利賀大橋

利賀大橋

[1] 利賀大橋, 仙納原大橋

Webページ

[2] 利賀大橋いちきた。, , http://www.youtube.com/watch?v=pIyNbhbLfT8

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[3] 橋梁レポート 双竜湖(小牧ダム)に架かる巨大廃橋(跡) , , http://yamaiga.com/bridge/toga/main4.html

6:20 【現在地】

前回はほとんど即座に橋上へと吸い込まれた私であったが、改めて橋のたもとを探索してみた。

まずはこれ。

初遭遇時から何気に存在感を演出していた、このコゲチャビン。

……う〜〜ん。

わ か ら ん。

何の標識だったんだろう。

まあ九分九里、重量制限であったろうが、肝心の数字が読めないのでは何とやらだ。

こればかりは、科捜研に来てもらっても解決せんだろうな(笑)。

あとこれ。

タイヤ!

廃道が、何によって通られていたのかを如実に示す、“死に”証人だ。

このタイヤは、乗用車ではないな。

2〜4トンくらいの貨物自動車用のタイヤっぽい。

つうと、結構大きな車もこの橋を渡っていたと言うことになるのだろうか。

道幅がちょうど2mくらいしか無い上に、吊り橋部分の床板はおそらく木造だったろうから、かなり怖々渡ったものだろう。

もっとも根本的な問題として、このタイヤの主が必ずしも橋を渡ってきたとは限らないわけだが、わざわざ無精な不法投棄者が、この大きなタイヤを抱えて橋を渡ったとは思えない。

とりあえず、たもと周りはこんなもんだろうか。

狭い場所なので、見て回るものはそうない。

これが「橋」の概念図である。

2径間のコンクリートアーチ橋は、おおよそ40mほどの長さで湖上に突出している。

ただし、そこにはちょうど半島状の陸地があり、満水時といえどもアーチ橋部分はほとんど陸橋のようになっている。

前回は橋の上を立ち回って、可能な限りのアングルから撮影を敢行した。

残るは、橋下である。

全ての橋の下を覗くような真似はしない私だが、この橋についてはまだ去りがたい余韻があった。

もう少し味わいたい。

橋のたもとからは、赤い矢印の方向にも道があった。

…ような気がした。

地形的に見てこの方向に道があるはずはないのだが、何となく感じられる平場が、上の概念図で示したような「釣り針型」にカーブして、しかも下降し、ちょうど上手い具合に橋下へと忍び込んでいったのを私は見逃さなかった。

明らかに車道ではない古い小道を下る途中、こんなものを発見してしまった。

おちゃわん…。

……。

橋の上から投げ捨てられたのか?

…な ぜ?

むしろより自然なのは、この小道を歩いていた人間が落としたと言うことではないだろうか。

未だ私が納得する答えを得ていない「古道の謎」のひとつとして、昔

[6] 利賀大橋 再び - そこに道があるから, , http://blog.goo.ne.jp/shiro-sb/e/d520abcac93dd36ea665c724a1ac8c44

利賀大橋を渡るために注意されるのを覚悟で利賀砂利の採取場への専用道路を川面まで下り名前の無い橋で利賀川の左岸へ渡ったまでは良かった。

しかしこの道は予想通り6月に走った北原からの道につながっていた。

一箇所、庄川のほうへ行けそうなところがあってしばらく藪漕ぎをしたものの、この季節、草が多くてとてもじゃないが断念。

利賀砂利の専用道はダンプしか通らないからか轍がダンプ仕様でものすごく深くて非常に走りにくく戻る気がしないので帰りは北原へ抜けることにした。

冬前に機会があったら再訪問したいところだ。

[7] 2010年10月, , http://www.geocities.jp/kyongsea/sub81006.htm

2010/10/31 古地図は面白い

昔の地図を見ればいろんなことが分かる。庄川の大牧と長崎の間に「重倉」という集落があったり、杉尾と栃原の間に「城」「障子倉」「新山」という集落があったことが分かる。杉尾峠が細野峠であったり、ただし蓑谷の上に正谷があったことは記憶している。この絵図では上田が二っ屋となっており、若杉が描かれていない。若杉は行政区画上大鋸屋に含まれていた。(※新山集落は大正末期まで5軒、昭和初期には4軒だったが、昭和9年3月に部落の男性5名と女性1名が井波町へ買出しに出掛け栃原峠を越えて返る途中に表層雪崩に遭い全滅。残された女・子供だけでは生活が成り立たず離村が相次ぎ、残った2軒も昭和30年11月に離村してしまった。※山村調査グループ編『村の記憶』1995年桂書房発行に詳しい。)この地図には新山から赤祖父山を越えて東西原〜西明〜北野を通って城端に至る新山峠道も描かれている。

2010/10/30 杉谷峠

今まで行ったことがなかった、行く必要のなかった(はっきり言って知らなかった)昔の峠道を急に訪ねてみたくなった。腰切岩へのアプローチには及ばなかったが、杉谷峠から見る利賀川周辺の眺めは初めて見る角度だった。一向一揆に思いをはせながら瑞泉寺〜旧利賀街道や浅野総一郎が尽力した小牧ダムを改めて眺めてみるのも悪くない。小牧ダム建造当時の写真展「浅野総一郎と小牧ダム」が庄川ふれあいプラザ(砺波市庄川町金屋)で行われている。(約1年間) 古い地図を見れば小牧から仙納原大橋の間は道がなかったことが分かる。

[8] 徒然雑記帳 資料探し@図書館, , http://2802rzmby9.blog51.fc2.com/blog-entry-1013.html

本日午前中の天気は良いんだけど午後から荒れるとか… そんなんで、資料探し@図書館行き。 でっ、こんなの見つけた。 「富山の秘境 埋もれた未知のふるさとを探ろう」 石崎直義 中川達、巧玄出版、昭49、1 県内の秘境?を掲載されてるんだけど、その中に高校生時代に五箇山・利賀界隈をウロチョロしたチョイ前の画像がでてたのよね。 利賀大橋の画像ですです。 高校時代、R156は嫌という程通ったけど、利賀大橋通行不可だった。 通行不可というより、R156のスノーシェッドで行くに行けないが主な理由だ。 しかし、とあるhpを見ると1980年前後?に火災で通行不可な的な表示がされてる。マジ? 1980年前後の利賀大橋の記憶が無いのが残念。。。

[9] 庄川流材写真, , http://library.jsce.or.jp/Image_DB/koshashin/ishii/02/index.htm

036.金屋土入場ヨリ二万七千石用水入口附近ニ於ケル流材業者施設ノ川倉ヲ撮ル(例年ハ庄川本流全部ニ対シ施設スルモノナルモ本テ止メアリ)

[10] 道路レポート 国道156号 大牧トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/r156_oomaki/main.html

【所在地(マピオン)】

随分久々になってしまったが、“越中五箇山”を巡る道を、また少し語りたいと思う。

越中五箇山、或いは単に五箇山(ごかやま)とは、日本海に望む北陸の砺波平野から山を隔てた内陸部、庄川水系に属する山峡地帯の歴史的広域地名であり、平成の合併前に存在した富山県東礪波郡旧平村、旧上平村、旧利賀村の地域を指す。現在はいずれも南砺市に属す。

そしてこの名は、中世の平家落人たちによる開村伝説を持ち出すまでもなく、平成7年にユネスコの世界文化遺産にも指定された合掌造り集落に代表される独自性と秘境性を併せ持った地域名として、現代なお広く用いられているのである。知名度の面において、北陸を代表する“秘境”ではないだろうか。

だが、現在の五箇山は山村ではあっても、飛び抜けた秘境というにはあたらない。

右の地図を見てもらえば分かるが、五箇山は地理的に見てさほど平野から遠い場所ではないし、今ではその平野と繋がる3本の国道が地域内を縦横し、いずれも積雪期においても通行が確保されている。さらには高速道路も開通した。

実際、いちばん内陸寄りの旧利賀村地域だけは少し遠さを感じるが、それ以外の地域は(少なくとも私が体験した夏場であれば)かなり気軽に訪れる事が出来るのである。

しかし、今の秘境らしからぬ便利さは、これまでの国道整備に依るところが大であり、むしろそれがほとんど無二のものである。

そして、これら国道が現在に近い状態で完成した時期は、いずれも昭和50年代以降と、さほど昔ではない。

例えば五箇山を走る3本の国道の中心的存在といえる国道156号でさえ、庄川〜祖山ダム間が冬も通れるようになったのは、昭和52年である。

それまで、旧平村や旧上平村の住民は、毎年12月頃から4月頃まで四周を深い雪道に閉ざされ、村に自動車はあっても外へ乗って出る事は出来なかった。

その当時は、庄川の祖山ダム湖と小牧ダム湖を乗り継ぐ村営船や、細尾峠の危険な雪中行軍をもって、辛うじて世界と繋がっていたのである。

そして、今回主に紹介するのは、この区間における国道156号の除雪可能化(無雪化)を実現させた最大の立役者である大牧トンネル(全長1330m、昭和52年開通)、その開通以前の旧国道である。

五箇山が名実とも神秘の秘境であった時代の最後を見届けた国道風景と、失われた車窓、それらとの再開

[11] むかしの旅 - 南砺市郷土Wiki, , http://nanto.wiki.fc2.com/wiki/%E3%82%80%E3%81%8B%E3%81%97%E3%81%AE%E6%97%85

八尾から百瀬への旅は、栃折峠にさしかかると、とたんに険しくなり、今の道より百米も上に大杉があって、みんなそこを通ったものである。やがて一の瀬の番所のところへおり、さらに高清水というところまで登りつめ、そこから石灰山まで下り坂を歩いたそうである。昔は旅をするのに空荷はもったいないと、往復ともに背中で物をせおって運んだり、牛の背中を利用したが、おもなものは木炭、食料品、石炭などであった。仙の原の下に大橋・小橋があったが利賀大橋の今の位置よりずーと川底のほうに大橋があって、そこから少し来て七軒部落の仙の原の下に小橋があった。橋をわたると、栗当の下の「ダイヤ」へ出たそうである。谷川にそって、ずーと家があるのをたずねながら登ると今の藤崎徳一さんの家の前へ出た。そこから藤井橘太郎さんのところまでのぼると、やがて百瀬へと出る峠を通ったが、その途中に石灰山があった。井波からは杉谷へ登り(庄川を通らないで)大橋のところへ降りてきた。(二つ屋の向うの大きな水の落ちる滝のある峠が通路になっていたので・・・)今の大橋のところの川底(その頃はダムがない)を通り仙の原を越えて小橋を渡って栗当に出た。

[12] 隧道レポート 利賀村の楢尾隧道 , , http://yamaiga.com/tunnel/naranoo/main.html

「この村、ちょっと凄いぜ。」

この書き出しで始まったレポートを憶えているだろうか。

この村のこの道が凄いというような次元ではなく、「この村そのものが凄いんだ!」と私が訴えたのは、現在の富山県南砺市の一角を占める、旧利賀村のことであった。

当サイトで旧利賀村関係のレポートは、これまで3編を公開済みとなっている。

すべての探索は平成21年4月〜5月に行ったもので、時系列に沿ってレポートを並べると以下の通りとなる。

【4月29日探索】 ・牛岳車道(全9回) → ・このレポート → ・栃折隧道(全3回) → 【5月1日探索】 ・利賀大橋(全4回)

敢えて最初に列挙した意味は、出来ればこれらのレポートを先に読んでもらいたいからだが、さすがにそれは時間的にキツイという方も多いだろうし、以前一度読んだレポートを再読しろというのも酷なので、牛岳車道の最終回だけでも先に読んで欲しい。

今回のレポートはその直接の続きなので、単独のレポートとしてみれば、いささか変なところから始まるのである。

【周辺地図(マピオン)】

利賀村は中部日本における典型的な山岳村で、平成16年の南砺市合併直前において、おおよそ880人の人々が南北50kmを超える広大な村域に営まれた十数の集落に分かれて暮らしていた。

村の周囲はおろか、村内もまた山ばかりであることは、右の地図から十分お分かりいただけると思う。

そして、明治23年以来長らく一村として存続したこの広大な地域は、標高800mを越える高い山脈によって完全に東西二分されていることが印象的だ。

図中の利賀川と百瀬川という二つの川の流域にそれぞれいくつもの集落が展開しており、この両者を隔てる山脈に切れ目はない。

そのため昭和40年代に至るまで、この二つの流域間を(村外を経由せず)直接自動車で行き来することは出来なかった。

利賀川は庄川水系、百瀬川は神通川水系であり、ともに最終的には日本海に注ぐが、河口間の距離は15km近く離れており、利賀村内にあった分水嶺は広域的な規模を持つものといえる。

なぜそのような隔絶された地域が長く一村であったのか、現代人の感覚からすれば不思議にも思えるが、こういう例は徒歩交通時代においてしばしば見られた事である。

ようは徒歩交通という常識において、高低差よりも絶対的な遠近の差こそが、人々の交流を大きく妨げたという

履歴

[13] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054528055616

メモ