洞屋

洞屋

[1] 洞屋 (どや)

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[2] 隧道レポート 新潟県道45号佐渡一周線 戸中隧道旧道, , http://yamaiga.com/tunnel/tochu/main6.html

このように私は佐渡の“魔窟”を堪能したわけだが、皆さまにもその魅力が伝わっているだろうか。

ここでは最後に、本編の冒頭で投げかけた“疑問”について、机上調査での解明を試みたいと思う。

どんな疑問であったかといえば、以下の通りである。

【隧道の竣工年に関する疑問点】

「道路トンネル大鑑」では、大正2年竣功とされている途中第一・第二隧道であるが、大正2年測図版に描かれている隧道は1本だけで、しかも後の版に描かれる第一・第二の2本の隧道とは微妙に重ならない位置に描かれている…ように見える、という問題である。

そもそも、大正2年竣功という数字は「道路トンネル大鑑」巻末のリストにそうあるだけで、これが正しいと断言するためには他の典拠を求める必要があるだろう。

というわけで、地元のことは地元の本に求めることにする。これぞ王道。

まずは、旧相川町が平成7年に刊行した「佐渡相川の歴史 通史編 近・現代」を取り寄せてみた。

そして読んでみると、同書は交通史についてかなりページを割いていて、期待以上の情報を得る事が出来た。

中でも戸中隧道に関する記述は、町内にある他の隧道よりも念入りであり、それだけ町民にとっても印象深い存在だったのだと推測する。

少し分量が多いので、何段かに分けて転載していこう。

さて、海府道工事最大の難関はトンネル掘りであった。

北狄・戸地境の旧鷹の巣トンネルは、大正六年に着手し(中略)同年内に竣功したが、戸中洞屋(どや)のトンネル開鑿は、その後一、二年かかり、その後で第一隧道の長さ一七四メートル、幅三,五メートル、高さ三,四メートル、第二隧道四〇メートル、幅三,四メートル、高さ三,八メートルの再改修工事が終わるのは、昭和四年十二月から翌五年九月にかけてであった。

いきなり、大鑑の記述と反した内容が出てきてしまった(笑)。

この本によれば、戸中隧道は大正6年か7年に開鑿されたもので、さらに昭和4年から5年にかけて「再改修工事」を受けたのだという。

「大鑑」に記載された隧道の延長や幅員などのスペックは、再改修後の数字と合致しているので、探索中に戸地側坑門の歪な形状(右画像)より見出した天井切り上げの改修は、この時に行われたものと推測出来るわけだが、ともかくこの記述からは、戸中隧道が大正2年に竣功したという根拠を求める事が出来ない。むしろ、反説になっ

[5] 新潟県道45号 佐渡一周線 戸中トンネル旧道 戸中第一・第二隧道 2, , http://d-road.sytes.net/r.php/road/ni45_tochuu/2

まさしく想像を絶した光景である。

かつてここにあったであろう橋はどこにもなく、谷の向こうへは容易にはたどり着けない。

こちら側に崩落したと思われる巨大な岩塊がゴロゴロしているため、それを足場にしてここから"谷底"である洞窟の床面に降りていくことは不可能ではない。

一方で、向こう側はきれいなものであり、足場となるようなものが何もない。

対岸の坑口は洞窟の床面から2メートル以上の高さにある上、ややオーバーハング気味になっており、洞床から登ることは難しそうだ。

考えていても埒が開かない。

とにかく、洞床に降りてみよう。

洞窟内に降り、振り返って撮影。

なんというか・・・もう言葉にもならない。

自然の洞窟でありながら、まさにそれと融合したといえる驚愕の隧道だ。

何かしら、現実とは隔世の感を思わせる。

佐渡外海府は「秘境」とも呼ばれており、それも納得。

まあ、ここは普通の人間が好んで訪れるような場所ではないが・・・

かたや隧道は写真の左右に伸び、かたや洞窟はまだ奥に続いていた。

といっても奥行きはさほど長くなく、交差地点からも数メートル程度。

洞窟の入口から見れば、全体での奥行きは10メートル強といったところか。

そして、これが目指す"対岸の"隧道である。

さまざまな資料に目を通したが、この戸中第一隧道が、二本の隧道から成っているということは記載されていない。

公式には谷を挟んだ全体でひとつの隧道であり、延長174メートル、幅3.4メートル、高さ3.8メートルと記されている(佐渡相川の歴史)。

私が進入した側の延長は100メートルにも満たなかったであろうから、ちょうど半分くらいのところに、このような谷があることになる。

さて、予想通り、ここから目の前の坑口に這い上がることは無理のようだ。

カメラの位置からも分かるとおり、隧道は見上げる高さにある。

垂直飛びと懸垂を駆使すれば可能かもしれないが、オーバーハングなので足をかける場所がない。

困った。

[7] 新潟県道45号 佐渡一周線 鹿ノ浦トンネル旧道 鹿ノ浦隧道 1, , http://d-road.sytes.net/r.php/road/ni45_kanoura/1

(佐渡一周編その2からの続き)

相川から海沿いを北へ進む陸路(当時の名称は海府道。現在の県道にあたる)は大正2年から工事がはじめられ、

海岸段丘の根元にのびる断崖を克服すべく、多くの隧道が穿たれた。

大正8年頃、戸中隧道の竣工によって戸中の集落までは道が通じたものの、そこから北はさらに難儀した。

かつて「戸中の洞屋」といわれた波打ち際を行く難所は戸中隧道の開鑿によって過去のものとなったが、戸中集落の北には、またひとつ、さらに強大な難所が存在したのである。

その海岸線には断崖が垂直に50メートルほどの高さでそそり立ち、波打ち際を行くことすらできなかった。

そのため、海府道の開通以前には、陸路を行くには山越えの道を通ったという。

しかしながら、その山越えの道も往時は「四十二曲り」と恐れられた険路であり、地元に伝わる古い歌では、

「片辺山越え二里半ござる、ゴンゾわらじが夜に二足」

と歌われている。

「二里半」とはおよそ9.8kmで、「ゴンゾわらじ」というのはおそらくわらじの種類のこと、それを二足履き潰すほどの山道であったということらしい。

四十二曲りを克服し、平坦な道路開通を目指す海府道も、数kmにわたって続く絶壁の海岸を行くことはできず、大正時代の戸中隧道の竣工後、

海府道の北進はそこでストップしてしまった。

この区間は後回しということにされ、区間を挟んださらに北側で工事が進んでいったのである。

最終的にこの区間に車道が貫通したのは、海府道の工事が始まってから20年以上も経過した昭和9年であった。

戸中の集落から、道は高度を上げ始めた。

大きな高架橋で戸中の集落を一跨ぎし、海岸段丘の上に出たようだ。

大正時代に穿たれた北狄隧道も戸中隧道も海面スレスレのところにあったが、もはやその高度では車道開通は望めないと判断されたのだ。

このあたりの事情も、天嶮の崖を避けるために高度を上げていった親不知とよく似ている。

親不知は明治時代にすでに開通していたが、さすがに佐渡ではそこまで予算が回らなかったのだろう、車道の開通は昭和まで待つことになる。

戸中隧道からわずか2kmほどで、次の物件だ。北狄隧道からも4kmも離れていない。

息つく間もなく次々と連続する廃物に、楽しい反面、注意力を要する探索で疲れもあったらしい。

明らかに昭和一桁の竣工ではありえない

[8] 新潟県道45号 佐渡一周線 大倉トンネル旧道 大倉隧道 1, , http://d-road.sytes.net/r.php/road/ni45_ookura/1

(佐渡一周編その4からの続き)

大正2年より相川町中心部から北進を続けた海府道=現在の県道は、大正7年頃に戸中隧道を開通するも、

技術面の難航が予想されたそこより先の難所(鹿ノ浦隧道&南片辺トンネル参照)を開鑿することができなかった。

そのため、その区間を後回しにして、難所を挟んだ先を先行して行うことになり、大正6年から工事が進められた。

南片辺から今回紹介する大倉隧道までは海岸段丘の下に細長い平地が続き、比較的工事の進捗は順調であったようだ。

その距離は14〜15kmほどもあるが、大正14年には隧道の手前、大倉の集落にまで達した。

しかしながら、予算の関係で、集落に達した時点で海府道の工事はストップしてしまう。

なお、このとき工事が止まった理由はもうひとつあると思われる。

というのも、大正14年の時点で、すでにこの場所に隧道が掘削されていたからである。

それが、本稿の主役、大倉隧道だ。

隧道が開鑿される以前は、人々は波打ち際を歩いていた。

その場所を人は「大倉走(わし)り」と呼び、すでに紹介した「戸中の洞屋」、

「四十二曲り」、この先にある「関の銚子口」と並び、佐渡外海府きっての難所であったという。

断崖絶壁の下を行く様はここでも「佐渡親不知」の異名をとり、人々は恐怖した。

その難所を避けるためにこの地に隧道が開鑿された。

それは大正よりも前、明治45年のことであった。

当時盛んであった鉱山の技術を用い、二つの隧道をくりぬいたといわれる。

すなわち、大正14年に海府道がこの地に達したとき、その隧道がそこにすでにあったのだ。

明治時代に造られた隧道はその後何回かの改修を施されたといい、海府道の工事においても、改修を受けることになっていたのだろう。

しかしながら、それだけの予算がつかず、とりあえず明治の姿のままにとどめ、工事がストップしたというわけだ。

その後工事が再開するのは、先の四十二曲りの区間に手がつけられた、昭和初期である。

ただし、現在の県道は明治時代に端を発する大倉隧道も避け、平成3年、陸側に巨大なトンネルを開通させている。

かつての明治隧道の姿や、如何に。

南片辺トンネルからおよそ15km、目立った難所らしいところもなく快走してきた。

所要時間は40分ほどであったから、荷物満載のブロックタイヤMTBにしてはずいぶ

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