東京都道204号日原鍾乳洞線

東京都道204号日原鍾乳洞線

[1] 東京都道204号日原鍾乳洞線 (にっぱらしょうにゅうどうせん) , 日原街道 (にっぱらかいどう)

35.8305555555556 139.076611111111

Webページ

[2] 東京都道204号日原鍾乳洞線 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E9%83%BD%E9%81%93204%E5%8F%B7%E6%97%A5%E5%8E%9F%E9%8D%BE%E4%B9%B3%E6%B4%9E%E7%B7%9A

東京都道204号日原鍾乳洞線(とうきょうとどう204ごう にっぱらしょうにゅうどうせん)は、東京都西多摩郡奥多摩町を起点・終点とする一般都道。JR青梅線奥多摩駅付近から日原川沿いに上流へ進み、日原鍾乳洞へと至る。別名日原街道(にっぱらかいどう)。

[3] 都道204号・日原街道その1(国道411号~倉沢のヒノキ)@東京都奥多摩町, , http://www.youtube.com/watch?v=TTvA6LSdMfc

詳細は... http://せんてんすくらぶ.net/

※この欄は、日本語ドメインに対応していないので...

    http://xn--y8jtaf8b0e7ewcb.net/
[4] 日原街道2014 2 13, , http://www.youtube.com/watch?v=TbSvYa5tnoQ

2014/2/8の大雪50~70cmの積雪その後除雪はしてあるが路肩には大量の雪があります。

[5] 日原街道 2012/11/05 東日原~鍾乳洞へ 紅葉, , http://www.youtube.com/watch?v=vSOfKpanV4U
[6] 日原街道の謎の吊橋@東京都奥多摩町, , http://www.youtube.com/watch?v=uCfRiGKvSJg

詳細は... http://せんてんすくらぶ.net/

[7] 【奥多摩の絶景!】日原街道で日原鍾乳洞へ(後編) : マッキータウンぶろぐ 〜東京近郊自転車コースガイド〜, , http://blog.livedoor.jp/mackey_town/archives/51989818.html

前回の続き 日原街道で日原鍾乳洞を目指しているとりさんとブルバちゃん。 景観の素晴らしく、見所の多い日原街道もいよいよ後半戦。 倉沢橋を渡ると道が分岐するので、案内看板に従い左折する。 ちなみに右折すると林道倉沢線だ。 記憶が定かではないが、かつてこの道はゲートで封鎖されていたような気がする。 せっかくなんで、ちょっとだけ寄り道していこう。 最初のカーブを曲がると勾配が増し完全に林道モード。 この先がどうなっているか気になるところだが 今回の目的からは逸れてしまうので元の道に戻ることにしよう。 倉沢橋で左折してしばし行くと「倉沢のヒノキ」の入口がある。 (早い方で)徒歩15分ほど登山道を行くと 東京都の特別天然記念物の倉沢のヒノキがある。 樹齢は600年とも1000年とも言われている。 いつかは見に行ってみたいものだ。 日原街道をさらに進むと採石場が目前に迫ってきた。 毎日トロッコで大量に輸送しても、こんだけあればなくならないハズだ(笑) 幹線道路とは思えない細い道を緩やかに上っていく。 そういえば、さっきから右側がずっと崖なんだよね。 冷静に考えるとよくこんな場所に道路を作ったもんだよ。 7キロ地点に日原トンネルがある。 ちなみにここを左折すると、採石場の入口なわけだが 無論、関係者以外は立ち入り禁止となっている。 日原トンネルは1107mと非常に長いトンネルだ。 しかも内部は、結構な上り勾配続きになっている。 スピードを出して一気に駆け抜けるのが難しいので歩道を行くのが安全だと思う。 帰りは下りなので試しに車道側を行ってみたんだけど ペダルを踏まなくても、たちまち40km/h近くになるほどの勾配だった。 しかも、路面が荒れ気味でバンプが激しく非常に怖い思いをした。 安全のためには、帰りも歩道をブレーキで制御しながら行くのが正解かと。 進んでも進んでも出口が見えてこない。 前述の通り、上り坂によりスピードも出ないので、なおの事長く感じる。 元々、交通量が少ないエリアなので静か過ぎて恐怖すら感じる。 基本的に、トンネルとか苦手なんだよなぁ('A`|||) ようやく出口が見えた。 体感的には1キロの長さよりもはるかに長い気がした。 トンネルを出てすぐの所に脇道がある。 (自称)ポタの達人のとりさんは再び寄り道をしていく。 未舗装のダート区間を抜けると舗装路が現れる。

[10] , , http://www.nippara.com/nippara/osirase/osirase2.html

鍾乳洞駐車場について (通行止め位置図)

日原鍾乳洞は営業しています。

お問い合わせ0428-83-8491まで

現在鍾乳洞入口先の都道が落石により全面通行止め(歩行者含む)となっています。(解除未定)その影響により、その先にある駐車場が現在使用できませんので、駐車場の数が限られています。混雑時(シーズンの土日、ゴールデンウィーク、8月の旧盆休み)には、駐車待ち(1時間〜3時間以上)等で、大渋滞となっています。皆様には大変ご不便ご迷惑をおかけすることがありますが、ご承知おき頂きたくお願い申し上げます。また臨時駐車場等は鍾乳洞まで2キロのところにありますが、そこも数が限られています。また2キロ歩いていただくことになります。

また、鍾乳洞の上部にある広河原(河原にて遊べる場所)についても通行止めのためいけません、またこの先の登山道へも行くことができません。

皆様に、ご不便ご迷惑をおかけしますことお詫び申し上げます。

夏休み期間と4月~10月の土日祝日は、鍾乳洞駐車場が満車となり大渋滞となっています。駐車待ちに時間がかなりかかっています(1時間〜3時間以上)。平日や、午前中の10時ぐらいまでが比較的すいています。

平成24年12月27日(木)現在

※日原鍾乳洞入口先より0.4km通行止め(解除未定)

日原鍾乳洞営業中

○東京都の情報

一般都道204号(日原鍾乳洞線)(日原街道) 通行止め

○西東京バス 平常運行(通行止めの影響はありません)

平成24年7月3日(火) 12:00現在

※本日正午より通行止めが解除になり、一般車の通行ができることになりました。よって、明日4日より各施設の営業を再開いたします。

○都道が通行止めのため日原の観光施設は休業しております。

○日原鍾乳洞 4日より営業再開

○日原渓流釣場 4日より営業再開

○日原鍾乳洞売店 4日より営業再開

○日原森林館 未定

○やすら樹の宿ねねんぼう 4日より営業再開(ランチのみ)

[11] 道路レポート 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara/main11.html

14:42

小菅集落の外れから始まる一本の造林作業道の正体は、大正時代に建設された東京府道日原氷川線であった。

小菅から約1.6km進むと、道の対岸に現役の石灰石鉱山、奥多摩工業氷川鉱山の採石場や巨大なプラントが現れた。

深奥な日原谷を越えて届く、金属と岩のぶつかり合う不協和音。

思わず萎縮しそうになるが、私が目指す「あの場所」は、まだ先。

私は道に向き直る。

強烈な逆光に霞む行く手には、これまで以上に危険な“臭い”が充満していた。

今まで誰もレポートしなかった、日原古道核心の世界へと、その足を踏み出す。

ここに至って、道はその本性を現した。

ここまでは、どうにかこうにか自動車が通れる幅があったし、実際に通った痕跡も見られた。

しかし、私が鉱山を見渡した小さな広場から先の道は幅2mを完全に割っており、法面と路肩の直角に挟まれた、極めてクリティカルな道である。

路面には落ち葉が堆積し、目立った踏跡も無い。

路肩の一部は崩れ落ち、ただでさえ狭い道を更に細めている。

その路面におもむろに現れた、赤茶けた鉄の管。

いつの間にか谷底から這い登ってきて、この道を過ぎるとまたいずこかへと消えていた。

遂にこのまま「あの光景」へと突き進んでいくのかと、私は大いに期待し、恐れた。

だが、岩場の狭路は50mも進まず終わりを迎えた。

その代わりに現れたのは、一面に苔が生えた大きな広場だった。

そこは、場所も忘れ思わず微睡んでしまいそうな優しい日差しに包まれていた。

私は正直ほっとした。

明らかな到達点に辿り着いたと思ったからだ。

この先に道がもし無くても、納得して引き返すことが出来るだろうと思った。

その1アールほどの広場の片隅に、ぽつんとグランピー鉱車の台車を外したものが置かれていた。

グランピー鉱車は鉱石運搬トロッコの主流として長く使われているものだ。

かなり変形しており台車も見あたらないから、廃車後に何かの貯蔵用として持ち込まれたのだろう。

現在は落ち葉や砂が少し入っているだけだった。

鉱車の崖側には鉄のフェンスがあって、その先に続いている狭い通路を塞いでいる。

フェンス越しに覗くと、その向こうには対になった吊り橋の主塔が見えた。

間違いない。

これは、数時間前に旧都道の終点で、採石場越しに見えた主塔である。(この写真)

はっきりと赤字で

[22] 日原観光案内, , http://www.nippara.com/

奥多摩町日原(おくたままち にっぱら)

東京に残された自然の博物館ともいえる日原

渓谷や山肌を一面に染め上げる新緑や紅葉のパノラマは、他の追随を許さない。日原鍾乳洞で数十万年の神秘と出会うもよし、魚影濃い渓谷に糸を垂れるもよし、巨樹を巡るもよし、四季の自然堪能するもまた楽し、澄わたる空気をいっぱいに吸い込んで日原をお楽しみください。

[23] 日原街道 : メカAG, , http://mechag.asks.jp/368219.html

子供の頃、学校の遠足か何かで日原鍾乳洞に行った。よく覚えていないが夏休みにクラブの有志で行ったこともあったような。合計3回ぐらい行っている気がする。 小さいころの記憶ではバスがカーブをすごい角度で曲がって走っていったのが印象的だった。窓の外はすぐに谷底で、遠心力なのかカーブの傾斜なのか、とにかく曲がるたびにみんなでキャーキャー騒いでいた。 ところが最後に行った時は、それほどでもなかった。まあその頃はかなり成長していたから、ちょっとぐらいのことでは動じなくなっていたのかな、とずっと思っていたが、ふと地図を見ていると日原街道には新道と旧道がある。新道の日原トンネルの開通は昭和54年(1979年)らしい。 * * * ひょっとして新道ができたためにカーブが減り、怖さが減ったのだろうか。最後に行った時期がいつなのかよく覚えていないが、日原トンネル開通の前後の微妙な時期のような気がする。 そもそも現在の日原トンネルが作られたのは、山の斜面で大崩落が起こり旧道が埋まってしまったためらしい。昭和47年(1972年)のことらしい。でもじゃあ昭和47年から昭和54年までの7年間はどうしてたのだろう?崩落した場所は現在もそのままになっている。 少なくとも昭和47年から昭和54年の間のどこかで俺はバスにのって日原鍾乳洞に行ったはず。新道の開通が昭和54年なら旧道を通って行ったはずなのだが…。旧道の大崩落が昭和47年というのが違うのだろうか?それとも昭和47年に大崩落が起きた後も一度旧道は復旧し、現在埋まっているのはさらにその後にまた崩落が起きて現在の姿になっているのだろうか。わからん…。 Webを検索しても大崩落現場の探検レポートとかは色々ヒットするのだが、日原トンネル開通前後の経緯が見つからないのだよね…。 * * * 検索してて見つけたすごく面白いサイト。 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線 旧道 http://yamaiga.com/road/nippara/main.html 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋 http://yamaiga.com/road/nippara6/main.html いや~見てると時間がたつのを忘れる。特にこれなどは東京都の道とは思えん。 道路レポート 日原古道探索計画 ht

[24] 道路レポート 第三次 日原古道探索 江戸道, , http://yamaiga.com/road/nippara3/main7.html

2007/2/21 15:22

江戸道最大の難所である「決壊地」へは、初め私の単独で挑み、遂に3mほど離れた決壊の向こうへ辿り着いたのが、午後3時22分。

最初にここで足止めを食ってから7分経っており、実際に崖に挑んでいたのは1分足らずだったから、大半の時間は、行くか退くかの葛藤に使われた。

トリ氏には決壊地手前で待ってもらったまま、私はこの足元に復活した道を先へ進んだ。

そして、本当に僅かな距離。5mくらいだったろうか。そのくらい歩いたところで、

前方に隧道が存在することを、確認した。

当然興奮した。

すぐに踵を返し、トリ氏に隧道があったことを伝えた。

とりあえず、ここさえ超えられれば隧道まではすぐだというニュアンスで伝わったと思う。

これではトリ氏が無理を押してでも来たいと思うのも当然であり…。

15:30

隧道発見の8分後。

トリ氏もこの決壊地を越えた。

特に、道の高さから最初2mほど崖を下るところが恐かった。

足の着く高さにろくな足がかりが無く、ほぼ腕の力だけで身体を下降させねばならなかった。

その先でやっと足を下ろせるのは、何とも不安定そうな灌木の根。

この根が体重を支えきれるのかが不安だった。

(ここで私は下支えをするべくサポートしたが、それが不要であったばかりでなく、二人分の体重が不安定な斜面に掛かったことになり、無策であった)

結局、ここでは殆ど一人一人の強運(或いは不運でないこと)が試された。

オロナミンCリポビタンDのCMみたいに、墜落を始めた仲間を咄嗟に救うなんて事はまず出来ない。

ともかく、15分を要して二人は揃って最大の難所を突破した。(写真はこの決壊地を振り返って撮影)

そして、この先に我々の江戸道攻略を邪魔するものはなかった。

そのことは、単に幸運であったばかりでなく、「接近困難だが道は確かに存在した!」という強烈な印象を我々に残した。

なお、当然のことながら数分後にもう一度、今度は逆側からこの死地に挑まねばならなくなった。

先の負荷によってどこまで弱っているか知れない岩場や灌木の根を頼りにしての行路は、なお恐ろしかったが、逡巡していても生還の道はないので、天運に任せ突破したのであった。

もう、無策のままにここを通ることはないだろう。

■動画【隧道出現!】■

私のこれまでの探索経験の中で、もっともその接近に

[27] 道路レポート 第二次 日原古道探索計画 , , http://yamaiga.com/road/nippara2/main1.html

2007/1/23 11:04 【現在地】

集落の東の外れからいよいよ山歩きが始まる。

詳細なルートは行ってみないと分からないが、ここからとぼう岩までの推定距離は2kmほど。距離的には全然たいしたことはない。

しかも、中間地点の樽沢までは現行の地形図にも点線ながら道が描かれており、果たしてここは恐れるほどの道なのか。

木戸を潜り、いまいちど出発の地、日原を振り返る。

忘れ物はないか。飲み物は十分か。地形図は持ったか。

セルフチェックをして、いざ入山。

まずは日原川の谷底まで降りる。それから対岸へ移ってとぼう岩を目指すのが古道である。

集落を出た道は、早速に荒々しい岩場を目の当たりにする。

崖を切り開いて作られた道が、小刻みなカーブを描きながら下っていく。

写真には石垣と転落防止のロープが写っている。

石垣の方は如何にも村人の手積みといった風情の不揃いなもので、車はこの道を通らなかった証といえる。

しかし、それでも石垣のあるお陰で道幅は1m〜2mを確保している。

果たしていつの時代に作られたものなのだろう。

ロープの方は、見慣れたトラロープが1.5m間隔で打たれた金属の細い支柱によって掛けられている。

路肩から50cm以上も内側に設置されており、かなり路肩は危険なのかも知れない。

比較的近年に設置されただろうロープの存在は、我々を勇気づけた。

谷底までまだ50m以上の高低差がある。しかも道の外側は面白いほど切り立っており、トリ氏が覗き込んでいる左写真の路肩から一歩を踏み出せば、右写真の谷底で塵芥の仲間入りだ。

都道とこの古道は、日原川の河岸の険しい崖に階層構造を成しており、古道の上方に都道が通っている。

とはいえ見上げて見えるほど近くはない。だが、谷底に散乱する大量のゴミは、おそらく古道ではなく都道から降り注いだものだと思う。

しかーし 厳しい道だ。

いや、歩く分には何てことはないのだが…

これが本当に前回辿った小菅から吊り橋までの作業道の続きなのか?

明らかに道の規格が違うような気がする。

前回の作業道部分は、奥多摩町史や日原風土記に書かれている幅1.8mの荷車道だと言えるが、果たしてこの急坂かつ所々1mの幅もない様な道が、その続きと言えるのか…。

歴代の地形図に描かれたルートとしては、今歩いているこの道と、現行の都道しかないのだ

[34] 道路レポート 都道204号日原鍾乳洞線旧道 兎峰橋, , http://yamaiga.com/road/nippara6/main2.html

前回明らかにした事実というのは、右の図における旧道の「A」〜「B」の区間が、上の写真のような風景であるということだ。

その一部は一応、地形的に残存はしているが、「A」地点寄りのおおよそ150mは完全に消滅(上図の破線部分)している。

かつて路盤があったはずの位置が、確実に空中になっている以上、道の消滅を疑う余地はない。

ということで今回のテーマは…、

【完全消失区間の痕跡を求めて!】

…とはいいつつも、本当に現地に何一つ痕跡が無いならば、行っても仕方がないかも知れない。

実は前回も少し触れたとおり、この位置にあった道の“残骸”が現存している可能性を感じていた。

次の地図を見て貰いたい。

これは、「山行が」で取り上げる古地形図としてはだいぶ新しい、昭和55年修正版の5万分の1地形図「秩父」より、とぼう岩付近である。

そこには開通したばかりの現道(「日原隧道」の表記アリ)が描かれているが、同時に旧道もまだ描かれている。

そして旧道とその前後の道を追っていくと、3本の橋が描かれている。

西にある登竜橋は、今では橋台しか残っていない。

一方で東の倉沢橋は、昭和34年に建設された全長58m、高さ61mのワーレントラス橋で、現地にある案内板によると東京都が管理する都道橋のなかでは最も高いという。これは今も現役だ。

そして旧道の中間付近にも橋がある。

それはちょうど現在地点のすぐ東側で、まさに道が消失している領域内である。

重要なのはここからだ。

はい、現地の景色に戻ってきました。

前回も眺めた末端です。

矢印の所に、何か見えませんか?

赤茶けた鉄骨の塊のような物が。

相当に大きな。

[36] 【山行が公式】都道204号日原鍾乳洞線旧道(1)【廃道】 ‐ ニコニコ動画:GINZA, , http://www.nicovideo.jp/watch/sm10040487

動画の説明文:全文を表示

http://yamaiga.com/road/nippara/main.html ←このレポートから3年目の2010年3月 15日に再訪しました。どのように変化しているかを調べに行っただけですので、新しい発見は特にありません。しかもこれは往復の...

[39] 日原トンネル旧道を歩く, , http://kasetsu.sukimakaze.com/hobby/nippara1.htm

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“鍾乳洞と巨樹の神秘の里・おくたま にっぱら”

日原の観光案内のサイトに出ているスローガンである。

東京都西多摩郡奥多摩町にある集落のひとつ「日原(にっぱら)」は、只でさえ山深い奥多摩町の更に奥地に位置している

人口こそ500人に満たない集落だが、この日原集落のもつ役割は大きい。

第一に、奥多摩の主要な観光地としての役割を持っている。集落の中心から凡そ2kmほど谷の上流へ進んだ所にある「日原鍾乳洞」は、

昔は信仰地として、いまはレジャースポットとして多くの人を集めている。

そして第二に、この附近の山々に多量に含まれている石灰岩の存在だ。

時は戦後、コンクリートの需要は増える一方であった。

そんな時、日原で石灰が採れることが判明。その後あっという間に、日原は一大採取地と化した。

山は削られ、かつて村人たちが崇め畏れていた「とぼう岩」という大岩も、セメントの山となって消えた。

今もなお、日原の山は削られ続け、街ではビルが建設されている。

ここで、日原の交通の沿革を説明したいと思う。

日原の歴史は古く、室町時代頃に「原島家」によって拓かれたという。(余談:現在も日原集落を始めとする奥多摩町には「原島」姓が多い)

だが、原島家が日原にやってきたルートは現在の日原川を遡るルートではなく、北方の秩父より標高1500mを超える山々

(現在長沢背稜と呼ばれる尾根)を越えて、日原へ至るものであった。

では何故多摩川の支流にありながら、多摩川からでなく秩父方面から開拓の手が伸びたのか?

これは私の推測だが、おそらくその理由は、多摩川と日原集落を結ぶ日原川の急峻さにあると思う。

日原川は雲取山を源に発し、奥多摩町の氷川集落で多摩川と合流するまで、ほぼ全ての区間でV字谷を作っている。

なかでも日原付近はとりわけ急峻であり、恐らく何万年もかけて作られたであろうU字谷(両側が断崖)まで存在する。

そのU字谷(この両岸に聳える岩を、人々は「とぼう岩」と呼んだ)を、当時の人々は越える事が出来なかったのであろう。

ともかく、室町時代に日原集落は拓かれた。

やはり山を越え秩父へと向かうルートは遠すぎたのだろう、直ぐに下流の氷川へと向かう道が造られた。

ただやはり「とぼう岩」は超えられな

[41] 日原トンネル - YouTube, , http://www.youtube.com/watch?v=oLb9gEq82d8&feature=youtu.be

heppoko1970 さんの動画に高評価を付けるには Google アカウント(YouTube、Google+、Gmail、Orkut、Picasa、または Chrome のアカウント)でログインする必要があります。

[42] 日原街道脇崖下女性死体損壊・遺棄事件 :警視庁, , http://www.keishicho.metro.tokyo.jp/jiken/sokuhou/s150311.htm

西多摩郡奥多摩町の日原川沿いにおいて

右手首・左手首・左足首〜3月11日

右前腕部 〜3月12日

がバラバラの状態で発見されるという事件が発生しました。

[43] 旧日原トンネル@東京都西多摩郡奥多摩町|あれ!それ!これ!, , http://ameblo.jp/bashi-heppoko/entry-11749041831.html

とても都内とは思えない奥多摩町に、東京都道204号 日原鍾乳洞線という都道があります。そこには日原トンネルという長さ1107メートルのトンネルがあります。そして旧道と旧々道があり、そこに旧日原トンネルもあります。 まずは東(氷川)側の坑門前から、こちら側はほとんど関係ないので、ストリートビューから転載です。 坑門前で二手に道は分かれますが、左に分かれる方が旧道になります。しかしすぐに守衛所があり通り抜けることができません。ここは、奥多摩工業氷川石灰石鉱山なので、当然立ち入り禁止です。ってか入って発破にでも遭えば・・・解りますね。 では現道のトンネルを通って西(日原)側へ。その前にトンネル動画を(進行方向逆ですが)。 http://youtu.be/oLb9gEq82d8

っで日原側に到着。見えているのは登竜橋。 橋の上からの写真・・・ブレていて見難いですが旧道の跡が。 望遠で見てみると・・・道路標識? 西側の坑門のすぐ前に旧道に入る場所があります。 アスファルト敷きですが、道幅が1.5車線ほどです。此処を大型観光バスが通っていたのですね。 トンネル内カーブ注意の喚起の標識・・・んっ? 何か向こう側が大変なことになってますが・・・ とりあえず先に進むと坑門が。 少し近づいてみると・・・当たり前ですが厳重に封鎖されています。 封鎖ネットには注意の看板。 ちょっと字が薄いですが、どうやら発破に関する看板。はいっ!石灰石と一緒に粉々になりたくありません。 これより先(トンネル)は鉱山施設ですから立入禁止とのこと。逆に言えば、ここまでは東京都の土地ということか? 坑門前はすれ違いの為に広くなってますね。 金網越しに中を。思いつきでここに来たので、懐中電灯を持っていませんでした。とりあえずは風が通っているので貫通してますね。 坑門横には旧々道が続いています。っが、この先はさっきの写真の大崩落地帯! しかも日原川まで崩落しています。発破・大崩落・不法侵入等を冒してまで進む場所ではないでしょう。 私はここにて撤退します。ってか雪は降っている、すんげ~寒いしで、さっさと車に戻りたかったっす。 ちなみにこのあたりの崖の高さは50メートルぐらいかな。落ちたら死ぬな。 どうしても、自分の足でトンネルの先を知りたいって人は自己責任で! 私は絶対にお勧めしませんし、当ブログ及び私

[44] 道路レポート 旧東京府道242号 日原氷川線 (日原5期道) , , http://yamaiga.com/road/nippara5/main2.html

2007/2/21 9:32

都道のすぐ下に隠されていた、途切れ途切れの日原5期道。

日原側から侵入し150mほど進んだ地点で、思いがけぬ障害物に遭遇。

わずか1.8mという路幅を塞ぐだけでは飽きたらず、足りない分の土地は空中に無理矢理求めて建てられた3棟の家屋。

いずれも著しく荒廃していたが、我々はこの廃墟群を、文字通り“突破”せねばならなかった。

そして辿り着いた、一原桟道下。

が、スズメバチのものらしい蜂の巣がたわわに実っており、ここでも足は止められない。

そのまま、一原へ向けての後半戦へ突入した。

プレハブ廃墟を後に、都道下の荒廃した5期道を東へ進む。

石灰質の大岩盤から荒削りに削りだしたような5期道は、すぐ上に都道を作ったときに無造作に崩土を落としたものか、至る所で埋没し斜面と化していた。

日原の崖というのは、独特だ。

通常、これだけの傾斜で、しかもこの“裸”ぶりならば(手掛かりになるような植物が少ない)、まず横断は出来ない。

だが、日原の斜面は余りに風化が進んでいるせいか、急斜面でも乾いた土のようなクッション層が存在する。

これがあるお陰で、足がズボズボと埋まるような感じになり、普段なら恐ろしくて横断できないような場所でも意外に渡れてしまう。

自分が山歩きの超人にでもなったのではないかと、そう錯覚するほどである。

ほとんど道の痕跡らしいものはないので、単純に斜面を水平に横断することを心がけた。

そして小さな尾根を巻くと、視界が一気に開けた。

相変わらず、そこに5期道の続きは見えない。

見えないのだが、なぜかまたしても家が、ポツンと一棟…。

伝説の高山都市マチュピチュの日本版があったら、こんな景色だろうか。

いくら平坦な土地が少ないからといって、なぜ敢えてこの崖に家を建てる必要があったのか。

どう見ても、見間違えではない。

そこには確かに、青いプレハブ屋根の家が一軒建っている。

都道の真下、おそらく5期道のあっただろう延長線上に。

見れば見るほど、凄い家である。

残念ながら既に廃屋のようだが、さほど崩れている様子もない。

堅牢そうなコンクリートの大きな土台の上に乗せられているせいだろうか。

しかし、家人はどうやってこの家と外界を行き来したのだろうか。

強引に斜面を歩いてこの5期道か、或いは上の都道に出ていたのか

[46] 道路整備 日原鍾乳洞線, , http://www.kensetsu.metro.tokyo.jp/nishiken/kouji1-ka/sekkei/nippara.htm

奥多摩の代表的な観光スポットである日原鍾乳洞へ通じる観光道路であるとともに、沿道住民の生活を守る唯一の道路でもあります。

瀬波橋から日原鍾乳洞までの区間は、小型車の交互通行ができないほど幅員が狭く、見通しの悪いカーブが続くため、週末や行楽シーズンには、対向車との交通が滞ることが多々生じています。

急峻な斜面に張り付くような道路であることから、道路を拡幅するためには大規模な土木工事を行わなければならず、全線(日原トンネルを除く約8キロメートル)にわたって拡幅整備を行うには膨大な費用と長い年月が必要になります。

そこで、奥多摩町からのご要望、現地の地形条件等を踏まえて、安全な交通を確保する上で効果的な箇所を選定し、待避所の整備を行っています。

一時期事業が中断することもありましたが、これまでに13箇所の待避所を設置し、今後更に2箇所の設置を予定しています。

日原トンネル

日原トンネル

日原橋

日原橋

登竜橋

登竜橋

兎峯橋

兎峯橋

惣岳橋

惣岳橋

履歴

[50] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054529640998

メモ