綾戸の穴道

綾戸の穴道

[1] 綾戸の穴道

Webページ

[2] やまだくんのせかい in グンマ: グンマの昔:綾戸穴道, , http://yamada.sailog.jp/weblog/2014/06/post-b53d.html

○綾戸穴道 沼田街道(東通り)は参勤交代路だったので「とのさまみち」とよばれた。 この道は標高が高く上り下りが多く・積雪量も多かった。 このため西側の脇道が利用されたが、只一箇所「七曲り・十八坂(綾戸渓谷)」なる難所があった。 江戸時代も末、人馬の往来が盛んになるとともに難所を避けて児子岩を切り開いて道をつくろうという動きがあったが、それならいっそ「トンネルを造ろう」という人が現れた。

左:綾戸隧道、右:綾戸穴道。(1929年) 子持村から渋川・高崎方面へ抜けれるよう、金剛院住職江舟と村役人後藤門右衛門らにより「綾戸道切開計画」が立てられた。 1842年11月工事開始、並行する十八坂が廃れると岩本村新田組の反対あり、 1844年4月児子岩打ち抜き開始(玄翁と鉄矢による手作業)、費用は全額寄付金でまかなったため工事遅々。 1846年3月綾戸穴道貫通、その後中岩切開し橋を設けて1853年10月人間一人がやっと通れるほどのトンネル完成(上州初のトンネル)。 この時の長さは十五間(約27.3m)あったが、大きさは二尺四方(60cm)だった。 1863年工事再開、1864年切開工事完了、高さ・幅とも七尺(2m)となった。 完成後は通行料をとったらしい。 その後1902年には綾戸隧道ができた。 ※ある木 岩に支えをとしかけて造った仮設備(桟橋みたいなもの)

[3] 県道ワーク(群馬県編2) +α - Yahoo!ブログ 道徒然話 - Yahoo!ブログ, , http://blogs.yahoo.co.jp/kasuga_3z/9704794.html

文書館では一度に請求できる資料は10点までなので、2回に分けて閉架から出してもらう。出してもらうまで時間が少し掛かるので、開架にある「群馬県民の何とかかんとか」という本を見る。図書館なんかに良くある、昔の写真を載せたほんである。その中から気になるものをいくつか。

[4] しぶかわ・しぶかわ: 綾戸渓谷③, , http://gen1.blogzine.jp/forum/2006/09/post_1597.html

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沼田道西通り

古来より関東と越後をつなぐ道は細々とあり、上杉謙信は度々越後から上州に侵攻したが、1632年に湯檜曽に番所を作って交通を禁止した。武田信玄も真田街道を通って甲州から渋川に入り、箕輪城を攻略している。 中仙道から利根・沼田方面に抜ける道は時代により変遷があり、何処でどの川を渡るかが最大の課題であった。赤城西麓の真田道(利根川の左岸)と子持東麓(利根川の右岸)の三国脇往還(沼田道西通り)のうち三国脇往還が現在の17号国道に代替されているように、最短のコースである。 綾戸は②冒頭のの写真のように川面から岩が屹立し、中でも児子岩は高さ100Mもあろうかという巨大な岩壁で、手前の桜ノ木から迂回して岩本に降りる道は『七曲り十八坂』と呼ばれる難所ゆえ、沼田藩の参勤交代などは真田道が使用されていた。 塩原太助は沼田から江戸に出るのにこれらの道を使わず、中山峠を越えている。

沼田金剛院住職江舟は天保13(1842)年発起して、近郷の村役を説得し、役所の許可を得るなどの準備の末、1844年から開鑿を始め、2年後の1846年3月、2尺四方の穴が児子岩を貫通する。同年の内に前後の桟道を整備し、「綾戸の穴道」として通行が可能になっている。江舟は1857年完全な完成を見ずに入寂している。

その後1863年に拡幅工事に入り、1864年に人馬の通行が可能な隧道となった。 開鑿を始めてから実に20年の歳月を要している。

驚くことは、こうした膨大な工事が民間主導で行われ、幕府は許可を与えるだけのことである。莫大な費用も近郷近在の援助があって、初めて成立した大事業であった。

もうひとつ驚くことは、完成間もない1868年(慶応4年)、会津征討に向う官軍が

[5] 土木学会図書館|旧蔵写真館 11.綾戸(あやど)橋, , http://library.jsce.or.jp/Image_DB/human/furuichi/lib11.html

1.解説

写真下部中央に下記の記載がある。―;Ayado−Bashi;−−;Gunba−Ken;―右端に下記の記載がある。 F.Nozawa,Enginner(何れも手書き)

Gunba−Kenを群馬県と理解するとこの橋は利根川上流の沼田市南端から子持村、赤城村北端にかけての綾戸峡谷に架かる橋と推定される。

図―1に示した視点を置くと、綾戸の隧道を含め、写真―11)と同じ景観であり、綾戸峡谷であることがわかる。

野沢房敬は1892(明治25)年頃約1年半の間群馬県に勤務して、多くの橋を架設している2)。図―2からもこの時期この場所に橋が架けられていたことがわかる。

以上からこの橋は下記の橋と評定する3)。

綾戸橋 1893(明治26)年5月竣功 橋長127m 幅員4.2m

2.清水新道4)

群馬県の前橋と沼田を結ぶ街道、すなわち現・国道17号は真田街道、清水新道、あるいは三国脇往還とも呼ばれていた。

この街道のうち、渋川と沼田間は利根川を挟んで東側と西側の二つの街道があった。東側ルートは参勤交代道路であったが、曲折・上下が多い。

これに対して、西側ルートは、ほとんどの区間が平坦であるが、沼田市南端と子持村北端の間は子持山塊が利根川に迫り、往時はこの間を「七曲がり十八坂」と称する山越えをしなければならなかった。この不便を解消すべく1846(弘化3)年に僧江舟が主導して利根川沿いに幅・高さ各2尺(0.6m)のトンネルを穿ち綾戸の穴道と呼ばれた。1863(文久3)年これを拡幅して、人馬が通れる隧道となった。1881(明治14)年に内務省が起工した清水新道の工事に際して、この付近は隧道を避けて、1885(明治18)年に図―2に示すようなルートとなり、利根川を棚下橋と綾戸橋(橋長127m幅員5.4木橋)とで渡った5)。1901(明治34)年に綾戸綾桜の両トンネルを含む西岸沿いの新道が完成して、綾戸橋ルートは廃道となった。

(図―3)

この西岸沿いの道路は国道17号として1966(昭和41)年大改修がなされている6)。

3.綾戸橋

1893(明治26)年に竣功した綾戸橋は写真から、多径間の木鉄混合上路トラス橋と推定できる。立派な親柱と高欄付きの橋梁である。

また、写真を見ると取り付け道路の石積みに下層と上層の2段が認められる。

おそらく、再架した

[6] 綾戸渓谷: しぶかわお宝調査団, , http://newshibukawa.cocolog-nifty.com/blog/2006/10/post_76e9.html

国道17号を北上し、渋川市と沼田市の境界近くに綾戸橋・綾戸トンネルがあります。この辺り(佐久発電所取入口~赤城町棚下)は、利根川の両岸に山が迫り峡谷となっていて、その景色は見ごたえがあります。 また、ここには幾つもの物語が眠っています。

綾戸橋上流からの眺め

綾戸橋の子持側(利根川右岸)

噴火によってできた岩脈の中ほどに人間が道を作った様が良く分かります。

この溶岩は、子持火山の下にあるこれより古い火山=古子持火山が流し出したもの。といわれています。

群馬県でも県内の貴重な自然として捉えており、次の様な調査報告がなされている。 ↓↓↓

http://www.pref.gunma.jp/d/04/kankyo/kichou/tikeishitu/itxt/t_102.pdf

綾戸橋付近、赤城町側からの眺め

綾戸橋下流に現れる柱状節理

(岩石中に発達した五角形や六角形の柱状の割れ目)

綾戸橋下流からの眺め

●綾戸の穴道

この大きく張り出した岩は、『児子岩』(ちごいわ)とよばれ、利根川右岸はこの急峻な岩山を越えるルートしか取れず、交通の難所でした。

しかし、17世紀にこの岩にトンネルを穿るべく立ち上がった人物が現れます。 こちらで紹介しています。↓↓↓

http://gen1.blogzine.jp/forum/2006/09/post_1597.html

●綾戸橋

綾戸橋は以前はもっと上流にあり、何度か掛けなおす度に下流へと設置場所が移動しています。その証拠に、かつての橋脚跡が残っています。

こちらで、詳しく解説しています。 ↓↓↓

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/human/furuichi/lib11.html

解説の写真付近から撮影。

川沿いの木が大きくなり見づらいですが、写真右下から橋が架かっていました。

その後、つり橋が児子岩の南に掛けられています。 撮影地点も写っている景色も沼田じゃないんですが…。 ↓↓↓【29 綾戸橋】

http://library.jsce.or.jp/Image_DB/card/01_image_list10.html

これが現在の綾戸橋(1980・昭和55年3月完成)です。

赤城側にある碑

この橋梁を掛けるにあたり尊い人命が犠牲となっています。

詳しくは…。↓1978年をご

履歴

[7] この記事はSuikaWiki Worldに作成されました。 に最終更新されました。 https://world.suikawiki.org/spots/23438054526707474

メモ