仙川

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[1] 仙川

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[2] 謎解き仙川用水その2ー幾重に交差する水路を紐解く~深大寺用水と入間川を紐解く(11) : 東京の水 2009 fragments, , http://tokyoriver.exblog.jp/17707338/

今回は、三鷹市新川の品川用水と仙川用水(いわゆる「入間川養水」のルート)の分岐点から辿って行こう。今回取り上げる区間は下の地図で矢印で示した区間(google mapにプロットのうえキャプチャ)。黄緑のラインが仙川用水・品川用水に関連する水路だ。ここに、仙川(青緑のライン)や梶野新田用水野崎支線(水色のライン)が複雑に絡まっている。流域全体の地図については前回の記事を参照していただきたい。

品川用水と分かれた仙川用水(入間川養水ルート)は、人見街道までの僅かな区間だけは、車止めに仕切られ舗装の色を変えた、暗渠や川跡によくあるような姿となっている。

仙川の谷を越える築堤 人見街道を越えると水路跡は普通の道となって、新川の交差点の東~南を回りこみ、西へ向きを変える。そして、現在仙川が流れている谷を横切っていく。谷をまたぐ区間はかつては築堤が築かれていて、水路はその上を西に向かって流れていた。仙川に至る手前には新川児童遊園があり窪地となっている(写真右側)が、水路はこの窪地ではなく少し高くなっている道路のところを通っていた。 築堤はかなりの高さと幅があったようだ。武蔵野市史には、南側からみると二十数尺の高さ(6m以上)があったと記されている。また、築堤があった当時の地形図から判断すると、水路両岸の土手もかなりの幅と高さが取られていたようで、水路の水面よりもかなり高く築堤を築いた上で、そこに深い溝をつくって水路を通していたように見える。土地条件図では仙川沿いの谷は埋め立てられているように記されており、築堤の土手が削られ谷が埋めたてられたことで、現在はそこまでは高低差がないのだろう。

新川児童遊園の西端で流路跡の道は仙川を渡る。車道側の橋には「長久保一之橋」とあるのだが、上流側(歩道側)にはもうひとつ名前のない橋が掛っていて、高さが異なっている。これはかつての築堤と関係あるのかもしれない。仙川用水を暗渠化・道路化した際に多少築堤が削られてこの橋が架けられ、その後さらに土手が削られて道路が拡幅され、橋だけがもとの高さで残ったのではないだろうか。

仙川上流部の開削時期 かつて仙川はここより1kmほど下流の勝渕神社付近を源流としており、それより上流の水路はあとから開削されたと言われている。仙川用水が通っていた築堤の下の谷筋には、それまでは仙川は流れていなかったことになる。

[74] @nifty:デイリーポータルZ:市街地で分水嶺を探す, , http://portal.nifty.com/2011/06/16/b/4.htm

石神井川と仙川

荒川水系の川と多摩川水系の川がすぐ近くを流れている場所。続いてやってきたのは小金井市。中央線の武蔵小金井駅と西武線の花小金井駅に挟まれたエリアである。

ここは荒川水系の石神井川と多摩川水系の仙川が東に向かって平行して流れている。

[75] 甲州街道 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%94%B2%E5%B7%9E%E8%A1%97%E9%81%93

概要 [ 編集 ]

元は「古甲州道」であり、甲州街道は江戸幕府によって整備された五街道の1つとして、5番目に完成した街道である。 江戸 ( 日本橋 )から 内藤新宿 、 八王子 、甲府を経て 信濃国 の下諏訪宿で 中山道 と合流するまで38の 宿場 が置かれた。近世初頭には「甲州海道」と呼称され、 正徳 6年( 1716年 )4月の街道呼称整備で「甲州道中」に改められる。 中馬 による陸上運送が行われた。江戸の町において 陰陽道 の 四神相応 で言うところの 白虎 がいるとされる街道である。 多摩川に近い所を通っていた箇所(谷保~府中~調布など)は、度重なる多摩川の洪水などにより何度か南側に平行する道路へ道筋が変更された。その後も古く狭い街道が、新しくできたバイパスへと路線が変更となっている。

歴史 [ 編集 ]

甲州街道「江戸~甲府」の開設は慶長7年であり、すべての宿場の起立時期は明確とはなっていなく、徐々に整備されていった。

近世には諸街道の整備が行われるが、甲州街道は 徳川家康 の江戸入府に際し、 江戸城 陥落の際の甲府までの将軍の避難路として使用されることを想定して造成されたという。そのため、街道沿いは砦用に多くの寺院を置き、その裏に同心屋敷を連ねた、また短い街道であるにもかかわらず、小仏・鶴瀬に関所を設けている。これは、 甲府城 を有する 甲府藩 が 親藩 であることと、沿道の四谷に伊賀組・根来組・甲賀組・青木組(二十五騎組)の4組から成る鉄砲百人組が配置されており、鉄砲兵力が将軍と共に甲府までいったん避難した後に江戸城奪還を図るためであるという。

参勤交代 の際に利用した 藩 は 信濃 高遠藩 、 高島藩 、 飯田藩 である。それ以外の藩は 中山道 を利用した。下諏訪宿から江戸までは甲州街道が距離はより短いが、物価が高いことや街道沿線のインフラ整備状況がその主な理由と言われる。その事から、発展が遅れ、衰退する宿場町もあった。

近世には旅の大衆化に伴い甲州道中上の名所旧跡などを紹介した地誌類や視覚化した絵図類が製作されており、絵図では『 甲州道中分間延絵図 』や『 甲州道中図屏風 』が知られる。また、 宇治採茶使 は甲州街道を利用した。

宿場 [ 編集 ]

多くの宿場があり人々は国府参り等を旅路の楽しみとして賑わっていたが、趣向の変化で国府も西の外れ近くと

[76] 第一京浜から高輪橋架道橋のトンネルを通る | デフよん, , http://def4.ikt-s.com/takanawabashikadoukyou/

品川駅や目黒方面から芝浦ふ頭方面に行くときに、Google MapやNavitimeで経路を調べると、泉岳寺駅の脇辺りからJRの線路や新幹線を横切って進む道をナビされることがあります。それが 高輪橋架道橋 という聞き慣れない道です。通称で 高輪トンネル とも呼ばれます。

日本一高さ制限(1.5m)が厳しすぎる架道橋ということで有名です。

スマホのgoogle mapでの徒歩経路

あれ?こんな道あったっけ?と思いながら走って泉岳寺駅まで来ても、どこが入口かわかりずらいため、初めての場合は通り過ぎてしまいます。

第一京浜の上り車線を走っていると、確実に見逃します。

Google Mapではこの辺です。

映像では、このように進みました。

第一京浜から一方通行を走る

第一京浜の下りから入ります。 高輪大木戸跡 という信号を越えて、 泉岳寺 の信号までの間にあります。

� 自転車を降りて進むように注意看板があります。しかし、この絵から判断するに歩道を通る場合のようです。車道を走る自転車はどうすればいいのでしょうか?車道の標識から判断すると、自転車通行禁止の標識は見当たりません。

150㎝制限です。下ハン握って走ります。ちょっと怖いです。通ったのを後悔します。

昼12時くらいに通った映像です。下向いてるのであまり上手くとれませんでした。

�帰りは降りて押して歩く

帰りの泉岳寺方面に行くには、 架道橋 は車両進入禁止です。自転車は、降りて押して歩けば歩道を通れます。

自転車は降りて通行しましょう。

歩くと天井の低さがよくわかります。

のんびり歩いて帰りました。

最後にひとこと

ここにJR山手線の新駅が2020年完成予定です。その工事が始まると、この 高輪橋架道橋 は通れなくなる可能性が高いので通るなら今のうちです。

[77] 地元のマンションポエムがおもしろい - デイリーポータルZ:@nifty, , http://portal.nifty.com/kiji/151127195160_2.htm

「澄む」のほかにも「刻」(とき)、「邸」(いえ)などがポエムの基本だ。ぼくのパソコンの変換ソフトはこれらマンションポエム語法を学習しちゃってたいへんです。

[78] 平山城址・絹の道散歩 - 時空散歩, , http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2009/09/post-63.html

先日府中から国立に多摩川に沿って、また立川から府中へと立川崖線に沿って歩いた。その時気になっていたのは、多摩川を隔てて聳える多摩丘陵。あそこは聖蹟桜ヶ丘か、ということはその東の丘は米軍のレクレーションセンターのあるところか、あのあたりは高幡不動か、と、あたりをつけながら歩いた。 そのときふと、平山城址公園ってどのあたりだろう、と地図をチェック。昔南大沢から分倍河原に向かって歩いたことがあるのだが、平山城址公園のそばの道を越え、北野街道に出た。そのときは、日没時間切れのため結局、平山城址公園に行けなかった。そのことが少々心残りであったのだろう。ということで、とある日曜日、平山城址公園へとでかけることにした。 行く前に地図をチェック。平山城址公園のそばに長沼公園がある。またその西には野猿峠・野猿街道が走っている。さらにその西南には「絹の道」のマーク。横浜開港時、八王子で集めた絹を横浜まで運んだ道筋とか。絹の道って、多摩の歴史などを読んでいると、しばしば登場するキーワード。いい機会なのでそこまで足を伸ばすことにした。距離は10キロ程度。が、カシミール3Dでチェックすると、結構なアップダウン。多摩の丘陵を登ったり降りたりの散歩となりそう。少々膝に不安を覚えながらも、まずは最初の目的に京王線平山城址公園に向かう事にした。

本日のルート;京王線・平山城址駅>宗印寺>平山城址公園>北野街道>長沼公園>展望台・南陽口>長沼公園・野猿峠口>絹ヶ丘>白山神社>北野台>大塚山公園>絹の道>絹の道資料館>鑓水>小泉家屋敷>京王相模原線・多摩境駅 平山城址公園駅 平山城址公園駅に降りる。のんびりとした駅前。ローカル線の旅といった風情。駅前で案内をチェック。平山季重を巡る散歩コースといった案内がある。 さて、最初の目的地平山城址公園に行くルートを探す。穏当に歩くとすれば、北野街道をすこし東に戻り、先日南大沢から分倍河原に戻る際に歩いた峠越えの車道であろう。途中から公園に上る入り口もあった、かと。

宗印寺から丘陵に上る が、地図を眺めていると駅の南、北野街道からすこし丘陵地に入ったあたりに宗印寺。このお寺の裏山あたりから城址公園に上る道があるにちがいない、と故なき「確信」のもと歩を進める。 お寺に着く。眼下の眺めが美しい。登り道はないものかとチェック。お寺の西脇から山に向かう細道がある。とり

[79] マセ口川 - 川のプロムナード, , http://riverpromenade.blog.fc2.com/blog-entry-49.html

2015.05

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2015.07

調布市深大寺南町四丁目にある都立農業高校神代農場を水源とする野川の支流 マセ口川 (ませぐちがわ、別名:佐須用水)を追ってみた。 マセ口とは、付近の小字名から名づけられたものだが、そのマセ口という字名 の由来は不明のようだ。 まず、神代農場と三鷹通りを挟んで向かい側、 青渭神社 に立ち寄ってみる。 祭神は水波能賣大神・青沼押比賣命、創建年月は不明であるが、古代の先住民 が水を求めて居住した際に、祠を建て水神を祀ったと伝えられる。 かつて社前には湧水から出た大池があり、青波をたたえていたことから青波天 神社とも称されていた。 境内には樹齢数百年という大欅があり、江戸名所図会にも描かれている。 (国立国会図書館 近代デジタルライブラリーより転載) さて 都立農業高校神代農場 からマセ口川を追い始めてみる。 前身は青年学校の射撃用地、昭和23年(1948)に農業高校の付属農場として 譲渡された。 毎週木曜日には一般公開しているそうだが、この日は土曜日のため入れず、 仕方なく西側沿いに歩いていく。 農場沿いに歩いていくと、柵の下に池(心字池)を望むことができる。 農場内にはかなり深い谷となっており、湧水を湛えていることが想像される。 歩いていくと中央高速手前、右手に小さな 池ノ上神社 がある。 絵堂(旧字名)の鎮守社で創建は不詳、明治40年(1907)に里の稲荷社と 池ノ上の稲荷社を合祀して、池ノ上神社となったとのこと。 池ノ上という名前が興味をそそる。 その中央高速の手前から左手、谷(池ノ谷)へ下りていく階段がある。 谷へ下りると、神代農場から流れ出るマセ口川の清流を見ることができる。 その脇、別の湧水からの小さな流れも合流している。 ここから南へ 深大寺自然広場 が続くが、残念ながらマセ口川は暫く暗渠と なってしまう。 中央道のガードを潜ると広場内に 野草園 がある。 園内には約300種類1万本以上があるとのことだが、開園期間は3月か ら10月まで、また期間内においても休園日が多いので、訪問時には注意 が必要である。 その野草園の入口近くには湧水があり、かな

[80] 東京から一番近くて田舎っぽい雰囲気ふんだんにある場所教えろ!:哲学ニュースnwk, , http://blog.livedoor.jp/nwknews/archives/4908067.html

1: 以下、\(^o^)/でVIPがお送りします 2015/07/17(金) 16:52:59.468 ID:28m9ILEp0.net

[81] 谷沢川 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E6%B2%A2%E5%B7%9D

地理 [ 編集 ]

水源は東京都世田谷区桜丘四丁目・五丁目付近の 武蔵野台地 上の 湧水 と桜丘三丁目の旧品川用水のかつての吐水跡とされる。ここから南下して上用賀地内の複数の湧水を合わせ、世田谷区中町を経由する。ただ周辺は河川による開析が進んでおらず、湧水量は少なかった可能性がある。中町より上流の流路は、 大正 〜 昭和 初期の 玉川全円耕地整理 によって人為的に変更され、直線化されており、 首都高速3号渋谷線 下の田中橋付近から多摩川への合流口までが開渠となっている(上流の世田谷区桜丘三丁目付近にはわずかだが開渠が残っている)。

流れは徐々に谷を深くし、 東急大井町線 に沿う形で一旦東進した後、南下して23区内唯一の渓谷とされる 等々力渓谷 を流れる。このあたりでは水面は、周辺の最も高い台地面から20mから30m近くも切れ込んだ深い谷を形成し、渓谷崖からの多量の湧水がみられる。流れは 東京都道311号環状八号線 (環八通り)の下をくぐって、世田谷区野毛付近で 国分寺崖線 を出たところで丸子川(旧 六郷用水 )につきあたる。かつて六郷用水は、 大田区 六郷 までの通水の高低差を確保するため、谷沢川の上を交差して流れていたが、現在は当初の役目を終えて谷沢川と合流し世田谷区玉堤で多摩川に注ぐ。しかし、六郷用水の歴史的遺産の保護と環境保護のための清流復活事業として、合流した川の水の一部をポンプで引き上げ、ここから下流の丸子川に流している。

等々力渓谷は、急斜地のため宅地開発を免れて、比較的豊かな 生態系 が残された。一方で上流部や、渓谷周辺の宅地化が急速に進み雑木林や湧水が失われて、一時は農家や家庭からの排水が渓谷内の川を流れたが、その後の早い時期から下流の景観保護の機運が高まり、上流部の下水道の整備が進んで荒廃を免れている(後述)。

現在の矢沢川の上流は地下水面の低下などで、降雨があったとき以外は現在は通年にわたって水量が少ない。そのためこちらも清流復活事業として 仙川 の水を同区岡本三丁目で取水し、生物濾過した上で 用賀 まで送り、谷沢川に導入する施設が造られた。また、上流域で雨水を貯め、これを渇水時に中町一丁目付近と、ゴルフ橋 [1] 付近から谷沢川へ放水している [2] 。

等々力渓谷 [ 編集 ]

武蔵野台地 は、水を通さない海成の粘土質層の上に水を通しやすい礫

[82] 夏の内川探検 (02) « 庵魚堂日乗, , http://tanken.life.coocan.jp/weblog2/?p=344

順番が前後しましたが、夏の内川探検 第2回 です。

新田橋から眺めた上流方向。

開渠区間の上流端です。

「頭上に注意・足元に注意」

鉄橋の下へと続く、試練の道。

大人は謙虚に屈まないと歩けません。

じっさい、電車が来ると死ぬほど怖い。インディ ジョーンズの3作目を思い出します。(笑)

これで川に落ちちゃうのはさすがに悲しすぎるので(?)、手厚くフェンスでガードされています。

で、フェンスの外側。

水路はというとこんな按配になっていまして、上流がありません。

逆流防止の蓋がついているんですが、流れ出ている気配もありません。

※ 大雨の時には流れ出てくるんでしょう。

ガードをくぐった反対側。川はどこへ行った?

あれだけの川が暗渠になっているようすもありません。

地図で見てもこんな感じです。

じつはこの上流側の住宅地内に、いくつかの川跡が残っています。

ルートの大部分は付け替えられ、道路と同じく直線になっているので、地図を見ただけではちょっと分かりにくい。

そのうちの一本が内川の流路です。

[83] 白丸調整池(東京都奥多摩町 東京都交通局) ( 散歩 ) - 水力発電所とダムに行ったおはなし - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/dam_suiryokuhatuden/15981723.html

坂本貯水池に架かる吊り橋 に行く途中の話の中で出てきましたが

坂本ダムの右岸側をチョコチョコっと通って参りました

これを

[84] 八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る - 時空散歩, , http://yoyochichi.sakura.ne.jp/yochiyochi/2013/06/post-227.html

八王子城址散歩 そのⅢ;城山川に沿って「正面口」から八王子城址に向かい、城山山頂から城沢に沿って搦手口(裏門口)に下る

八王子城址散歩も三回目。今回のメンバーは私を含め大学時代の友人3名。東京赴任の友人が関西に戻るに際しての記念散歩。散歩の希望コースなどを訪ねていると裏高尾辺りなどどうだろう、という希望が出てきた。が、裏高尾といっても旧甲州街道を進み小仏峠を越えて相模湖に出る、といったコースであり、「歩く」ことが大好きな人ならまだしも、それほど「歩き」に燃えることがなければひたすら街道を歩き、厳しい小仏峠を越えるコースは、少々イベント性に欠ける、かと。

その替わりとして提案したのが、少々牽強付会の感はあるも、「歴史と自然」が楽しめる八王子城址散歩。個人的にもこの機会を利用して、二回の八王子城址散歩を終え、唯一歩き残していた、オーソドックスな絡め手口からのコースを辿りたいといった気持ちがあったことは否めない。

で、コース設定するに、それほどの山歩きの猛者といったメンバーでもないので、誠にオーソドックスに八王子城址正面口、城下谷から御主殿跡などの山裾の遺構を訪ね、その後、山麓、山頂の要害部に上り、「詰の城」まで尾根を辿る。そこで大堀切を見た後、再び山頂要害部へと折り返し、城山からの下りは、私の希望を入れ込み、八号目・柵門台から城山沢・滝沢川に沿って城山絡手口方面に向かい、心源院をゴールとした。

搦手ルートの「隠し道」といった棚沢道、詰の城から「青龍寺の滝」に続く尾根道、「高丸」へ上る尾根道など、少々マイナーではあるが辿ってみたいルートはあるものの、それは後のお楽しみとして、今回の散歩でオーソドックスな「八王子城城址攻略ルート」はほぼ終わり、かと。

本日のルート; JR高尾駅>中宿・根小屋地区>宗関寺>北条氏照墓所>八王子ガイダンス施設_午前9時28分>近藤曲輪>山裾遺構_午前9時52分(御主殿跡)>山麓遺構_午前10時42分(高丸)>山頂要害部_午前11時(山頂曲輪)>尾根道を詰の城に_午前11時50分(詰の城)>ピストン往復>八合目・柵門台_午後1時20分>城沢分岐_午後1時25分>清龍寺の滝分岐_午後1時35分>清龍寺の滝_午後1時50分>松嶽稲荷_午後2時15分>松竹バス停‗午後2時36分>心源院‗午後3時>河原宿大橋バス停>JR高尾駅

JR高尾駅

集合

履歴

[87] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054534276527

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