第一海堡

第一海堡

[1] 第一海堡

Webページ

[2] 富津岬沖から東京湾第一海堡へ, , http://www.youtube.com/watch?v=DjpFmWH3iPQ

なんと!免許不要、しかも20万円以下のお金で4人乗りの船外機付のお船が買えのですョ~。 http://blog.goo.ne.jp/91az19 千葉県の東京湾側の内房の入り口となる富津岬。そこから横須賀方面に行くと砂州の途切れた少し先に東京湾第一海堡というのがある。ここは昔人口要塞島であった。東京のお台場の親戚とも言える。そこに向かう動画です。(緊急時以外の立ち入りが原則禁止です。)

[3] 第一海堡, , http://www011.upp.so-net.ne.jp/fortress/tokyobay/fortno1_1.htm

千葉県の富津岬を訪れると、その先の海上に、二つの人工島を見ることができる。それが第一海堡と第二海堡である。「海堡(かいほう)」とは、人工島に築いた砲台という意味である。

※神奈川県よりに第三海堡も築かれたが、関東大震災で大部分が海中に沈み、近年座礁事故を防ぐために撤去された。

なぜ海堡が築かれたのかは、現地の地形を見れば容易に理解できる。明治時代、帝都東京への砲撃を防ぐためには、東京湾への敵艦侵入を防がなくてはならなかった。湾口両岸の観音崎(神奈川県)と富津岬(千葉県)に砲台を築けば内湾への侵入を抑止できるが、地形上の制約で砲撃可能な時間が限られるため、敵艦の数が多ければ強行突破されるおそれがあった。できる限り砲撃可能な時間を確保し、かつ大量の大砲でいっきに敵艦を全滅させるにはどうすればよいか。導き出された答えが、第一~第三海堡の築城であった。設計は、ロシアのクロンシュタット海堡群を参考に行われた。

第一海堡は、富津岬に陸地に近い、水深約5mの海中に築かれた。当初は28cm榴弾砲14門に加え、12cmカノン4門、19cmカノン1門などを備えていたが、関東大震災後に大改築が行われ、特に左面は完全に姿を変えた。28cm榴弾砲は4門と大幅に数を減らされたが、第二海堡から15cmカノン2門入砲塔2基が移設された。この砲塔はアジア太平洋戦争の終戦まで現役であったため、進駐軍によって徹底的に破壊された。

関東大震災による海底の隆起により、第一海堡と富津岬が地続きとなり徒歩で渡れるようになったが、潮流の変化により昭和40年代に砂州が途切れ、再び、船でなければ渡ることはできなくなった。さらに現在は、所有者である財務省が、不発弾調査が済んでいないことや崩落の心配を理由として、上陸を禁止している。無断で上陸されないよう注意願いたい。

※このページで紹介する現地の写真は、上陸が禁止される前に調査した際のものである。

世紀の大工事で完成した海堡の遺跡には、国防史上だけでなく、土木史上でも、はかり知れない価値があるわけだが、残念ながら現時点では上陸禁止のまま放置され、観光資源や歴史教材として有効に活用されていない。近年、南側護岸の崩壊が進み、中央部の機関砲座が崩れ落ちた。このままでは、現存する他の遺構も失われてしまうであろう。まずは、これ以上の崩壊を防ぐ手立てを行政機関にお願い

[4] 第一海堡,第二海堡の旅, , http://www.pat.hi-ho.ne.jp/shirai/kaiho.htm

第一海堡,第二海堡の旅

そのうち画像を載せます。

2000年7月20日、海の日ならではの?良い天気

富津岬から第一海堡に向けて漕ぎ出した。

東京湾を横断しよう、、などとだいそれた事を考えていたが、湾内の交通事情と私たちの実力を考えて、とりあえず第一海堡までを目指すことにした。

富津岬から見る第一海堡は、目の前にそそり立っている感じだった。

この海域を漕ぐための事前情報は。

1,東京湾は時計回りに海流が発生している。

2,富津近辺は海流の変化が激しい。

3,湾内は、大型船の通り道(航路)が決まっていて、一方通行になっている。

4,横断禁止の区域が決まっていて、そのエリアは航路を横切ることはできない。

5,この海域は24時間監視されていて、不審なことをすると海上保安庁の船がすっ飛んでくる。

6,大型船がひっきりなしに航行しているので、非常に危険で難しい、諦めた方がよい。

などで、予めボードセイリング協会の秋葉氏から、海図を見せて戴き、指導してもらった。

それまで海を漕いだことがなかったので、前の週に稲毛海岸で練習をした。

練習日は潮の満ち引きが激しく、しかも午後から海がかなり荒れてきて、絶好の?練習日和だった。

波も頭からかぶるほどで、沖で沈したときの復活法も練習した。

そろそろと、漕ぎ出すと、何の苦労もなく、簡単に第一海堡に着いてしまった。

森に覆われた丘をバックに砂浜が広がり、たくさんの自家用クルーザーが停泊していて、多くの人たちがバーベキュウを楽しんでいる。ブルジョア達の秘密の楽園といった感じだ。

遠浅の砂浜に着岸し、島の探検に出かけた。

コンクリートでできた廃墟(地下壕)と、密林の組み合わせは正にショッカーの秘密基地という雰囲気。

展望の利く砲台跡から、西の方角を眺めれば、第二海堡は直ぐそこだった。その先に第三海堡も見える。

「よし、行こう」二人は目があった瞬間、そう言った。

第一海堡から第二海堡まで漕ぎ始めた。天気は崩れる様子もない。

遥か前方を通過した船の波に翻弄される。チリ地震の津波の仕組みがよくわかる。

第2海堡が近づいてきた。こちらは島というイメージではなく、建造物に近い。

煉瓦づくりの壁がいい味を出している。

砂浜の上陸地点がないので、タイミングを伺いテトラポットから上陸した。

砲台の跡や、弾薬庫などが残っているが、森は無い、日陰もほとんどない。

[5] 海堡 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B5%B7%E5%A0%A1

海堡(かいほう、かいほ)は、洋上における要塞の一つで、海上に人工的に造成した島に砲台を配置したものである。日本では明治、大正に建設された複数の海堡が主に東京湾に存在している。

日本の海堡[編集]

日本は明治から大正にかけて、山縣有朋陸軍大将が日本国内の要塞化を主張。東京湾には千葉県富津岬沖から、神奈川県横須賀市側にかけて首都防衛のために3ヵ所の人工島が造成された。完成後は兵舎や砲台が建設され、自然島である猿島とあわせて東京湾口に円弧状に存在する防衛ラインの一環として運用された。

なおこれらの東京湾に作られた海堡は、現在は洋上要塞として機能していない上に、東京湾周辺の海上交通の輻輳から海難事故の原因と指摘されていることから、ヨット愛好家でもある石原慎太郎をはじめ、船舶運航関係者が撤去を主張している。一方で、建設当初に堅牢に設計されたために撤去が困難である部位を残している。

第一海堡[編集]

1881年8月起工、1890年12月完成。富津岬の沖合いすぐに位置し面積は約23,000m²。東京湾要塞の海堡として最初に運用が開始された。

第二海堡と第三海堡は1923年9月1日の関東大震災により被災し、その年の内に廃止・除籍されたものの、第一海堡はその後も使用され、東京湾要塞の一部として第二次世界大戦の終了時まで運用された。

現在中央部が破壊されているが、これは第二次世界大戦後に日本を占領下に置いた連合国軍により要塞無力化のために破壊されたためである。

土砂の堆積と関東大震災による隆起のため、富津洲と地続きになっていたことがある。海底の水深は1.2mから4.6mであり、第一海堡を撤去しても航路として活用するには別途浚渫が必要である。富津岬突端の展望台からは横須賀市を背景に第一・第二海堡を一望することができる。

現在は海上保安庁によって灯台が設置されている。なお財務省の所管であり、無断での立ち入りはできない。

第二海堡[編集]

1889年8月起工、1914年6月完成。第一海堡と共に富津市に属する。浦賀水道と内湾の北側境界に位置し面積は約41,000m²。1923年9月1日の関東大震災により被災、その年の内に廃止・除籍された。

その後海軍が使用し、第二次世界大戦中は対空砲が設置されるほか、敵潜水艦の東京湾への侵入を防ぐ防潜網が設置されている。敗戦にともない第一海堡同様、施設を爆破処

[6] 第一海堡, , http://backcountry.image.coocan.jp/reports/11chiba/1kaiho.htm

東京湾 第一海堡

浦賀水道に帝都防衛のために造られた人工島の要塞が三つ

並んでいます。第一海堡は富津岬から1500mの位置にあり

非常に近い上に、干潮時には浅瀬がありウェーダーを着込め

ば濡れずに歩いて渡る事も可能な海の道のある島なのです。

富津岬の砂浜から瓢箪島のように見えるのが第一海堡です。

マミヤカ氏と富津火力発電所の新エネルギーパークで

合流し富津岬に集合です。千葉県人会代表?のねぃさんが

スイカや牛乳などを差し入れと出撃応援にきてくれました。

梅雨の雨後の強風で岬の南岸は波高く、風裏の北岸で

まずはパドリング講習会です。富津火力発電所と

LNGタンカーがマミヤカ氏の背後に聳えます。

でんこちゃん「悩んでなくて、はやく食べなよぉ」

のら次朗「でもこれってあんドーナツにゃんだもん」

と言いつつ食べちゃった、のら次朗なのだった。

コンドー氏も到着でボイジャーを組み立て開始。

R1100GSのT中氏も到着です。どんより天気も

夕方に回復してきてサンセットビーチはラブラブモード。

明日には風が止んでくれないかなあ。

展望台下の芝生でベースキャンプを設営し夜宴です。

クマゴロさんも仕事を済ませてから到着しました。

朝の多層構造物な展望台です。

深夜登場のギズモ氏は早朝タッチアンドゴーで帰途に。

願いが届いて波がおさまりアタック隊は干潮前に出発!!

T中さんがベースキャンプ守備隊になってくれまして

キャンペットにマミヤカ氏&きぐるみマン、ボイジャーに

クマゴロさん&コンドー氏でペアを組んで漕ぎだします。

中間地点付近でも浅瀬では人が歩いています。

ルアー釣り師が第一海堡に向かって移動しているのです!

この浅い場所の駆け上がりで波がブレイクしており、

ウネリも残っているため浅瀬にはあまり接近できません。

第一海堡が目前に近づきました。見た目にも第二海堡

より崩落が少なく島の形を残していますね。

干潮時には北東部分に浅瀬が出来、ここから上陸しました。

満潮時は北西部分に防波堤のある砂浜のスロープがあり

そちらから上陸が可能です。

富津岬を振り返ると弓状に延びる白波が…

ここが海の道になる訳です。海を歩く人々を

眺めるのはなかなかシュールで幻想的な風景です。

かなり急なスロープなので紐を使って登ります。

島の高台部分は草が生い茂っています。かき分けて早速の

地下構築物です。保

[7] 国土交通省関東地方整備局 東京湾口航路事務所, , http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/rekishi/index.htm

はじめに

明治から大正にかけて、首都東京を防衛するために東京湾口部に海堡(かいほ)と呼ばれる海上要塞が建設されました。海堡は、砲台を設置するために造られた人工島で、千葉県富津岬側から神奈川県横須賀市側にかけて3つの海堡が建設されました。

このうち、第三海堡は、完成から2年後に発生した関東大震災によって壊滅的な被害を受け、ほとんどの構造物が海中に没し暗礁化して航路障害となっていたことから、船舶航行の安全を確保するために、平成12年度から平成19年度にかけて撤去工事を実施しました。

ここでは、東京湾海堡建設の意味と歴史について紹介します。特に、撤去された第三海堡建設は、当時の世界最先端の技術を導入したプロジェクトであり、アメリカ陸軍から自国の海堡建設の参考にするため、資料提供を求められたほどです。第三海堡は、不幸にして関東大震災で甚大な被害を受けましたが、その建設技術は今日の海洋・港湾建設技術の基礎となり、多大な経験と教訓を与えてくれました。

[8] 国土交通省関東地方整備局 東京湾口航路事務所, , http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/rekishi/dai1kaiho.htm

第一海堡は、富津岬の先端の水深5mほどの海中に築かれました。基礎のための石を投入し、その上に野面石で囲った堤防を築き、内部に砂を充填して砲台を建設したものです。

明治14年(1881)8月に着工し、明治23年(1890)12月に竣工しました。 7万m3の石材、13万m3の砂が使用され、32万人の人夫が使役されました。海堡の埋立造成費だけで38万円(現在の価格で約35億円)かかりました。

◎第一海堡の兵備としては以下のとおりです。

28cm榴弾砲14門

19cmカノン砲1門

12cm速射カノン砲4門

7.5cm速射カノン砲4門

機関砲4門

探照灯1基

兵備費は116万円(現在の価格で約95億円)でした。

※ 現在、財務省関東財務局が管理しています。

[11] 国土交通省関東地方整備局 東京湾口航路事務所, , http://www.pa.ktr.mlit.go.jp/wankou/rekishi/kensetu.htm

明治新政府は、帝都「東京」を護るため、東京湾海防計画に取り組むこととなりました。東京湾海防に属することは軍事機密であったため、多くのことは伝わっていませんが、さいわい大日本帝国陸軍築城部:『東京湾要塞築城史』が残されておりますので、主としてそれによりながら経緯を辿ってみることとしましょう。

明治から大正にかけて陸軍元帥として陸軍に君臨した山県有朋(1838〜1922)は、明治4年(1871)、『軍備意見書』を提出し、日本列島の要塞化を主張しました。これを実現するため、山県はお雇い外国軍人を活用しました。明治6年(1873)には、陸軍省のお雇い外国軍人でフランス国の陸軍中佐マルクリーに東京湾を視察させ、『我国海岸防御法案』を提出させました。続いて明治8年(1875)には、フランス国の陸軍中佐ミュニエー、工兵大尉ジュールダン、砲兵大尉ルボンに『日本国南部海岸防御法案』を提出させました。この中では、第一防御線(観音崎〜富津岬〜猿島)、第二防御線(品川付近)を護るための砲台建設を提案しています。これらはいずれも海岸や島に砲台を築くものです。

■東京湾要塞の建設■

明治13年(1880)、陸軍省は観音崎第一砲台と第二砲台の建設に着手しました。これは明治時代最初の砲台建設工事でした。その後、東京湾口部には、首都東京と横須賀軍港を護るため、24の砲台が造られていきました。これらの砲台郡は、東京湾要塞といわれています。第一海堡、第二海堡、第三海堡は、東京湾要塞の中でも観音崎〜富津岬〜猿島の防御線をより強固にして、敵艦の東京湾の侵入を阻止する目的で海中に築造された砲台です。

一方、陸軍の内部には、海堡ではなく、外国軍艦の侵入を防ぐための湾口堤防の建設を唱える声もありました。この間には、明治13年(1880)、3〜4トンの石で堤防を築き、波浪に対する安定実験を行ったりしています。お雇い外国軍人の意見を鵜呑みにせず、色々な検討を行っていることが分かります。ともあれ、幕末の江川計画に始まり、明治初期のお雇い外国軍人の計画、陸軍内部のさまざまな検討を経て、ようやく東京湾海堡の建設が始まるのです。

■東京湾海堡建設にたずさわった人たち

■設計と施工■

東京湾海堡建設計画の初めから活躍したのが陸軍技師の西田明則です。とくに難工事となった第三海堡工事では、明治25年(1892)4月から明治

[12] 東京湾要塞 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E6%B9%BE%E8%A6%81%E5%A1%9E

東京湾要塞は、帝都東京を脅かす海からの攻撃に備えるため、明治政府によって1884年より建造開始された東京湾周辺の軍事施設の集合体で、最初は清国北洋水師、次にロシア太平洋艦隊の来攻が想定しての施設であった。主要な設備は、千葉県館山市の洲崎から富津市の富津岬にかけての沿岸と、浦賀水道を囲む形で神奈川県三浦市の城ヶ島から横須賀市の夏島にかけての沿岸に建造された沿岸砲台、三つの海堡(かいほう)からなる。

1894年に「臨時東京湾守備隊司令部」が置かれ、翌1895年には「東京湾要塞司令部」が横須賀市上町に置かれた。

日露戦争の旅順攻囲戦においては、東京湾要塞が持つ28サンチ榴弾砲のうち米が浜砲台より6門、箱崎高砲台より8門、他4門が旅順へと送り込まれ、第二回旅順総攻撃以降ロシア軍陣地攻撃・旅順港砲撃に使用された。

昭和時代には、沿岸砲台には軍縮によって余剰となった艦砲が海軍から移管・設置され、東京湾の湾口部全体を射程に納めることとなった。これにより東京湾要塞は沿岸砲台の射線を第一線、海堡と横須賀近辺の射線を第二線とし、二段構えで湾内に侵攻する敵艦隊の撃破が可能となった。

東京湾海堡[編集]

詳細は「海堡」を参照

東京湾要塞の重要な設備として、東京湾入口の最挟部である富津岬から観音崎を結ぶように造成された人工島の海堡がある。海堡には砲台と砲台を運用するための設備が備えられ、浦賀水道の沿岸砲台を突破した敵艦艇を海上から砲撃する任務を持っていた。このため各海堡の備砲は横須賀側の猿島や走水の砲台と合わせて全体で浦賀水道全体を射程に納めるように配置され、沿岸砲台と協調して敵艦艇を左右と前から挟撃する態勢が取られていた。

海堡は、明治の中頃に建設が始まり30年にわたる海上工事と多大な工事費、及び犠牲者を出しつつ大正時代に完成を見て15センチカノン砲などが配備された。

しかしながら、第三海堡が完成した2年後の関東大震災によって第二・第三海堡が被災、復旧は困難との判断になり除籍され、第一海堡のみの運用となる。第三海堡は特に地震による被害が甚大で、4.8メートルも沈下し全体の三分の一が水没してしまい、その後も少しずつ侵食が進み暗礁となってしまう。

近年、海上交通の安全において、第三海堡は大きく支障があるとのことで、2000年12月から2007年8月にかけて撤去作業が行われた。第一・第二海堡は

[13] 東京湾海堡, , http://www.geocities.jp/kamosuzu/kaiho.html

観音崎公園の三軒家園地には第三海堡の案内板がある。しかしながら,その地図に記された付近,観音崎京急ホテル上方の走水沖を眺めて見ても,今では第三海堡の姿は見あたらない。

明治新政府は,首都「東京」を護るため,東京湾口の富津岬から観音崎を結ぶライン上に,当時の大砲の射程距離を考慮して,2.5km間隔で三つの海堡を築いたが,大正12年に発生した関東大震災で,第三海堡は大半が崩壊水没してなかば暗礁と化してしまった。

国土交通省は平成12年(2000),東京湾を航行する船舶の安全を確保するため,東京湾口航路整備事業に着手,7年の歳月を費やして,平成19年(2007)撤去工事はようやく完了した。このため,現在,三軒谷園地から見ることができるのは,第一海堡と第二海堡だけになってしまった。

[14] 富津岬の軍用鉄道, , http://hkuma.com/rail/futtsu03.html

岬先端にそびえ立っているのは五葉松を形どったという明治百年記念展望塔。

自転車を降り、そのてっぺんまで登ってみた。

風がだいぶ強くて高所恐怖症ぎみの私は少しヒヤヒヤしたが、そこから見る東京湾の眺めは最高だ。

前方遠くに第一海堡、第二海堡が浮かんでいる。

ちょっと驚いたのは、現在の地図上では繋がっていない筈の岬の先端から第一海堡の間が、干潮のせいなのかほぼ陸続きになっていた事だ。

北側の海岸が埋め立てられ、その分、少し南からの砂の流れに押し寄せられたような格好で、岬と海堡の間を繋ぐような湾曲した浅瀬が形成されていたのだ。

振り返って今来た道の方を遠望してみると、緑に覆われた細長い岬の両側に白い波が打ち寄せている。

軍用軌道はあの真ん中あたりを通っていたわけだな、等と想像をたくましくしながら眺める景色に興味は尽きない。

ほんとうは、お握りでも買って来てこの展望台で食べようかと考えていたのだが、実行に移さずに良かった。

景色はいいが思いのほか高所感があって風も強く、私にはとてもそんなのんびり出来る場所じゃない。

第一、物見客が次々やって来るこの狭い場所でお弁当を広げるのは、少々… いや、かなりひんしゅくものだろう。

階段を下り、再び自転車に跨ってコースを折り返す。

途中で左手に富津岬荘の看板があったので、そこを目印として建物脇から海岸へと抜け出した。

裏手に築堤状の砂利道があるが、地図を重ね合わせてみると、どうもここに本線から分岐する形で引込線が引かれていたようなのだ。

昭和に入ってからの事だが、フランスから列車砲が一門だけ輸入されて陸軍の「九〇式二十四糎列車加農」(加農はカノン砲の事)となり富津岬で性能テストが行なわれたというので、ひょっとするとこのあたりに留置されていたのかも知れない。

列車砲というのは、鉄道貨車の荷台に超大型の大砲を設置した移動式の兵器である。

道路よりも重量物を運ぶのに適した鉄道の長所を利用した武器だが、反面、線路の無いところへは持って行けないという短所がある。

この、日本で唯一だった列車砲、結局この地で性能試験が行なわれただけで国内では実戦に使われず、太平洋戦争開戦前後に遠く満州の地へ運ばれて行ったという。

引込線跡の海岸側先端あたりには、砂に埋まった鉄人28号の頭のような建物が、今でも海の方を向いてひっそりと残っている。

これは一見トーチカのよ

[15] 東京湾海堡ファンクラブホームページ, , http://kaihoufc.com/
[16] 国総研資料 第 37 号, , http://www.nilim.go.jp/lab/bcg/siryou/tnn/tnn0037.htm

本研究は,東京湾口屈指の軍事施設として建設された第二海堡を対象とし,その景観的現況調査とその特長の整理,現景観のもつ即物的価値の明確化,ならびに関連する景観整備事例を整理し,今後議論しうる第二海堡の景観整備に対する指針検討に資する資料とすることを目的とする。

1914年に竣工した第二海堡は,関東大震災による被災,戦後の米軍による接取・爆破を経て,現在は若干原型をとどめるも構造物の各部分が倒壊・散在するといった状態となっている。細長い「へ」の字型の特徴的な平面形状を呈しているため,各構造物が線的に配置されており,それぞれの場所ごとに特徴的な景観を呈している。特に平面的に現存する砲塔などの「固定式構造物」と,隠顕式砲台や探照塔のように破壊された地下空間が露出し垂直秩序の卓越する「隠顕式構造物」とが現景観の特徴を形成している。

加えて,即物的な「廃墟景観」としての価値獲得の可能性について,既存研究における産業廃墟景観評価の枠組みをもとに探求している。特に東京湾岸に点在する同時代の戦跡(猿島,第一海堡,観音崎,花立等)との比較検討を行っている。

最後に,既存構造物にできるだけ手を加えずにコンテクストのみ操作する近代化遺産の景観整備手法事例を紹介し,技術史的ならびに社会的価値が明確化された後の景観整備手法に対する指針への示唆を試みた。

[17] 立ち入りの禁止の富津第1海堡に上陸 戻れなくなった10人救出 | ちばとぴ ちばの耳より情報満載 千葉日報ウェブ, , http://www.chibanippo.co.jp/news/national/211581

2014年08月31日 11:04

30日午後、富津市の富津岬から約1キロ沖合に浮かぶ第1海堡で、21~23歳の男女10人が戻れなくなり、漁協の船に救出された。第1海堡は明治期に建設された砲台跡で、立ち入りが禁止されている。男女は勝手に上陸し、バーベキューや海水浴をしていたという。

木更津海上保安署によると、同日午後4時15分ごろ、男子大学生(23)=神奈川県川崎市=から「第1海堡に上陸した友人を救助してほしい」と118番通報。富津漁協の救助船2隻が出動し、同5時半ごろに10人を助けた。

男子大学生はプレジャーボート(全長6・6メートル)で第1海堡へ友人らを迎えに行く途中で、周辺の浅瀬で座礁したらしい。

[18] 横浜市磯子区汐見台からの眺望>東京湾第一、第二海堡前を行き交う本船, , http://www.youtube.com/watch?v=uv7aE8__WuE

2012年9月10日、11日午後撮影

撮影機材:ニコンCOOLPIX P510+テレコンバーター×1.5(1500mm超望遠相当、 63倍)

主な船舶: 字幕参照

◇自動車運搬船 日本郵船 RIGEL LEADER 総トン数:59,692 199m

◇自動車運搬船 日本郵船 PLEIADES LEADER 総トン数:62.994 199m

◇自動車運搬船 .ワレニウス・ウィルヘルムセン・ラインズ(Wallenius Wilhelmsen Lines) ノルウェー 総トン数:58,750 199m

◇自動車運搬船 同上 TIJUCA 71,673トン 232m

  浦賀水道を通る最長の自動車運搬船

◇自動車運搬船 HONDAさやま2 総トン数:2,926 115.50m

◇自動車運搬船 NOCC ノルウェー 総トン数:42,247 184m

◇自動車運搬船 不明多数

◇LNG運搬船 Stena Bulk スエーデン 総トン数:109,949 295m

 東電富津火力発電所にLNGを運んできた。

◇貨物船(ばら積み 新日鉄鉄鉱石専用船) ツバロン丸 160,774トン 340m

  全長は世界2位の貨物船

◇原油タンカー 不明

◇コンテナ船 MSC 総トン数:41,225 264m

◇東海汽船の貨客船 さるびあ丸 4,973トン 120m

参考情報:

「浦賀水道 船のある風景 -浦賀水道を中心に三浦半島東海岸の写真日記-」

http://uragasuido.opal.ne.jp/blog/

バックグラウンド・ミュージック-> モーツアルト:ホルン協奏曲第3番 デニス・ブレイン

履歴

[21] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054531774098

メモ