牛岳車道

牛岳車道

[1] 牛岳車道 (うしだけしゃどう)

Webページ

[2] ほんとの空 ~利賀村秘蔵映像~, , http://www.youtube.com/watch?v=jxLu7qTlTr4

昭和30年代に撮影された

『東砺波郡利賀村』現南砺市利賀村の秘蔵映像です。

[3] 道路レポート 牛岳車道, , http://yamaiga.com/road/usidake/main1.html

牛岳車道(うしだけしゃどう) なる道を知った。

巨大な開通記念碑の傍にあった解説板によれば…

牛岳車道とは、地元の石灰採掘業者の手によって明治23年、金屋(旧庄川町)から牛岳山腹の石灰山(旧利賀村)の間に建設された、馬車運搬道路だ。

つまりこれは、私が最も愛する廃道のジャンルである「明治馬車道」ということになる。

事前にその名を知っていれば、少しは下調べもしただろうが、今回は探索の開始直後に飛び入りでこの話を知った。

だから、私がこのレポートで辿った道が牛岳車道であったとか、或いは無かったとかの答え合わせは、全て帰宅後に「利賀村史」で知ったことである。

その事を念頭に置いて読み進めて貰うと、あまりもどかしい気持ちにならないで済むかも知れない。

なにせ、現場で一番もどかしがったのは、かく言う私だった。

「この道が牛岳車道? ねぇ?違うの?!」 ってな具合に。

…とはいっても、「牛岳車道」という表題でレポートを始めた以上、そんなに分かりにくい事にはならないと思う。

むしろややこしいのは、牛岳車道以外の道も色々とある平野に近い序盤(特に今回)で、目指す利賀の地に近付いていけば道の数も減り、自然と牛岳車道の存在が浮かび上がってくることとなった。

というわけで、今回はその「ややこしいエリア」の話である。

だから、今回だけは表題にも「牛岳車道」の他に、「国道156号旧道」を加えている。

そして実はもう一本のルートも登場する。

明治だけじゃなく、大正、昭和まで色々な時代の道が入り組んでいるので、本当にややこしい。

今回紹介するのは、この旧庄川町の金屋から小牧地区にかけてだ。

小牧は白川方面へ向かう国道156号と、利賀へ向かう国道471号の分岐地点であり、金屋を起点としていた牛岳車道もここを通行したことは間違いない。

そして、そのルートとして可能性が高いと思われたのが、現に開通記念碑も置かれているこの旧国道だ。

旧国道は現国道の金屋トンネルのすぐ下を、一回り短いトンネルで抜けているようだが、果たしてそれは明治由来の隧道なのか。

さっそく楽しみなのである。

2009/4/29 6:38

牛岳車道の記念碑は、旧道と現国道の間の僅かなスペースにあった。

そして旧道をそこからほんの少し進んだ川側には、関西電力小牧水力発電所がある。

このレポートでも次回登

[12] 橋梁レポート 双竜湖(小牧ダム)に架かる巨大廃橋(跡) , , http://yamaiga.com/bridge/toga/main4.html

6:20 【現在地】

前回はほとんど即座に橋上へと吸い込まれた私であったが、改めて橋のたもとを探索してみた。

まずはこれ。

初遭遇時から何気に存在感を演出していた、このコゲチャビン。

……う〜〜ん。

わ か ら ん。

何の標識だったんだろう。

まあ九分九里、重量制限であったろうが、肝心の数字が読めないのでは何とやらだ。

こればかりは、科捜研に来てもらっても解決せんだろうな(笑)。

あとこれ。

タイヤ!

廃道が、何によって通られていたのかを如実に示す、“死に”証人だ。

このタイヤは、乗用車ではないな。

2〜4トンくらいの貨物自動車用のタイヤっぽい。

つうと、結構大きな車もこの橋を渡っていたと言うことになるのだろうか。

道幅がちょうど2mくらいしか無い上に、吊り橋部分の床板はおそらく木造だったろうから、かなり怖々渡ったものだろう。

もっとも根本的な問題として、このタイヤの主が必ずしも橋を渡ってきたとは限らないわけだが、わざわざ無精な不法投棄者が、この大きなタイヤを抱えて橋を渡ったとは思えない。

とりあえず、たもと周りはこんなもんだろうか。

狭い場所なので、見て回るものはそうない。

これが「橋」の概念図である。

2径間のコンクリートアーチ橋は、おおよそ40mほどの長さで湖上に突出している。

ただし、そこにはちょうど半島状の陸地があり、満水時といえどもアーチ橋部分はほとんど陸橋のようになっている。

前回は橋の上を立ち回って、可能な限りのアングルから撮影を敢行した。

残るは、橋下である。

全ての橋の下を覗くような真似はしない私だが、この橋についてはまだ去りがたい余韻があった。

もう少し味わいたい。

橋のたもとからは、赤い矢印の方向にも道があった。

…ような気がした。

地形的に見てこの方向に道があるはずはないのだが、何となく感じられる平場が、上の概念図で示したような「釣り針型」にカーブして、しかも下降し、ちょうど上手い具合に橋下へと忍び込んでいったのを私は見逃さなかった。

明らかに車道ではない古い小道を下る途中、こんなものを発見してしまった。

おちゃわん…。

……。

橋の上から投げ捨てられたのか?

…な ぜ?

むしろより自然なのは、この小道を歩いていた人間が落としたと言うことではないだろうか。

未だ私が納得する答えを得ていない「古道の謎」のひとつとして、昔

[15] フォトギャラリー| 砺波市役所| 牛嶽車道開通記念碑 , , http://www.city.tonami.toyama.jp/tonamisypher/www/photo/detail.jsp?id=6346

牛嶽車道開通記念碑(うしだけしゃどうかいつうきねんひ) 平成6年5月30日・市指定 砺波市庄川町金屋 この記念碑は、明治23年(1890)9月13日、「牛嶽車道」全線の開通を祝い、牛嶽運送株式会社が建立しました。 牛嶽車道は、牛嶽麓の利賀谷高沼から金屋まで、石灰を輸送するため、地元有志が私設した新道で、15年間、賃取り償却が許可される賃取り道でした。 牛嶽南側一帯の山地、高沼から旧婦負郡山田村深道近辺は、通称石灰山と言われ、藩政期末から比較的大規模な石灰岩の鉱床として知られていました。 しかし、山深く道が狭いため、採掘後の輸送には、人の背に頼るほかありませんでした。ところが明治期、稲作の肥料として石灰の需要が増大し、荷車による搬送可能な道路が必要となり「牛嶽車道」が実現したのです。 自然石(凝灰岩)に刻まれた碑文は、真宗大谷派の僧であった金沢市の北方蒙(号心泉)の句と揮毫です。 心泉は明治期、布教僧として幾度となく中国へ赴き、法務の傍ら金石学を研究し、我が国に北魏の書風を伝えた最も初期の書家で、碑面(高さ約2.5m、幅約1.7m)には、 「山を暫(ほ)り谷を堙(ふさ)ぐ牛嶽か、平五箇(ごか)に多く産す 来たり貿(あきな)いて便を得、中越の富 源泉竭(つき)ず」 と刻まれています。

[16] 隧道レポート 利賀村の楢尾隧道 , , http://yamaiga.com/tunnel/naranoo/main2.html

2009/4/29 13:51 【現在地】

利賀側坑口から入って10分を経過し、おおよそ500mを探索済みとした。

百瀬川側坑口までは、推定あと300mである。

今いるのは洞内2回目の待避所であり、謎の駐車車両を背にしている。

この待避所も雑多なものの物置であり、おそらくここに掲げられている最高速度30kmの規制標識も、本来の規制とは無関係なのだろう。

規制標識の取り扱いは法的にシビアであり、道路法の道路であるなしを問わず、一般車両が通行する現役の道路へ設置する権限は公安しか持っていない。

すなわちこの一事を以て、本隧道が法的には廃道と見なされている(より正確な表現をすれば、「一般交通の道路ではない」と見なされている)ことが窺える。

再び1車線幅となった洞内を進んでいくと、その後しばらくは特に足を止めさせる発見もなく、利賀村の東側の地平が眩い光の中に見え始めた。

だが、この終盤で“滝潜り”の荒行を要求された。

出口まで50mほどの地点で1ヶ所、天井アーチの広い範囲が破れて、そこから著しく水が吐き出されていた。

この水垂れは激しく、土砂降りの音が辺り一帯に響いていた。

晴天続きでもこの漏水だから、雨天時などは本当に滝のようになるかも知れない。冬期間にいかなる氷柱が出来上がるのかも見物だろう。

(一般的に、隧道坑口付近の内壁が著しく傷む理由は、単に地表が近く漏水が多い為だけではなく、氷柱の発生と氷解によってもたらされる部分が大きい)

ぬかるんだ出口の向こうに見え始めた、百瀬川の地平。

この隧道が貫通するまで、村の中央部に車で出るためには、一旦村外へ迂回しなければならなかった。

なお、この日の探索で私が到達した利賀村内での最高地点がここで、海抜は約660m。

13:54 【現在地】

自転車で13分ほどかけて、いま隧道を完抜!

坑口付近は崩土が路上にだいぶ堪っていて、本来の鋪装された路面が見えない状態になっていた。

だがぬかるみには新しい自動車の轍もあり、日常的な出入りがあるようだ。

村の名義で設置した「通行止」の看板も、端によせられたままになっていた。

東口坑門も、西口と同じような特徴に乏しい作りであった。時代相応といった感じか。

ただ、坑口の左上胸壁部分には何か看板のようなもの取り付けていた形跡があった(東口にもあった)。

西口と異なっていたの

[18] 道路レポート 国道156号 大牧トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/r156_oomaki/main.html

【所在地(マピオン)】

随分久々になってしまったが、“越中五箇山”を巡る道を、また少し語りたいと思う。

越中五箇山、或いは単に五箇山(ごかやま)とは、日本海に望む北陸の砺波平野から山を隔てた内陸部、庄川水系に属する山峡地帯の歴史的広域地名であり、平成の合併前に存在した富山県東礪波郡旧平村、旧上平村、旧利賀村の地域を指す。現在はいずれも南砺市に属す。

そしてこの名は、中世の平家落人たちによる開村伝説を持ち出すまでもなく、平成7年にユネスコの世界文化遺産にも指定された合掌造り集落に代表される独自性と秘境性を併せ持った地域名として、現代なお広く用いられているのである。知名度の面において、北陸を代表する“秘境”ではないだろうか。

だが、現在の五箇山は山村ではあっても、飛び抜けた秘境というにはあたらない。

右の地図を見てもらえば分かるが、五箇山は地理的に見てさほど平野から遠い場所ではないし、今ではその平野と繋がる3本の国道が地域内を縦横し、いずれも積雪期においても通行が確保されている。さらには高速道路も開通した。

実際、いちばん内陸寄りの旧利賀村地域だけは少し遠さを感じるが、それ以外の地域は(少なくとも私が体験した夏場であれば)かなり気軽に訪れる事が出来るのである。

しかし、今の秘境らしからぬ便利さは、これまでの国道整備に依るところが大であり、むしろそれがほとんど無二のものである。

そして、これら国道が現在に近い状態で完成した時期は、いずれも昭和50年代以降と、さほど昔ではない。

例えば五箇山を走る3本の国道の中心的存在といえる国道156号でさえ、庄川〜祖山ダム間が冬も通れるようになったのは、昭和52年である。

それまで、旧平村や旧上平村の住民は、毎年12月頃から4月頃まで四周を深い雪道に閉ざされ、村に自動車はあっても外へ乗って出る事は出来なかった。

その当時は、庄川の祖山ダム湖と小牧ダム湖を乗り継ぐ村営船や、細尾峠の危険な雪中行軍をもって、辛うじて世界と繋がっていたのである。

そして、今回主に紹介するのは、この区間における国道156号の除雪可能化(無雪化)を実現させた最大の立役者である大牧トンネル(全長1330m、昭和52年開通)、その開通以前の旧国道である。

五箇山が名実とも神秘の秘境であった時代の最後を見届けた国道風景と、失われた車窓、それらとの再開

[19] 道路レポート 国道256号 飯田市上村の地形図に描かれていない区間, , http://yamaiga.com/road/r256_kami/main2.html

2011/4/21 14:03 《現在地》

上村市営住宅の裏手にある「マムシの大岩」 (←酷い略称だと思うがお許しを) の前で、車が通れる「国道」はいとも呆気なく終わりを迎えた。

自転車も、ここまでだ。

第二第三の「大岩」が転げ落ちてくることを阻止すべく、山の縁には真新しい土留め擁壁が施工されており、一見すると国道どころかいかなる道も続いていなさそうだったが、見えざる道を見る者であるオブローダーの本領発揮とばかりに付近を詮索した結果、写真の位置を「道」と判断した。

「マムシの大岩」の裏から東へ伸びる、高い擁壁と低い擁壁に挟まれた、細い上り坂のような敷地である。

周囲を「長野県」の用地杭が囲んでおり、「国道だから」だといいたいところだが、県が施工した「急傾斜地崩壊対策工事」の関係かもしれない。

いずれにしても民家の敷地ではないようだから、大手を振って歩いても…、良いのかな…?

擁壁と擁壁の隙間を10mほど歩くと山側の擁壁が終わり、宅地側にある擁壁の裏へ自然に入り込む形になった。

そして気付くと、自分は町側ではなく山側の存在になっていた。

国道は最終的にこの山の頂である小川路峠を目指すわけだから、山へ入ることは目的に適っている。

ここが正解だという期待を強くしたが、一方でそんな期待を挫くように、狭い行く手に大量の枯れ竹が山積みにされており、私の前進を露骨に邪魔してきた。

枯れ竹の山を踏み越えることは単純に面倒なだけでなく、バキバキと喧しい音を立てることになる。民家の裏手に忍び込んでいる現状に少なからず後ろめさを感じている私は、出来るだけ隠密に行動したかった。だから道なき斜面をよじ登って高巻きの迂回を決行した。右の写真は高巻き中の撮影だ。

土留め擁壁越しに、この国道の終点であり、旅の起点となった向井橋が見えた。

あそこからここまで、ほんの400m足らずでしかなかった。

上村側の国道256号のまともな区間が、どれほど僅かであるかがお分かりいただけるだろう。

全国458路線の国道の中で、終点や起点のこれほど間近に「自動車交通不能区間」がある路線は、他にないと思う。

これは同じ位置から振り返って、市営住宅内の俯瞰を撮影した。

国道はこの住宅地を狭い路地で横断し、山へ取付いていると思われる。

住宅地の造成が行われた後に国道が指定されたわけではなく、先に

[20] フォトライブラリ p218 牛岳車道開通記念碑|砺波正倉, , http://1073shoso.jp/www/photo/detail.jsp?id=11450

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[23] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054528054195

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