日原橋

日原橋

[1] 東京都道204号日原鍾乳洞線, 日原川日原橋

Webページ

[2] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main1.html

2007/1/23 11:04 【現在地】

集落の東の外れからいよいよ山歩きが始まる。

詳細なルートは行ってみないと分からないが、ここからとぼう岩までの推定距離は2kmほど。距離的には全然たいしたことはない。

しかも、中間地点の樽沢までは現行の地形図にも点線ながら道が描かれており、果たしてここは恐れるほどの道なのか。

木戸を潜り、いまいちど出発の地、日原を振り返る。

忘れ物はないか。飲み物は十分か。地形図は持ったか。

セルフチェックをして、いざ入山。

まずは日原川の谷底まで降りる。それから対岸へ移ってとぼう岩を目指すのが古道である。

集落を出た道は、早速に荒々しい岩場を目の当たりにする。

崖を切り開いて作られた道が、小刻みなカーブを描きながら下っていく。

写真には石垣と転落防止のロープが写っている。

石垣の方は如何にも村人の手積みといった風情の不揃いなもので、車はこの道を通らなかった証といえる。

しかし、それでも石垣のあるお陰で道幅は1m〜2mを確保している。

果たしていつの時代に作られたものなのだろう。

ロープの方は、見慣れたトラロープが1.5m間隔で打たれた金属の細い支柱によって掛けられている。

路肩から50cm以上も内側に設置されており、かなり路肩は危険なのかも知れない。

比較的近年に設置されただろうロープの存在は、我々を勇気づけた。

谷底までまだ50m以上の高低差がある。しかも道の外側は面白いほど切り立っており、トリ氏が覗き込んでいる左写真の路肩から一歩を踏み出せば、右写真の谷底で塵芥の仲間入りだ。

都道とこの古道は、日原川の河岸の険しい崖に階層構造を成しており、古道の上方に都道が通っている。

とはいえ見上げて見えるほど近くはない。だが、谷底に散乱する大量のゴミは、おそらく古道ではなく都道から降り注いだものだと思う。

しかーし 厳しい道だ。

いや、歩く分には何てことはないのだが…

これが本当に前回辿った小菅から吊り橋までの作業道の続きなのか?

明らかに道の規格が違うような気がする。

前回の作業道部分は、奥多摩町史や日原風土記に書かれている幅1.8mの荷車道だと言えるが、果たしてこの急坂かつ所々1mの幅もない様な道が、その続きと言えるのか…。

歴代の地形図に描かれたルートとしては、今歩いているこの道と、現行の都道しかないのだ

[6] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main.html

あの日、私は勝者ではなかったのか?

「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。

旧道の終点で「あの道」を見るまでは。

私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。

決定的に時間が足りなかった。

それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。

そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。

全てが命がけだった。

しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右)

結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。

再訪ではなく、再攻略を誓って。

…以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。

撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。

その成果は前回のレポートで先取りして紹介した部分も多いが、以下に『日原風土記』という本から一節紹介する。今回目指すトボウ岩という地名の由来についてだ。なお、『日原風土記』は昭和43年に日原の開祖の血筋である原島氏が中心になって編纂された郷土誌で、前回紹介した奥多摩町史にある「日原みち」の記載もこの本が元となっている。以後、本レポートでは単に『風土記』と略す。

とぼう 奥多摩工業日原鉱山の基地になっているところで現在は「とぼう」または「とぼう岩」といわれているが以前は「とんぼうぐち」といっていた。「とんぼう」とは住家の出入口を指す方言で、この「とぼう」は日原部落の出入口ということなのである。

字地書 (作者注:明治期の字名を記した書) には「とんぼう口」とあり、一書には「蜻蛉宇トンボウ山」とあった。(中略)

日原村地誌草稿(地誌)には北岸の岩を「蜻蛉地トンボジ山」とし南岸の岩を「一の通り巌山」とし「これをもとぼう口といえり」と記している。

上記を受けて本レポートでは“とぼう岩”の表記を平仮名の「とぼう岩」で統一する。

また、前回レポート内での推測通り、とぼう岩は日原川の両岸にあったことが確かめられる。

私が目指す南岸のとぼう岩は特に「一の通り巌山」と言ったらしいが由来などは不明である。読みは「いちのとおりいわやま」であろうか?

次に、今回計画(予定)を地図上で簡単に紹

[8] 日原トンネル旧道を歩く, , http://kasetsu.sukimakaze.com/hobby/nippara1.htm

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“鍾乳洞と巨樹の神秘の里・おくたま にっぱら”

日原の観光案内のサイトに出ているスローガンである。

東京都西多摩郡奥多摩町にある集落のひとつ「日原(にっぱら)」は、只でさえ山深い奥多摩町の更に奥地に位置している

人口こそ500人に満たない集落だが、この日原集落のもつ役割は大きい。

第一に、奥多摩の主要な観光地としての役割を持っている。集落の中心から凡そ2kmほど谷の上流へ進んだ所にある「日原鍾乳洞」は、

昔は信仰地として、いまはレジャースポットとして多くの人を集めている。

そして第二に、この附近の山々に多量に含まれている石灰岩の存在だ。

時は戦後、コンクリートの需要は増える一方であった。

そんな時、日原で石灰が採れることが判明。その後あっという間に、日原は一大採取地と化した。

山は削られ、かつて村人たちが崇め畏れていた「とぼう岩」という大岩も、セメントの山となって消えた。

今もなお、日原の山は削られ続け、街ではビルが建設されている。

ここで、日原の交通の沿革を説明したいと思う。

日原の歴史は古く、室町時代頃に「原島家」によって拓かれたという。(余談:現在も日原集落を始めとする奥多摩町には「原島」姓が多い)

だが、原島家が日原にやってきたルートは現在の日原川を遡るルートではなく、北方の秩父より標高1500mを超える山々

(現在長沢背稜と呼ばれる尾根)を越えて、日原へ至るものであった。

では何故多摩川の支流にありながら、多摩川からでなく秩父方面から開拓の手が伸びたのか?

これは私の推測だが、おそらくその理由は、多摩川と日原集落を結ぶ日原川の急峻さにあると思う。

日原川は雲取山を源に発し、奥多摩町の氷川集落で多摩川と合流するまで、ほぼ全ての区間でV字谷を作っている。

なかでも日原付近はとりわけ急峻であり、恐らく何万年もかけて作られたであろうU字谷(両側が断崖)まで存在する。

そのU字谷(この両岸に聳える岩を、人々は「とぼう岩」と呼んだ)を、当時の人々は越える事が出来なかったのであろう。

ともかく、室町時代に日原集落は拓かれた。

やはり山を越え秩父へと向かうルートは遠すぎたのだろう、直ぐに下流の氷川へと向かう道が造られた。

ただやはり「とぼう岩」は超えられな

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