宮塚山

宮塚山

[1] 新島宮塚山 (みやつかやま)

34.3959258173916 139.270205497742

Webページ

[2] 道路レポート 東京都道211号若郷新島港線, , http://yamaiga.com/road/tpr211/main3.html

2013/3/31 12:06 【現在地】

接岸の順番待ちが発生したためにダイヤより5分ばかり遅れはしたが、私は無事に東京都新島村の人となった。

船からは私を含めて数人が降り、そしてやはり数人が新たに乗り込んだ。

他に貨物の積み卸しをする港湾関係者数名と、パトカーで乗り付けた警察官が一人、この埠頭にはいた。だがその全てを合せても、大型客船にサイズを合せられた埠頭の人影は、たいへんにまばらな印象だった。

私は自ら持ち込んだ大量の荷物を両手に抱えて埠頭に降り立つと、通行の邪魔にならない所まで最小限歩いて、すぐに全てを地面に放した。

1歩でも早く自転車を組み立てて乗りたい! 60リットルリュック+自転車を持ち歩くのは、さすがに重い。

幸いにして、船は同じ輪行の舞台でも鉄道や飛行機に較べて大らかで、陸に降りたその場で自転車を組み立てても文句を言われないのがいい。

駅や飛行場の構内でそれをやったら大顰蹙だろう。

輪行はお手の物だが、今回は慣れない船と言うことでいつも以上に嵩張らないように気を遣い、自転車のハンドルやペダルも工具を使って分解していたので、ここで再度組み立てるのに少し手間取ってしまった。

そうこうしているうちに20分が経過し、あぜりあ丸は短い汽笛を残して式根島へ旅立っていった。

警官も出航と共にいなくなり、最後は私がたった一人、広大な埠頭に取り残された形となった。

自転車の組み立てがやっと完了したのは、12時25分だった。

今回の新島滞在のリミットは、明朝8:40の東海汽船かめりあ丸の出航時刻までである。

このうち探索が出来る時間は、今日これから日没までの約6時間と、明朝の3時間を合せた9時間程度しかない。

新島の大きさは22.8km2と、田沢湖(秋田県)より少し小さい程度しかないが(これでも伊豆諸島では大島、八丈島、三宅島に次いで大きい)、山がちな地形なので、とてもこの9時間で全ての道を巡るなどと言うことは不可能であるから、優先順位を付けて辿らねばならない。

では何を優先するかというと、ここは何と言っても「都道221号若郷新島港線」を一通り走ってみたいと思う。

それが済んでから、他の道にも目を向けてみよう。

12:26 【現在地】

ようやく準備が整ったので、愛車に跨り埠頭を後にする。

しかし背負った60リットルのリュックがパンパンに膨

[13] 新島 - Wikipedia, , http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%96%B0%E5%B3%B6

気候は年間を通じてやや温暖。常夏と言うことは無いが、東京よりは暖かく、降雪することはめったに無い。また、外洋に面しているため風が強い日が多く、特に冬は「西ん風」と呼ばれる強い西風が毎日のように吹く。

東京からわずか160km南に位置するものの、空気は非常に清浄で、星空や海の美しさは、首都圏とは比べ物にならない。

歴史・文化[編集]

縄文時代から人が暮らしていた可能性があるとされており、出土品も存在する。また、現在でも島特有の方言や題目が残っていたり、冠婚葬祭時には、都心部ではすでに消滅しているような伝統的な儀式を今でも行うなど、旧来の文化が島民の生活に色濃く残っている。

江戸時代から1871年まで、政治犯を中心とした流人が多く流されてきており、島で再度重い罪を犯した者は、絞首刑とされた。総勢で1333人が流されたが、島人は彼らに暖かく接したという伝記が残されている。今でも島内の墓地の中には一段低い場所に流人墓地が存在するが、新島特有の白砂が敷き詰められていて、サイコロ型や酒樽型の墓石などもあり、村人が日々花をたむけるため温かい雰囲気がある。

また流人の刑場であった向畑刑場跡へと続く道には柳が生えており、刑が執行される直前、罪人が現世を懐かしんで振り返った場所であったことから「見返り柳」と呼び、今でも供養の花や酒が供えられている。

長い歴史を裏付けるように、島には今でも数多くの物語・民話が残っている。「山ん婆」や「よべーむん(呼ぶ者、の意)」、海坊主、魔物(まむん)、人魚など妖怪の類の話なども多くあるが、中でも海難法師の話は漫画『地獄先生ぬ〜べ〜』などにも引用されるなど、非常に有名である。海難法師は伊豆諸島の島ごとに少しストーリーが異なっており、リンク先の話とは異なるが、ここでは新島の例の概要を紹介する。

かつて伊豆諸島を視察して回っていた悪代官がいた。こんな人間が各島を回っては迷惑がかかり気の毒だ、と考えた伊豆大島は泉津の若者たちが、船の栓を抜いて沈没させ、悪代官ともども溺死した。この亡霊が村を徘徊し、見た者には不幸が訪れると言う。溺死した代官の亡霊を見た物は発狂するととも失明するとも言われており、実際にそうなった人がいる、と言ういくつもの逸話が村にある。

今でもその話を信じる習慣は残っていて、1月24日は「かんなんぼーし」と呼び、漁業を控え、夜は外出せず静かに過ご

[14] 道路レポート 鳥ヶ島の廃道, , http://yamaiga.com/road/torisima/main.html

あ る 朝、 私 は 島 で 目 覚 め た。

まだ空には月が煌々と輝いていて、波打つ浜辺を照らしていた。

しかし私は強く覚醒しており、ペットボトルの水で溶いた冷たいカフェオレを1杯すするように呑み込むと、すぐさま私が寝転がっていた、その砂の上の柔らかな寝床を片付けた。

旁らには、見覚えのある自転車が私を待っていた。

島にいるのに、本土にいるときと同じように私を待っていてくれるこいつが愛おしい。

よし、決めた。

この島に居られる時間は、あと数時間しかないが、この自転車で島が全貌出来る場所へ登ってみよう。 いわゆる、思い出作りというやつだ。

目覚めて2時間後、時刻は午前6時半過ぎ。

私は島の南西部にある大きな採石場の跡に立っていた。

そこは海から直にそそり立つ斜面の上にあって、西、北、南の眺めを遮るものは何もなかった。

左の写真は、南の方角を撮影している。

ここはどこでしょうか?

……茶番はもう良いって?

失礼しました、ここは、【現在地(マピオン)】です。

ええ、 私にとっての初の離島として、未だ鮮烈な記憶を残す、あの新島ですとも!

東京都新島村ですとも!

写真の島影から分かる人は現在地が分かったでしょうが、手前の島は式根島、奥の島は神津島である。

そしてこの場所というのは、十数年くらい前までは沢山採掘されていて、島の財源を賄う重要な商品であった抗火(こうが)石の採掘場跡である。

島内には何か所も採石場があったが、中でも一番規模が大きかった、島の南西部の採石場だ。

この場所も面白いのだが(何がって、広大な露天掘りの採石場跡が迷路みたいで)、残念ながら今回の新島での時間はもう僅かだ。

私はNOS(ネクスト・オブローディング・ステージ)である神津島へと誘う、今日たった1便だけの定期船が、そろそろ港へ向かって近付いているはずだ。

かつて大型ダンプやブルドーザーが砂煙の中走り回っていただろう採石場の道を、港がある島の中央低地へ向けて下って行く。進行方向は、北だ。

もちろん、私の股の間には自転車が収まっている。とても股間を痛めそうな、ガレッガレの下り坂であり、調子に乗って転倒くらいならばまだしも、パンクさせて時間のロスになったら大変だ。慎重かつ、速やかに。

今は北へ向かっているので、先ほどまでとは見える遠景が全て違う。

視界の目一杯遠くに、まるで富士山のよう

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[15] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054527903571

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