(佐渡一周編その2からの続き)
相川から海沿いを北へ進む陸路(当時の名称は海府道。現在の県道にあたる)は大正2年から工事がはじめられ、
海岸段丘の根元にのびる断崖を克服すべく、多くの隧道が穿たれた。
大正8年頃、戸中隧道の竣工によって戸中の集落までは道が通じたものの、そこから北はさらに難儀した。
かつて「戸中の洞屋」といわれた波打ち際を行く難所は戸中隧道の開鑿によって過去のものとなったが、戸中集落の北には、またひとつ、さらに強大な難所が存在したのである。
その海岸線には断崖が垂直に50メートルほどの高さでそそり立ち、波打ち際を行くことすらできなかった。
そのため、海府道の開通以前には、陸路を行くには山越えの道を通ったという。
しかしながら、その山越えの道も往時は「四十二曲り」と恐れられた険路であり、地元に伝わる古い歌では、
「片辺山越え二里半ござる、ゴンゾわらじが夜に二足」
と歌われている。
「二里半」とはおよそ9.8kmで、「ゴンゾわらじ」というのはおそらくわらじの種類のこと、それを二足履き潰すほどの山道であったということらしい。
四十二曲りを克服し、平坦な道路開通を目指す海府道も、数kmにわたって続く絶壁の海岸を行くことはできず、大正時代の戸中隧道の竣工後、
海府道の北進はそこでストップしてしまった。
この区間は後回しということにされ、区間を挟んださらに北側で工事が進んでいったのである。
最終的にこの区間に車道が貫通したのは、海府道の工事が始まってから20年以上も経過した昭和9年であった。
戸中の集落から、道は高度を上げ始めた。
大きな高架橋で戸中の集落を一跨ぎし、海岸段丘の上に出たようだ。
大正時代に穿たれた北狄隧道も戸中隧道も海面スレスレのところにあったが、もはやその高度では車道開通は望めないと判断されたのだ。
このあたりの事情も、天嶮の崖を避けるために高度を上げていった親不知とよく似ている。
親不知は明治時代にすでに開通していたが、さすがに佐渡ではそこまで予算が回らなかったのだろう、車道の開通は昭和まで待つことになる。
戸中隧道からわずか2kmほどで、次の物件だ。北狄隧道からも4kmも離れていない。
息つく間もなく次々と連続する廃物に、楽しい反面、注意力を要する探索で疲れもあったらしい。
明らかに昭和一桁の竣工ではありえない