このように私は佐渡の“魔窟”を堪能したわけだが、皆さまにもその魅力が伝わっているだろうか。
ここでは最後に、本編の冒頭で投げかけた“疑問”について、机上調査での解明を試みたいと思う。
どんな疑問であったかといえば、以下の通りである。
【隧道の竣工年に関する疑問点】
「道路トンネル大鑑」では、大正2年竣功とされている途中第一・第二隧道であるが、大正2年測図版に描かれている隧道は1本だけで、しかも後の版に描かれる第一・第二の2本の隧道とは微妙に重ならない位置に描かれている…ように見える、という問題である。
そもそも、大正2年竣功という数字は「道路トンネル大鑑」巻末のリストにそうあるだけで、これが正しいと断言するためには他の典拠を求める必要があるだろう。
というわけで、地元のことは地元の本に求めることにする。これぞ王道。
まずは、旧相川町が平成7年に刊行した「佐渡相川の歴史 通史編 近・現代」を取り寄せてみた。
そして読んでみると、同書は交通史についてかなりページを割いていて、期待以上の情報を得る事が出来た。
中でも戸中隧道に関する記述は、町内にある他の隧道よりも念入りであり、それだけ町民にとっても印象深い存在だったのだと推測する。
少し分量が多いので、何段かに分けて転載していこう。
さて、海府道工事最大の難関はトンネル掘りであった。
北狄・戸地境の旧鷹の巣トンネルは、大正六年に着手し(中略)同年内に竣功したが、戸中洞屋(どや)のトンネル開鑿は、その後一、二年かかり、その後で第一隧道の長さ一七四メートル、幅三,五メートル、高さ三,四メートル、第二隧道四〇メートル、幅三,四メートル、高さ三,八メートルの再改修工事が終わるのは、昭和四年十二月から翌五年九月にかけてであった。
いきなり、大鑑の記述と反した内容が出てきてしまった(笑)。
この本によれば、戸中隧道は大正6年か7年に開鑿されたもので、さらに昭和4年から5年にかけて「再改修工事」を受けたのだという。
「大鑑」に記載された隧道の延長や幅員などのスペックは、再改修後の数字と合致しているので、探索中に戸地側坑門の歪な形状(右画像)より見出した天井切り上げの改修は、この時に行われたものと推測出来るわけだが、ともかくこの記述からは、戸中隧道が大正2年に竣功したという根拠を求める事が出来ない。むしろ、反説になっ