2012/12/10 15:35 【現在地】
刮目すべきJRと町道の超絶近接区間は長く続かず、踏切から約80m、そのうちの最も接近している終盤40mほどを終えると、接近の度合いはそのままながら、両者の間に高低差が付き始める。
そして、その高低差が人の背丈の倍くらいまで膨らんだところで、正面の小高い岩山によってまるで篩(ふるい)でもかけられたかのように、進路がまちまちとなる。
そんな篩われた2本の道の姿が、私にはこう見えてしまった。
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もっとも、
左の道の冷遇は、それが「旧道になってしまったから」というのではなかった。
どちらの方が最初にあったのかといえば、道の方なのだ。
別に鉄道は道路の進路を奪ったわけではなく、大正7年(鉄道開通年)当時の両者の力関係を如実に現わしているに過ぎなかった。
そのことだけが救いのように思われる、道路にとっては厳しい風景であった。
線路に切り残された小山を辿る町道は、これまで同様の強烈な狭さのまま、西日を満面に浴びて光り輝く富士川の岸壁を進む。
廃道ではないものの、ほとんど車が通っている様子は無かった。
一連の旧道区間は約800mであり、現在地はそのほぼ中間地点に当っている。
…残りは、一体どんな道であるのか。
県道10号をこれまで一度も通った事が無い私には予期し得なかったから、余り残りのない時間内に無事走破出来るという事を、根拠もなく期待するより無かった。
この町道に入って初めて開けた富士川の広大な川原には、その広がりに負けない巨大さを持った構造物が横たわっていた。
それは巨大な水門であり堰であり、幅400mもある富士川の流路は、“富士川一発”(第一発電所)への取水を専らとする堰に集められ、良いように搾取されてから、残滓を下流へ解放しているに過ぎなかった。
堰以外の川幅はコンクリートの水叩きに覆われていて、氾濫のない平時は無闇に乾いているのみであった。
これは「十島堰」というらしい、暴力の風景であった。
しかし自然の真の強さと恐ろしさを信じる私は、“この程度”の人類の反撃を、殊更に批判する気も湧かなかった。
12:10 【現在地】
ぬおぉっ!
行き止まりか?!
車を転回しうるだけの広場を合図に、道は線香花火のようにぶつ切れた。
入口から500m弱を進んでいるから、残りは300m程度であろうが、地形図にはこれまで同様