中山越

中山越

[1] 中山越

Webページ

[2] 中山越、堺田越(宮城県・山形県)<峠と旅>, , http://www.geocities.jp/wellon2/tohge/tohge_6n/nakayamagoe/nakayamagoe.htm

山越は宮城県・山形県の北の方で両県の境を越えている峠だ。南北に細長い東北地方にあって、その脊梁(せきりょう)を成す奥羽山脈を跨いでいる。いわゆる

大分水嶺の峠となる。しかし、峠を越える国道47号の県境部分は、上の写真からも分かる通り、どう見ても峠らしくない。大分水嶺は全く他の所にあったの

だった。

この中山越は過去に4回ほど通っているが、その度に不思議な気がしていた。これといって険しい峠道ではなく、よって素通りが多かったのだが、どうにも不可解なのが気になっていた。そこで4度目にしてやっと峠の周辺を探索したのだった。

県境と大分水嶺が異なるのは、古い国境から引き継がれている事情らしかった。昔の出羽仙台街道中山越の旧道が一部に保存され、国境らしき場所があった。また、松尾芭蕉ゆかりの「封人の家」が立ち、大分水嶺に位置する堺田駅があった。中山越はいろいろな顔を見せてくれる。このホームページ「峠と旅」に掲載してきた峠は、それなりに険しい峠ばかりの中、この中山越は少し異色ではあるが、それなりに面白い峠である。

峠名は「中山越(え)」(なかやまごえ)とか「堺田越(え)」(さかいだごえ)、あるいは「中山峠」、「堺田峠」と書かれている地図も見掛ける。場合によっては「堺田」の代わりに「境田」の字が当てられることもある。

「中山」は峠の宮城県側にある地名、「堺田」は山形県側にある地名で、そのどちらを取るかで峠名が大きく違ってくるようだ。後は「越」を使うか「峠」かの僅かな差である。

「中山」という名の峠はいろいろあるが、「堺田」という峠は他に見たことがない。このページトップの表題も、できれば大きく「堺田越」としたかっ

たのだが、道路地図などでは「中山越」と表記している方が多い。国土地理院の地形図も、峠名の記載はないものの、道の名を「出羽仙台街道中山越」と記している。どうやら「中山」の方が市民権を得ているようなので、それに従うこととした。

ただ、文献(角川日本地名大辞典)を調べてみたところ、「中山越」はなく、「堺田越」での掲載だった。また、「境」の代わりに「堺」の字を使うのも珍しく、「堺田越」という名は、捨て難い峠名である。

[3] 鉄道写真:中山峠と〈奥の細道〉を行く 陸羽東線・中山平−堺田, , http://www5.plala.or.jp/stmlo9600/sl/sl164.html

自動車塗装の自分史とSL蒸気機関車写真展〜田辺幸男のhp

SL写真展 ( INDEX )〜アメリカ & 日本現役

|

HOME

|

SL写真展 ( INJEX ) 

|

田辺のリンク集

|

メール

|

…………………………………………………………………………………………………

・奥の細道に沿った陸羽東線

164. 

中山峠と「奥の細道」

・陸羽東線/中山平−堺田

〈0001:中山峠を登る〉

〈0002:梁を渡る〉

〈0003:中山平から堺田へ進入〉

…………………………………………………………………………………………………

〈紀行文〉

今回は陸羽東線の下り列車を、鳴子温泉を過ぎてV字谷の大谷川の断崖をのごって台地状の中山平を過ぎて、国道47号線とからみながら開けた高原のような雰囲気を感じさせる中山峠手前の辺りで撮った二大をお目に掛けたい。重連の発車地点である川渡の先で荒尾川を渡って西岩の断崖を登り始めた陸羽東線は支流の大や川を四回渡っている。その最三大や川橋梁では中山平の先で大や川と、それに流れ込む軽井沢川、そして砂利道の国道47号線を一括して跨いで大家川の北側の山すその高台をサミットに向かって最後の勾配を登っている。ここからはしばらく道路と鉄路は並走しており、築堤を進む列車を下から仰ぎ見て追い掛ける構図も素晴らしい。

やがて宮城/山形の県境が近づいて来ると、陸羽東線が改良された国道を堺田架道橋で跨いでイル所に手合うのだが。渡しが通い始めた昭和43ねん頃の昔の砂利道の国道は大谷川と関沢川と一緒に第四大谷川橋梁の下を潜って峠に向かっていたのだった。この第四大谷川橋梁は大谷川の最も上流に位置しており、長さも高さも違う橋桁が各一連が煉瓦積みの橋台と、石積みの橋脚に架かっていた。

このような峠のサミットでもない所が県境となっているのには人間臭さが感じられる。その昔から北出羽街道の中山越における新庄領と伊達領の境目は明確な線引きが行われていなかったようで、後に紛争が絶えなかったが、幕府の裁定に持ち込まれて、正保2年(1645年)に境界を二村間を流れる大谷川にする約定を取り交わし和解したと云う

こうして大谷川の端に「境分杭」が立てられ国境の目印となった。この境目は今日も県境として引きつがれている。二万五千分の一地形図を見ると、第四大谷川橋梁は山形県

履歴

[4] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054530911933

メモ