とぼう岩

とぼう岩

[1] 日原とぼう岩

Webページ

[2] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main5.html

2007/1/23 13:03

樽沢の深く抉られた谷に橋は失われ、やむなく谷底へ降りて徒渉し対岸の岩崖をよじ登る。

写真は滝壺(樽沢f2)を振り返って撮影。

どうにか足を濡らさずに渡りたいと水面を見つめるトリ氏が写っている。

この後、彼女は自力で崖をよじ登って来た。

崖の上に立つと、そこには杉の林の中へ静かに続く車道の痕跡が現れた。

今度こそ、とぼう岩への直通パス、第5期日原古道に間違いない!

日原古道探索はいよいよクライマックスへ…

いま最後の登りが始まる!

辺りは木深い杉の林である。

川沿いを下流へ進んでいくにもかかわらず、道は急激に登り始めた。

樽沢から200mほど進んだ地点。

まだ杉の林は続いているが、道の上部は雑木林へ開けた。

いよいよ植林も難しい急斜面が現れ始めたのだ。

道はここに来て、突如幅広となった。

林鉄跡で何度も見たような光景(交換所)だが、ここにあったのは車道。

かつて「東京府道日原氷川線」という名で、日原の聯路であった。

もっとも、車道とは言っても私の調べた限り、牛や馬が牽く荷馬車が往来の最大級のものであったようで、自動車道とはなり得なかったようだ。

ちなみに、先週対岸から見えた石垣の道はこのあたりだろう。

道から川原を見下ろすと、光が溢れるように見えた。

ちょうどこの辺りの川原は広く平らになっており、そこに積もった今朝方の雪に、冬の日差しが反射して輝いているのであった。

もう既に、水面からの高低差は30m以上にも達している。

だが、まだまだ登る。

更に進むと、巨大な岩の塔が道の隣にそそり立っていた。(写真右)

その岩場の根元には2段の石垣が築かれていた。

一切モルタルの類を用いず、素で岩石を組み上げただけの石垣。

それが2段にまで高く組み上げられている様子からは、必死さの様なものが伝わってくる。

大正時代には既に郡道を経て府道に指定されていたこの道だが、戦前まで具体的に府や都からの補助金が出ている形跡はない。

それは道の管理ばかりでなく、普請自体までを地元の私力に依っていた事を意味する。

苔生した石垣の一つ一つは、日原の人々が少しでも安寧な暮らしを得たいと願った、その結晶のように見える。

遂に植林地は途絶え、本来の雑木林となる。

夏場はこうはいかないだろうが、葉を落とした枝の向こうに旧都道の勇姿

[9] 日原トンネル旧道を歩く, , http://kasetsu.sukimakaze.com/hobby/nippara1.htm

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“鍾乳洞と巨樹の神秘の里・おくたま にっぱら”

日原の観光案内のサイトに出ているスローガンである。

東京都西多摩郡奥多摩町にある集落のひとつ「日原(にっぱら)」は、只でさえ山深い奥多摩町の更に奥地に位置している

人口こそ500人に満たない集落だが、この日原集落のもつ役割は大きい。

第一に、奥多摩の主要な観光地としての役割を持っている。集落の中心から凡そ2kmほど谷の上流へ進んだ所にある「日原鍾乳洞」は、

昔は信仰地として、いまはレジャースポットとして多くの人を集めている。

そして第二に、この附近の山々に多量に含まれている石灰岩の存在だ。

時は戦後、コンクリートの需要は増える一方であった。

そんな時、日原で石灰が採れることが判明。その後あっという間に、日原は一大採取地と化した。

山は削られ、かつて村人たちが崇め畏れていた「とぼう岩」という大岩も、セメントの山となって消えた。

今もなお、日原の山は削られ続け、街ではビルが建設されている。

ここで、日原の交通の沿革を説明したいと思う。

日原の歴史は古く、室町時代頃に「原島家」によって拓かれたという。(余談:現在も日原集落を始めとする奥多摩町には「原島」姓が多い)

だが、原島家が日原にやってきたルートは現在の日原川を遡るルートではなく、北方の秩父より標高1500mを超える山々

(現在長沢背稜と呼ばれる尾根)を越えて、日原へ至るものであった。

では何故多摩川の支流にありながら、多摩川からでなく秩父方面から開拓の手が伸びたのか?

これは私の推測だが、おそらくその理由は、多摩川と日原集落を結ぶ日原川の急峻さにあると思う。

日原川は雲取山を源に発し、奥多摩町の氷川集落で多摩川と合流するまで、ほぼ全ての区間でV字谷を作っている。

なかでも日原付近はとりわけ急峻であり、恐らく何万年もかけて作られたであろうU字谷(両側が断崖)まで存在する。

そのU字谷(この両岸に聳える岩を、人々は「とぼう岩」と呼んだ)を、当時の人々は越える事が出来なかったのであろう。

ともかく、室町時代に日原集落は拓かれた。

やはり山を越え秩父へと向かうルートは遠すぎたのだろう、直ぐに下流の氷川へと向かう道が造られた。

ただやはり「とぼう岩」は超えられな

[12] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main.html

あの日、私は勝者ではなかったのか?

「都内最狂廃道」などと喧伝されてきた都道204号日原鍾乳洞線の旧道を危なげなく踏破した私は、有頂天だった。

旧道の終点で「あの道」を見るまでは。

私は急遽計画を変更し、「あの道」へ行くため対岸の作業道に入った。

決定的に時間が足りなかった。

それでも私は荒れ果てた作業道をチャリで疾駆し、巨大な吊り橋の残骸が残る廃鉱山へ行った。

そのまま、「あの道」目指し、危険きわまりない斜面にも進み出た。

全てが命がけだった。

しかし、孤軍奮闘もそこまでだった… (写真右)

結局私は日原古道の核心部。「あの道」へ辿り着くことは出来ず、迫り来る夕暮れに追い立てられるように撤退した。

再訪ではなく、再攻略を誓って。

…以上が私と日原のファーストコンタクトの要約である。レポートはこちら。

撤退の翌日、私は近くの図書館へ行き日原や奥多摩町に関する郷土資料を読みあさった。

その成果は前回のレポートで先取りして紹介した部分も多いが、以下に『日原風土記』という本から一節紹介する。今回目指すトボウ岩という地名の由来についてだ。なお、『日原風土記』は昭和43年に日原の開祖の血筋である原島氏が中心になって編纂された郷土誌で、前回紹介した奥多摩町史にある「日原みち」の記載もこの本が元となっている。以後、本レポートでは単に『風土記』と略す。

とぼう 奥多摩工業日原鉱山の基地になっているところで現在は「とぼう」または「とぼう岩」といわれているが以前は「とんぼうぐち」といっていた。「とんぼう」とは住家の出入口を指す方言で、この「とぼう」は日原部落の出入口ということなのである。

字地書 (作者注:明治期の字名を記した書) には「とんぼう口」とあり、一書には「蜻蛉宇トンボウ山」とあった。(中略)

日原村地誌草稿(地誌)には北岸の岩を「蜻蛉地トンボジ山」とし南岸の岩を「一の通り巌山」とし「これをもとぼう口といえり」と記している。

上記を受けて本レポートでは“とぼう岩”の表記を平仮名の「とぼう岩」で統一する。

また、前回レポート内での推測通り、とぼう岩は日原川の両岸にあったことが確かめられる。

私が目指す南岸のとぼう岩は特に「一の通り巌山」と言ったらしいが由来などは不明である。読みは「いちのとおりいわやま」であろうか?

次に、今回計画(予定)を地図上で簡単に紹

[17] 道路レポート 第三次 日原古道探索 江戸道, , http://yamaiga.com/road/nippara3/main3.html

2007/2/21 12:14

日原川の狭窄部に引っかかるようにして存置された、巨大な鋼ガーダーの残骸。

ここまでは比較的穏やかだった流れが、この巨大な障害物によって進路を狭められたせいか、或いは天賦の蛇行のせいか、足元で飛沫を上げ迸る。

これよりさらに奥へ行くには、あとはもう、この残骸の上を進しか無くなる。

そこまでする意味はよく分からなかったが、江戸道到達への拾い忘れた種がまだどこへ落ちているかも知れぬという期待と、単純にこのガーダーと戯れたいという気持ちからであろう。

私とトリ氏は、相次いでこのガーダーへとよじ登った。

掛け合う二人の声は、凄まじい渓声によって殆どかき消され、自然怒ったような声になる。

「ここから上るといい!」

「了〜解!」

この巨大なガーダー橋は、本来50mほど上流に架かっていた。

とぼう岩の地中から石灰石を採掘するため昭和30年代に布設された、戸望2号線のものである。

それが、この有様だ。

不要となって人為的に落とされたのか、或いは何らかの災害に巻き込まれたのだろうか。

これが私企業の鉱山鉄道でなければ、大事件として記録に残されているのであろうが、図書館での調べでは結局何も分からなかった。

かといって、直接会社に訊くのもちょっと憚られる…。

剛性の強い鋼鉄の橋がここまでねじ曲げられたのは、墜落の衝撃によるものか、或いは川の営力か。おそらく後者だろう。

ガーダーの至る所には擦れた傷があり、細かな隙間にねじ込まれた小石など、暴力の跡が鮮明である。

【参考画像】←切断面の様子(建築に詳しい方は、この切断面をどう見るか教えて欲しい)

左の写真は、ガーダーの上流側の橋から振り返って撮影。

そそり立つとぼう岩と、その下腹部に穿たれた巨大な穴。

ワイヤーが引き込まれたその穴の奥は、一体どうなっているのだろう。

あのワイヤーを伝って対岸から潜入するなんてシーンがあったら、それってハリウッド映画だっておかしくないかも。

一方、そんな大それた事が出来ない我々は、谷底でへっぴり腰と牛歩の競演。

下流方向もご覧の通り、救われない深谷。

この先両岸とりつく島なく、一日中光の届かぬ谷間に、進退を極ルの感ありだ。

写真には、かつて辿り着いたことがある、巨大な吊り橋が微かに見えている。

気付いただろうか?

あんな場所に架かっている橋っ

[21] 道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道) , , http://yamaiga.com/road/nippara5/main3.html

2007/1/23 15:51

今回紹介する区間は、以前公開した「第二次 日原古道探索計画」の最終回直後に探索した。

これは当初から計画していたわけではなく、この日序盤の日原川右岸探索中に偶然発見し、これをとぼう岩からの帰り道として利用したのだった。

そしてその結果として、この道が日原集落まで都道とは別ルートで繋がっていることを確認。

晴れて昭和の築造でありながら謎に満ちた5期道ルートが、ほぼ完全に解明されたのであった。

現在地は、樽沢が日原川に滝となって落ちる対岸(左岸)。

樽沢を渡る橋があって然るべき地形だが、現存しない。しかし、前後に鮮明な道の痕跡がある。

この付近で、とぼう岩をへつって大正4年に開通した4期道と、昭和6年に開通した5期道とが接続していた。

厳密にどこが接点であったかは分からないが、ともかく5期道の開通によって初めて氷川〜日原間に荷車、自転車、バイクなどが通れるようになったとされる。

上の写真と同地点から、日原川上流を撮影。

写真中央の斜面に、コンクリート製でラーメン構造の橋台が写っている。

当時の日原川では盛んに「鉄砲出し」(川を使って木材を運搬すること)を行っていたために、水面には橋脚を下ろすことが出来なかったのだろう。

ここに、「惣岳吊橋」という名の巨大な吊り橋が架かっていたという。(目測だが、20〜30mの長さ)

同様の橋台は、右岸側にも残っている。

これが、5期道として記録に残るもっとも下流側のものである。

近づいてみると、このようにかなり大きな構造物である。

そして、この辺りは旧都道の数多い崩壊地の直下となっており、膨大な瓦礫が山腹を埋めている。

登ろうとすると音をたてて足元から崩れる状況で、転落云々というよりも単純にアリジゴク的な徒労を感じる。

なかなか登らせて貰えない。

ともかく、汗を掻いて橋台の上に立つ。

登り着いた左岸橋台付近より、とぼう岩方向を振り返って撮影。

禁漁区であるゆえ、また実は奥多摩工業の立入禁止エリアであるため、ほとんど立ち入る者のない谷底。

そこに失われた府道、「日原氷川線」が存在していたという確かな痕跡である。

昭和27年に都道が開通したことで廃道化したと思われるが、航空写真の記録によればその後も橋は存在し、50年代までは架かったままだったようである。

通常吊り橋が自然に落橋

[23] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋, , http://yamaiga.com/road/nippara6/main2.html

前回明らかにした事実というのは、右の図における旧道の「A」〜「B」の区間が、上の写真のような風景であるということだ。

その一部は一応、地形的に残存はしているが、「A」地点寄りのおおよそ150mは完全に消滅(上図の破線部分)している。

かつて路盤があったはずの位置が、確実に空中になっている以上、道の消滅を疑う余地はない。

ということで今回のテーマは…、

【完全消失区間の痕跡を求めて!】

…とはいいつつも、本当に現地に何一つ痕跡が無いならば、行っても仕方がないかも知れない。

実は前回も少し触れたとおり、この位置にあった道の“残骸”が現存している可能性を感じていた。

次の地図を見て貰いたい。

これは、「山行が」で取り上げる古地形図としてはだいぶ新しい、昭和55年修正版の5万分の1地形図「秩父」より、とぼう岩付近である。

そこには開通したばかりの現道(「日原隧道」の表記アリ)が描かれているが、同時に旧道もまだ描かれている。

そして旧道とその前後の道を追っていくと、3本の橋が描かれている。

西にある登竜橋は、今では橋台しか残っていない。

一方で東の倉沢橋は、昭和34年に建設された全長58m、高さ61mのワーレントラス橋で、現地にある案内板によると東京都が管理する都道橋のなかでは最も高いという。これは今も現役だ。

そして旧道の中間付近にも橋がある。

それはちょうど現在地点のすぐ東側で、まさに道が消失している領域内である。

重要なのはここからだ。

はい、現地の景色に戻ってきました。

前回も眺めた末端です。

矢印の所に、何か見えませんか?

赤茶けた鉄骨の塊のような物が。

相当に大きな。

履歴

[24] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529690795

メモ