四条通

四条通

[1] 四条通 (しじょうどおり)

35.003676652962 135.759912729263

Webページ

[2] 京都四条通:烏丸通−川端通 楽に歩けるよう…車線半減 - 毎日新聞, , http://mainichi.jp/select/news/20141118k0000m040114000c.html

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京都市中心部を走る四条通(幅22メートル)の烏丸通−川端通間(約1.1キロ)の車道を片側2車線から1車線に減らし、両側の歩道を広げる工事が17日、始まった。一帯は京都を代表する繁華街だが、観光客による混雑が常態化。従来の自動車優先の道路整備を見直し、歩行者と公共交通の利便性を重視しながら、通りの魅力を高める方向に転換した。大都市のメインストリートで車線を減らす取り組みは全国初という。

工事は来年秋ごろ完成を目指し、事業費は約29億円。計画では、アーケードのある歩道の幅を現行の3.5メートルから6.5メートルに広げる。現在16カ所あるバス停は4カ所に集約し、車道側に一部張り出すテラス型にして乗降しやすくする。タクシー乗り場は大手百貨店前の2カ所とし、物品輸送のトラックなどの一時停車スペースは計15カ所(32台分)設ける。

同市によると、四条通の歩行者数は休日には1日約4万人。近年の外国人観光客の増加もあり、歩道は激しく混雑する。同市は歩行者優先の交通環境への移行を志向し、2007年に歩道幅を倍に広げる実験を実施すると、歩行者が約25%増加してもゆったり歩ける効果があった。

一方、車線減少による渋滞の懸念があるが、現行でも休日の通行量は「1車線でも十分に処理できる」約1万2000台と推計。違法駐車などが多く歩道側の車線がふさがっている現状があり、周辺の道路への影響は軽微とみている。車線減で、この区間の通行所要時間は1割程度増える見込みという。

着工に当たって門川大作市長は17日、四条河原町の京都高島屋前で「京都は歩いてこそ魅力を感じる町。京都の活性化につながる」と意義を強調した。主に夜間に工事し、来年7月の祇園祭の期間は一時中断する。

四条通周辺は近年、老舗が閉店し、コンビニエンスストアやチェーン店が増えるなど京都らしさが失われ

[3] 京都市電 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E4%BA%AC%E9%83%BD%E5%B8%82%E9%9B%BB

京都市電(きょうとしでん)は、京都市交通局が運営していた市電(路面電車)である。1895年に京都電気鉄道によって日本最初の一般営業用電気鉄道として開業され、1912年の市営路線開設、1918年の全面市営化を経た後、1978年9月30日限りで全廃された。

概要[編集]

1895年(明治28年)、民間企業である京都電気鉄道により第1期区間が開業。日本最初の一般営業用の電車となった[1]。京都に日本初の電車が開業した背景には、国内に先駆けて(世界でも2番目ともいう)水力発電が行われたことが挙げられる。京都は東京奠都に伴って天皇の膝下という地位を失い、市民の間で衰退が懸念されたことから、その挽回策として政府からの下賜金をもとに琵琶湖疏水が計画された。当初水車に利用する予定であった水力が発電に使えると知った設計者田辺朔郎は、急遽渡米して世界初といわれる水力発電設備を調査の上、帰国後ただちに設計を変更して蹴上に水力発電所を建設した。だが、電力を得ても当時はまだ電灯の使用が見込めず、産業用動力としてもなじみがなかったため、結果的に路面電車が電力の唯一の使い道となった。

最初の路線は京都市南部の伏見から京都駅前付近までで、その後、京都駅前から高瀬川沿いを北上、二条で鴨川を渡り東方の岡崎まで延長された。岡崎で開催予定の内国勧業博覧会への足として、大阪から淀川を船で来る客を見込んでのこととされる。ただし、開業当初は京都駅付近の軌道が繋がっておらず、乗客は踏み切りを渡って乗り換えなければならなかった。また、開業当初には路面電車による交通事故を防止するため先導役の少年が電車の前を走りながら「電車、来まっせ。電車、来まっせ」と声を張り上げた。時には先導役の少年自身が電車に轢かれるという痛ましい事故もあったという。

その後、京都市によっても1912年(明治45年)の4路線7.7km開業を皮切りにして独自に路線建設がなされ、それと競合することになった京都電気鉄道は、均一運賃制への移行のためもあって、市へ1918年(大正7年)に買収された。

京都電気鉄道買収後、路線は戦後に至るまで延長され、最盛期は76.8km、車両351両(1957年度)の路線となった。乗客も増え1963年(昭和38年)には一日平均564,488人の利用があった。

しかしその後の自動車の普及により乗客の減少がつづき経営が困難とな

[4] 本初子午線をゆくPart I 京都編, , http://stelo.sakura.ne.jp/135e/hizakuri200203.htm

塩屋天体観測所 | 東経135度子午線を訪ねて | 子午線道中膝栗毛

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本初子午線をゆく Part I 京都編

(2002年3月24日訪問)

「本初」とは“はじめ”“もと”という意味で、本初子午線は経度0°0′0″の子午線のこと。現在は世界的にイギリスのグリニッジ天文台を通過する子午線と定められているが、かつては国ごと、地域ごとに独自の本初子午線を用いていた。

日本がグリニッジ子午線を本初子午線とするのは1886(明治19)年のことで、それまでは国内に本初子午線があった。日本標準時子午線はグリニッジ基準子午線と同時に定められたものなので、それ以前は国内の本初子午線が、日本の経度の基準となってきたといえる。

そんなわけで、本初子午線を巡る旅に出た。ちょっと寄り道が多いのはご愛敬ということで……

<旧本初子午線>

京都改暦所旧跡 (中京区西ノ京西月光町)

ここ数年、立て続けに映画やドラマに取り上げられて、伊能忠敬もだいぶ知名度が上がってきた。彼の最大の業績はいうまでもなく「大日本沿海與地全図」の編纂だが、実はこの地図、京都に本初子午線が引かれている。

本初子午線の基準となったのは、上京区西月光町にあった京都改暦所。江戸幕府が寛政の改暦作業を行うために設けた天文台である。

山陰本線の二条駅より西に500mほど。住宅地の一角にある稲荷神社の裏手あたりが改暦所のあった場所だという。

この日は神戸から自転車をかついで出かけたので、自宅から乗り換えの少ない阪急電車で京都に向かった。JRの新快速より時間はかかるが、安いし、市街地の真ん中、四条烏丸や四条河原町に電車が着くので、便の良さは引けを取らない。

四条烏丸で電車を降り、自転車を組み立てて北へ向かう。いい加減に走っても、道が東西南北に沿っているおかげで、通りの名前さえ覚えていれば地図ですぐに現在地を確認できるのが京の街の良いところ。通りの名前も錦小路・蛸薬師小路・六角小路・三条通と何かの歌で聞いたようなものばかりで、道路の標識を見ているだけでも楽しくなる。

細い路地をつなぎながら走っていたら、「本能寺跡」の石柱に出くわしてしまった。1582年6月2日、織田信長が討たれた本能寺の変の現場である。本能寺は現在河原町にあるが、これは事変後再建した後のことで、明智光秀が襲撃したのは、この石碑の地である。今では普通のお

[5] 琵琶湖疏水 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%90%B5%E7%90%B6%E6%B9%96%E7%96%8F%E6%B0%B4

概要[編集]

琵琶湖疏水は、第1疏水(1890年に完成)と第2疏水(1912年に完成)を総称したものである。両疏水を合わせ、23.65m3/s[1]を滋賀県大津市三保ヶ崎で取水する。その内訳は、水道用水12.96m3/s、それ以外に水力発電、灌漑、工業用水などに使われる。また、疏水を利用した水運も行なわれた。水力発電は通水の翌年に運転が開始され、営業用として日本初のものである。その電力は日本初の電車(京都電気鉄道、のち買収されて京都市電)を走らせるために利用され、さらに工業用動力としても使われて京都の近代化に貢献した。水運は、琵琶湖と京都、さらに京都と伏見・宇治川を結んだ。落差の大きい蹴上と伏見にはケーブルカーと同じ原理のインクラインが設置され、船は線路上の台車に載せて移動された。水運の消滅に伴いインクラインはいずれも廃止されたが、蹴上インクラインは一部の設備が静態保存されている。無鄰菴や平安神宮神苑、瓢亭、菊水、何有荘、円山公園をはじめとする東山の庭園に、また京都御所や東本願寺の防火用水としても利用されている。一部の区間は国の史跡に指定されている。また、疏水百選の一つである。

歴史[編集]

開通まで[編集]

京都市は禁門の変で市中の大半が焼け、明治維新と東京奠都に伴い人口が減少し産業も衰退したため、第3代京都府知事の北垣国道が灌漑、上水道、水運、水車の動力を目的とした琵琶湖疏水を計画した。そして主任技術者として、工部大学校を卒業したばかりの田邉朔郎を任じ設計監督にあたらせた。

第1疏水は1885年(明治18年)に着工し、1890年(明治23年)に大津市三保ヶ崎から鴨川合流点までと、蹴上から分岐する疏水分線とが完成した。4月9日には明治天皇・昭憲皇太后の御臨幸を仰ぎ竣工式を挙行している。 第1疏水(大津-鴨川合流点間)と疏水分線の建設には総額125万円の費用を要し、その財源には産業基立金[2]、京都府、国費、市債や寄付金などのほか、市民に対しての目的税も充てられた。

また、水力発電は当初は計画されなかったが、田邉らがアメリカで視察したアイデアを取り入れ、日本初の営業用水力発電所となる蹴上発電所を建設し、1891年(明治24年)に運転が開始された。この電力を用いて、1895年(明治28年)には京都・伏見間で日本初となる電気鉄道である京都電気鉄道(京電)の運転が始まった

履歴

[8] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054540188570

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