「西会津・旧柴崎橋」右岸編から続く。
旧柴崎橋右岸から現行の柴崎橋(上野尻ダム)を経て、橋の左岸へと迂回した。
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左上が柴崎橋で、右下の赤いのが崩壊した旧柴崎橋だ。
その左手(左岸)崩落部分の探索になる。
航空写真をみてもこちら側は道路とは大きく離れているうえ、間には杉木立が密集していてまったく接続していた様子がない。
これまで橋のたもとまで探訪した記事もなければ、画像も見たことがない。
これは、橋への接続道路が想定されるような橋の延長上ではなかったということではないのか。
そう考え、県道が曲がって線路(磐越西線)を渡る踏切あたりの搦め手から探索を開始した。
ヤブを掻き分け降りて行くと、その奥に意外にも大きな遺構が姿を現したではないか。
旧い頑健なコンクリート製のもので、その形状から橋脚に使われたものと思われた。
苔むしたその古さも、十分50年という歳月に合致する。
さらに急傾斜を下り、橋の方向へと歩みを進めると、今度は明らかに人の手で造成されたとみられる通路らしき平坦地に遭遇した。(写真は振り返って撮影)
もしかして、これは線路跡なのか?
そう考えて足元を探ってみれば、そこには『工』のマークが刻まれた石柱が。
(マウスを置くと画像が切り替わります)
間違いない。
ここは旧国鉄の用地だった。
この石柱は国鉄の用地界標で、マークは漢字の『工』を表したものだ。
明治初期に官営鉄道が開業した際、工部省が管轄したからなんだね。
となれば、現在崖上を走っている磐越西線が、かつてはここを走っていたことになる。
おそらくダムの建設で水位が上がって線路が水没するのを避けるため、現在の高い位置まで移設されたのだろう。
崩落橋につながる旧県道を探していたのだが、図らずも鉄道の旧路線にぶち当たってしまったことになる。
この線路を越えるため、県道には先に見つけた大仰なコンクリート橋脚が必要だった訳なんだな。
よし、探索の方向は間違っていない。
杉の落ち葉が厚く積もった急傾斜をさらに降りてみた。
足を取られる湿地帯をも抜けて推定される方向へ歩を進めると……
見えた!
杉の木立の間からついにヤツが姿を現したのだ。
たもとの直下にはコンクリートの残骸が土に埋もれている。
やはり接続道路は橋から直進の杉林方向ではなく、推定通りたもと