「この村、ちょっと凄いぜ。」
この書き出しで始まったレポートを憶えているだろうか。
この村のこの道が凄いというような次元ではなく、「この村そのものが凄いんだ!」と私が訴えたのは、現在の富山県南砺市の一角を占める、旧利賀村のことであった。
当サイトで旧利賀村関係のレポートは、これまで3編を公開済みとなっている。
すべての探索は平成21年4月〜5月に行ったもので、時系列に沿ってレポートを並べると以下の通りとなる。
【4月29日探索】 ・牛岳車道(全9回) → ・このレポート → ・栃折隧道(全3回) → 【5月1日探索】 ・利賀大橋(全4回)
敢えて最初に列挙した意味は、出来ればこれらのレポートを先に読んでもらいたいからだが、さすがにそれは時間的にキツイという方も多いだろうし、以前一度読んだレポートを再読しろというのも酷なので、牛岳車道の最終回だけでも先に読んで欲しい。
今回のレポートはその直接の続きなので、単独のレポートとしてみれば、いささか変なところから始まるのである。
【周辺地図(マピオン)】
利賀村は中部日本における典型的な山岳村で、平成16年の南砺市合併直前において、おおよそ880人の人々が南北50kmを超える広大な村域に営まれた十数の集落に分かれて暮らしていた。
村の周囲はおろか、村内もまた山ばかりであることは、右の地図から十分お分かりいただけると思う。
そして、明治23年以来長らく一村として存続したこの広大な地域は、標高800mを越える高い山脈によって完全に東西二分されていることが印象的だ。
図中の利賀川と百瀬川という二つの川の流域にそれぞれいくつもの集落が展開しており、この両者を隔てる山脈に切れ目はない。
そのため昭和40年代に至るまで、この二つの流域間を(村外を経由せず)直接自動車で行き来することは出来なかった。
利賀川は庄川水系、百瀬川は神通川水系であり、ともに最終的には日本海に注ぐが、河口間の距離は15km近く離れており、利賀村内にあった分水嶺は広域的な規模を持つものといえる。
なぜそのような隔絶された地域が長く一村であったのか、現代人の感覚からすれば不思議にも思えるが、こういう例は徒歩交通時代においてしばしば見られた事である。
ようは徒歩交通という常識において、高低差よりも絶対的な遠近の差こそが、人々の交流を大きく妨げたという