認されるように申入れてきたが、政府は明治2年2月

「鉄道は日本国が建設する」

との方針を示して断わったばかりであった。カンフアーは

「将来は政府の買上に応ずるし、共同経営でもいい」

と再願したが、当局は却下している。これは政府に先見の明かあった。

のちに鉄道局長になった井上勝の意見であると伝えられるが、大きい功績といわねばならない。

東洋の諸

履歴

[9] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054542209927

メモ