祭畤大橋

祭畤大橋

[1] 祭畤大橋 (まつるべおおはし)

Webページ

[2] 祭畤大橋 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%AD%E7%95%A4%E5%A4%A7%E6%A9%8B

祭畤大橋(まつるべおおはし)は、岩手県一関市内に存在する国道342号の橋。磐井川支流の鬼越沢にかかる。

[3] 落橋「祭畤大橋」(栗駒山側から), , http://www.youtube.com/watch?v=dWJVcOu5S6k

2008年の岩手・宮城内陸地震で落橋した国道342号線の「祭畤大橋」です。

栗駒山側から撮りました。

(反対の一関側からのもあります)

[4] 落橋「祭畤大橋」(一関側から), , http://www.youtube.com/watch?v=Kj2DUeoGi-E

2008年の岩手・宮城内陸地震で落橋した国道342号線の「祭畤大橋」です。

一関側から撮りました。

(反対の栗駒山側からのもあります)

[5] 橋梁レポート 一般国道342号 祭畤大橋 “廃橋三昧” , , http://yamaiga.com/bridge/maturube/main1.html

2011/10/24 6:56 【現在地】

前回の最後はかなりハードコアな画像で幕を閉じたが、今回は冒頭からそれに付き合って貰う。

引き続き、「祭畤被災地展望の丘」からの「展望風景」である。

前回の最後の画像は望遠で、肉眼だとこのくらいの大きさに見える。

少々インパクト不足?

…そんなことはないだろう。

依然として、尋常ではない風景である。

この世の終わりッたって言いすぎでないくらいの、土木世界終末的風景だ。

まあそれはさておき、過去の記憶と対照しながら少し冷静に観察してみると、ただ単に橋桁が落ちているだけでないことが分かる。

もうひとつ、あるべきものが無くなっている。

橋は3径間だったから、もう1本谷に橋脚(P2)が立っていたはずなのだが、それが全く無いのだ。

…折れたんか? 倒れたんか?

そこからズーミングすると、前回最後の画像だ。

酷い状態だとしか言いようがない。

橋桁が秋田側の橋台(A1)から外れ、それでもなんとか1本目の橋脚(P1)に“架かって”はいるけれど、その次の橋脚(P2)が存在しないわけだから、もうどうにもならない。

敢えなく落橋し、2径間目の橋桁はほぼ垂直に地面へ衝突している。

この下がどうなっているかは見えないけれど、まあ無惨な風景しか思い浮かばない。

なお、私の衝撃をより強くしたのは、見覚えどころか“通り覚え”のある道が、この墜落した橋桁によって、押し潰されていた事である。

あそこには、7年前に私と細田氏とパタリン氏が仲良く歩いた旧国道があった。今も僅かに路面やガードレールが見えるが…。

さあ、

限界までズーミングしてみるぞ!

↓↓

この橋が生まれたのは、昭和53年のこと。

だから、私よりひとつだけ若い。

設計時の耐用年数は少なくとも50年はあったと思うけれど、30年目に崩壊してしまった。

そんなことから、この崩壊のニュースが報道された直後には、

余りに衝撃的な破壊の風景だったこともあって、

欠陥工事、手抜工事ではなかったかと、

疑われたそうである。

そして、実際に原因究明のための調査が、綿密に行われたのである。

(なお、幸いにして落橋時に通行者はなく、人的な被害は出なかった)

無惨に落橋した初代の祭畤大橋が、現在も撤去されずに現存している訳は、後世に災害の記憶を伝えていこうという意図からだと思う。

「展望の丘」が整備されて

[11] ミニ・レポート, , http://yamaiga.com/koneta/koneta_79.html

国道342号線は、秋田県横手市と宮城県本吉郡津山町(現:登米市)を繋ぐ、全長約170kmの一般国道である。

道中、秋田と岩手の県境には栗駒山が横たわっており、本国道は須川【すかわ(地名)】峠にて海抜1100m以上をもって、これを克服している。

その長大難渋な峠道の岩手県側麓にあたるのが、一関市の真湯【しんゆ(地名)】温泉であり、近接する最奥集落の祭畤【まつるべ(地名)】である。

この祭畤地区で鬼越沢川を跨ぐ場所には、現在昭和52年開通の祭畤大橋が架橋されていて、一跨ぎである。

同様に、祭畤と真湯温泉との間にも、同年開通の真湯大橋が、巨大なアーチで磐井【いわい】川を跨いでいる。

このうち祭畤大橋の下に、一見して道が通じていないような別のトラス橋が存在していることが、読者情報として寄せられた。

今回はこの正体に迫ってみよう。

実は今回は、いつもながらの山チャリではない。

私の傍らに、愛車であるルーキー号も無ければ、汗だくの腐臭漂うシャツに身を包んでいるでもない。

それどころか、クーラー馬鹿効きの高級乗用車の助手席で、ゆったりクルージングを満喫していた。

当サイト掲示板にて、樹海のような緑の谷間に取り残されたような、水色の風雅なトラス橋の写真がアップされてから、まだ24時間も経っていない。

ちょっと前までなら、日曜日は必ず仕事をしていたのだが、いまは好きなときに好きなだけ休みがある。怖いぐらいだ。(作者はこの6月から無職です)

パタリン氏と細田ミリンダ氏を誘って、“噂の”トラス橋へと、ゆったりと午後からのドライブ。

祭畤に到着したのは、午後5時を少し回った頃であった。

今も昔も、祭畤はこの道沿いの最奥の集落である。

国道が須川温泉へ伸び、秋田県へも繋がるようになって久しいが、夕暮れは通り過ぎる車も稀で、だだっ広い祭畤大橋が所在なさ気に見える。

道の真ん中に立ち止まって写真を撮っていても、まったく急かされることもない、国道342号線。

ただ、この日は、陽が薄雲に隠れてもなお、蒸し暑さは一向に収まらず、アスファルト上では、ただ立ち止まっていてもじんわりと汗が滲んできた。

掲示板にアップされた写真は、当初、真湯大橋から撮影されたものと思っていたが、真湯大橋上からいくら眺めてみても、それらしい橋は見あたらなかった。

それで、真湯大橋からさらに

[12] 衝撃の崩壊橋梁「祭畤大橋」: たなぼた, , http://yoshio-niikura.cocolog-nifty.com/tanabota/2012/09/post-de06.html

ここは一関の先、名勝・厳美渓のほど近くになる。

拡大します

【左】国道342号線に「展望の丘」というのがあるので上がってみた。

すると濃い緑の穏やかな山並みが続く中、中央の辺りに何か異様な光景が目に入る。

これは「祭畤(まつるべ)大橋」という、国道342号の旧道に掛かる橋。

2008年に起きたM7.2の岩手・宮城内陸地震で橋が破損・崩壊してしまったのだ。

【右】橋が崩壊して川に落下している!!

まるであの伊豆の廃ループ橋のような衝撃ではないか。

よし、あのテッペンに行ってみよう。

【左】場所を移動し、新道に掛かる現在の「新祭畤大橋」から撮影した。

奥で落下しているのが「旧祭畤大橋」

接続する道はもうないが、足元に見える旧い鉄製のトラス橋はさらなる旧道で、名前は「大」が消えた「祭畤橋」になる。

【右】今度は崩落部を正面から見渡せる対岸・一関側の落下部分にやって来た。

橋の舗装部分が垂直になってしまい、まるでこれが橋脚のようになっているのが窺える。

手前の破壊したコンクリートや引きちぎられた鉄筋も損傷の凄さを物語っている。

【左】反対の栗駒山側に場所を移動した。

脇から見ると、その壮絶さにさらに圧倒される。

災害の教訓を残すため、河床部分は補強した上で保存されているのだ。

【右】いよいよ崩落の先端部分までやって来た。

左奥、わずかに見えるのが現在の「新祭畤大橋」だ。

旧祭畤大橋の路面は突然視界から消え、脇の鉄柵も手掛かりを失い宙を彷徨っている。

なんとも異様な風景だ。

【左】恐る恐る、足元を覗いてみた。

路面はひび割れて内部の鉄筋が顔を出し、その先は垂直に近い急角度で河床まで落下している。

【右】下に潜ってみると、分厚い鉄のガーダー(桁)がまるで飴のように押しつぶされていた。

いったいどれだけの力が掛かったというんだ。

【補足】

耐震設計がなされていた筈の橋梁がここまで崩壊。

誰もが「設計ミスや施工中の手抜き工事」を疑ったと思う。

だから「国道342号祭畤大橋被災状況調査検討委員会」が設けられ事故の解明にあたったのは至極当然のことだったろう。

しかしその結論は驚くべきものだった。

「祭畤大橋の落橋は、地震により栗駒山側の地盤が約11mも地滑りして移動したことが主因」と判明。

祭畤大橋のすぐ北側・高手山の中腹が震源地だったのだ

[13] 一関の風景 祭畤大橋災害遺構 : 三友写真部, , http://mitomphoto.exblog.jp/22789779/

国道342号線を一関から須川高原温泉に向かう途中、現在の「祭畤大橋」たもとに「祭畤大橋災害遺構」展望の丘があります。

東日本大震災の3年前、平成20年6月14日震度6強の「岩手・宮城内陸地震」がありました。この地震による大規模な地すべりのため、昭和53年に架けられた「祭畤大橋」が崩落しました。

[14] 第7回 国道342号旧道 祭畤大橋 仮設橋|RoadJapan 日本の道路、昭和の旧道を巡る旅, , http://ameblo.jp/roadjapan/entry-10349421449.html

現在架かっている仮設の橋です。 観光客の車が停車しております。 現地の全容です。 中心部に崩壊した祭畤大橋が見えます。 左側に仮設橋、その下に旧旧道の祭畤橋、その奥に新しい橋が建造されます。 大型車がすれ違えるほどの道幅があります。 それにしても、予想以上に観光客が多いです。 2時間前後撮影しておりましたが、 その間100人くらい足を止めて、祭畤大橋を見ていたように思えます。

[29] 一関市・崩落した祭畤大橋, , http://www.uchinome.jp/nature/land/2010/land41.html

平成20年(2008)6月14日、午前8時43分過ぎ岩手県南部から宮城県北地区に震度6強の激震が襲いました。今まで経験したことのない地面の大揺れにより、現地の道路や橋梁は壊滅的な被害を受けました。震源地に近かった一関市本寺地区周辺では、ライフラインの損壊により一時は家に戻ることができなくなり、地域住民は多大な犠牲を強いられました。ここでは地震被害の詳細については省略いたします。

震央は岩手県一関市市野々原手前・三王山(572m)麓、震源の深さは8km、規模はマグニチュード7.2、最大震度は震度6強でした。たまたまでしたが地震発生時、私はチャグチャグ馬コ撮影のために滝沢村の田んぼ脇に座り、周囲の方と話しをしていました。

8時43分頃、どしーん・ぐらりときた地震に驚きました。一緒にいたみんなで、「あれーすげー地震だね、震源地はどこだろう・・」となりました。家に電話しましたが繋がりません。その内に誰かが、「奥州市だってよ・・」と叫んでいます。思わず、「私の家の方だ・・」と言ったら側にいた女性が「奥州市ってどこ??」と話しかけられました。思わず「あっちの方・・」と南を指さした私です。「平泉の近く・・」と言ったら、「あーそうですか」となりました。やっぱり世界遺産指定の話題で、平泉は全国区でした。

撮影終了後、盛岡市内の撮影を断念し家まで戻りましたが高速道路が使えません。国道4号線が花巻市付近で渋滞になり動かなくなりました。やっとの思いで家に着きましたが、震源から40km程離れた我が家の被害はほとんどありませんでした。体感する余震はほとんど収まりましたが、被害地の復旧が早期に実現することを願うのみです。・・・当時の記事2008チャグチャグ馬コから。

この画像は、2010年9月15日に撮影したものです。崩落した左側の橋脚と橋桁は撤去され、川底にコンクリートで固定されてありました。

本震:発生日2008年6月14日、発生時刻8時43分45秒。震央は岩手県北緯39度01分、東経140度53分。震源の深さ8km、規模 マグニチュードM7.2、最大震度は震度6強、岩手県奥州市、宮城県栗原市。津波 なし、地震の種類は直下型地震(逆断層型)。気象庁はこの地震を、「平成20年(2008年)岩手・宮城内陸地震」と命名した。

被害は、死傷者数・死者17名、行方不明6名、負傷者448名(200

[30] ミニ・レポート, , http://yamaiga.com/koneta/koneta_79_2.html

国道342号線祭畤大橋の下方に、珍しいランガー桁の旧橋を発見し、藪を掻き分け橋上に立った我々だが、本当の困難はこのあとに待ち受けていた。

橋を越え、現道へと戻るまでの旧道を、今回お伝えしよう。

写真が多いので、駆け足で紹介するぞ。

旧祭畤橋を渡り終え、鬼越沢川左岸の旧道へと侵入する。

早速ものすごい激藪が、我々を歓迎してくれる。

時刻は午後5時半をまわっているが、なお蒸し暑さは日中と変わらず、ツナギの下にワイシャツ・ネクタイ着用の細田氏(本人曰く、これがオブローダーの正装だそうです。)は、バショウセンみたいな大きな葉っぱを仰いでいる。

自分を扇いでいたわけではなく、大量にある蜘蛛の巣を除去していたのかも知れないが。

ランガー桁が目を惹く本橋であるが、親柱も残存している。

ただし、4基ともが無理矢理倒されたかのように、伏しているので、一基を除いては、扁額のあった場所を見ることさえ出来ない。

残る一基も、扁額は削り取られ、残存しない。

親柱は、基部の底辺が80cm四方、高さ1m程度の、かなり大きくどっしりとした大きさ。

しかし、墓石とよく似た形状のそれは、意匠と呼べるものは何もなく、コンクリート製のシンプルなデザインだ。

このことからは、本橋は意外に新しい、…少なくとも戦前の竣工ではなさそうだという予感がする。

しかし、なぜ親柱が倒壊しているのかは謎である。

人間の力では数人が集まっても倒すことは出来ないと思われるが。

現道の祭畤大橋の袂とは、直線距離で100mも離れておらず、すぐ傍なのだが、こちらは谷底、高低差が50mもある。

果たしてどのようにして、現国道と合流しているのかに、我々の興味と、行く末は委ねられた。

腰まで生長した瑞々しい雑草を踏み分けつつ、幅6mほどの藪を現道方向へと登っていく。 (どなたか、一度山行がに同行して植物知識を植えてくださいませんか?未だにギンレイソウとマムシ草以外は殆ど植物を知らない私に、愛の手を!)

のり面は、高さはないが、丁寧な石垣であった。

日陰故に、全体が苔に覆われ、余計に歴史を感じさせる。

林鉄でよく見る、玉石を積み上げた構造だ。

おわっつ!

歴史を感じさせる石垣の後に現れたのは、珍しくもない道路標識。

ただし、ここに現れるとは思っていなかったので、むしろ驚きは石垣以上だった。

[31] 一関市厳美町祭畤・新祭畤大橋, , http://www.uchinome.jp/nature/land/2012/land57_1.html

平成21年(2008)6月14日の岩手・宮城内陸地震、午前8時43分過ぎ岩手県南部から宮城県北地区に震度6強の激震が襲いました。今まで経験したことのない地面の大揺れにより、現地の道路や橋梁は壊滅的な被害を受けました。そして、およそ三年後の平成23年3月11日、三陸沖を震源とする未曾有の東北地方太平洋沖地震が発生しています。

東日本を中心にかつてない激しい揺れが日本列島を襲い、死者・行方不明者約二万人、重軽傷者葯六千人、建物の全半壊27万戸以上、最大避難者約40万人にも上がる未曾有の大災害「東日本大震災」が発生しました。あれから一年四カ月を経過する今、瓦礫等の撤去がなされ道路等の交通網が復旧しつつありますが、肝心の被災者対策が遅々として進まない現状です。

何回も岩手沿岸部の津波被災地を訪れていますが、被災者の生活環境、特にも住宅環境の見通しが立たず国としての強力な復興支援が待たれてなりません。

一関市祭畤(まつるべ)地区は、震源地に近いこともあり三年前の内陸地震で壊滅的な被害を受けました。栗駒山や真湯温泉に向かう道路が到るところで崩壊し、祭畤(まつるべ)大橋も崩落していました。現地の復旧が進み、2010年5月30日に厳美町から真湯温泉まで道路(仮橋)が開通しています。ニュースで知ってはいましたが、ここまではかなりの距離がありますので訪れてはいませんでした。

2010年9月15日でしたが、平泉世界遺産登録事前調査で史跡・無量光院跡に水が張られましたので、撮影ついでに栗駒方面に出かけて撮影しています。その時の様子は、崩落した祭畤大橋としてまとめてあります。

ここでは、完成したR342号にかかる新祭畤(まつるべ)大橋(トップの画像)、橋のたもとに造られた「祭畤被災地 展望の丘」と対岸の被災道路を保存してある「散策路」の様子を紹介いたします。

2012年7月4日でしたが平泉ライスアートを撮影後、素晴らしい天候に誘われて一ノ関厳美町・祭畤(まつるべ)地区まで走りました。家から積算するとおよそ一時間半ほどかかります。2010年12月18日、一関市厳美町の新祭畤大橋が完成した事を知っていましたが、訪れる機会がありませんでした。

目的地の周辺は復旧工事が進行中であり、片側通行の部分や大型車輛がかなり多く行き交っていました。「祭畤被災地展望の丘」は崩落した旧祭畤大橋の西側

[33] 橋梁レポート 西目屋村道の川原平橋, , http://yamaiga.com/bridge/kawaratai/main.html

【今回の舞台の位置(mapion)】

今回紹介するのは、青森県中津軽郡西目屋(にしめや)村の人造湖、美山湖のバックウォーター付近に架かる西目屋村道の橋である。

この村道が湖の南岸を通る県道(岩崎西目屋弘前線:通称「白神ライン」)と、北岸の甲沢沿いにある土地を結ぶものであることは地図から予想できたが、このことだけでは、わざわざ県道から“寄り道”したくなるような動機としては弱い。

しかし、私は“この橋に用事があった”のである。

終点の甲沢まで行く必要は感じていなかった。

あくまでも橋に行きたかった。

しかも、「それがどんな橋なのか、全く分からないのに」である。

どんな橋か全く分からないのに行きたいと思ったワケは、本編中に述べることになるだろう。

ワケを知れば、誰しもが行きたいと思うのではないか…。

2012/8/24 10:06 【現在地】

一度ならず、二度までも素通りし、ようやくこの場所しかないと心に決めて、やって参りました。

ここが、地図にも描かれている対岸へ向かう道の入口らしい。

しかし、周辺は大規模な工事現場になっているため、いかにも部外者は立入禁止の雰囲気であり、ここしかないと思いつつも、だいぶ心苦しいスタートとなった。

熱せられた敷鉄板という“敷居”を跨ぎ、いざチャリと共に進入開始!

この写真は、上の写真の突き当たりの直前まで進んだ場面だが、道の両側に工事現場があり、工事車両が頻繁に出入りしていた。

この調子だと、仮に橋まで辿りついても工事車両の往来が頻繁で、探索どころではなくなるような予感もあって、私は思わず眉をひそめたのだが…。

ん…。

コーンが通せんぼしてる…?

入口から200mほど進むと、唐突にコーンが行く手を阻んでいたが(上の写真)、それ以外には特に通行止めとも何とも表示は無い。

意に介さず進んで行くと、まもなく道は掘割となって下り出した。

県道が通っているのは湖より一段高い河岸段丘の上なので、これから湖畔へ向けて段丘の斜面を下ろうということらしい。

正面に見える山並みは、間違いなく湖の向かい側である。

10:07 【現在地】

短い堀割を抜けると進路は東向きとなり、地形も右山左谷の急斜面になった。

道はここをトラバース気味に下って行くのだが、自転車のブレーキレバーを充分に引き絞らないとならないくらいの急坂になっている。

しかも

履歴

[36] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054531160179

メモ