黒姫大橋

黒姫大橋

[1] 黒姫大橋

38.2243048160393 138.493888378143

Webページ

[2] 佐渡の黒姫大橋から見下ろした風景, , http://www.youtube.com/watch?v=x6hC3z8iCnM

写真部の撮影大会で佐渡に行ったときバスの中で撮りました。

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※動画の評価について。2012年7月頃より私が動画をUPしたら何者かに直ぐに低評価を1~3件も付けられるという嫌がらせが続いた為9月頃よりほとんどの動画を評価無効でアップロードしています・・・

[3] 隧道レポート 新潟県道45号佐渡一周線旧道 大山隧道群, , http://yamaiga.com/tunnel/ooyama/main4.html

がむしゃらによじ登った崩土の山から、旧道があった辺りの高さを、海と一緒に見下ろしたのが左の写真だ。

この足元の大規模な土砂崩れがいつ発生したものかは記録がないが、少なくとも現在の道が開通する前ではなかった。

その点は、よく似たシチュエーションである大崩海岸よりも恵まれていたというか、救われたと言えるだろう。

そしてもちろん、危険が迫る旧道に甘んじることなく、佐渡随一と言える規模の黒姫大橋を先回りして完成させていた人智は、高く評価されていい。

おかげで、人命を含む多大な喪失を回避することが出来た。

第二大山隧道は、使命を全うしたうえで地中へと帰還したのである。

2013/5/27 11:50 【現在地】

完全に失われた第二隧道北口を地中に想像しつつ崩土の山を海岸線近くまで下った地点に、明確なる平場を認めた。

どうやらこれが、この鋪装があったのかさえ定かではない草生いの5m四方平場が、昭和62年に廃止された旧県道のようだ。

そして実はこの地点には、端から見なければ決して気付けない、ある遺構があった。

ここは、橋なのである。

私がその事に気付くのはもう少し後だが、欄干も親柱もない橋は、まさに“忍び(草の者)”のように草むらと同化していたのだった。

第一から第三まである大山隧道も、今や最も短い第三を残すのみとなった。

だが、道路上の夏草の茂りや倒木が激しく、視界は極めて限られている現状では、もう間近であるはずの坑口がまるで見えてこない。

第二隧道にはそっぽを向かれてしまったので、せめてこの第三はものにしたいが、これまでのパターンから行くと、やはり廃止後一度は木柵で封印されたことだろう。

現存していたとしても、またも坑口の前で指をくわえるハメになるのだろうか…。

…いや、そもそもこの荒れた状況で坑口と分かるものが残っているかどうか…。

この時は第二隧道の落胆を引きずった状態であったから、隧道遭遇への期待感よりも、落胆に対する予防線的なローテンション状態であった。

シッポピーン!!!

キタキターー!!

第三隧道と思しき黒の塊が、うねる樹枝の向こうに見逃しようもなく見えてきた。

黒い = 開口している → 大興奮!!

しかし、これが本当に今までの続きの第三隧道か?!

なんか、まるで素掘の隧道のようにしか見えないのだが…。

果たしてその正体は!!

間違

[7] 新潟県道45号 佐渡一周線 黒姫大橋旧道 大山隧道 1, , http://d-road.sytes.net/r.php/road/ni45_uchikaifu/1

(佐渡一周編その6からの続き)

外海府から佐渡最北端の地、鷲崎から南下する海岸線は内海府と呼ばれる。

佐渡の親不知と呼ばれた交通の難所が三つも四つも連続するような外海府とは異なり、断崖が海に直立するような箇所はあまりない。

とはいえ、所によってはやはり隧道なしでは自動車の往来ができないような場所もあり、鷲崎まで車道が開通したのは昭和40年代のことである。

それまでは鷲崎と両津を結ぶ航路によってかろうじて結ばれており、陸続きであるにもかかわらず、生活必需品などの輸送は船に頼っていたのだ。

内海府のその道の開鑿も、外海府と同じく大正時代に遡る。

外海府における海府道の工事が始まった大正2年、「県道馬首線」の予算六千円が県議会で計上され、

翌大正3年6月に両津市(当時は両津町)を起点として測量が開始された。

(あくまでも外海府と比較して、だが)地形が穏やかな馬首集落までの道は5年後の大正7年に到達し、さらに延伸されて北に進んでいった。

大正8年の県議会において馬首線は「海府線」として名称を改められ、その終点は佐渡最北端の地、鷲崎とされた。

これにて名実ともに外海府の「海府道」に繋がる、沿岸道路の開通を目指すことになる。

当初は10ヵ年継続事業として予算が計上されており、思うに10年での開通を目論んでいたようだ。

しかしながら、馬首のすぐ先の「鬼の面」と呼ばれる難所で一気にブレーキがかかり、さらにその先の隧道工事に6年も要したため、

予定の10年以上を経過した昭和5年になっても、海府線は鷲崎より程遠い黒姫という集落に達しただけであった。

さらに、黒姫集落より北は山塊が海に突き出た険しい場所が続き、さらに戦争の激化に伴って、工事は中断してしまった。

戦後もしばらく工事が再開されることはなく、かろうじてそれまで開通した区間を走るバスも昭和30年頃までは黒姫集落が終点であった。

工事再開には時間を要したが、昭和37年および40年に難所を避ける隧道(虫崎隧道、北小浦隧道)が完成した後は加速度的に工事が進んでゆくことになる。

その一方で、鷲崎からさらに奥に入った集落、願・北鵜島・真更川周辺の道は県道といえども磯を歩くようなところであり、

昭和39年に出された道路開削の陳情書は自衛隊による道路開削を求めるほど切実なものであった。(なお、当時自衛隊による道路

[8] Untitled Document, , http://www.infra.kochi-tech.ac.jp/fujisawa/jsce/girderbridges/kurohime/index.html

構造デザイナーのモランディの作品であるヴェネゼィラのマラカイボ橋をヒントに計画した橋である。計画では次のようなことを念頭においた。

架橋位置が日本海側の離島(佐渡島)という条件であることから、性能の限られた施工機材、単年度ごとに1.5億円程度しか付かない予算を用いて完成することができる構造型式を考え出す。

架橋場所が地形急峻な火山島であるため、桁製作ヤードが確保できず、また骨材の品質も悪いなどの諸条件をクリアする。

地域の技術(漁港建設技術)が活用できるようにする。

採用した構造型式は次のとおりである。

上部工;5径間連続PC合成桁(V脚故、厳密には10径間連続桁)

支間63m

下部工;躯体 RCストラット付きV型橋脚

基礎 直接基礎(プレパクトコンクリート人工岩;無筋)

計画の手順

路面高の決定

桁下高は砕波高×1.25倍とした。なお、砕波高は、海底勾配にもよるが、水深の0.87倍程度になる。本橋のように、海岸に沿った橋を計画する場合にはこの手法が参考になると考える。

基礎の型式

海底の砂礫層をオープンカットした後、砕岩棒(16t)により海底の岩盤を成型、底の無い鋼箱を定置してプレパクトコンクリートの型枠とした。この手法は天草5橋と同じであるが、平面形状に円と矩形の差がある。本橋のように矩形を用いると、コンクリートボリュウムは減るが、コンクリート圧に耐える強い型枠が必要になる。施工法は漁港の築造法と類似している。

RC躯体

主桁重量を下げるために人工岩(無筋コンクリート)の上にRC構造のV型橋脚を重ねた。自重の大きいPC構造では、橋軸方向に2支点を設けて連続桁のマイナスモーメントを減ずることがある。反力が負になり難くするためである。また、橋脚頂部にストラットを設けたのは、V脚に常時曲げモーメントが作用しないようにするためと、桁架設時に作業台として使えるようにしたためである。

上部工

重量90t/本の碇着桁(橋脚上)25本を対岸の新潟東港から輸送し、クレーン船により一括架設した。その後横締め工を施して碇着桁部を安定させ、さらに、落ちないように桁の両端にセッティングビームを取り付けた吊り桁を、碇着桁と同様な手法で、架設した。さらに、たすき掛け状のPCケーブルを用いて定着桁と吊り桁を結合して連続桁(格子構造)とし、その上に場所打ちコンクリートの床版が施工

履歴

[9] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054526804883

メモ