神津島

神津島

[1] 神津島 (こうづしま)

34.2169444444444 139.154166666667

Webページ

[2] 神津島 - Wikipedia https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%A5%9E%E6%B4%A5%E5%B3%B6

神津島(こうづしま)は、伊豆諸島の島の一つ。面積は18.48km²(国土地理院調べ)。東京都神津島村に属する。 島の経済、行政、交通、教育等の詳細は「神津島村」を参照。

[3] 神津島周遊記 2 - ちっこいチャリ。, , http://blog.goo.ne.jp/chiichari7/e/ab89df442940934f35748040d252d372

5月2日から5月5日迄、ゴールデンウィークにチャリ旅行へ行ってきました。

今回は伊豆諸島の神津島です。

BD-1にテントを積んで、風の向くまま気の向くまま、まったり走ってきましたよ。

2009年5月3日(日)の旅の軌跡 (クリックで大きいマップが見れます)

* * * * * * * * * *

10時 定刻通りにさるびあ丸は神津島の多幸湾側に到着しました。

神津島は終点の島。乗客は大分減っていて、スムーズに下船することが出来ました。

周りを見たところ自転車乗りは自分だけのようです。

まぁ、海を観光の売りにしている島にわざわざチャリ持って来る物好きなんざぁ、

そうはいないって事で、でも独占状態ってのはちと言い過ぎですかね?

曇り空なのに太陽の出てる中途半端な天気。海風は涼しいんだけど照り付ける日差しはすっかり初夏のもの。

どうせ太陽出てるなら、スカッと抜ける様な青空であってもらいたいものだ。

目の前に広がる見たこと無い景色に少年の心を取り戻した俺は・・・いや、違う。

精神年齢の低い俺は、無意識のうちに早足になり目の前の客を追い越していきました。

逸る気持ちを抑えつつ適当な場所でチャリを展開。荷物をしっかりチャリに搭載して、

ペダルを力いっぱい踏み込みます。

で、港を出たら2分でリゾート。多幸浜はプライベートビーチのようです。

砕けたガラスのような白い砂とエメラルドのような透明感のある海。

これは伊豆諸島に来る度に俺が思う感想ですが、今回はつい口に出てしまいました。

「此処、東京かよ?」

多幸湾の近くの日向神社。こじんまりした可愛らしい神社。

この旅の安全とかを祈願します。

参道から戻ると何にも振動与えてないのにGPSの電源が落ちてた。んだよ〜ッ!

でも先に言ってしまうと、落ちたのはこの一回きりで、この後は無事でした。

まずは海岸線沿いの神津本道を南に向かって進みます。

この神津島には一周道路というものが存在しないので、今回は島一周というノルマを自分に課す事無くまったり走れるのですが・・・。やっぱり島なので坂は付き物。

ですが、上りきったときにはこのような絶景が待っててくれるから止められない。

こちらは三浦湾展望台からの雄大な眺望。

12時 空の玄関口、神津島空港に到着。

神津島は調布飛行場から45分で来れる東

[4] 道路レポート 神津島の砂糠山にある廃道, , http://yamaiga.com/road/sanukayama/main7.html

今回の探索日は2013年4月1日で、翌々日の早朝に無事帰宅した私は、旅の興奮の醒めぬうちに早速、あれやこれやの机上調査をスタートした。

その成果を発表する前に、机上調査中にこういうもの(→)を見付けて笑わせていただいたことを書き記しておきたい。

私が探索中に窓口を訪ね、衝撃の“養蚕施設”証言を得た神津島観光協会の公式ツイッターアカウント( @kozusima さん)が、こんなツイートで世の中の【島フェチ】を島へ呼び込もうとしていたのである。

フェチだぞ、フェチ。

フェチって……、あれだろ…。

まあ、私が探索中にだいぶやばくなっていることは否定しきれない(詳しくは この漫画 に…)が…。

いずれにせよ、オブローダーの説明が面倒だと思った私が、自己紹介を適当にした結果が「史跡マニア」なわけである。

で、相変わらず観光協会サイドは「 養蚕場所として使われた(使おうとした?)神津島のある場所 」という(少し当日よりも自信がなさそうな)表現で、“養蚕施設”説を推している。

本当かよ!

島の外から恐縮であるが、私がっきっちり カタ 付けたる!!

文献調査 〜『伊豆諸島東京移管百年史(下巻)』および『神津島村史』を読む〜

遠くの図書館から取り寄せるまでも無く、最寄りの日野市立図書館に所蔵されていた上記の史誌が最初のターゲットとなった。(こんなとこでも、伊豆諸島が確かに東京“都内”なのだと実感する)

そして、個人的な疑義はさて置いて、島民の証言があるという理由から、最も有力な説とみられた「養蚕」について調べてみると…。

2冊とも、神津島の養蚕について専門に述べたページが1ページずつあった。

どちらも1000ページを越える大冊であるから、この分量は多いとは思えない。もちろん文章も読んだが、砂糠山で大規模な養蚕事業が行われたことについては、記述がなかった。

が、それでもこれら文献は、私の大きな誤りを正す役割を果たした。

[11] 廃線レポート 神津島の石材積出軌道, , http://yamaiga.com/rail/kouzusima/main.html

… お は よ ー ご ざ い ま す ……。

よく眠れなかった。

昨夕、日が暮れる前に海岸の真新しいウッドデッキの下を一夜宿に定めた私は、潮騒と柔らかな砂の背心地には満足したものの、午前2時頃から降り始めてしまった大粒の雨と、朝方から急激に騒ぎ出した風のため、眠れぬ夜明けを過ごしていた。

ウッドデッキを伝う雨は最初テントの外壁を濡らし、それから内壁、寝袋の外、内の順に次第と浸潤して、朝4時の私は既に身体の大半を湿らせていた。

乾ききれなかった昨日の汗も混じっていただろうが、快眠とはかけ離れた… まさに野宿であった。

時間がなかなか進まなかったが、空に薄明かりを感じると同時にテントを出て、携帯コンロで朝飯のカップ麺を食べてから、探索の荷造りをした。

テントなど、探索に使わないアイテム(デカリュック)はここへ置いて行く。

島を離れる前には回収するが、こいつらを持ち歩くと移動だけで疲れるし、身軽な状態で探索をしたかった。

この雨では、島の人が海水浴場に下りてきてウッドデッキの下を覗くことも無いだろう。

午前5時04分、前浜海岸を自転車で出発。

まずは、すぐ近くの神津島(こうづしま)港へやって来た。

ここは私と東京の自宅を結ぶ窓口だったが、この時間は船の待合所も閉まっていて、人影は全くなかった。

埠頭を叩く雨の飛沫が、地面に押し付けられるように躍っている。

それほど海から吹き込む風は強かったが、その割に波は妙に落ち着いていた。

これなら帰りの船も予定通り迎えに来てくれるだろうか。

出発前に見た週間予報だと、今日まで晴れると言っていたはずだが、現実は雨だった。

それもかなり本格的な雨である。

加えて、南西の風が相当に強まっていた。

現状を説明したい。

今日2013年4月2日は、私の最初の離島探索の3日目、かつ最終日だ。

そしてそれと同時に、この島で朝を迎えた人生最初の日でもある。

だがこの島は、そんな記念日にも試練を与える心づもりらしかった。ありがたいことである。

今回の離島探索では、初日の新島で素晴らしい廃道と戯れたが、2日目にそこから15km南南西に浮かぶ神津島へ船で移動してきた。

そして着くなりこれまた途轍もない廃道と出会った。

(↑この廃道は2014年3月4日発売の『廃道ビヨンド』で紹介したい)

今の私の気分が優れないのは、雨のた

[14] 「平成12年(2000年)神津島・新島地震」災害状況(2000年6月)|アジア航測|空間情報コンサルタント, , http://www.ajiko.co.jp/article/detail/ID4TC38PQ31/

7月3日13時頃に、神津島の斜め撮影を実施いたしました。雲で天上山山頂付近はみえておりません。おもに、海岸沿いの斜面崩壊の映像について紹介いたします。

2000年6月26日午後6時半すぎ、東京都伊豆諸島三宅島で群発地震の発生がはじまりました。1983年の噴火の時など、地震発生の2時間後に噴火している例もあることから、気象庁では、噴火の恐れが高いとして午後7時33分「緊急火山情報」を出し、警戒を呼びかけました。朝までには、三宅島の、坪田、三池、阿古、伊ケ谷地区の住民が、北の大久保地区に避難しました。幸いにも、翌27日朝までに危惧された山腹割れ目噴火は発生しませんでしたが、午前9時頃、阿古西方約1kmの地点で、変色水域が確認されました。また、阿古から伊ケ谷にかけて、東西方向の地割が複数確認され、海岸の崖では数箇所のがけ崩れも確認されました。これらの現象と傾斜計やGPSの観測結果を総合すると、三宅島の西側にマグマが貫入したと思われました。三宅島の状況については、三宅島2000年噴火のページをご覧ください。 その後、三宅島と神津島の間の海域で群発地震が発生し、その位置は時間とともに西北西方向に移動していきました。そして、7月1日の午後4時すぎ、神津島付近でM6.4の最大の地震が発生し、神津島では震度6弱を観測しました。そのため、島内各地で多数の崩壊が発生、1名の方が亡くなる災害が発生しました。 アジア航測では、直後の7月3日に斜め写真撮影を実施、7月4日には1:5000の縮尺で、島内全域の垂直写真撮影を行いました。 このページでは、これらの写真を順次、緊急公開します。防災対策や崩壊メカニズムの研究に役立てていただければ幸いです。

[15] チャリンコ日記別冊・050912-14真鍋研合宿・神津島, , http://nabe.la.coocan.jp/hp2005/0509kozu/KOZUMAIN.HTM

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平成17(2005)年9月12日(月)〜14日(水)

真鍋研究室夏期合宿・久々の神津島

まだ工事中です。文章を徐々に追加充実中、少々お待ち下さい。

旅 の 記 録

竹芝客船ターミナルからジェットフォイルで出発。以前は夜行で行ったもの。夜行が辛くなってからは、早朝の列車で伊東まで行って朝の船に乗ったこともある。空港ができてからは調布から新中央航空で行くことが可能だが、それ以後は神津島には行っていない。朝に東京を出て午後にはハイキングが出来るとは、神津島も近くなったものだ。

ジェットフォイル(ガスタービンエンジン駆動のウォータージェットで推進するハイドロフォイル/水中翼船)は78�q/hの高速で航行する。東京湾内は一定以上の長さの船は徐行が義務付けられているが、この船は船体が短いから湾内も高速で、神津島の場合全行程の1/3ぐらいが東京湾内だから、この差は大きい。しかしシートベルト着用で3時間以上じっとしているのは苦痛。

[16] 962 砂糠崎=神津島村砂糠山(東京都)“石言葉は摩訶不思議”という黒曜石の帯が取り巻く岬を回る:でんでんむしの岬めぐり:So-netブログ, , http://dendenmushimushi.blog.so-net.ne.jp/2013-06-04

でんでんむしの岬めぐり

草木もなびく佐渡の岬めぐり中。自称『岬評論家』でんでんむしの日本全国津々浦々突端出っ張りコレクション。電車とバスときどきタクシーとレンタサイクルでってスゴくない? 年表もね。

[18] 道路レポート 神津島黒根の未成道, , http://yamaiga.com/road/kurone/main4.html

2013/4/2 7:54 【現在地】

今回のサブタイトル、「駆け抜けろ!! 神津島版の“アレ”」の、アレとは、もちろんアレである。

交通の難所のネーミングとしては、おそらく日本一有名なアレ。

まさか、この嵐の日に、離島でアレを披露する事になるとは思わなかったが、アレをしない限りは探索の目的を完遂出来なかったのでやむを得なかった。

その場面はもう少しで出現する。

つうか、もう見えてる。

返浜(かえすはま)ヘ向け、残り350m程度と推定される前進を開始する。

ああ、これはあかんやつや。

よくテレビのニュースなんかにも出てくる、例の、高波を見に行ったら波にさらわれるってヤツ。

こういう漁船がひとつも海に漕ぎ出しよらん日は、我々海の素人が海岸に近寄っちゃなんねぇ。

分かってる。

分かっているのに、止められない。止まらない!好奇心が盗んだピストバイクで走り出してる。

なぜなら、そこに道があるかもしれないからだ!!! (←あかんやつや)

で、問題の「紛らわしいもの」へとやって来た。

今回は別に勿体ぶりはしない。

だってこの穴、本当にただの岩の凹みに過ぎなかったんですもの!! (フニャ○ン)

…まあ、多分そうだろうとは思っていたよ。

そんな都合よく廃隧道や掘り掛の未成隧道が転がっていてたまるか。

ここへ来る途中も、例の落石防止ネット以来はなんら道路を感じさせるものを見ていないので、近付くにつれ期待感は冷静な落胆へと変わってきていた。

そしてそれを最終的に近付いて確認したが、凹みの内部の写真を撮り忘れるほど、どうでも良いささやかな凹みであった。

ま、いわゆる“誘い込み”ってやつですナ。

で、

軽い予定調和的落胆の後に待ち受けていたのが、

今回の本題となる、アレである。

廃隧道攻略がアレだと思った人にはゴメンナサイ。

しかし、島の廃道(つうか地形)を攻略するならば、やっぱりこういう場面が出てくるのは避けがたいのでしょう。

アレ = 親不知・子不知

すなわち、波が引き潮になった瞬間(波間)を狙って、波被りの岩場を駆け抜けて向こう側へ行くという、歴史的に有名な跋渉のスタイルである。

かつてこの国を旅する人には当然のように求められていた、タイミング系歩行術だ。

この屏風のように切り立った岩場の向こう側に、目指す返浜があるはずだ。

まあ、具体的に岩場がどのくらい続くの

[22] 神津にいくばぁ(神津島), , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-48-haidou.html

2013年4月1日。

ついにあの方が人知れず神津島に上陸した。

あの方とは、

サイト「山さ行かねが」管理人であり、

古き良き「交通」を体験するオブローダーの「よっきれん」さん。

廃道・廃線・未成道・隧道・林鉄・酷道などを愛し、探索し、

サイト上で公開し、オブローダーを仕事としている方である。

神津島にも存在するであろう、ヨッキれんさんの大好物を5ヶ所紹介します。

【神津島 廃道、廃線、廃墟マップ】

【廃線】

名組湾のトロッコ跡

神津島ではトロッコ跡とか言われている場所で、

大人気観光スポットである赤崎遊歩道のすぐ近く。

「神津にいくばぁ」でも「トロッコ跡」として紹介しています。

ヨッキれんさんのサイト「山さ行がねが」で探索レポートが、

神津島の石材積出軌道 序 前編 後編と紹介されている。

神戸山で採石した石材を山から索道で降ろし、トロッコに乗せ、船に乗せ搬出した。

【未成道】

大黒根トンネル〜返浜

道をどこまで作るのだろうか。

海岸線の道路は日に日に延びていく。

磯を埋めて、落石防止の策をして、岬があればトンネルを掘り、道を延ばしていく。

ヨッキれんさんのサイト「山さ行がねが」で探索レポートが、

神津島黒根の未成道 【1】 【2】【3】【最終回】と紹介されています。

ここでは、大黒根トンネル側をメインに紹介します。

【廃墟・廃屋・廃ホテル】

沢尻湾廃墟群

バブルの頃に建てられたが営業することはなかっと言われる廃ホテルや、

食堂や温泉の廃墟も付近に存在する。おもしろいところ。

廃ホテルと廃屋2軒を紹介します。

【廃道・廃墟】

砂糠山の養蚕場跡

第二次農業構造改善で、島の外れに作られた養蚕場。

政治、行政主導で作られたが、村からの道もなく、

わずかの間しか使用されず放棄された。

多幸湾から海岸沿いに磯を進み、

突き当りの谷を登りきると、ここにたどり着ける。

壮絶!その一言に尽きる。

2014年3月4日に発売

DVD「廃墟讃歌 廃道ビヨンド Obroad Beyond 」でも紹介される。

【廃道・廃展望台】

観音浦展望台

道路は伸び、観音浦の上あたりまでやってきた。

その先も作っていたが、平成12年の地震で崩壊し、ついに放棄したという。

今は、観音浦への山道の入り口付近で封鎖させられ

[23] 神津島 - 地質概説 -, , https://gbank.gsj.jp/volcano/Act_Vol/kozushima/page3_1_9.html

神津島周辺の地形

地質概説

地史(地質図を含む)

岩石

地質各説

神津島

氷長石化作用を受けたデイサイト溶岩

流紋岩単組成火山

秩父山火砕堆積物(Cb)

面房火山(Mb)

長浜火山(Nh)

観音浦火山(Kn)

ハシルマ火山(Hm)

砂糠山火山(Sn)

221m山火山(Nn及びCbの一部)

262m山火山(Nr及びCbの一部)

那智山火山(NC及びCbの一部)

松山鼻火山,大沢火山及び高処山火山

じょうご山火山(Jg及びCbの一部)

花立火山(Ht及びCbの一部)

穴の山火山(Ay及びCbの一部)

神戸山火山(Kb及びCbの一部)

天上山火山(Tj)

祇苗島

恩馳島

文献

2014/03/25

このデータ集は5万分の1地質図幅

「神津島地域の地質」(一色,1982)から抜粋,再構成したものである.

このデータ集を引用する場合,次のように引用すること.

一色直記 (1982) 神津島地域の地質.地域地質研究報告 (5万分の1 図幅),地質調査所,75 p.

砂糠山火山(Sn)

島の東海岸,観音浦から横瀬鼻・砂糠崎を通って,多幸湾東北東端の釜が下に至る海食崖や横瀬鼻の北西約0.3kmで海に至る大川の川底に露出する流紋岩溶岩を砂糠山火山と呼ぶことにする.この火山は Tsuya(1929)の第一期のε1-Lava,谷口(1977)の砂糠山溶岩にほぼ相当する.その分布範囲は南北約2km,東西約0.6kmである.溶岩の厚さは,例えば砂糠山稜西側では,海面上だけでも約150m,上部から下部への岩相変化,すなわち塊状軽石質-真珠岩質-黒曜石質-石質から(第14図),溶岩上半部だけしか露出していないと考えられるので,実際には200-300mはあるのではないかと推定される.溶岩流出に先立って放出されたと考えられる火砕物の存在は確認されていない.谷口 (1980)は彼の砂糠山溶岩(谷口,1977によれば黒雲母流紋岩)が「角閃石片を含むきわめてスフェルライ卜質な,厚さ60cm程度の岩脈によって貫入されている」と記載している.この岩脈の特徴は,「(a)きわめてスフェルライト質で,角閃石,斜長石,石英,ガラス,基盤岩及び砂糠山溶岩等の破片を多数有する.(b)顕著な“流動分化”(但しこの場合は,上記鉱物片や岩片が軸部に集中する)を示す.(c

[24] 神津にいくばぁ(神津島), , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-51-sanukayama-haidou.html

天空の廃道 砂糠山の養蚕場跡 冒険日2013.12.7 作成日2014.3.19

導入

なぜ、そこに道があるのか!?

誰もがそう思ってしまう道が神津島にあった。

インターネットでふらふらネットサーフィンをしていたら見つけてしまったその道。

国土交通省の「ウォッちず」という誰でも閲覧可能な地図サイトの神津島の地図をご覧下さい。

灰色の四角い記号は何か建物のある記号。

点線の記号は車道ではないが、徒歩道などがある印である。

つまり、地図から読み取れば、

ここには建物があり、道があるということになる。

あるということになるが、

あの有名なgoogleマップの航空写真でここを見てみると・・・

建物らしきものはあった!

しかし・・・道は。。。

というか、道の部分は崖ではないかと思われるのだが・・・

むむむ〜、

一体全体ここはどうなっているのだろうか!?

疑問は膨らむばかりである。

・・・よし、行ってみよう!

海岸線は磯伝いに、そこから山に向かっていくのは谷であると思われるから、なんとかいけるだろう!

というわけで、いざ、疑問を解決に参りましょう!

2013年12月6日(金) 横浜大桟橋

やってまいりました。 ここは、神奈川県、横浜大桟橋。

秋から春にかけての金、土曜日夜は、竹芝桟橋を出航した各島経由神津島行の大型客船は横浜を経由します。運賃も少し安くなり、家から近いので横浜から乗船します。

出航時間は23:30。

待ってました。今宵、お世話になる「かめりあ丸」です。

この船も2014年6月7日に東京竹芝桟橋を出航するのが最後。

神津島を翌6月8日に出航すると引退となります

残り少ないであろう、かめりあ丸をかみ締めながら島に向かいます。

いざ、乗船!

2013年12月7日(土) 船中泊、神津島到着

2等席で大広間の雑魚寝。

エンジンの音を感じながら船は南へと進んでいきます。

朝6時、夜が明ける前に伊豆大島へ到着。

多くのお客さんが下船していきます。

ダイヤモンド富士ならぬ、ダイヤモンド利島を見れるのも船旅の醍醐味。

見えてきました。我が故郷神津島。

長年住み、長年遊んでいましたが、まだまだ知らない場所がたくさんある大冒険島だ。

今回は村落の港「前浜港」とは反対側の「多幸湾」に入港。

つまり今回の

[25] 道路レポート 旧三原山ドライブウェイ, , http://yamaiga.com/road/miharayama/main.html

“島さ行がねが”シリーズの次なる舞台は、 大島 へ。

私に島の楽しさを教えるためにあつらえられたかのような絶妙さで、東京の沖合に浮かぶ個性豊かな多数の島々からなる伊豆諸島。

このうち大島、またの名を伊豆大島は、同諸島中最大の面積と最大の人口を有する本土に最も近い島である。伊豆半島との最短距離は22kmほどで、東京港から約100kmの南方海上に浮かぶ。

島には観光名所が豊富にあり、海路・空路とも便数は潤沢であるから、同諸島中では圧倒的に訪れやすい。

長径15km、短径9kmの南北に細長い楕円形の島は面積91㎢で、中央に聳える複式成層火山の三原山(標高758m)が営々と形成した、我が国の中でも活発な活動を続ける火山島のひとつである。

直近では昭和61(1986)年11月に大規模な噴火が発生し、当時の全島民約1万人が1ヶ月にわたって島外避難を余儀なくされた出来事は、ブラウン管に写し出された鮮明な噴火の映像と共に記憶している方は多いと思う。

伊豆半島の東岸、東伊豆町稲取港から遠望した、大島の姿。

島のほぼ全体が、複式成層火山である三原山により形成された、火山島である。

全体的になだらかなシルエットは、非常に流動性が高い玄武岩質の溶岩による。

ハワイのキラウエア火山、イタリアのストロンボリー火山と共に、世界三大流動性火山に数えられている。

そんな大島にあったのが、表題の「 三原山ドライブウェイ 」である。

この道路は、伊豆諸島中の歴史の中で唯一の有料道路だ。

それも、「ドライブウェイ」という名のイメージ通り、自動車専用の道路だった。

道路運送法に定められた「一般自動車道」という種類の道であったため、自動的に 自動車以外(原付も、自転車も、もちろん歩行者も)の通行は許されなかった。

「一般自動車道」は一種の私道であり、大島登山自動車道株式会社という民間企業が一切の管理を行っていた。

右図は、島に有料道路が有った当時(昭和57(1982)年)の道路地図だ。

有料道路を意味する青色の線が、三原山の中腹から山頂にかけて伸びている。

三原山ドライブウェイという道路名や、麓側の入口近くにある料金所の記号、そして普通車800円大型車3200円という通行料金も見て取れる。

また、巻末の有料道路一覧表には、自動二輪車の通行料金が600円であったことや、 全長が4.1kmで

[26] 神津にいくばぁ, , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-24-torokko.html

大人気スポット、赤碕遊歩道のすぐ近く。

見上げて見える神戸山(かんべやま)から切り出した石を、

索道でここまで降ろし、トロッコに載せ、船に載せ、本土に運んだそうな。

以前は上を歩いたりして遊んだが、今は風化が進み特に海に近い方は危険な状態となっている。

※ 「山さ行がねが」(管理人・ヨッキれんさん)という廃道、廃線などをを探索しレポートするホームページで、

このトロッコ跡を「神津島の積材積出軌道」という題でより詳細に紹介されますので、

そちらも是非ご覧下さい!

→神津島の石材積出軌道 【序】 【前編】 【後編】

「名組湾とトロッコの跡」

正面の岩肌の高い山を神戸山と呼び、山全体が抗火石(こうがせき)で形成されている。

昭和十七年頃、建築材料等に利用するため、当時、島外資本による日産化学工業株式会社により、この名組湾まで索道を張り、採石された石が降ろされた。

そして、更にこの湾の先にある、ボンブと呼ばれる所までトロッコに載せて運び、運搬船に荷積みされた。

その後、時代の変遷により石の需要も減り、昭和三十年代に積み出しは閉鎖された。当時、最盛期には、この附近に仮屋もあって、多くの人が働いていた。現在が神戸山まで車道が通じて、平成十二年の春まで採石が行われていた。採石された石は今まで住宅や道路の石垣など貴重な天然石として島内で消費されてきた。

昭和六十年代初めに、ようやくこの名組湾にも車道が通じ便利になり、レクリエーション施設・赤崎の木道遊歩道

・ダイビングポイントなども整備され、多くの人が訪れるようになった。

今では残されているトロッコ橋や、附近に散在している採石・トロッコの車軸などが当時を思い出す名残となっている。又、トロッコ橋の沖合いにかかる夕焼けと神戸山は、四季を通じて印象的な情景を見せてくれる。

平成十五年八月

神津島観光商工課

[27] 神津にいくばぁ(神津島), , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-51-sanukayama-haidou-1-5.html

天空の廃道 砂糠山の養蚕場跡 冒険日2013.12.7 作成日2014.3.20

導入>STEP1>STEP1.5

いざ天空の廃道へ! 〜STEP1.5〜 谷を登るその前に

さぁ、行くべぇ行くべぇ。

不慣れな磯歩きで変に疲れた足を休めること無く谷登りを始めよ・・・

ん?

んん〜ん?

振り向いてみるとそこには・・・

何かあるぞー!?

なんか、かっこいいなぁ。

ほとんど人の訪れることの無い、崩壊地の向こう側に佇む鉄塔だ。

荒波にもまれてるはずなのに、錆落ちること無くがっちりとした立ち振る舞い。

いまにも動き出しそうだ。

うおーー!

そんな、物を見つけたら行って見るしかない!

谷を登る前に寄り道です。

立ちはだかるのはこの大岩。

回り込むにも波がすぐまで来ている。

登って越えるしかない。

どっこらせ。

どっこいしょと。

苦労しつつも大岩を越えました。

そして、なんと!

鉄塔を目指す我々の目の前にもうひとつプレゼントがありました。

穴。

・・・穴だぁーー!

穴があったら・・・

入ります。もちろん。

いい眺め。

穴、ご馳走様でした。

鉄塔の前においしく穴を頂きました。

寄り道中の寄り穴を終えて、鉄塔を目指す寄り道に戻ります。

はぁ、

一難去ってまた一難。

また、こんな岩が待ち構えてます。

鉄塔に行くには、岩or海。もちろん岩越え。

この岩を越えます。

よっこら・・・・せっ!?

また・・・

穴だーーー!

お、おいしく頂きます(合掌)。

な、なんて、美しい曲線なんだ。

そして、岩を一枚隔てただけでなんで先ほどの穴と雰囲気が全然違うんだろう。

こちらの穴はまるでお姫様。

これになぞって、先ほどの穴にを例えるとしたら、わんぱく坊主であろう。

きれいな穴でした。 もう、お腹いっぱ・・・、

いやいや、天空の廃道へ向かっている寄り道中のさらに寄り穴ですから、

これらはまだまだ前菜段階ですよ。

さてさて、仕切りなおして鉄塔へ向かいます。

二難去ってまた一難

・・・越えなければいけない岩。その3登場。

ロープ付き。

さぁ、これを昇れば・・・

いよいよ・・・ヨイショ

鉄塔に・・・ヨイショ

てっとぅ・・・ヨイs

あ・・・

鉄塔だぁーーー! 目の前に鉄塔だぁ!

鉄塔に向かって残り少

[28] 神津にいくばぁ(神津島), , http://thecometworld.web.fc2.com/kozu-51-sanukayama-haidou-2.html

天空の廃道 砂糠山の養蚕場跡 冒険日2013.12.7

導入>STEP1>STEP1.5>STEP2

いざ天空の廃道へ! 〜STEP2〜 谷を・・・登る

寄り道でお腹いっぱい・・・。

というわけにはいかないのです!。

少し前までなら、ここまで来て、満足して帰路に着いていたであろうが、

今日は違う。違うのだ!

行かなければならない。この谷を。

登らければならない。この道を・・・。

道・・・?

うーん・・・

・・・ない!

道はない!

あるのは、索道で使用したであろうワイヤーロープと、

小さい砂防堰堤(ダム)だけだ。

でも、このワイヤーロープってやっぱり何か興奮するの。

あの鉄塔さんと繋がっていたんだな〜と考えると、しみじみ。

あぁん、この堰堤も素敵だわぁ。

まぁ、とにかく、登るべ。

登るべ〜・・・よっこらせ・・・

よっこらせ・・・

・・・うぉー!

砂防堰堤、崩れ放題!

いいねぇー

こういう所で興奮しつつ、登ります。

少し登るだけでいい眺め。

谷の始まりは、岩がゴロゴロ。

砂防堰堤やらワイヤーロープなどあり、ごちゃごちゃしていましたが・・・

ここは日本、神津島。

少し登れば外国のような風景が・・・!?

ガレ場のごちゃごちゃがなくなり、藪が現れました。

そんなに深くはないものの、突破は出来ないので、左岸側から巻くことに。

巻くといっても、このあたりは足場が安定していなく登りにくい・・・。

おっ!

ふと、岩肌を見てみると、

キラキラ光る黒曜石!

なんと、砂糠山は黒曜石の地層が見れるのです!

この辺りで黒っぽい石があれば、それは黒曜石。

神津島の黒曜石は縄文時代には本土に渡って、矢じりなどで使われていたという歴史があります。

こんなところでもふとした、歴史を感じられる、冒険になりますね。。

しかし、砂糠山の黒曜石は質が悪いそいうです。

ちなみに、船から見れた黒曜石の層。

さてさて、登りに戻りましょう。

谷の裾を歩きます。

谷の狭くなっている所を抜けると、傾斜は緩やかに。

さらに、少し登ると〜、

すごぉー!

視界が開けて、ちょっとした平地、くぼ地の登場。

なんなんだここは!?

谷、渓谷、カール、なんていえばいいのだろうか?

しかし、すごい。

砂浜からガレ場になり、

砂防堰

[34] 調布飛行場 (東京都調布市) - 東京DEEP案内, , http://tokyodeep.info/chofu-airport/

2015年7月26日、東京都調布市の調布飛行場から離陸した小型飛行機が富士見町一丁目の住宅地に墜落、飛行機の乗員と巻き添えを食らった民家の住民を含めて3人が死亡、5人が負傷する事故が発生。それ以来連日マスコミ報道が続いていて、事故直後の報道ヘリの上空からの映像で焼け焦げた被害者の遺体がそのまま映っていた件やら何やらでネット上でも騒ぎになっている訳だが、果たして現場はどんな状況になっているか気になったので調布飛行場及び事故現場周辺の様子を見てきた。 墜落事故の渦中にある調布飛行場があるのは、調布市の西北側一帯。厳密には三鷹市と府中市にも跨っていて、最寄りに鉄道駅がないので、京王線調布駅もしくはJR中央線武蔵境駅からバスかタクシーで来る事になる。飛行場の周辺に広がる「武蔵野の森公園」北側の丘の上から滑走路が見渡せる。 東京近郊で空港と聞くとどうしても羽田空港や成田空港をイメージしがちだが、この調布飛行場は東京都が運営する小型機専用のコミューター空港である。輸送需要が限られる伊豆諸島行きの定期便が発着していて、伊豆大島・新島・神津島・三宅島の四島に定期便が就航している他、個人や会社所有の自家用機24機が運航されている。今回墜落事故を起こしたのはこの自家用機のうちの1機である。 調布飛行場の歴史は戦時中にまで遡り、昭和13(1938)年に計画され、3年後の昭和16(1941)年4月30日に竣工。当初は「東京調布飛行場」の名称で、専ら陸軍の戦闘機の発着に使われていた。飛行場ターミナル手前の道すがらに空港の竣工当時に建造され当初の正面入口に置かれたごつい石造りの門柱が未だに残っている。 調布飛行場という場所が第二次大戦当時に日本本土の貴重な防空拠点だった事を示す生き証人のような存在があり、それが武蔵野の森公園北側の一角に二ヶ所残されている掩体壕。敵機である米軍のB-29を迎え撃つ為に「飛行第244戦隊」の下で首都圏に配備されていた三式戦闘機「飛燕」を格納するために作られたもの。大沢一号掩体壕は開口部が塞がれて、戦闘機のイラストが描かれている上にフェンスで仕切られて立ち入り不能な状態。 同じく大沢二号掩体壕。戦時中はこのような掩体壕が約60基造られたと案内板には書かれている。撃墜されたB-29の機体が調布市街地に落ちたり、当然ながら米軍による機銃掃射や焼夷弾などによる攻撃対象にな

[35] 石野遺跡 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%9F%B3%E9%87%8E%E9%81%BA%E8%B7%A1

北硫黄島は東京の南約1000キロに広がる 小笠原諸島 に属する、三島で構成される 火山列島 の一番北側にある島である。西方には 沖縄本島 などから構成される 南西諸島 があり、南方には マリアナ諸島 などが属する ミクロネシア がある。一方、東側は遠く ハワイ諸島 の北西にある ミッドウェー島 まで島らしい島はない。小笠原諸島は他の陸地から離れた場所に位置しており、これまで大陸や大きな島と地続きとなったことがない 海洋島 に分類されるが、小笠原諸島の有史以前の文化は、北の日本列島、西の沖縄諸島、南のミクロネシアのいずれかから伝えられたものと考えられている [1] 。

北硫黄島は火山活動によって形成された火山島で、南北約3.5キロ、東西約2キロ、面積は5.57平方キロメートルの南北に長い楕円形をしている。標高792メートルの榊ヶ峰を筆頭に島の中心部の南北に山が並び、海岸の多くは急峻な 海食崖 であり、島全体としても急峻な地形が多く平坦な場所は少ない。その中で島の中心部から流れ出す沢が海に注ぐ場所には小規模ながら 扇状地 が見られ、緩斜面を形成している。戦前に集落があった島東部の石野村や北西部の西村は、そのような扇状地部分に形成された [2] 。

北硫黄島周辺の海では、北東部と西部を除き幅約100メートル程度の 裾礁 があり、特に石野村と西村付近の沿岸部は裾礁が発達している。中でも旧石野村沿岸の裾礁には切れ目が存在し、大きな入江がない外洋の島であるため接岸が困難である北硫黄島の中では、波を遮る効果がある裾礁に囲まれ、しかも小船が通れる切れ目がある旧石野村は最も接岸が容易な場所であった。石野遺跡は接岸が最も容易で扇状地の緩斜面がある、北硫黄島の中では最も居住に適していると考えられる石野村付近にある [3] 。

島の発見と開発の開始 [ 編集 ]

1543年 、 スペイン 船サン・ファン号は3つの島から構成される火山列島を発見した。この時点で火山列島は無人島であったとされ、そのため石野遺跡は16世紀以前のものであると考えられている [4] 。 16世紀 後半以降、火山列島はフィリピンからメキシコへ向かうスペインの ガレオン船 航路に近かったため、北硫黄島の目撃情報も散見される [5] 。

1876年 ( 明治 9年)、日本政府は小笠原諸島の領有を諸外国に通知し認められた [

[36] 領海の外縁を根拠付ける離島の地図及び海図に記載する名称の決定について, , http://www.kantei.go.jp/jp/singi/kaiyou/ritouhoushin/meisyou140801.html

領海の外縁を根拠付ける離島の地図及び海図に記載する名称の決定について

○ 概要

政府においては、「海洋管理のための離島の保全・管理のあり方に関する基本方針」(下部参照)に基づき、我が国の領海や排他的経済水域(EEZ)の外縁を根拠付ける離島について、保全・管理を適切に行うとともに、国民の理解に資するため、地図及び海図に名称記載のない離島への名称付与作業を進めてきました。

EEZの外縁を根拠付ける離島のうち、49の名称記載のなかった離島については、平成23年度までに名称を決定しています。

これに引き続き、今般、領海の外縁を根拠付ける離島についても、同様の作業を進め、158の名称記載のなかった離島について、地図及び海図に記載する名称を決定しました。

「海洋管理のための離島の保全・管理のあり方に関する基本方針」(抄)

(平成21年12月1日総合海洋政策本部決定)

3 離島の保全・管理に関する施策のあり方

(1)海洋に関する我が国の管轄権の根拠となる離島の安定的な保全・管理に関する施策

ア 我が国の排他的経済水域等の外縁を根拠付ける離島

(離島の名称の適切な管理)

排他的経済水域の外縁を根拠付ける離島について、保全・管理を適切に行うとともに、国民の理解に資するため、それら離島に付されている名称を確認し、名称が不明確な場合には関係機関協議の上、名称を決定し付す。あわせて地図・海図等に明示し、統一した名称の活用を図る。

[37] 熊本空港 - Wikipedia, , https://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%86%8A%E6%9C%AC%E7%A9%BA%E6%B8%AF

熊本空港 (くまもとくうこう、 英 : Kumamoto Airport )は、 熊本県 上益城郡 益城町 にある 空港 。国際航空輸送網又は国内航空輸送網の拠点となる空港として 空港法 第4条1項5号に該当する空港として政令で定める空港 [1] に区分されている。愛称は 阿蘇くまもと空港 [注 1] 。

概要 [ 編集 ]

熊本市 から北東へ約20kmの 阿蘇山 の山麓にある。 空港ビル は益城町にあるものの、 滑走路 のほとんどは 菊池郡 菊陽町 にある。

空港周辺が霧の多い場所であるため、 ILS カテゴリーIIIb(CATIII-b)で運用しており、(規定以下の横風・機体側の装備・操縦士の保持資格が整えば)自動着陸が可能である。

年間利用客数は、国内3,009,611人、国際45,826人(2013年度) [3] 。 福岡空港 、 鹿児島空港 に次ぐ九州3位となっている。

国の一般会計からの繰り入れを考慮しない営業損益は、2011年度より黒字に転じた [4] [5] 。

陸上自衛隊 の 高遊原分屯地 を併設し、また民間機と 滑走路 を共用しているため、自衛隊機の発着も見ることができる( CH-47J(A) 、 OH-6D 、 UH-1 などの ヘリコプター が多い)。

空港ラウンジ は以下のとおりである。

サクララウンジ - JAL 上級会員専用ラウンジ

ANAラウンジ - ANA 上級会員専用ラウンジ

ASO - クレジットカード ・有料ラウンジ

歴史 [ 編集 ]

1960年 4月1日 - 熊本飛行場(熊本市健軍町)供用開始(滑走路長1,200m)。 北緯32度48分30秒 東経130度45分58秒  /  北緯32.808432度 東経130.766240度

1971年 4月1日 - 現在地に移転。熊本空港供用開始(滑走路長2,500m)。

1972年 12月 - 全日空熊本乗員訓練所開所。

1977年 - 滑走路長3,000mに延伸、供用開始。

1983年 4月1日 - 国際線ターミナル供用開始。

1995年 9月 - カテゴリーIIIa運用開始( 釧路空港 とともに日本初)。

1999年 8月1日 - くまもと未来国体 にあわせて国内線ターミナル増築オープン。

1999年 9月30日 - 全日空熊本乗員訓練所閉所。

2006年 4月13日 -

[38] 「五島列島」旅 その27(野崎島) 野首集落のキリシタン墓地跡 | ISLAND TRIP(アイランドトリップ), , http://www.islandtrip.jp/2016/04/220801.html

桜が散ったら急に気温が高くなってきましね。どうも、いづやん( @izuyan )です。

五島列島旅の第二十七回をお送りします。無人島である野崎島、そこに今も建ち続ける「旧野首教会」を見るという旅の大きな目標は達成されたわけですが、まだ島を離れるまでは時間があります。

無人島にダム?

「旧野首教会」の撮影と見学を済ませて、さらに島の西側に向かいます。斜面を登って道を進むと、海が見えてきたと思いました。が、最初に見えてくるのは大きな池です。これ、実はれっきとした「ダム」なのです。

無人島にダム・・・? まあそう思いますよね。僕も思いました。

しかもこのダム、島が無人になってから作られたものだそうです。それって無駄では?と思いたいところですが、このダムの水は海底の送水管を通ってお隣の有人島、小値賀島の農業かんがい用水として使われているそうです。

喫茶タートルのトムさんにちらっとお聞きした、島に来る移住者は農業従事者が多い、ということとも無関係ではないでしょう。水資源確保はどの島でも重要な課題だからです。

それにしても、やはり知らないと島でいきなりダムが現れたら面食らいます。ダムのすぐ向こうには海が見えるのもまた不思議です。

海側の斜面には土砂流出を防ぐためか、ネットのようなものが敷かれていました。

ダムの横を回って、下り坂を行くと「野首港」にたどり着きます。船が着いた野崎港より新しい係接岸のようです。後で聞けばチャーター船が時おり泊まることもあるそうです。休憩所もあったりして、ここだけ見ると無人島には見えません。

「こんなところまでキュウシュウジカが!」と思ったら、ただのモニュメントでした。

日の光が海の底に届いて、目がさめるような景色が広がっています。夏場だったら確実に泳ぎたくなる海です。

海を前に残されたキリシタン墓地跡

その場で国土地理院の地図を見ると、この野首港周辺にもかつては建物があったようですが、おそらくダム建設の時に撤去されたのでしょう。往時のことを伝えるものは何もないように思えました。

と、海から山の方に顔を向けると、海岸そばの灌木の中に石の十字架が立っているのが目に入りました。

「キリシタンの墓だ・・・」

思わずつぶやいてしまいます。

よくよく見ると、その周りにも灌木に覆い尽くされかけた墓石が見え隠れしています。浮足立った足取りで近づこうとしますが、灌木

[39] 道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/tpr236_seihou/main.html

ついに行ったった、 青ヶ島 あおがしま !!

青ヶ島は、東京都心から南へ遙か360km、黒潮の絶海に浮かぶ、伊豆諸島における最南の有人島である。

緯度的にも長崎市より南であり、私の訪問地における南極を圧倒的に更新する存在。

私は初めての島旅を同じ伊豆諸島の新島と神津島に得た2013年当時から、この地の訪問を夢見ていた。

これまでに行った全ての島旅は、ある意味において、この離島ビギナー向けではない島へ挑むためのトレーニングであった。そんな大仰な気構えさえ持つほどに、青ヶ島は私にとって“高嶺の花”だと思える存在だった。

それは旅人として、あるいは、オブローダーとしてもである。

このわずか約6km 2 (河口湖と同程度)、外周9kmの小さな島には、土木を愛するものを惹きつける魅力がある。

私はそのことを、この島を体験した幸運な数人の情報提供者によって、ここ10年ほどの間に何度か唆された。

そのために、私はいつか自転車と一緒にこの島へ渡ってみたいと思うようになった。

私が初めて行きたいと思った島は、実はこの青ヶ島である。

多くの特徴に彩られたこの島の一般的なプロフィールについては、既に多数の情報が巷にあるから、ここでは簡単に箇条書きで触れるに留める。詳しく知りたい方は、別途この島の名前を検索すると良い。でも、敢えて知らないまま読み進めるのも一興かもしれない。

《 青ヶ島についての “ごく一般的な” 情報 》

都心から南へ約360km離れた太平洋上に浮かぶ、面積約6km 2 、外周約9kmの小さな島。

最寄りの島は八丈島だが、約64km離れている、文字通りの絶海の孤島。伊豆諸島では最南端の有人島。

東京都青ヶ島村を一島のみで構成しており、人口は約170人。同村は日本で最も人口の少ない自治体。

世界的にも珍しい二重のカルデラを持つ小型の火山島で、固有の生物や植物もある。

江戸時代の天明5(1785)年(今から230年ほど前)に最後の大噴火があり、多くの住民が焼死。生き残った人々は八丈島に避難し、以後数十年無人となった。

島には旅客船が発着する港と、ヘリポートがあり、海路と空路で訪問が可能。本土からの直通便はなく、船もヘリも八丈島との往復である。

有人島としては、日本でも有数の訪問が難しい島として知られる。(後述)

さて、私にとって青ヶ島訪問の最初にして最大の関門と

[40] 道路レポート 東京都道236号青ヶ島循環線 青宝トンネル旧道, , http://yamaiga.com/road/tpr236_seihou/main3.html

昭和60(1985)年竣功! 意外に新しかった!

昭和51年の地形図 には描かれていなかったので、それ以降だろうとは思っていたが、外見から受ける印象よりも新しかった。

都道府県道に1車線(巾4m)のトンネルが新たに建設されたケースとしては、かなりの後発なのではなかろうか。

それに、狭いくせに長さは500mもある。3km四方の小さな島のトンネルとしては、かなりの存在感である。

この長さで外輪山を一気に貫いてみせるらしい。

しかしそれにしても、今回私が挑もうとしている“旧道”は、昭和60年まで現役だったということなのだろうか?

それにしては、 【外見】 が風化しすぎているような気がするのだが……(不審)。

普段あまり注目するところではないが、銘板の一番下にある施工者の項目にある「五洋建設」という社名がなんとなく印象に残った。

それで帰宅後に検索してみたところ、 五洋建設 ( →ウィキペディア )は、埋め立てや海底トンネルのような海洋土木分野における最大手であるらしい。

青ヶ島という本土から遠く離れた孤島という特殊環境下でのトンネル工事に、海洋土木の豊富な経験が投入されたのであろうか。

グネェ〜!! っとしてる!

地理院地図にはまっすぐなトンネルとして描かれていたが、実際はそうではなかった。

三宝港側の坑口から内部を覗くと、いきなり相当の曲率をもって、 左方向へカーブ していることが見て取れた。

狭いくせに、トンネル内はいきなりのブラインドカーブかよぉ……。

しかも、トンネル内の“異変”がそれだけじゃないことは、もはや明々白々……、

このトンネルは――

激坂だ〜!!

そのうえ、 素掘にコンクリート吹き付けという、懐かしさを感じる覆工! (←昭和60年竣功だぞ…)

ナトリウムライトが赤く発光するどぎつい単色の世界に繰り広げられる、10%はあろうかというトンネル内急坂のインパクトは、絶大だ!

事実、地図読みでは南口の海抜が30mで、500mのトンネルを抜け出た北口の海抜が90mだから、比高60mに対する 計算上の勾配は約 12 %にも達している! (この数字は、勾配トンネルとして有名な旧 釜トンネル (最大勾配15%)には及ばないが、新釜トンネルの設計値である10.9%よりきつい)

……そんな急坂の向こうに、小さな日光が見えた。

言うまでもなく、あれが出口

[43] 道路レポート 青ヶ島大千代港攻略作戦, , http://yamaiga.com/road/oochiyo/main6.html

8:10 《現在地》

断念 します。

「この“おろしがね”のような岩場を直接下るか?!」なんてのは、あまりにも悔しいから言ってみただけだ。馬鹿げてる。

右の草付きにしても、少し下れば同じような岩場になっているはず。無理。

ロープでもあれば下りられるかも知れないが、それでも相当に長いロープが必要になるし、そもそも準備のないことを言っても仕方ない。

この「撤退」が、全てに手を尽くした末の結論かと問われれば、悔しいけれど答えは「NO」だ。

周辺の藪を徹底的に掻き分け、じっくり地形を精査すれば、どこかに安全に下りうる一点はあるのかもしれない。その余地はある。

だが、いまここにいるのは私一人だけで、私の手には余るのだ。

激藪のために1m先すら見えないこの広い急斜面で地形を精査するなんて、どれだけ大変か分かるだろう! いまの私には無理だ!

この地点からのさらなる前進と、前進を前提とした試行錯誤は、いまの体力状況にあっては大千代港への死の片道旅行になりかねないと感じた。

だから、悔しいけれど、撤退することにした。

ここが私の限界だったということ。

道なき斜面のこの一点に立って、果てなく広がる海原に向き合っていると、自分自身が島にでもなったような気持ちがした。孤立無援の無人島に。

だが、かつてここにも人の営みは及んでいたのだ。

真下には視界の中の唯一の人工物である大千代港が、文句なくいままでで一番近くに見えた。

しかも、遮るものが何もないために、全貌をスッキリと見ることができた。

埠頭までの残り高低差は100mくらいだが、もっともっと近いように見えるのは、ほぼ真下に見下ろす俯角の大きさゆえか、辿り着きたいと夢見る私の意識ゆえなのか。

それだけではあるまい。海上に突出した埠頭は海抜0m近いが、陸側にそれよりも高い海抜を持ったベースとなる部分があった。いままでは常に斜面に遮られて見えなかった部分だ。

そのベースの部分は、海抜20mくらいはあるように見える。

だから実質、現在地から港までの比高は80mないくらいだろう。

……80m。

惜しいところまでは来てるんだけどなぁ……、間違いなく。

この目に焼き付けろ!

これが、大千代港の接近した俯瞰だ。

しかも空撮じゃない、青ヶ島に立って撮ってる。

東京都港湾局のサイトに掲載されていた 【写真】 も空撮だ

赤崎トンネル

赤崎トンネル

大黒根トンネル

大黒根トンネル

天上山

天上山

砂糠山

砂糠山

履歴

[51] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054527954086

メモ