兎峯橋

兎峯橋

[1] 東京都道204号日原鍾乳洞線兎峯橋

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[2] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋, , http://yamaiga.com/road/nippara6/main3.html

無残な残骸を晒している兎峰(とぼう)橋。

私がその名を知ることが出来たのは、ある方の助言により、「月刊土木技術」の昭和25年9月号を目にすることが出来たからだ。

そこには「東京都兎峰橋工事報告」という一節があり、その書き出しは次の通り。

本橋は、東京西多摩郡氷川町日原地内多摩川支流、日原川に沿う景勝の地戸望岩の断涯に架かるもので(中略)、倉沢橋と同一路線にして林道開発事業の一環として施工せるものである。

現在「旧都道」と呼ばれている道は、昭和18年に着工した林道で、戦時中の中止をはさんで同25年、この兎峰橋の完成を以て全通した。

当時は対岸の道が都道(戦前は東京府道)に指定されており、路線指定変更の年度は不明だが、おそらく全通後まもなくと思われる。

なぜなら、倉沢橋および兎峰橋の施工をおこない、この「工事報告」を残したのが東京都建設局道路課だからだ。

しかしともかく、当初は林道という名目で建設されていたのは事実である。

それでは今回はこの「工事報告」をベースにして、兎峰橋の在りし日の姿を振り返ってみようと思う。

残念ながら架設後の写真は見あたらなかったが、工場制作時に仮組立をした時の写真があった。

それが右の写真である。

やはり橋の形式は「上路トラスドアーチ」で、このうち手前側の半分ほどが残骸を晒している。

奥の半分はどうなってしまったのか…、おそらく地中にバラバラになって眠っているのだろうが、はっきりしたことは分からない。

←これも同じく仮組立中の写真で、人物が写っているので大きさの比較が出来るだろう。

現地でひしゃげた残骸を見ても、かなり大きな橋だとは思ったが、それでも全体の半分以下しか見ていなかったことになる。

今回この資料によって竣功年が昭和25年であったことも明らかとなったが、戦後間もない鉄不足の時期でありながら、敢えて永久橋である鉄橋を選んだところに、日原開発への強い意欲と期待が感じられるのである。

もっとも、当時想定されていたのはあくまでも林業開発のみであり、昭和20年に採掘が開始されていた氷川鉱山の鉱石運搬や、日原地区での観光客増などは全く考慮していなかった。

本橋としては日原地区の林産物搬出用のトラックの交通以外将来に於いても交通量の増加なきものと思われ、今後此の地区の発展は殆ど考えられない処である

確かに当時としては、氷川鉱山の鉱

[4] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋, , http://yamaiga.com/road/nippara6/main.html

日原(にっぱら)は、東京都の西の端に位置する奥多摩町の北西部、多摩川の支流である日原川上流の一帯である。

ここにある鍾乳洞は有名だが、オブローダーの世界でもその名は少しばかり知られている。

日原地区への出入りは、今日なおただ一本の都道「日原鍾乳洞線」による他ないという“陸の孤島ぶり”で、近世以来のこの道の変遷が、そのままオブローディングの対象となるのである。

右図では中でも一番メジャーで新しい「旧都道」のみを赤く示しているが、実際に明治以降に使われていた道は、下図の通り多くの世代が存在する。

これら「日原旧道群」の探索は、私が東京に移住してきた平成19年に集中的に行ったこともあり、一通りは終えているという認識だ。

当サイトでも、以下のようなレポートを公開してきた。

これらの探索のあと、しばらく日原の土を踏むことはなかったのだが、本年(平成22年)の春頃になってふと、やり残してきた(未踏破がある)ことを思い出した。

それが、右の図で赤い破線で示した部分だ。

それは歴代のルートの中では現道に次いで新しい、昭和52年までは現役の都道として使われていた道(旧道)なのだが、他のルートにはない極端に踏破を難しくする理由を抱えていた。

次図でその状況をより詳しく見ていこう。

上図中に赤い実線及び破線で示しているのが、昭和52年まで使われていた旧都道だ。

そして図にカーソルをオンしていただければ分かると思うが、この全長約2kmの旧都道は、すでに地形図から抹消されている。

断続的に道が見える気がするが、そのほとんどは道ではなくて、ただ擁壁が存在することを示している。

もっとも、その擁壁が廃道を暗示しているわけだが、道として今も地図中に描かれているのは東側の僅かな部分(B〜C区間)だけである。

というような状況の中で、私はまだA〜B〜Cの区間(約800m)に足を踏み入れたことがない。

その理由は…、まあ、既にお分かりの人もいるかと思うが、これから実際の風景とともに振り返っていきたい。

探索は本年3月、おおよそ2年半ぶりの訪問時に単独で行った。

[5] 日原街道 : メカAG, , http://mechag.asks.jp/368219.html

子供の頃、学校の遠足か何かで日原鍾乳洞に行った。よく覚えていないが夏休みにクラブの有志で行ったこともあったような。合計3回ぐらい行っている気がする。 小さいころの記憶ではバスがカーブをすごい角度で曲がって走っていったのが印象的だった。窓の外はすぐに谷底で、遠心力なのかカーブの傾斜なのか、とにかく曲がるたびにみんなでキャーキャー騒いでいた。 ところが最後に行った時は、それほどでもなかった。まあその頃はかなり成長していたから、ちょっとぐらいのことでは動じなくなっていたのかな、とずっと思っていたが、ふと地図を見ていると日原街道には新道と旧道がある。新道の日原トンネルの開通は昭和54年(1979年)らしい。 * * * ひょっとして新道ができたためにカーブが減り、怖さが減ったのだろうか。最後に行った時期がいつなのかよく覚えていないが、日原トンネル開通の前後の微妙な時期のような気がする。 そもそも現在の日原トンネルが作られたのは、山の斜面で大崩落が起こり旧道が埋まってしまったためらしい。昭和47年(1972年)のことらしい。でもじゃあ昭和47年から昭和54年までの7年間はどうしてたのだろう?崩落した場所は現在もそのままになっている。 少なくとも昭和47年から昭和54年の間のどこかで俺はバスにのって日原鍾乳洞に行ったはず。新道の開通が昭和54年なら旧道を通って行ったはずなのだが…。旧道の大崩落が昭和47年というのが違うのだろうか?それとも昭和47年に大崩落が起きた後も一度旧道は復旧し、現在埋まっているのはさらにその後にまた崩落が起きて現在の姿になっているのだろうか。わからん…。 Webを検索しても大崩落現場の探検レポートとかは色々ヒットするのだが、日原トンネル開通前後の経緯が見つからないのだよね…。 * * * 検索してて見つけたすごく面白いサイト。 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線 旧道 http://yamaiga.com/road/nippara/main.html 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋 http://yamaiga.com/road/nippara6/main.html いや~見てると時間がたつのを忘れる。特にこれなどは東京都の道とは思えん。 道路レポート 日原古道探索計画 ht

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[6] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529741387

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